第14話 山鷹 ふえるの見た世界 『私の世界の全て』

「~~♪ ――~~♪」


 ――聞こえてくるのは、天使の歌声。


 そして、それを聞いているのは小学校時代の私。


 それは、近所の少し大きな公園の、まるでステージになっているかのような半円状の段差。 そこが私とさっちゃんとの居場所だった。


 観客は私一人だけ。


 けど、私達にとってそれはどうでもよかった。


 さっちゃんは私一人のためだけに一生懸命踊り、本当に楽しそうに歌ってくれる。


 私もそんなさっちゃんの本気に本気で応え、全力の声援を送る。 それが本当に、本当に楽しかった。


「――――」


 お互いの両親が友達同士だったこともあって、物心のついた頃から私の隣にはもうさっちゃんがいた。


 ダメダメな私とは違って、さっちゃんには色んな才能があって、それでいて性格も良くて優しく、友達だってたくさんいた。


 さっちゃんは私にできた初めての友達。 いつも明るいクラスの中心で、みんなの憧れ……。


 ――そして、私の世界の全てだった。


 そんな世界を、私が……。 私のせいで、その世界が壊れてしまった。


 こんな私なんかを助けたせいで、身代わりとなったさっちゃんが電車に轢かれてしまった。


「――――」


 あの事故を見た瞬間、単純にさっちゃんが死んだかと思った。


 ――それだけ……そうとしか思えないほどさっちゃんの身体は強く電車に弾かれ、まるでオモチャのようにホームを転がっていった。


『――~~~~っ!!!』


 ――直後。 聞こえてきた周囲の悲鳴とともに、一気にあわただしくなったホーム内。


 私もすぐに大勢の大人達から――大丈夫? と聞かれながら取り囲まれ、その後からきた救急隊員とともにさっちゃんと一緒に病院へ緊急搬送された。


 私の方は簡単な検査と診断を受けて、それですぐに何ともないことがわかったけど、問題なのはさっちゃんの方――。


「――――」


 手術中の赤ランプが照らされる部屋の前に私とさっちゃんの両親が集まっていて、四人が四人とも神妙な面持ちをしていた。


 そんな状態を目の当たりにすることでよりいっそう、今のさっちゃんがどれだけ大変な状況に置かれているのか、子供ながらに痛感させられた。


 私の世界の全て。


 そんなさっちゃんの命が、今まさに消えかけようとしている。


 それも……こんな私なんかを助けた、そのせいで……っ!


「――――」


 気付くと私は目を閉じたまま目の前でギュッと両手を合わせ、一心に祈り続けていた。


 神様お願いします……。 私はどうなっても構いません……っ。 私にできることなら何だってします。


 ですから、どうか……――お願いですですから、さっちゃんの命を助けて下さい……っ!


「――――」


「――――」


 後から聞いた話だと、さっちゃんの手術はおよそ2時間ほどで終了したらしいのだけれど、私にとってその2時間は、まるで終わりのない永遠のような時間に感じられ、生きてる心地すらしなかった。


 ――私の願い。 それが神様のもとへ届いたのか、それは今でもわからないけど、結果としてさっちゃんの手術は無事に成功し……それから――。


「――――」


 さっちゃんの意識はいまだに戻らず、ベッドで寝たきりのまま……。


「………」


 これは罰なんだと思った。


 きっと、神様に対する私の想いの強さが足りなかったんだ。


 私なんかがさっちゃんの代わりに助けられて、こうしてのうのうと生きている。


 この心の苦しみが、私に対する罰なんだ……と、強くそう思った。


 私はそれからすぐにさっちゃんの両親に誠心誠意、心の底から何度も謝ったけど、さっちゃんのお母さんは――。


「ふえるちゃんの気持ちはよ~くわかったから、もう謝らないで」


「それより、これ以上私達に謝るようなことしたら逆に怒るよ~? わかった?」


 そう言って気丈に笑う笑顔は慈愛に満ちていて、それに対し私は――。


「――はい……」


 と、子供ながらにそう返答することしかできなかった。


 そのことを両親に相談した私だったけど、二人とも私が無事でよかったと言いながら抱き締められただけで、私を叱りつけるようなこともしなかった。


 それを受けながら、私は――。


 あぁ……何て自分は何てこんなにも子供なのだろうと心の底から思い知らされ、早く大人になりたいと思わずにはいられなかった。


「――――」


 学校が終わってからすぐ、私はさっちゃんの病院に直行し、お見舞いに行く。


 それが私の日常となった。


 その際、一度だけ警察の人がやってきて事故の詳しい事情を聞かれたことがあったけど、あの時あったことを正直に話して以降、再び現れることはなかった。


 さっちゃんが目覚めないまま……さらに一週間あまりが過ぎた頃、私はさっちゃんのお母さんから病院にくる時間を減らすよう言われてしまった。


 その理由もやっぱり私が子供だからだと思うと、また悲しくなった。


「――――」


 それと、前の警察の人とは別――入院患者を見回っていたお医者さんらしき先生から、いきなり一方的に話し掛けられたことがあった。


 その先生はやたらテンションが高くてすごく興奮気味だったけど、話すその内容はさっちゃんがいかにすごいかと称賛するモノばかりだった。


 何でも先生によると、私が電車に巻き込まれそうになる直前、横にいたのがさっちゃんじゃなければ、私はほぼ確実に死んでいたということで――。


 それから仮に、もし私の近くいた人がさっちゃんじゃなく、一流のスポーツ選手や警官、ライフセーバーの人だったとしても、おそらく助からなかった可能性の方が高かった――とまで言った。


 さっちゃんは私に起きた非常事態にノータイムで対応して私を救い、かつ自分も死ななかった。


 そのことが大変素晴らしいと、さっちゃんを褒め称えた。


 ――その通りだと思った。


 確かに逆の立場だったら私は絶対にさっちゃんみたいに動けず、きっとさっちゃんを見殺しにしてしまったと思う。


「――――」


 とっさにそのことを想像してしまい、それで暗い気持ちになった私だったけど、それも少しの間だけ――。


 さっちゃんをよく知るお医者さんがさっちゃんの才能に気付いて称賛し、それを褒め称える。


 そのことがとても嬉しく、同時に誇らしく感じられた。


 その後、さっちゃんと会える時間を制限されてしまった私はさっちゃんと会えない時間の中で、今の自分がさっちゃんのために何ができるかを考え――。


 とりあえずまずは、ずっと意識が戻らないままのさっちゃんの治療法について、子供なりに少しでもインターネットで情報を集めてみることにした。


 調べた医療サイトの情報の中で、そういった昏睡状態は家族や親しい友人が何度も話し掛けることで脳が刺激を受け、しだいに回復していく場合もある――ということがわかり、私はすぐにでもそれを実践じっせんしてみることにした。


