ノブレス・オブリージュ 中

 箱庭に住まう全ての人間は年を取る事が無く、老衰などと言った言葉とは一切の縁を持っていない。

 だが、年を取らないからと言って疲労を感じない訳でも、空腹を感じない訳でも無い。

 走りまわれば息が切れるし、腹も減る、能力を行使する際に一切の疲労を伴わないとは言え生きていれば体力は消費し、体力が無くなれば倦怠感や眠気などを覚える。

 眠気を覚えるのなら、目を覚ます僅かな時間にまどろみを感る。

 だからこそパジャマ姿の人物が全身にまとわりつく甘い誘惑に身をゆだねたまま、柔らかなベッドの上で寝返りを打つのもごく当然の事ではあった。

 「……んっ」

 定期的に洗濯されるシーツからは良い洗剤の匂いが漂い、寝返りを打ったその人物の鼻孔を優しく撫でる。

 窓から差し込む温かな光がシーツに反射し、その人物を優しく照らす。

 その為、元々愛らしい顔の凹凸は光のベールで隠れ、成長段階であるが故の愛くるしい容姿の魅力が、より一段と強調されている。

 彼の名前はクーナだ、この世界でも古株に当たる彼は、一見するとあまりにの幼すぎる姿とは裏腹に箱庭の長を務める存在だ。

 「……んん……ん?」

 そこで、ふと妙な気配を感じ、クーナはどんぐり瞳をうっすらと開いた。

 「……ん……ん!? うわぁっ!」

 その視線の先に居た人物に驚き、クーナはベッドの上で大きく後ずさると、そのままベッドから転げ落ちて短い悲鳴を上げる。

 「あ、大丈夫かい?」

 「……んー、大丈夫だけど……」

 自身が落ちたのとは反対側のベッドの端から問いかける一人の人物に対して、クーナはベッドの奥から顔を上げ、やや不満そうに返事をした。

 「えっと、マキナだっけ?」

 「如何にも」

 壮大な寝ぐせの付いた髪の毛を撫でつけつつ紡がれたクーナの問い掛けに対して、柔和な表情を交えつつマキナは答えた。

 男として体が完成しきっていない、それゆえに何処か中性的な雰囲気を持った彼は、この箱庭では最も新しい新入りだ。

 「まず言う事あるんじゃないの?」

 短い手足を器用に使いつつ、ベッドの上によじ登ったクーナの問いかけに、マキナは少しだけ首を傾げて考えた後、何か合点がいったのか、指を鳴らした。

 「ごめんよ、やっぱり水を掛けられて起きるのが好みだったかな?」

 「違うよ! それは間違いなく違うよ! っていうか僕を誰だと思ってる!」

 この部屋にやってくる時から持っていたのだろう、水の入ったボトルを持ち上げてみせるマキナに対して、バンバンとベッドを叩いてから珍しく声を荒げるクーナ。

 「クーナさんはあれですよね、いつも女物の下着を身に纏い、異性ならばだれかれ構わずセクハラをして回る変態で。

 あと、水を被って起きるのが習慣だとカフゥさんから聞いてます」

 「最後の一文『だけ』違うよ!!」

 普通なら全部違うと言わずある程度認めてしまうあたり、重度の変態であるクーナだが、それでも水を被って叩き起こされる趣味など持ち合わせていない。

 そんな情報を流したのは、マキナが言った通りカフゥの仕業だろう。

 普段しつこいほどセクハラを受けていた彼女は、最近は妙な知恵を付けており、時折クーナに仕返しをする事が増えて来た。

 「……っていうか、僕が聞きたいのはそういう事じゃなくて、どうして勝手に部屋に入ってきたのかって事」

 「まずかったですか?」

 「まずいよ! っていうかそんな事されたら大抵の人は不快になるよ!」

 これ以上この話をしてもらちがあかないだろう、何となくだが一切悪びれる様子を見せないマキナを見て、大きく溜息一つ吐くと、クーナはベッドから降りてハンガーに掛けてあった服を身に纏い部屋を出る準備をする。

