追撃 上

 幾ら空調がしっかりしていようと、屋内さらに言えば地下室となるとそれなりに空気が淀むものだ。

 事実、地下から空気を引っ張り上げる行為は、技術面での負荷が多少生じるために他の部屋と比べると換気回数は落ちるのは事実だ。

 とはいえ、この重苦しい空気はそれだけが原因では無いのだろう。

 先に述べた通り、この場所が地下である為に窓ガラスなどは存在しなく、あるとしたら閉塞感を加速させる大量の液晶パネルと、その下に設置された大きな机二組とそれらの上に置かれた大量の資料と使い込まれたマグカップに、そしてとっくに冷めきったコーヒー位である。

 そんな一室の中、カルヴェラは僅かにヤニが浮いたキーボードを叩き、小さく言葉を紡ぐ。

 「行きすぎた科学は魔法と違いが無いよなぁ」

 「何ですか?」

 「んあ? ああ、昔どっかで聞いた話さ」

 そう言うと、自身が呟いた一言が唯の独り言である事を示す為に小さく手を振り、咥えていた葉巻を一口吹かす。

 「それ、そろそろ辞めてください……」

 部屋の壁紙を僅かに茶色く染めた張本人に対して相変わらず覇気の無い文句を吐くと、彼女は手を伸ばし、積まれていたフォルダーの下から一枚の書類を取り出す。

 「いいや、辞めねぇよ」

 「行きすぎてない科学でも、煙草が体に悪い事位証明されてますよね」

 「煙草じゃねぇよ、葉巻だ葉巻……」

 「どっちでも同じです……ですけど……その、もう少しですね」

 そう言うと、彼女は書類に書かれた内容とカレンダーの日程を見合わせてから、少しだけ感慨深そうに言葉を紡いだ。

 その意味が分っていたカルヴェラは、曖昧に返事を返すと彼女が持っているのと同じ書類を引き出しから引っ張り出し、そこに書かれた文字列を目で追う。 

 「行きすぎた科学は魔法と違いが無い……よな」

 「また独り言ですか?」

 「いや」

 何の技術にしてもだが、一つ飛ばしで突然生まれた技術を魔法と思う事は不自然な事では無い。

 固定電話から携帯電話へと技術が進化する過程を見ていた人なら、その基礎的な理論が分る為大して驚かないだろう。

 だが、電気を使わない国の人間が、携帯電話で遠く離れた所の人間と意思疎通している所を見た場合は話が変わってくる。

 恐らくその場に居た大抵の人間は口をそろえて『奇跡』や『魔法』と呼ぶか、もしくは手品か何かの類だと疑ってかかるだろう。

 「原理が分るものは科学だが、その原理が証明できないうちは全部魔法だと思わないか?」

 そう言い葉巻を更に吹かすカルヴェラは、カレンダーに書かれた小さな星を見て不安気に鼻を鳴らすと、とっくに冷めきったコーヒーを一気飲みしてから作業を再開するのだった。






 「行きすぎた科学は魔法……か」

 遠い過去を思い出し小さく呟くカルヴェラ。

 彼は相変わらず靴下も履かずに空を飛び、足元で繰り広げられるちっぽけなコメディーを見て鼻を鳴らしてから、頭の中の考えを切り替える。

 「つうか何やってるんだよお前らは……」

 先日、どういうわけだかは不明だが、突然箱庭に帰って来たガーフィンとイント。

 彼らはこれと言って今回の帰還の理由を話す事も無く、今現在彼の足元すなわちはかれの眼下に広がる箱庭の駐車場でどたばたと騒がしく何かをやっていた。

 「――んでだな、さっき話した通りアクセルは――」

 「ギニャァァ!!」

 「馬鹿!だからいきなりそんなにクラッチを――」

 先ほどから頻繁に悲鳴を上げているのはガーフィンである。

 彼女は何処から手に入れてきたのか、矢鱈と鮮やかな塗装が施されたオフロードバイクに跨り、壮大に暴れるそれに翻弄されて幾度と無く悲鳴を上げていた。

 聞くところによると何かと気まぐれなガーフィンは、突然乗り物に興味を持ち跨った事すら無いバイクの乗り方をイントに教わっているらしい。

 「そんな事言ったってぇ!!」

 元々乗り物などとは縁が無い能力を有していたガーフィンが、バイクの駆動原理だの性質だのを知らないのは無理も無いが、それでもガーフィンの運転はあまりにもぞんざいだった。