 さっちゃんに会えない間に学校で色々起きた出来事から天気、ニュース、最近流行ってるゲーム、アニメ、マンガ、アイドルグループの話題――。


 そのどれもにさっちゃんは全く反応せず、変わることなく眠った状態のまま……。


 次の面会も、次の面会も……次の次の次の面会も、変化はなかった。


 学校でどんなことがあって、私の心がどんな状態だったとしてもさっちゃんの前だけでは絶対に笑顔を崩さない。


 私はそう、心に決めていた。


「――――」


「それじゃあ、さっちゃんまた来るね、バイバ~イ♪」


 そう言いながら、変わらず寝たままのさっちゃんに元気な笑顔を向けてお別れし、パタンとドアを閉じた瞬間、すぐにその笑顔を曇らせる。


 私が面会の度、一生懸命話し続けても何の変化もないさっちゃん。


 前にインターネットで調べた時に見た――親しい友人。 ……もしかしたらさっちゃんにとっての私って、そこまで親しい友人じゃなかったのかも……。


 全く回復の兆しを見せないさっちゃんを目の当たりにながら私の心はしだいに暗くなり、後ろ向きになっていった。


 そして、次の日のお見舞い。


 私はいつも通り、さっちゃんと会えない間にあった学校の出来事を一生懸命思い出しながら話し掛けていると――。


「――――」


 目の前のさっちゃんがわずかに身じろぎし、薄っすらと目も開いてるように見えた。


「――――」


 驚いた。 というより息が止まった。


 な、な、な、な……っ!


 突然の事態にパニックになりながらも、それでも念頭にあるのはさっちゃんのこと。


 それからしばらくして、私の脳が活動を再開。 すぐにお医者さんを呼ばなきゃという考えに思い至る。


 そこからすぐ近くのナースステーションに直接駆け込み、そこにいた看護師さんに事情を説明して再びさっちゃんの病室へ――。


「――――」


 ――けど、そこにはいつも通り……何の変化もないさっちゃんがそこで眠っているだけだった。


 ついさっきまで私の胸の奥に芽生えていた希望の光が――フッと消え、その代わりに覆いかぶさる絶望の闇。


 その後――ここまで来てくれた看護師さんは一応さっちゃんのバイタル(脈拍・呼吸・体温・血圧・意識レベル)を調べ、後から来た先生も診断してくれたけど結果はいつもと同じ、身体は健康そのものだけど意識だけが戻らない……そんな状態だった。


 その診断が終わるまでの間、私は何だかいたたまれないというか、心の内で罪悪感のようなものを感じてしまっていて、最後に看護師さんから――。


「あの……失礼ですけど、意識が戻ったっていうのは本当ですよね?」


 そう確認され、強いショックを受けた。


「ほ、ほんとうですっ! ウソじゃないですっ!! 本当にさっきまで目を開けてて……それに目だって動いて――」


「――――」


「――――」


「………」


 あの時は、そう言い切れたけど……あれから一日二日と、日が経つにつれ、あれは本当にあった現実のことだったのかと、徐々に自信がなくなってきてしまう。


 もしかしてあれはさっちゃんに目覚めて欲しいと願い続けてた、私の弱い心が見せた幻だったのかも……と、だんだんとそう思えるようになってしまった。


 そんな頃――。


「――――」


 私がもう通い慣れた病院に行く途中でさっちゃんのお母さんと合流してそのまま一緒に病室を訪ね、何かのお手伝いでもしようと話していた、ちょうどその時――。


「うん……おはよう、お母さん。 それに、ふえるちゃんも……」


 パッチリと目を開けていたさっちゃんが、私達にそう挨拶してきた。


「えええ~~~~っ!!!!」


 驚いたのも当然そうだけど、前に見たことが幻だと思っていただけに、唐突に起きたこの現実が頭の中で全く整理できず、大声で叫び出してしまった。


 私達を見るさっちゃんから困惑している様子が伝わってくるけど、こっちはそれ以上で――。


 そんな中、騒ぎを聞きつけて病室に入ってきた病院の先生。


 ――あ。 となって気付く。


 その人は、前に一度私と話した時にさっちゃんのことをすごく褒めてくれてた、あの先生だった。


 そして前の時と同じく、さっちゃんがいかにすごかったかという説明が始まった。


「――――」


 そんな話を聞いてる途中で空気が変わり、話を聞くみんな――特にさっちゃんの表情が明らかに曇っていくのが私にも伝わってきた。


 止まらずに話し続ける先生だけがその変化に気付いていない状態で、すぐに行動を起こしたさっちゃんのお母さんと看護師さんが先生の話を強引に中断させると、部屋から二人掛かりで連れ出されてしまった。


「――――」


 そして、病室に取り残されたのは私とさっちゃんの二人だけ……。


「………」


「………」


 そこで続く、どこか重苦しい感じの沈黙……。


 こうして先生の話を聞いたのは二回目だったけど、今の……この雰囲気が理解できなかった。


 だって先生の話す内容は、今の私が聞いてもさっちゃんを褒めちぎる内容のものばかりで……――ん?


 あれ? ……もしかしてさっちゃんが気にしてるのって、左目近くに残ったキズや、リハビリが必要になる手足のこと?