 その時、彼が身に纏ったのは相変わらず変態指向満点な水色のスモックなのだが、既に免疫が出来ていたんか、それもと単に常識が欠落していたのか。

 マキナは一切驚く様子も見せずに、ベッドの脇に置かれていた目ざまし時計を手に取り、動かない秒針を見て何かに納得した様子で喉を鳴らした。

 「ああ、それ? 最近色々あって電池交換忘れてたんだよね」

 長い髪をシュシュで留めて鏡の前で髪のバランスを確認すると、クーナは振り返り際にそう答えた。

 「道理で起きてこない訳ですね」

 「まぁそういう事……あ、もしかしてみんなが呼んでた?」

 「ええ、それで呼びに来たんですけど――」

 「そういう事は早く言ってよ!」

 やっと一連の行動の意味が判ったクーナは、驚いた様子で靴を履くと、あわてて扉を開いて廊下へと飛び出した。

 「あれがここの長ってのも不思議なものですね」

 そんな慌ただしいクーナの後ろ姿を追いかけつつ、マキナは落ち着いた様子でそう紡ぐのだった。






 「みんなには暫くの間この箱庭から外へ出ないで欲しい」

 一同が集合した室内でひとしきり説明を終えたクーナは、その一言で一連の言葉を切った。

 箱庭に居れば基本的な生活を送る上で不便を感じる事は無い物の、娯楽に欠けたこの世界において、箱庭から外に出られない事実はなかなか辛いものだ。

 案の定、普段は箱庭に居座らず自由気ままに旅に出て過ごすイントは、露骨な嫌悪感をその顔に浮かべる。

 だが、その決定事項に対して反論は出来ない、その理由が先日そして昨日と続いた現象だった。

 「暫く外に出ないってのは納得できるけどさ、何時までここに立て籠っていれば良いのかとか見当はついてんの?」

 「後何体エニグマがこの世界に居るのか、そもそも何処からやってきてどうやって対処をすればいいのか、それが判れば僕だってこんな無茶な提案はしないよ」

 クーナが言った『エニグマ』という言葉、それは昨日の昼過ぎにこの箱庭を襲った怪物の仮称だった。

 エニグマを最初に目撃したのは資源調達に出かけていたイントだった。

 彼はいつも通り気ままに旅を続け、人気が一切ない道で気ままに車を走らせていた訳だが、そんな彼を不意に襲ったエニグマ。

 その際は運よく傍に居たガーフィンが対処したおかげで事なきを得た訳だが、そもそもイントが他人の力を借りなければ対処できない危害と遭遇した事が問題だった、仮に巨大な獣が襲いかかろうと、完全武装をした千の軍隊に囲まれようと、イントは鼻歌交じりでその脅威を退けるだけの力を持っていた。

 だがエニグマだけは例外でイントの力は一切通じない。

 もちろんこれだけなら大した問題では無い。

 実体を持つ存在ならクーナの力で探知する事が可能であり、あらかじめ危機が迫っているのなら、何かしらの対処のしようがあった。

 だが……

 「アンテナが役に立たないのなら確かに全体数すら把握できないよな……」

 諦めにも似たイントの一言。

 クーナ自身も、ずっと考えていた事実を再度耳にして俯き、苦々しく唇を噛む。

 イントの能力を無効化するエニグマは、クーナの能力すら無効化していた。

 その証拠に、昨日の昼間に現れた人型のエニグマは、クーナの監視の目が行き届いている筈の箱庭にいとも簡単に侵入し、何の前触れも無く彼らに襲い掛かっていた。

 探知する事が不可能な異形、それは間違いなく各自が神にも等しい力を持った彼らにとって最大の天敵であり危機だった。

 なぞなぞという意味を持つその仮称の通り、エニグマについては一切の事実が不明であり、他にどれだけの能力を無効化する力を持っているのか謎な為、迂闊な対処法は危険だと判断してエニグマの存在を一部には隠していたクーナだが。