 その事を代弁するかのようにバイクは前輪を宙に浮かすと、人を舐め切った馬の様にガーフィンを振り落とさんばかりの勢いで暴れる。

 「ったく何やってんだか……」

 口でそう呟くカルヴェラは、駐車場の一角に止められたイントの車に視線を向ける。

 彼の趣味なのか、何かと華奢な印象を他人に持たせる彼に似合わない、その武骨な車体は今は沈黙しているのだが、塗装の至るところには錆が浮いている辺り、無意味に他人に威圧感を与えている。

 今は運んでいた荷物を殆ど降ろしている様だが、開けっ放しになった扉から覗ける車内には小さく折りたたまれた寝袋と懐中電灯、そして彼愛用のオーディオコンポなど、相変わらずの顔触れは車内に取り残されていた。

 だが、そんな荷物の中に幾つか見慣れない物があった。

 その一つは女物であろうヘアバンドと、彼の趣味には反したパズル雑誌のペアだ。

 彼の傍にガーフィンが居る辺り、そもそも何かと仲の良い二人の為、彼の車にガーフィンが自分の荷物を置くのは容易に検討が付くのだが。

 その雑誌の傍に立て掛けられたもう一つの荷物に目が止まる。

 「なんでお前がこんな物持ってんだよ……」

 カルヴェラが目に留めた物、それは二丁のライフルだった。

 一丁は直ぐに取り出せる様にか、助手席のシートに立て掛けられた状態で紐で括られており、その下には幾つかの予備弾奏が転がっている。

 銃の類は手に入れようと思えば簡単に手に入る、ましてやガーフィンの協力を得たら尚更簡単に銃を手に入れる事が出来るだろう。

 勿論今更銃の必要性など無く、そもそも一同の中で一番戦闘に特化した能力を持つイントにとっては無用の長物なのは間違いが無いのだが、それでも娯楽として銃を持ち運び、暇なときは的なり野生の動物なりを打ち抜く位の使い道はあるだろう。

 だが、もう一丁のライフルが問題外だった。

 その一丁は、ここぞと言う時に使う為か車の荷台に寝かせられているのだが、明らかにその全体像を構成するパーツが規格外に大きい。

 普段カルヴェラが狩猟用として持ち運んでいるライフルもそれなりに大きくはあり、車の助手席に置かれているライフルもまた片手では抱えられない程の大きさではあるのだが、それらがミニチュアに見える程の大きさである。

 「狙撃用……いやアンチマテリアルライフルか?」

 もともと銃器への関心が強いカルヴェラが検討を付けた通り、その銃は俗にアンチマテリアル(対物用)ライフルと呼ばれる代物だった。

 その俗称の通り、生き物を撃つためでは無く戦車や戦闘ヘリの装甲を打ち抜く為に作られたライフルだ。

 だが、戦争はおろか人の数が減りすぎて諍いの類も見かけなくなった昨今において、このような明らかにオーバースペックな武器には居場所が無く、遊びに使うにしてもこんな重たい物を持ち歩くのは幾分無理があった。