 ……けど、さっちゃんはものすっごく可愛いから、顔にちょっとぐらいのキズがあったとしても全然……。


 それにさっちゃんは他の誰よりもダンスの才能があって、運動神経だって飛び抜けてるから、少しぐらいリハビリに時間が掛かったとしても影響なんてほとんどないだろうし~……。


 それどころか逆に、誰よりも早いペースでリハビリを終わらせて、それでまた病院の先生からもスゴイって――。


 と、私がそんなことを考えていた中――。


「――――」


「ちょっとそれ、取ってくれる?」


「――……え?」


 声を聞いた瞬間わかった。


 今のさっちゃんは何だかすごく機嫌が悪い……――っていうか空気が怖い。


 けれども、今のさっちゃんの言うことを聞かないわけにもいかず、言われた通りに鏡を手渡す。


 続けて、さらに――。


「ねぇ、ふえるちゃん。 顔のガーゼ、外してもらえる?」


「ちょっとめくるだけでいいから……お願い」


 目覚めたばかりのさっちゃんからのお願い……そんな願いを私が断れるはずもなく、少しだけガーゼをめくってみせる。


「――――」


 空気が一段と張り詰めた気がした。


「――――」


「……私の手足のこと、何か聞いてる? 正直に答えて」


 こうして聞こえてくるさっちゃんの話し方は、表面上いつも通りに聞こえる。


 けど、何故か同時に――有無を言わせない強制力のようなものが感じられ、私は前に先生から聞いた通りの、ありのままのさっちゃんの状態を伝えるしかなかった。


「………」


 ――それから、二人の間に流れる沈黙。


「ゴメンなさい……ゴメンなさい……。 本当に、ゴメンなさい……」


 無言の圧力に耐え切れなくなった私が、申し訳ないと思う気持ちを込めながら何度も頭を下げ、謝る。


 そうして謝っている途中、何かの違和感に気付く。


 ――違う……。 これって、絶対に違う。


 せっかく目覚めてくれたさっちゃんに、これ以上つらい思いなんてさせたくない。


 そうだ……私はさっちゃんの目が覚めたら話したいことがいっぱい、いっぱいあって……。


 ……ううん。 それより何より、さっちゃんにまず最初に言うべきことが――。


「――――」


「悪いけど……少しだけ一人にしてもらえる……?」


 ……え? こんな状態のさっちゃんを一人に?


 そ、そっか……。 さっちゃんだって、心を整理する時間も必要だよね……けど、その前にひと言だけ――。


「あ! あのっ! さっちゃん、私ね――」


「――ふえるちゃんっ!!」


「一人にしてって……私、そう言ったよ?」


「――――」


 泣きそうだった。


 あんなに怖くて迫力のあるさっちゃんと対峙したのは初めてで、私は言われるがまま外に出るしかなかった。


「――――」


「………」


 私はさっちゃんの病室のドアに背を向けたまま……。 そこで立ち止まって考える。


 私、決めてたのに……。 さっちゃんが目を覚ましたらすぐ最初に――『ありがとう』って……そう伝えようって、ずっと思ってたのに……。


 それなのに私の口から思わず出てしまったのは、ゴメンなさいという言葉の繰り返しで、傷付いてるさっちゃんにさらに悲しい顔をさせてしまった……。


 ――違う……っ。


 遅くない……。 今からでも戻ってさっちゃんにちゃんとありがとうって言わないと、きっと私はこれから先、一生後悔する。


 今のさっちゃんと直接向き合うのは確かに怖い……――でもっ!


「……―――っ!」


 なけなしの勇気を振り絞った私はそこで振り返り、すぐさま後ろのドアに手を掛けようとした、その瞬間――。


『――~~~~~っ!!!!』


 聞こえてきたのは、さっちゃんの魂そのものが震え上がったかのような――そんな、心からの泣き叫ぶ声。


「―――っ!!!」


 瞬間、心臓をナイフでメッタ刺しにされたかと思った。


 ――ううん……。 その後で出血多量になって死ねない分、ナイフの方がマシだったのかもしれない。


 とてもじゃないけど……今から、病室に入れるハズもない……。


 おそらくさっちゃんは、自分がもうアイドルになれないって……それで自分の夢を諦めたんだ……。


 でなきゃ、あんな……。


 私の……私のせいでさっちゃんは絶対になれた、絶対に諦めたくなかった自分の夢を……っ!


「~~~~っ!!」


 私の両目からポロポロと涙があふれ出し――。


「――………っ!」


 それと同時に自身の心に強い意志が宿り、キッとなって正面を向く。


 これから先に進む、私の歩むべき人生が決まった。


 あの時、あそこで死んで終わりになるハズだった私の命……。


 こうして救ってもらった、この命……。 これからはその命の全部をさっちゃんのことだけを考えて、さっちゃんのためだけに使う……。


 そう決めた。


 そのために、私がすべきことは――。


「――――」


 次の日のお見舞い。


 私はさっちゃんの前で初めて――というか、家族の前でも見せたことのない異常なほどのハイテンションでこれまであったことや学校でのことを話し掛け続けた。


「――――」


 次の日も、その次の日も、私は常に明るく元気に話し掛け続け、少しでもさっちゃんに笑顔になってほしくて、おどけて変なコトもしたりした。


 そして、肝心のさっちゃんはというと、最初の頃に少しだけあった口数も徐々に減っていき……ある日を境に、それがとうとう完全にゼロになってしまった。


 それから、私はさっちゃんのお見舞いが終わる度、必ずトイレに寄り――。


「――――」


 そこで戻した。


 すっごく苦しいし、変なニオイがトイレに残ってしまったらゴメンなさいと思いつつも、これがさっちゃんの幸せな未来や笑顔につながっていると思うといくらでも頑張れた。


「――――」


 私の食事の量が明らかに減った。


 常に食欲がなくなり、ある一定量を超えて食べるとすぐにお腹を下してしまうようになった。


「――――」


 最近になって口数がゼロになったさっちゃんから、今度は表情すら失われていき、完全な無反応状態に近づいていく。


 それでも私は今までと変わらず――いや、これまで以上のハイテンションになってさっちゃんの前で明るく振る舞う。


 そんな日が、何日も……何日も続いた……。


「―――っ」


 トイレの洗面台でえずくけど最近は胃液しか出てない。


 食事だって、日に1、2回のスープになっていた。


「………」


 洗面台の水を出しっぱなしにしたまま……鏡に映った正面の自分を見つめる。


「――――」


 ひどい顔だった。


 頬骨が浮き立つほどに痩せこけ、目には大きなクマ。


 顔色はまるで病人のように青白く、血色だって悪い。


 これは受けるべき報い……罰なんだからしょうがないと、鏡の中の自分にそう言い聞かせる。


 ……ん?