 昨日の一軒によりその選択を改め、箱庭に住まう全ての住人に対して説明をしたのだ。

 もちろん、そんな事をしては要らぬ恐怖心をあおる為に出来ればこんな事したくは無かったが、最大の砦として機能していた自分が役に立たないと判ると、そういう訳にもいかない。

 「まぁさ、そんな事よりも私気になってる事が二つ程あるんだけど良いかにゃ?」

 粘性のある沈黙が部屋を覆い始めた時、ガーフィンの能天気な声が一同の鼓膜を揺らした。

 「あのさ、さっきからカルヴェラはどうしてあんなに眠そうにしてるのかにゃー?」

 「そのにゃーってのいい加減やめろよ……」

 いつも通りのやり取りをかわしつつも、彼女が指さした方向を見て小さく喉を鳴らしたイント。

 彼の見つめる先、そこには中に浮いたまま眠りの園に旅立っているカルヴェラの姿があった。

 目元はサングラスで覆われている為、はっきりとした事は不明だが、だらしなく開かれた口から気の抜けた呼吸音が響いているあたり、その判断は間違いが無いと言えるだろう。

 「カルヴェラには一晩中見張りをお願いしてたからね」

 クーナの能力が役に立たないとなれば、警戒は人の眼に直接頼るしか無くなり、いざという時に素早く現場に向かい対処が出来る人間となれば、白羽の矢が立つ相手はおのずとカルヴェラになる。

 自分の無茶な願いを叶える為仲間が協力をしてくれたのはありがたい事だ、だが、自分の力に絶対的な自信を持っていたクーナ自身にとってそれは、屈辱の他ならない物だった。

 「それじゃ次の質問だけど、その人は結局何者なのかにゃ?」

 そう言い、伸ばしていた指を別の人物に向けるガーフィン。

 彼女が指さす先、そこには先ほどから柔和な笑みを浮かべたまま黙っていたマキナの姿があった。

 「私の名前はマキナ、新入りですよ」

 「それはもう聞いたって……」

 相変わらずにこやかに笑みを浮かべるマキナの言葉に、朝っぱらから疲れた様な表情を浮かべるイント。

 自分たちの前に突如現れた人物、マキナだが。

 落ち着き達観した装いとは裏腹に間が抜け頼りない一面がある、そして何より、先ほどの彼の説明だけではいまいち釈然としない部分が沢山あった。

 「それではどんな話が好みなのかい? ビリビリ君」

 「……ビリビリ?……」

 ふと何かありげに疑問符を浮かべるクーナを余所に、イントは呆れた様子で訂正を加えた。

 「ビリビリって言うな……イントだって説明しただろ。

 兎に角……俺が聞きたいのはあんた達が言ってる『ノブレス・オブリージュ』とか言う変な組織の事だよ」

 『ノブレス・オブリージュ』それが彼マキナが所属していると言った組織の名前だ。

 彼にとってその組織の存在はごく自然な物として認識されている様だが、そんな事を当然の口調で言われたところでそう素直に納得が出来ないものだ。

 「ノブレス・オブリージュ、そこがどのような処かと聞かれましても正直頭が痛いのですよ。

 説明が難しい……と言いますか。

 例えるのが難しい機関ですからね。

 そうです、簡単に言うなら、警察と研究機関の中間の様な物でよ。

 世界に住まう全てのアバンギャルド……そう、こちらで言う処の能力者を集め管理し、その力を持って世界をより良い物へと変えていき、人類の脅威を排除する」

 簡単に言ってのけるが、イント達の居た世界にその様な機関は無かった。

 もちろん自身等の持つ特殊な能力に興味を持ち、研究へ協力を求める集団も居無いわけでは無かったのだが、大抵の場合は普通はありえない力に対して嫌悪感を浮かべる事の珍しい話では無い。