 「一体どんな怪物と戦う気だよ、熊だろうが象だろうが一撃だろうが」

 確かに凶暴な害獣と出会った際、自身の身を守る手段としてこのような道具を用意するのも分らなくは無いが、それでもこの武器はあまりにもオーバースペックだ。

 第一、イントは銃などを使わなくとも、これらの携行性に乏しい武器よりも使い勝手の良い攻撃手段を持っている。

 だとしたら、何故このような物をイントが持っているのか想像がつかない。

 「おーいカルヴェラ!」

 空中で思案を始めたカルヴェラだったが、不意に遠くから声がかかった為その方向を向く、その先には校舎の窓から顔を出し、此方へ手を振る子供の姿があった。

 「んあ? クーナか」

 何処で手に入れたのか、もしくは彼の面倒を普段からよく見ていたステイシスが作ったのか。

 今日は猫の着ぐるみの様なパジャマを着ており、目深に被ったフードの下からは、きらきらと宝石の様に光る瞳と無邪気に名前を呼ぶ口が覗いている。

 子供好きな人間なら、思わず抱きしめたくなる程愛らしい姿で此方へと手を振る一人の人物、彼の名前はクーナだ。

 「カルヴェラカルヴェラ! こっちこっち!」

 ぴょんぴょんと跳ねながら早くこっちに来いと急かすクーナに、カルヴェラは先ほど湧いて生まれた疑問符に重しをすると、彼の傍まで宙を飛び近づくのだった。






 「よっこい……しょ……」

 校舎の屋上、そこに幾つも張られたロープに一しきり洗濯物を干し終えると、ステイシスは屋上の隅に置かれていたパイプ椅子へ腰掛け、いつも通りに休憩を始める。

 元々暇を持て余しがちな彼女は、箱庭に住む大抵の人の服を一人で、しかも手洗いで洗っているのだが、これらの作業を辛いと思った事は無い。

 寧ろ誰かの役に立てていると言う充実感や、心地良い疲労感。

 そして屋上一杯に広がった洗濯物を眺め、こうして一息入れる時間は彼女にとっては大切な時間だと考えていた。

 「『よっこいしょ』って、そんなに疲れたんですか?」

 「え……っとぉ、私そんな事言いましたか?」

 今までは一人で行われていた日課だったが、最近は手伝いをする人間が現れた。

 その人物は、カフゥだ。

 箱庭の新入りであり、ガーフィンとは違い何かと真面目な彼女が、一人箱庭の清掃や洗濯を務める彼女をサポートする様になるのは必然的な事でもあり、今では何かと仲の良い友人となっていた。

 「言った言った! さっきステイシスさん椅子に座るときそう言いましたよ」

 「えっと……あの、そんな事言ってたんですね……もう歳かしら」

 「いやいや、寿命とか無いから!」

 茹ですぎたパスタの様にぶつぶつと切れる言葉を使うステイシスと、若干早口気味で硬い芯の残った言葉を紡ぐカフゥ。

 一見アンバランスではあるのだが、これはこれで上手い事コミュニケーションが取れている様だ。

 「これだけ洗濯物が並ぶと、結構壮観ね」

 「……ええ、その……最近はずっと雨降ってましたし……」

 そうステイシスが言う通り、ここ暫く雨の日が続いており、まともに洗濯物を干せない日が続いていたのだ。

 一応体育館などもある為、洗濯物を干そうと思えばいくらでも干す手段はあったのだが、それでも出来れば日光で乾かしたいと言うステイシスの主張を尊重した結果、洗濯物は矢鱈と数を増やし、朝から二人がかりで洗濯をして終わったのが昼過ぎの今となってしまった。

 「にしてもさ、ステイシスさん結構大胆なんですね」

 そう言うカフゥの表情は、何処かおちょくる様であり、何か含みのある意味合いだと直ぐに分ったのだが。

 その含みが一体何なのかが分らないステイシスは首を傾げ、小さ無瞬きで答える。

 「分らないんですか?」

 「あの、何のことでしょうか?」

 「だからあれ」

 そう言うと、カフゥは洗濯物の一つを指差す。

 「えっと……どういう意味ですか?」

 「だから、ステイシスさん服は地味なのに、下着は随分と大胆だなって」

 そう言うカフゥは、足を進めると目的の物をすぐ傍で指差してみせる。

 彼女が指差したそれは、女物の下着だった。

 「派手ですか? ……私地味な物を履いていると思ったのですが……」

 そう言うと、視線を少しだけ落として再び疑問符を浮かべるステイシス。

 「いやいや! これだよこれ、真っ黒のレースって、しかもスッケスケのTバック。

 私流石にこんなに派手なのは履けないなぁ……」

 普段からあまり感情の読めないステイシスの様子を見る為だろう、部分部分に上手く抑揚を付け、ステイシスの羞恥心を擽ろうとしている様だが、相変わらず彼女は首を傾げるだけだ。