 いま当たり前のように浮かんだ自分の考えに、ふと疑問を覚える。


 ――あれ? 違うよ?


 これは私がやらなきゃいけないって、自分で考えて選んだ道で……。


 うんうんと、確かめるように何度も頷き、あらためて自分の意思を再確認する。


 私の思考に、心に――あってはならない亀裂が走り、それが徐々に私の心をむしばんでいく……。


 そのことに、私自身が気付けずにいた。


「――――」


 今日は日曜日で天気も良く、いつも通りさっちゃんの車イスを元気に押しながら病院の中庭を一緒に散歩していた。


「さっちゃ~ん、今日はすっごくいい天気だよ~! 大丈夫~? 暑くない~?」


 こうしてさっちゃんに話し掛けている間に、ふと思い出す。


 そうだよ……私の考えは、最初からずっと変わってない……。


「………」


 まぁ、でも……確かに? 私がこれだけ尽くしてあげてるんだから、さっちゃんだってちょっとぐらい――。


「――――」


 ……あれ? 尽くしてあげてる……って、何?


 ――違う、違うよ?


 これは、私の……さっちゃんに対する感謝の気持ちで……。


 私は……さっちゃんのことだけを考えて……これから先も、ずっと――。


「――――」


 そこまで考えた瞬間、私の思考が停止してしまう。


 私は……これから先も、ずっと……。


 ずっと……さっちゃんのため、だけに……。


「―――っ」


 不意に吐き気が込み上げ、口元に手を当てる。


 ……あれ? 今はまださっちゃんのお見舞い中なのに……何で?


 こんなこと……今まで一度も――。


 私の身体がグラッとなって傾き、中庭を通っていた車イスも同じようにわき道に逸れてしまう。


「――……~~~~っ!」


 私の心が擦り切れ、磨耗し――ついにはそのまま壊れてしまいそうになっていた。


 そんな時――。


「ぅわぁ……」


「――――」


 色を失っていた私の目に光が戻る。


 それは――それこそ数十日ぶりに聞くさっちゃんの声だった。


 ――見ると、さっちゃんは車イスのタイヤで踏み潰されたセミを目にし、それで声を上げたようだった。


 そしてさらに、さっちゃんの口元には薄っすらと……笑みまでも浮かんで――。


「――――」


 それは、真っ暗な世界に閉じ込められた中――わずかな隙間から射し込んできた、輝く天上の光だった。


 これまで何をどうすればいいのか、何をしたらいいのかさえ全くわからなかったけど、ようやく一つの方向性が見えた。


 そっか……さっちゃんは、こういうのが好きだったんだ……っ!


「――――」


「で、でもね~!? こ、こうすると――もっと気持ち悪いよ~っ!!」


 車イスのタイヤに轢かれ、まだピクピク動いていたセミを嬉々として踏みつけてバラバラにし、さっちゃんに見せつける。


「――――」


 やっぱり……っ! またさっちゃんが笑ってくれた……っ!


 これまですっごく虫が苦手な私だったけど、そんなのはもう関係なかった。


 笑うさっちゃんにつられて自然と私にも笑みが浮かび、その瞳の奥に希望の光が宿る。


「――――」


 ――しかし……。


 その光がイヤにギラつき、鈍い輝きを放っていることに、その時の私は気付けずにいた……。


「――――」


 私の目指す方向性だけはわかったけど、それを実現させる方法がわからない。


 こんなこと、誰にも相談できない……というより、相談に乗ってくれる友達がそもそもいない。


 だから私は一人で悩み、一生懸命考える……。 ――それしかなかった。


 そうして、考えて、考えて、考え抜き――その結果、私の一番大好きなマンガでアニメ化もされた『ルックド・ワールド』。


 その主人公の『フォン』にいつも意地悪してくるいじめっ子の『イリス』。


 その『イリス』になりきって行動してみようって、そう思った。


 車イスから松葉杖になったふえるちゃんが退院し、学校に戻ってくるのがちょうど明日から。


 だったらちょうどいい。 私も明日から生まれ変わったつもりで自身を変えてみようと、そう決意し――迎えた次の日。


「――――」


「――……~~~~っ!」


 朝のホームルーム前、おはよ~と みんなが穏やかに挨拶する中、私は心臓が口から飛び出しそうになってた。


 寒くもないのにカタカタと身体が勝手に震え出し、周囲の音がやたらと大きく、耳に響くような感じで聞こえてくる。


 けど――心の負担はさっちゃんの時ほどじゃない。


 吐き気だってしないし、胸だって苦しくない。


 だったら何の問題もない。 ――大丈夫。


「――――」


 そう思った瞬間、スッと私の目が細まって身体の震えも消え、そのまま普通に立ち上がる。


 そのまま――クルッと回れ右し、振り返る。


「――――」


 こうして、一度動き出した身体をもう止めたくなかった。


 多分、一度でも止まってしまったら私はそこで考え、意識してしまう。


 だから、そうならないためにも私は止まらない、動き続ける――。


「――――」


 歩いてすぐ、最初に私の目に入ってきたのは鳥間さんだった。


 彼女とはほどんど話したこともないけど、このクラスでいつも目立ってる少し気の強い子で――。


 ――考えるな、止まるな。


 後のことなんてこれから行動を起こした、その後で考えればいい。


「――――」


 少しも止まることなく、一直線に向かってきた私に気付いた鳥間さんが、隣の子としてた会話を中断させ、こちらの方を向いた――その瞬間。


「―――っ!!!」


 バシン! と、その頬をいきなりビンタした。


 その直後――。


「何ですの、その目つきは! 私に何か言いたいこと――文句でもあって!?」


「それとも私にケンカでも売ってますの!?」


 我ながら、とんでもない言いがかりだった。


 鳥間さんの頬をいきなり全力でビンタし、さらに暴言まで……。


「――んなっ!」


「―――っ!!!」


 とっさに何かを叫ぼうとした鳥間さんに有無を言わさず、逆の頬をもう一度ビンタした。


 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――。


 心の中で何度謝ってもまだ足りず、同じ言葉をひたすら繰り返す。


「――――」


「アナタ程度を退学にするくらいワケないんですのよ!?」


「――不愉快ですわっ!!!」


 さらに子供同士のいざこざに親の権力を振りかざして相手を泣かせ、よくわからない捨てゼリフを吐いて教室を出ていく。


「――――」


「――――」


「………」


 人として最低の行為をした――と、そう思った。


 たどり着いたのは病院の時と同じ……トイレの洗面台だった。


 さっちゃんに比べたらこんなの、って思ってたけど全然違った。


 自分勝手に振る舞い、他人を傷付ける、というのがここまでキツイだなんて思いもよらなかった。


 たとえ演技だったとしても、生まれて初めて人を叩いてしまった。


 それも、手加減なしの全力で……。


「……――~~~~っ!」


 ガクガクとなり、今さらになって腕の震えが止まらない……っ。


 両目に涙があふれて、吐き気だってする。


 その時――。


「――――」


 カタンと後ろから音が聞こえ、人が入ってきた。


「―――っ」


 見られた!?