 だからこそ、研究に協力はおろかその能力をみんなで分け合う様に、ましてや人類そのものの武器として使おうとする集団が居た事に驚きだった。

 逆に考えるとその様な使い方をしなかったのも珍しくはあるのだが、それでもそんな話は箱庭に住まう全ての人間が知らない。

 もちろん、その事に関する理由があった……

 「パラレルワールドじゃ考えも大分違うんだな……」

 「ええ、勿論です」

 ぼそりと呟いたイントと、それに対して笑顔で答えるマキナ。

 この二人が住んでいた世界は別な物だ。

 それは比喩や抽象では無く、言葉通り、住んでいた世界が物理的に違う物だったのだ。

 良く似た並行世界、だが細かな考えは次元毎に違い、社会体系にも幾つかの違いがあった、その一つが彼の言う『ノブレス・オブリージュ』の様な機関の有無だろう。

 「そういや……ガーフィンが言ってたバンドの情報が見当たらないのもそう言うことか……」

 部屋の奥で出窓に腰かけたままのんきにパズルを解くガーフィンだが、実は彼女は

元々売れっ子のバンドメンバーだったと言う。

 だが、イントに限らず全ての箱庭のメンバーは彼女が所属していたバンドの楽曲を知らない。

 勿論、音楽などという思考品は個人の趣味に左右されがちだ、その為有名だからといって全ての人間が知ってるという根拠は無いのだが、それでも誰一人として知る人が居ないのはおかしな話ではあった。