 その意味が分らず、今度はカフゥまで首を傾げて考え込んでしまう。

 もしかしたらこの下着はステイシスのではないのかも知れない、そうなればガーフィンの物である可能性が浮上し、普段の彼女の服装からしてこのような下着を履いている事を想像できない訳では無いのだが。

 そうなると別の疑問が湧いて生まれる。

 「これガーフィンさんのですか? いやでも……彼女は箱庭には住んでいないか」

 そう、ガーフィンはしょっちゅう箱庭に顔を出すが、彼女自身の住まいは箱庭の傍に立つビルの一室であり、衣類は全て自分で洗濯している筈だった。

 「ええ……あの、それガーフィンさんのでは無いですよ」

 「じゃあやっぱりステイシスさんの?」

 「あの……その、いいえ……私のでは……」

 その一言で、ステイシスが先ほどから何故疑問符を浮かべていたのかが分った。

 この下着は彼女の物では無いのだ、だからこそ『大胆な下着』と言われても、彼女はいまいち言葉の意味を理解できなかったのだ。

 逆に、彼女の否定によって新たな疑問が生まれた。

 「えっと、それじゃこれは誰の?」

 それもそうだ、この箱庭に女はカフゥとステイシスの二人しか住んでおらず、ステイシスは自分のではないと良い切るが、カフゥ自身もこんな下着を履く趣味は無い。

 だとしたら……

 ふと、頭の中にとんでもない想像が浮かび脂汗を流し始めるカフゥ。

 「えっと……その、その下着はクーナさん――」

 「やめて! いいや聞いて無い聞いて無い!! 私あの変態が女物の下着を履いてるなんて聞いて無い!!」

 慌てて首を振り、一瞬脳裏を過った地獄絵図をかき消す為に声を荒げるカフゥ。

 「あの、大丈夫です……クーナさんその下着履いて無いので……」

 そんな彼女に途切れ途切れな言葉が掛かり、ようやく自分の脳裏をよぎった光景が自分の杞憂だと分り少しだけ溜め息を吐く。

 「あ、そう。

 そうだよね! いくら変態だって言っても女物の下着を履くなんて事しないよね。

 あは、あはは!」

 わざとらしく笑うカフゥに、ステイシスは言葉を掛ける。

 「そうですよ……あの、流石にサイズとかも合いませんし――」

 よくよく考えてみたらその通りである、幾ら女物とはいえ、流石に子供の体をしたクーナが目の前の下着を履くにはサイズが違いすぎる。

 彼女の言葉を別のとらえ方すると、サイズが合えば女物の下着を履く可能性がると言っているようなものだが、少なくとも彼が女物の下着を履く趣味があったとして、流石にサイズが合わない物を無理矢理履こうとはしないだろう。

 そう思った矢先、ステイシスは続きの言葉を紡いだ。

 「――なので…その下着はクーナさんが毎晩被って寝てま……あれ、大丈夫ですか?」

 言葉を中断したのは、不意にカフゥが倒れたからだ。

 最初は貧血か何かかと思ったが、うつ伏せに倒れたまま何かの呪文の様に『あの変態あの変態あの変態』と呟いている辺り、単純に精神的なショックが原因だったを判断して相変わらずおっとりとした仕草で安心するステイシス。