 こぼれ出る涙を拭っていた時の、ちょうどそのタイミングだった。


「――――」


 鳥間さんだった。


 その鳥間さんとまともに目が合ってしまい、思考も止まってしまう。


 もしかしたら今のを見られたかもしれないって思ったけど、そんなのは関係ない。


 もう一度……これから先何度だって、あの『イリス』を演じ続ければいいだけだっ。


「一体何ですの!? こんな所まで来て……」


「私に何か文句でもあるんですの!? それともまだ叩かれ足りない!?」


「………」


 続く沈黙が痛い。


 今の声が震えてたかもしれないし、泣いてた涙のあとを見られてるのかもしれない。


 たとえ、そうだとしても――。


「っ! ……――どきなさいっ!!」


 今さらこの自分を変えるわけにもいかず、怒号で無理やり鳥間さんを立ち退かせ、その場を立ち去っていく。


 そうして早足で歩いている途中で気付く。


 そういえば……こんな私を見て、さっちゃんはどんな顔してたんだろ……。


 この役にのめり込み過ぎて、そんな余裕なんて全くなかった。


 次からは、ちゃんとさっちゃんのことも見てないと……。


 この生き方を始めたのはほんのついさっき。


 それでも、やるべき課題は山積みだった。


「――――」


 それからひと月あまり……。 鳥間さんのことを皮切りに、誰彼構わず言いがかりをつけ、ケンカする。


 私のまわりは信じられないぐらいの敵であふれ、影で私が何て言われてるのかも知ってるけど、そんな中――最初に叩いた鳥間さんとは何故か仲良くなり、友達になったりした。


 友達が一人いるだけでこうも違うのかと、それで気持ちがずいぶんと楽になり、鳥間さんにはだいぶ救われた気がする。


 そして、そんな私を一番近くで見てもらっているさっちゃんからはあの病院一件以来、まともな笑顔を見れていなかった……。


 ……私、は――。


 私は何か……決定的な何かを間違えてしまったような……そんな予感はあったけど、それはまだまだ私が未熟で『イリス』になりきれてないだけだと、そう結論付けて思考を中断させていた。


 それから――さっちゃんと同じ学校を選んで中学に進学した私は、ずっとさっちゃんの隣に居続けた。


 それなのに……いつの間にかさっちゃんは私のことをふえるちゃんじゃなく山鷹さんと呼ぶようになり、私もそれに合わせてさっちゃんのことを臼井うすいさんと呼ぶようにした。


 それでも私はさっちゃんのことを、心の中ではずっとさっちゃんと呼び続けていた。


 さっちゃんと私はいつも一緒にいる。


 それなのにさっちゃんとの心の距離がどんどん遠くなってしまっている……。 そんな感覚だけが拭い切れず、どうしても消えてくれない……。


 それから、何故だか鳥間さんがいつの間にか同い年の私をおねえさまと呼ぶようになっていて、それに対して私は変わらずに――鳥間さんと返し、これまで通りの態度で接した。


 中学三年になっての進路調査――鳥間さんと協力しながら調べたさっちゃんの進路先は、この中学からかなり離れた所にある見桜けんおう女子高等学院だった。


 このまま離れ離れになるのは耐え切れないと判断した私は、すぐに自分の進路先もさっちゃんと同じ見桜学院に変更した。


 そんな話をしてた時の鳥間さんはやたら機嫌が悪かったような気がしたけど、それでも結局は進路先を私と同じ見桜学院にしてくれた。


 高校に入学してすぐに判明したのは、どうやらここは運動に力を入れている学院らしく、私はともかくさっちゃんは大丈夫なのかと少し心配になった。


 そして、その心配は別の意味で当たってしまった。


「――――」


「ねぇねぇ、ふ――山鷹さん、さっきのすごかったね~」


 本当に珍しく、さっちゃんの方から一方的に私に話し掛けてきた。


 さっちゃんの話すその内容は、昼休みに戦っていた剣王と天西先輩との戦いについてだった。


 ――確かに、退院後のさっちゃんはまるで人が変わったように誰とも関わろうとせず、ずっと暗いままだったけど、それから小中高とずっと一緒だった私の前ではある程度の普通の会話が成り立つぐらいまでには明るくなっていた。


 明るく――とは言っても、昔のさっちゃんと比べるとそれこそ天と地ほどの差があるけど、それは私にとってどうでもよく、私にだけ特別な顔を見せてくれるさっちゃん。 それが一番重要なことだった。


 普段の私とさっちゃんとの会話は私の方から一方的に話を振るばかりで、さっちゃんはそれを聞きながらコクリと頷き、たまにそうだねと返してくれる、それが特別だったのに~……。


 しかも、新たな剣王の素顔が戦いの中で一度も見えなかったこともあって、実は本人はすごい美人だとか、そんなウワサが勝手に一人歩きしてたりで~……。


 確かにクラス中がこの話題で持ち切りで、さっちゃんが気に掛けるのもわかるけど……何か……何だかなぁ……っ!