 だが、マキナの説明がそれをあっけなく紐解く。

 彼の言葉通り、箱庭に住まう全ての人間の住む世界が別な物ならガーフィンの過去を知る人間など誰も居ない筈だ。

 「でも最初は驚いたよ、イントが必死に校舎走ってるから何事かと思ったら、あのエニグマとかいう変な怪物追いかけてるんだもん」

 この時、ふと妙な事が気になりクーナは顔を上げた。

 「なぁガーフィン、お前あの時箱庭に居たのか?」

 「……ん? まぁ少しの間だけだったけど」

 ガーフィンの能力は空間転移。

 世界中のいかなる処へも瞬時に移動できる彼女の力なら、エニグマが現れた際に箱庭に居ても直ぐに逃げ出す事も可能ではある。

 だが、ガーフィンの行動は少しだけ不自然だった。

 「それは何時だ? エニグマが死んでからか? それともイントがエニグマとやりあってる時にか?」

 「……それは……エニグマが居なくなってからだけど……」

 何処か歯切れ悪く答えるガーフィン。

 そんな彼女に対してクーナは更に質問を重ねた。

 「それは何でだ? 非常事態だと判っておきながらどうしてあの場所を離れた?」

 「それは……だってさ、またエニグマが現れたってなったらクーナは皆を外出禁止にするでしょ? だったらせめてその前に好き勝手に散歩しようかなって」

 「……お前危険だとか思わなかったのか?」

 ふと顔を上げ、ガーフィンに向き直るイント。

 彼の言葉通りエニグマがどれだけの数この世界に生息してるかは別として、一人で行動するのは何かと危険すぎる。

 なにせ相手は一部の能力が通じない相手なのだ、不意に襲われた時彼女はどうするつもりだったのだろうか。

 だが、そんなイントの心配に対して、ガーフィンは悪びれる様子も無くあっけなく口を開いた。

 「いや、私はジャンプすれば何処へでも逃げられるから大丈夫」

 物は地面に落ちる、水に触れたら濡れる。

 そんなごく自然な事をあえて説明するかのような彼女の言葉、だがそれを聞いて一同は納得する。

 考えてもみればそうなのだ、エニグマに一部の能力は通じない様だが、だからと言ってエニグマが能力そのものを封じる訳ではない。

 イントやクーナの様に相手に影響を与える能力は別として、ガーフィンの能力は自分自身に対しても使える物。

 だったら、危険だと悟った瞬間直ぐに好きな場所へと逃げてしまえば良く、それだけの事で自分の身の安全を保証できるのだ。

 「だからと言って! ……いや、もういい」

 一瞬だけ湧いた感情を直ぐに収めると、イントは諦めた様子で俯く。

 元々あまり感情を露わにしないイントだが、珍しく感情を表に出した辺り、この事はイントにとってよっぽど気になる事だった様だ。

 その事を悟ってか、ガーフィンは少しだけ反省し、ぱっと聞く分には判らないほど小さな声で謝罪を述べる。

 何にしても、ガーフィンはかなりの気分屋である。

 いちいち彼女の行動に対してケチを付けていてもきりが無い事は誰もが知っていた事実であり、今回の件に関しても明らかに考えが甘くはあったが、彼女の行動には悪意が含まれておらず、これ以上の言及は執拗すぎるとイントは考えた様だ。

 「話を戻そう、兎に角そのノブレス・オブリージュってやつも含めてだが、僕達は君を信じて良いのかな?」

 「もちろんさ」

 一瞬の逡巡すらなく返答するマキナ、そんな彼の言葉を聞き終え、クーナは少しだけ声を低くしてから問いを重ねた。

 「それじゃいろいろ情報を教えてくれ。

 君たちはエニグマに関してどれだけの情報を知っているの?」

 「……エニグマに関してですか……それに関しては正直難しいです」

 「な……知ってるんじゃないの!?」

 「いえ、知っては居るのですが、私たちが集めた情報とこちらの皆さんが得ている情報は殆ど同じなんですよ、強靭な体と能力に対する免役を持ってるって言うね。

 それ以外の事は私たちも知りません、だから教えようがないのです……」

 予想外なマキナの反応に肩を落とすクーナだったが、遅れて紡がれた追加の説明に目を光らせた。

 「ですが、エニグマ本体に関する情報は判らないにせよ。

 私たちはエニグマ発生の原因……いいえ、エニグマを操っている張本人の存在が居る事は確認しています」

 「……!?」

 連続して提示されていく新事実。

 その中心に立つマキナは、驚き言葉を失った一同に対して何か達観した様な様子で続きの言葉を紡いだ。

 「その存在は恐らく、この世界に居ると言うのが私たちの見解です」

 「そんなことある訳――」

 明らかな不信感を覚えつつも、ぼそりと呟いたイントの言葉を訂正するかの様に紡がれるマキナの声。

 「私たちアバンギャルドは多種多様な能力を持っています。

 その力を使えばどんな不可能も可能に出来る、そしてちょっと本気を出せば世界中の無能力者を支配下に置くことだって可能です。

 なのに何故? あなた達はその力が悪用されるとは思わなかったのですか?

 こうして楽しくキャンプごっこをする為だけが力の使い道だと、何故決めつけてしまったのですか?

 この力を使って、誰かを傷つける存在が傍に居ると、そう思わなかったのですか?」

 つらつらと呟かれるマキナの言葉。

 それはその部屋に居る一同の、その中でもイントの胸に強く突き刺さった。

 誰かを傷つける、その点に関しては最も都合が良く、それ以外の使い道を探す方が大変な彼の能力は彼を孤立させる為に十分な効力を持っていた。

 だからこそ、イントは声を大にして反抗が出来なかった。

 彼自身、自分に向けられる恐怖と畏怖から作られた白い視線に対して、力による制裁を加えようと考えた事が少なからずあった。

 もちろん彼は自制心と正義感を使いその欲求を遠ざけたが、同じ事を考えた人間は少なからず居る気がしていた。

 そんな時、不意にイントの胸の奥でつぶされていた感情が代弁された。

 「ふざけた事言わないでっ……!」

 無意識だった。

 自分の中に湧いた感情を確認するよりも早く、その意思は言葉として空気を震わせていた。

 補修が繰り返されてきた室内、本来の用途が何なのかも今となっては定かではない教室、その壁を反射して自分の元へと届いた声に気付いたカフゥは、驚きつつも続きの言葉を垂れ流しにしていく。

 「誰彼構わず他人を傷つける怪物が存在する……それだけでもおかしいと言うのに……その怪物を生み出して他人を傷つけてる人が居るっていうの?