 「っていうか! どうしてステイシスさんはあの変態が平気なの!?」

 予備動作など無く素早い動作で飛び起きると、今度はステイシスへ向けて疑問符をぶつける。

 実際、男に対してクーナは普通の態度を見せるのだが。

 異性に対しては良くもまぁこうして変態的な発言が出来るなと言った具合の言葉を紡ぐ。

 ガーフィンの様に半分笑いながらあしらえる人間なら良いのだろうが、カフゥの様な人間にとって彼のセクハラはストレス以外の何物でも無いのにも関わらないのだが

 箱庭内において何故彼がリーダー格を務めているのかが分らないでいた。

 「平気と言いますか……その、もう慣れた感じですね……」

 「……慣れでどうのこうのなるレベルじゃ無いでしょ」

 元々鈍感と言うか、何かと関心の薄いステイシスだ。

 日々開きもせず放たれる変態発言に飽きてしまうのも納得は出来るが、カフゥとしてはにわかには信じられずうなだれる様な反応をする。

 「っていうか、慣れたところで、私は出来るだけ距離を置きたいと思うのが普通なのに、みんなは良く逃げ出さないよね」

 「……そうですか?」

 「だって普通そうでしょ? あんなのと仲良く成ろうなんて思わないって」

 やはり何処か感覚が違うのか、ステイシスは少しだけ首を傾げるとカフゥの言葉を反芻し、意味を理解しようとする。

 「はぁ……多分それは……まだカフゥさんが気が付いて無いだけですよ」

 カフゥが自身とは違う考えを持っている事に気が付いたステイシスは、新たに思案の網を広げ始めたのか、幼い子供の様に親指の爪を噛むと更に言葉を繋いだ。

 「彼のやり方がどうであれ……その、クーナさんがあそこまで強引に新入りさんの手を引くのには、その……意味があると思うんです……」

 「意味? 変態欲求満たす以外の?」

 一瞬、ステイシスが冗談を言っているのだと思ったのだが、元々冗談が通じない彼女の事だ、その場違いにも聞こえるその言葉に嘘の類は含まれていないと判断する。

 おちょくる様なカフゥの言葉に対し、ほんの少しだけ心外の色を滲ませた後相変わらずな伸びきったパスタの様の言葉で説明を始めた。

 「その……カフゥさんはある日気が付いた時、世界がその……こんな風に成っていると知った訳ですよね?

 でも、カフゥさんは驚きはしても……落ち込んだり、悩んだり……そう言うのはしなかったですよね、それはなんでだか分りますか?」

 まだ僅かに水気が残るエプロンを外すと、皺を取るためか軽く手で叩きつつステイシスはカフゥの返答を急かすかの様に視線を向ける。

 「そんなの、あんなに色々な事がいっぺんに起きたら悩む暇すら無いって」

 「……それじゃ、どんな事が、そのぉ……いっぺんに起きたのですか?」

 本人は自覚していないのだろうが、第三者には矢鱈と眠たそうな、そして覇気の無い垂れ目でゆっくりと瞬きを済ませると、何かを諭すかの様に言葉を繋ぐステイシス。

 「そんなの、あの変態が!……」

 自身の素性を隠し、散々エロ本脳を満たす事に専念したクーナの悪行を思い出して思わず激高しつつ、カフゥは強い言葉を言い放った。

 そこからこれまでの悪態に付いて一つ一つ愚痴ろうと思ったのだが、少しだけ笑みを作ったステイシスに気が付いたカフゥは、僅かな間を開けてから彼女が言いたかった言葉を悟り目を見開く。

 「初対面の人には……それでなくても、大抵の人には極端な印象を与える人ですけど……その、クーナさんは周りから一番信頼され慕われている人です。

 その……みんなが彼に救われてるので……」

 初対面の人間には変化すら見抜けないだろうが、幸の薄そうな薄い頬を僅かに吊り上げ、昔を思い出す様に小さく笑うステイシス。

 恐らく彼女自身も、クーナに救われた一人なのだろう。

 「彼がどんな人にでも、分け隔て無く接してくれるお陰で……その……余計な杞憂は感じないで済んでいるのです……」

 「分け隔て無くねぇ……」

 実際、カフゥはこの箱庭の全ての人間と仲良くなれた訳では無い、まだ出会ってから日が浅い為、仲が悪いわけではないのだが、どうしても余所余所しい間柄になっている相手も少なからずいる。