 そう考えている間にも続いていたさっちゃんの話を聞きながら、顔の眉間に寄せたくもないシワを寄せてしまう私だった。


 次の日――その話題騒然の剣王・天西先輩の戦いが今日も開催されると聞いて、さっちゃんが直接会場に行きたいと言ってきた。


 ……すごく、嫌だった。


 だから私はさっちゃんと一緒に会場に行くフリをしながら、行きたくもないトイレに寄って時間を潰したり、あえて混雑する会場の入り口に誘導したりした。


 その後、試合が見れなくて悲しそうな表情をするさっちゃんを見ながら、私は少しだけ胸を痛め――。


 それから私のことを少し恨めしそうなジト目で私を見るさっちゃんがレアで、ちょっとだけ嬉しかったりしたのはナイショだった。


 そんな日々を過ごしていた中――。


「私も剣道やってみようかな~」


 そう言ってきたさっちゃんの顔を見た瞬間、思わず息が止まった。


 確かに最近のさっちゃんから剣道の話題は毎日あがってたし、武道の盛んなこの学院でそんな考えが芽生えるのもわかるけど、最後に言い終わる間際、さっちゃん……何だか普通に笑ってた?


 いくら以前と比べてさっちゃんの表情がかなり乏しくなったとはいっても、年に数回ぐらいは時折小さな笑顔を見せてくれる。


 けど、さっきのはまるで……アイルドになることを夢見てた、あの頃のような……。


 ――うぅ゛~~~っ。


 眉間に寄っていたシワに加え、口もヘの字になってしまう。


 天西あまにし 鈴音すずね


 教室のテレビ越しに見ただけで、話しどころかその素顔さえ知らないけど、私の中の勝手なイメージでその人は鼻持ちならない嫌な先輩だと、私の心の中でそう認識された。


 そんなことがあってから、また別の日――それは起こった。


 朝からやたらとテンション高く、私にまくし立てるように話し掛けてくる鳥間さん。


 話す中――鳥間さんが封筒から取り出したある紙を取り出したところで状況は一変。


「これから二次、三次と審査は続きますけど大丈夫ですっ!! おねえさまなら絶対合格できますよ~っ!!」


 ともかく、鳥間さんの話す内容はわかった。


 問題、なのは……。


「――――」


 見えたのは、明らかに表情を硬くさせて強張っているさっちゃんの横顔。


 そんなさっちゃんに対し、鳥間さんが――。


「そこの~……臼井うすいさんもそう思いますわよね!」


 と、さらに同意まで求めてきた。


「――――」


 嬉しそうに話す鳥間さんとは対照的に、うつむいたままで表情を歪ませてるさっちゃん。


 それは、痛いほど――それこそまるで自分自身のことであるかのようにさっちゃんの胸の内の苦しみが、私にまで伝わってきて――。


「ゴメン……私、ちょっと……」


 さっちゃんはそのひと言を言い残すのが限界であるかのようにいきなり立ち上がり、教室から飛び出していってしまった。


「~~~~っ!!」


 走り去ってしまったさっちゃんを見た瞬間、私は胸の内から湧き出てくるこの感情の矛先をどこに向けていいのかわからず――。


「鳥間さん……あなたのことはすごく大切なお友達だと思ってますけど、今だけはあなたのことを無性に殴りたくてしょうがありませんわっ!」


 そうやって鳥間さんに八つ当たりするようにして言い放ち、慌ててさっちゃんの後を追った。


 その直後――な、何で!? って聞こえたけど、それよりも今はさっちゃんだった。


 ――鳥間さんに悪気はないのはわかってる。


 事情の知らない鳥間さんはただ私のことを思って、それで私を喜ばせようとしてくれただけなのに……っ!


 鳥間さんに申し訳ないと思いつつも、それ以上にさっちゃんのことが心配な私はさっちゃんを捜すため、必死になって学院内を駆けめぐる。


「――――」


「――すみませんっ!」


 ノックもせずに保健室のドアを開けると保健の先生から渋い顔をされ、シーッと人差し指を口元に立てるジェスチャーをされた。


 トイレから中庭、食堂や体育館に至るまで捜し回り、ようやくたどり着いたのがここだった。


 聞いたところによると、明らかに具合が悪そうだったさっちゃんに声を掛けた先生が軽い診断の後でベッドで横になってもらったところ、すぐに寝息を立てて眠ってしまったとのことだった。