 しかもその存在はこの世界に居る? 馬鹿な事言わないで!」

 「その根拠は?」

 非難するでもなく卑下するでもなく、マキナはゆっくりと振り返り返答をする。

 だが、端正にそして怜悧な相貌には確信の色が滲んでいた。

 「そんなもの無いに決まってるでしょ!

 でもね、根拠が無いからと言って何? あんたは根拠が無けりゃ何も信じる事が出来ないの? 疑う事しか、犯人探しに躍起になる事しか出来ないの?」

 根拠も証拠も仮定も憶測も無い、あまりにも幼稚すぎる言葉。

 だが、カフゥはその意見だけは絶対に曲げたくなかった。

 「カルヴェラは何処か鼻にかけた仕草が気にくわないけど、命の恩人だし。

 イントはぶっきぼうだけど優しい。

 ステイシスは不器用だけど人一倍真面目。

 ガーフィンは誰にでも明るく話し掛けてくれる。

 ミグは変わった人だけど、それでもなんだかんだで他人の事を何時も気にかけてくれてる」

 「あの、僕は?」

 自分を指さし、心底残念そうな表情を浮かべるクーナを一瞥するカフゥ。

 「クーナは人の乳を揉む事しか能が無い上に、私が嫌がってると判ってても人の風呂を覗くは下着を盗むわ、正直心の底から死んでほしいと思ってるけど。

 それでも、私は判るの。

 この箱庭の人たちは誰かを傷つける様な真似はしないって!」

 「あの……凄い言われ様ですね」

 「言わないでよステイシス……僕これでも傷ついてるんだよ」

 一部意味不明な言葉が含まれているが、それでも彼女の言った言葉は本心から来るものだった。

 この世界にやってきて日が浅いカフゥ、だがそんなカフゥの目線だからこそ、繊細に見て取れる物がある。

 それはこの世界に住まう住人の結束の強さだ、一見すれば烏合の衆にしか見えない関係だが、彼らの意思は強く決して解ける訳が無い。

 「……随分な熱弁だけど……それだけじゃこの事態は説明がつかないね」

 軽い頭痛を覚えたのか、それとも自分の主張が通じない事に苛立ちを覚えたのか。

 マキナは前髪を少しだけかき分けると、言葉を紡いだ。

 「良いかい、確かに信じたくない気持は判る、だけどね……エニグマが意思を持たない存在なら、今このタイミングでわざわざ僕の命を狙う真似はしない筈だよ」

 「なんだそれは……」

 意味が判らずカルヴェラが呟いたまさにその瞬間、マキナの表情が変化した。

 彼が持つ怜悧な瞳に突如殺意が湧き、氷の様に鋭い意思が紡がれる。

 「みんなは伏せて」

 彼の言葉の直後、不意に背後のガラスが砕けて巨大な何かが部屋に飛び込んだ。

 窓ガラスに背を向けていた一同は気が付く筈など無かったのは道理である、だが、ガラスが砕けアルミ製の窓枠がひしゃげる不快な音と共に現れたその巨体は、これまでに無い程の存在感を放っていた。

 「これは――!!」

 部屋に飛び込んできたガラス片から仲間を守る為に力を行使したカルヴェラは、室内に飛び込んできたガラス片を見えない力で全て多々たたき落としてから、窓を破壊した巨体を見て絶句する。