 最近はステイシスと意気投合した事もあり、やっと本音を語れる相手を見つけたカフゥではあるが、それでも一切オブラートに包まれていない素の感情をぶつけられる相手は彼女では無い。

 それはクーナ一人だ。

 喧嘩するほど仲が良いなんて言葉があるが、実際何度もいざこざがあった為に、クーナに対してはさほど身構えず、普段から本音をぶつける事の出来る相手なのは間違いが無い。

 「普通自分の記憶が無い……なんてその、そんな事を言う人を見たら警戒する筈です……ですが、彼一人は私を直ぐに受け入れてくれたのです……」

 「ちょっと待って!? 今何て言った?」

 「え?」

 さらりと聞き逃せない事を言うステイシスに待ったを言い放つのだが、当の本人には何にカフゥが驚いたのか見当が付かない様だった。

 「だから、ステイシスさん記憶が無いんですか?」

 「……あ、言ってませんでしたっけ?」

 「言って無い言って無い! って言うかどうして? っていうか何時の記憶が?」

 ややがっつく様に回答を急ぐカフゥに対して一度首を捻ると、考えを練り直してから言葉を繋ぐステイシス。

 「えっと、原因は分らないのですが……その、私この世界に来る前の記憶が一切無くて……」

 ステイシスという一個人を説明する上で、最も特異とも言える情報がそれだった。

 大抵の人間はこの世界に来る前の記憶を持っており、皆が口を揃えてふと気が付いた時には世界が変わっていたと答えるのだが、ステイシス一人は皆と違った。

 この世界を異常では無くごく普通の物だと捉え、そしてもう二度と会えなくなった友人を惜しむ様子すら見せない。

 何故彼女一人がその様な態度を取ったのか、それは彼女が気丈だった訳では無い。

 ましてや、イントの様に元の世界を嫌っていた訳でも無い。

 ただ知らなかったのだ、自分が本来居た場所も、自分の名前も。

 そんな時に現れたのがクーナだ、自身の能力の根を頼りにカルヴェラに連れられる様にして現れた彼は、彼女を半ば脊髄反射の様に受け入れ。

 自分の名前が分らないと言う彼女の為に、『ステイシス』という名前を与えた。

 勿論今となっては、その日の出来事が今からどれだけ前の出来事かすら分らなくなってしまった訳だが。

 いざ口に出してみると自分でも思っていた以上にするすると出てくる昔話に、懐かしさを感じる。

 「それって……刷り込みじゃない」

 そして、そんな彼女の過去を知ったカフゥは、どこか釈然としない感情を潰す為。

 ステイシスには聞こえない程小さな声で愚痴を吐く。

 だが、口ではそんな事を言っても、内心ではクーナの存在に少しだけ感謝をするのだが、何処か気まずい空気を感じたカフゥは、洗濯物をもう一度指差してから話題を逸らす為に言葉を紡ぐ。

 「っていうか、下着一枚からここまで話が膨らむなんて」

 「……はぁ、まぁ確かに……」

 そう言って顔を合わすと、タイミングを合わしたかの様に二人揃って笑い声を上げるのだった。

 何て事の無いいつも通りの日常。

 起きた事と言えば、メンツが一人増えたことであり、一緒に自分の作業を手伝ってくれる相手が増えた事に嬉しさを滲ませるステイシス。

 そして多少の戸惑いは残っているとは言え、それでもこの世界で上手くやっていけると根拠のない自身を感じて安堵するカフゥ。

 これと言って娯楽の無い世界だからこそ、このような小さな出来事はとても楽しい。

 楽しいからこそ。

 この瞬間に視界の隅に異形が現れ、洗濯物の隙間を高速で駆け抜けた事に気が付かなかった。

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