 私はそれを聞いてとりあえず、はぁ~と胸をなで下ろすと、そのままペタリとなって床に座り込んでしまった。


 そんな私を見てあきれ顔になった先生が、もうとっくに一限目の授業が始まってるから早く行きなさいと言って笑いながら私を送り出した。


 それから――休み時間のたびに様子を見にいった私だったけど、さっちゃんの状態は変わることなく、そのまま眠り続けていた。


「――――」


 さっちゃんは……放課後になっても、眠ったままだった。


 先生が言うには、昼休みにちょっとだけ起きて、その時に少しだけご飯も食べたらしいけど、それから一度も起きていないとのことだった。


「――――」


 そして、教室から持ってきていたさっちゃんのカバンをベッド横の丸イスの上に置き、そこで自然と思い出してしまう。


「………」


 私の脳裏に浮かんでくるのは、あの病室で眠ったままの……意識の戻らないさっちゃんの姿……。


 ――けど、今はその時と状況が違う。


 おそらく、このまま私が普通に近づいて身体を揺さぶれば、さっちゃんは問題なく目を覚ます。


 ……けど――。


 泣き疲れて……まるで子供みたく寝てる今のさっちゃんを無理やりに起こすような真似――私にはできないし、したくはなかった……。


 それに……さっちゃんだって、目を覚まして最初に見るのが私の顔だったりしたら、きっと嫌だろうし……。


 とはいえ、そのまま帰ることなんてできない……かといって保健室の中にもいれず――。


「――――」


 結果――保健室のドアの前でさっちゃんが起きてくるまで待ち続けるという、中途半端な形を取ってしまう私だった。


「――――」


「………」


「何でしたら、私が直接行って叩き起こしてきてあげましょうか~?」


 私の横でそう話しているのは鳥間さん。


 ここで一緒に待ってる必要はないと何度言っても聞かず、その度に鳥間さんの顔が不機嫌になるだけで、一向に先に帰ろうとしない。


 確かにそれで私も退屈しないで済んでるけど、全く悪びれた様子も見せずにさっちゃんのことを話す鳥間さんに、多少のいきどおりも感じてしまう。


 全く……元はと言えば、誰のせいでこんな……。


「――――」


 そう思っていたところでガラッと、急に開かれた保健室のドア。


 ビクッとなって身体が硬直したけど、すぐに行動を起こす――。


「う、臼井うすいさん!? か! ――お身体の方は大丈夫ですの!?」


 お嬢様言葉が一瞬怪しくなりながらも、それでも無事に目を覚ましたさっちゃんがこうして保健室から出てきてくれた。


 それだけで、私にとって充分だった。


「ゴメン……悪いけど、私帰るね……」


 ――うん、そうだね……。 まだ少しだけ顔色が悪い気がするけど、これぐらいだったらきっと大丈夫……今日はゆっくり休んで――。


「なっ!! ――ちょっと!! 待ちなさいよ、アンタッ!!」


 私はそれでよかったのに、横にいた鳥間さんが急に激昂した。


「―――っ!!」


 そして、続けざまにさっちゃんの肩をつかんだ鳥間さんを見た瞬間――ケンカになる、そう直感した私――……だったけど。


「――――」


 急に口を閉ざした鳥間さんが、何やらさっちゃんに身を寄せながら鼻をスンスン。


 ん? ちょ、鳥間さん? アナタちょっと近すぎじゃない?


 そう思いながら、とりあえず引き離そうと近づいたところで――。


「あれあれ~? 何だか、ヘンなニオイがしますよ~?」


「ん~? もしかしてぇ~、臼井うすいさぁ~ん……アナタからじゃないですか~?」


「―――っ」


 そう言いながら嘲笑する鳥間さんの言葉を聞いた瞬間、それで明らかにショックを受けた様子のさっちゃん。


「………っ! ―――っ!!」


 そして、そのさっちゃんひと言も反論することなく、その場から走り去ってしまった。


 それから、ちょうどさっちゃんがいなくなったのを見計らったようなタイミングで――。


「あっれ~? あっ、そっか~クサイって言っても、これって保健室の消毒液のニオイか~」


 そう言っておちゃらけた感じで、ひとりケタケタと笑う鳥間さん。


「――――」


「―――っ!!」


 無言で一閃。


 私の全力の平手打ちが鳥間さんの左頬を捉え、直撃した。


 この性格上、これまで色んな人と衝突してきた私は、感情に直結してすぐに手を出して暴力を振るう――そういった行動パターンが完成してしまっていた。


 そんな――ある意味、誰よりも人を叩くことに慣れてしまっていた今の私。


「――………っ!」


 そんな私が感情を爆発させて放った全力の一撃は相当なモノだったらしく、鳥間さんをそこから二歩ほど後退させた。


「~~~~っ!!」


 ともかく、許せなかった。


 朝の一件は鳥間さんに悪気がなかったからしょうがないって、納得もできる。


 けど、今の――さっきのあれは、たださっちゃんを傷付けただけの……そうするためだけに発せられた言葉だった。


 鳥間さんに何の理由があってあんなことを言ったのかはわからない。


 けど、今はそんなことよりもさっちゃんのこと――。


「――………っ」


 心でそう思いながらも、駆け出した直後につい立ち止まり、鳥間さんの横顔を無言のまま――キッとにらみつけてしまった。


「――――」


「――――」


 あれから、結局……どこを捜し回ってみてもさっちゃんの姿を見つけられなかった私は、おそらく今日のところはそのまま寮の自室に戻ったのだろうと思い、そのまま帰ることにした。


 そして――次の日の朝。


「………」


 ――キョロキョロ、と。


 ホームルームが始まる時間になってもさっちゃんの姿が見えない。


 昨日はずっと具合が悪そうにしてたし、放課後の鳥間さんとの一件もあったから、今日は普通に休みかなと思った。


 それと、いつもだったら私の席で話し込んでる鳥間さんは今日――自分の席に着いたまま……。 私の方からも何となく話し掛ける気にもなれず、そのままホームルームの時間が始まった。


 そして開口一番、担任の先生から告げられた、その内容――。


「えー、何人かの生徒は知っていると思いますが、昨夜遅く……このクラスの臼井うすいさんが寮の浴室で倒れ、意識不明の重態となりました」


「幸いにも現場に駆けつけた寮生の救命処置によって何とか一命を取り留めましたが、そのまま病院へ救急搬送された臼井うすいさんは現在入院中です」


「えー、臼井うすいさん以外でも寮で生活している皆さんはくれぐれも――」


「――――」


 グニャリと、私の世界がナナメに傾き、渦を巻きながら歪んでいく。


 ……え? 倒……れた? 夜遅く、浴室で……!?


 私の胸中が不安で押し潰されそうになってしまうと同時に視界が暗くなってせばまり、一時的にまわりの音までも完全に聞こえなくなってしまった。


「――――」


 そして、次に気付くといつの間にかホームルームが終了していて、正面を向いていた視線の端ではちょうど先生が教室から出ていこうとしているところで、それを見た私は慌ててその後を追いかけた――。


 そして、昨夜は何があったのか、一体何が原因でどうして倒れたのかと、まくし立てるように質問した私だったけど、先生もホームルームで話した以上のことは何も知らないとのことだった。


 私はこのまま早退して病院にお見舞いに行ってもいいかと、すぐに先生確認してみたけど――。


 心配する気持ちもわかるけど、とりあえず命にかかわるような状態じゃないからお見舞いに行くのは授業が終わった放課後にしてくれる? と、たしなめられてしまった。


 先生の言うことはもっともで、私もそれに逆らってまで病院に行く気概はなく、放課後までの長い時間を気が気でない状態で過ごすことになってしまった。


 昼休み――今日初めて話し掛けてきた鳥間さんから、臼井うすいさんのお見舞いに行くのかと質問されたので、私はそれに――もちろん、何で? と答えた。


 私の言葉を聞いた鳥間さんがム~ッとなって顔を歪め、そのまま自分の席に戻っていくのを黙って見送る。


 それを見て少しだけ首をかしげた私だったけど、さっちゃんのことを思うとまた新たな不安が押し寄せてきて、すぐにそれどころではなくなってしまった。


「――――」


 そうしてとうとう迎えた放課後、ホームルーム終了と同時に駆け出した私は、校門を出てからあることに気付き、その場で急ブレーキした。


 そうだ……お花……っ!