 白い羽が舞っていた。

 元々不自然だった日常が砕かれる、そんな凄惨な現場に舞うそれは、天使の羽根の様にも見え、何処か洗練された美意識を感じさせた。

 だが、その羽がそんな美しい物では無いと誰もが知っている。

 否、誰もがその異形を見た瞬間悟ったのだ。

 「――エニグマ!!」

 部屋に舞っている羽が示した通り、その姿は鳥と良く似ていた。

 シルエットとしては猛禽類のそれと類似していた。

 空を飛び、空気を切り裂く事に特化したその両翼はその体の殆どを占め、肉を引き裂く事に特化した嘴は僅かに湾曲している。

 確かに恐ろしい外見ではある、そしてこの場において異常とも言えるシルエットだ。

 だが、それ以上に恐ろしいのは、文字通りの節穴の様な双眸と、場違いな程のその巨体だ。

 大きさは人一人を優に上回っている。

 翼を広げればおおよそ6メートルはあるだろう、嘴の傍に穿たれた双眸からは赤い光が鈍く漏れ出し、その巨体と相まって現実感を喪失させている。

 形は今まで見た中の物と違うが、その姿はエニグマであると証明していた。

 「ステイシス!!」

 クーナは反射的に彼女の名前を叫ぶ。

 自身の能力、そしてイントの力が通じない事は間違い様の無い事実であり、彼女の力が通じる根拠など一切無かった。

 だが、仮に能力が通じるとすればこれ程有効的な能力は無い。

 何故なら、いかなる危機的状況においても時間が止まってしまえばそれ以上事が悪化する筈は無く、必要とあらば目の前のエニグマからこの部屋の一同を全て避難させる事も可能だったからだ。

 だが、その声に反応し、ステイシスが能力を行使するよりも早く、マキナは床を蹴りエニグマに飛びかかっていた。

 「その必要はありません、何故なら――」

 特別に訓練された動きでは無い。

 ただ床を蹴り駆け出しただけの簡単な動作、その後に彼は右で握り拳を作りエニグマの嘴を真正面から殴りつける。

 普通なら大した効果は得られず、マキナが腕を痛めるだけで終わる筈だ。

 だが、効果はあまりにも絶大だった。

 砲弾が放たれた様な轟音が室内に響き、エニグマの嘴が木端微塵になって部屋に散乱する。

 それでも消される事の無かった衝撃は、エニグマの分厚い頭蓋骨を破壊することで相殺される。

 あまりにも衝撃的な一連の動作、だが、その一連の動作を誰も確認する事が出来なかった、何故ならその動作はあまりにも素早く、混乱の渦中に居た一同の動体視力を上回っていたからだ。

 「――私は、ノブレス・オブリージュ内において、最もエニグマの駆逐に向いた能力を持っているからです」

 空中で技を放ったマキナ。

 彼が地面に足を付けるまでのごくわずかな間に、エニグマの姿は消え失せており。

 何事も無かったかの様にエニグマの姿だけが欠けた現場に足を着いたマキナは、着ていた服の裾を払いつつ残りの言葉を言い切る。

 「あんたの能力は……」

 「『身体強化』今回の作戦において最も向いていると思われる能力……それが私の力ですよ」

 一同がやっとの思いで対処してきたエニグマの存在。

 それを瞬きするほど一瞬の間に、そして瞬きするのと同じ位気軽に打ち消したマキナ。

 そんな彼に僅かに恐怖を感じつつも、クーナは強がり頷いて見せる。

 すると、マキナは続きの言葉を紡いだ。

 「安心してください、私がエニグマの脅威から皆さんをお守りし、そしてこの事態を引き起こした犯人を捕まえてみせます。

 この部屋の中に居るであろう、犯人をね」

 一切の迷いも無く、クーナが考えては居たが絶対に認めようとしなかった考えを口に出すと、マキナはその精悍な顔ににこやかな笑みを浮かべ。

 一同の緊張を解きほぐすかの様に、大袈裟に肩を竦めてみせるのだった。

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