 いくら何でも手ぶらでお見舞いに行くわけにもいかない。


 学校のすぐ近くにフラワーショップがあったのを思い出し、そこへと駆け急ぐ。


 そして、そのお店の中に入るなり、カウンターにいた定員さんへひと言。


「あ、あのっ! お見舞い用の花束をお願いしますっ! 予算は、えっと~……――これでっ!」


 私のお財布からまとめて取り出し、カウンターに置いたのはたくさんの五千円札。


 これまで、お母さんから毎月のお小遣いとして五千円ずつもらってきてはいたけど、大抵の場合ほとんど使わず、そのまま財布の中に残ったままだった。


 いま取り出したのは、その半年分ぐらいの私のお小遣い。


 ――もったいないなんて考えは微塵みじんもなかった。


 むしろ、これまでの私の人生の中で最も有意義なお金の使い方したと、そう思った。


「――――」


 そうして花束ができるまでの間、私は腕組みしながら片足をカツカツさせ、落ち着きのない様子で待っていると、店員さんからいきなり――相手は恋人ですか? と笑顔で聞かれた。


「な!! ちがっ! まだ……っ!!」


 全く予期していなかったその質問に私は慌てふためき、とっさに自分自身で何を言っているのかわからなくなってしまいながらも――。


「――と、友達です」


 と、顔を熱くさせながら空いた手の指で髪先をクルクルさせ、すました感じで答えた。


 それからほどなくし、完成した花束を店員さんから手渡された際――頑張って下さいね、と小声で言われ、また顔が熱くなってしまった。


 だから違うのに~と思いつつも――頑張ってはみようかな……と、そんな新たな想いを密かに胸にいだいて気合を入れ直し、病院へと急いだ。


 ここから病院までは、ひと駅も離れてない。 バスの待ち時間やタクシーを捜す時間すら惜しいと感じた私は、このまま走って病院を目指すことにした。


「――――」


「――さちっ!!」


 そう叫んですぐ、思わずさっちゃんの名前をそのまま口にしてしまったことに気付いた私だったけど、それはどうでもよかった。


 それより今は――と思いながら病室を見回すと、ベッドで横になってるさっちゃんのすぐそばに……何だか、やたらと綺麗過ぎる美人さんがいた。


「――――」


 着てる服を見る限り、さっちゃんと同じ入院患者のようだけど、横で寝てるさっちゃんとのツーショットがすごく様になっていて、思わずどこかのモデルか芸能人かと思い、とっさにカメラを捜してしまったほどだった。


 それはともかくとして、彼女……今、寝ていたさっちゃんに近づいて、何か触ろうとしてた……?


「……どなたですの?」


 口調をとどとげしくさせながらにらみつけ、警戒心MAXの状態で彼女に話し掛ける。


 そんな私の言動に対し、彼女は余裕の態度で――。


「この子とは……まぁ、きずりの関係で、名前だって知らないけど、これまで百回ぐらい唇を重ねた間柄だよ~?」


 と、まるでさっちゃんの頭に触り慣れたかのような自然な動きで、優しくその手が乗せられた。


「――――」


 それを見た瞬間、私の腰から下の力が抜け、その場にペタンと座り込んでしまい――。


「――ぅ……」


「うわああああああっ!!!」


 全く感情を抑え切れなかった。


 小さな子供――ううん、まるで赤ん坊になってしまったかのようにあふれ出る涙と泣き叫ぶ声が止められない。


 だって、こんなの無理っ! 絶対に勝てない……っ!


 こんな……あまりにも現実離れした美貌を持つ女性と比べたら、私なんて道端の石ころだ。


 さっちゃんはこんな綺麗な人に選ばれた、特別な存在になったんだね……。


 よかったね、って――私はそう言って祝福しないといけないのに……。


 涙が全然止まらないし、泣く度に嗚咽おえつだって漏れ出てしまう。


「……え!? ――ちょっ! ウ、ウソッ!? ゴメンッ!! ウソッ! ウソだってばーーっ!!」


 目の前の美人さんが何か叫んでる。


 それは私を泣き止ませるための言葉だったらしいけど、私が大声で泣いてるせいでその声がなかなか耳に届いてくれず、それで彼女の声まで大きくなってしまうという悪循環におちいっていた。


「――――」


 それから……ようやくして落ち着いた私は彼女の話が誤解であったことを知り、その後であらためて自己紹介し、彼女の名前も知ることができた。


 彼女、天西 鈴音さんが言うには……――って、あれ?


「天西って……あの天西 鈴音先輩ですか?」


「――――」


 その後――天西先輩がさっちゃんと唇を重ねたのは本当だと聞き、また泣き出したりもしたけど、それでもなるべく冷静になるように努めながら話の続きに耳を傾ける。


 聞いてる内に判明したのが、どうやら朝のホームルームで先生が話していたさっちゃんを救ってくれた寮生というのが、この天西先輩だったようで――。


 さらに詳しく事情を聞いていく内、私の表情が戸惑いのモノから驚愕きょうがくに変わっていく。


 彼女の話す内容……そのほとんどが、あまりにも私の常識から逸脱し過ぎていた。


 特に――別の階からさっちゃんの異変に気付いて部屋のドアを破壊した、っていうくだりはもう意味がわからなかった。


 けど……こんな信じられないような話を聞きながらも、私は不思議と彼女が嘘をついているとは思えず……――というより、彼女が嘘をついているという、その発想さえ頭の中になかった。


 彼女は間違いなく本当のことを言っていたのがわかったし、何より漂う空気というか、身にまとっている雰囲気がとても親しみやすく、とても好感が持てた。


 天西 鈴音は鼻持ちならない嫌なヤツ。


 勝手にそう決めつけてしまっていた過去の自分を殴りたい……だって――。


 先輩は、私の世界の全て……さっちゃんを救ってくれた命の恩人なのだから……っ!


「――――」


 次に気付いた瞬間、私は床に頭をつけたまま――心の底から何度も先輩にお礼を言っていた。


 と、ちょうどその時――。


「――ん~……」


「――――」


 心臓が止まるかと思った。


 そういえば私、さっちゃんの寝てるすぐ近くで話してたんだった……っ!


「―――っ!」


「オ、オーホホホッ!! あら~臼井うすいさん、ようやくお目覚め~? 相変わらずお寝坊さんね!」


 すぐさま『いつもの私』に戻り、さっちゃんの前で高笑いすることで、何とかごまかすことに成功。


「あの~……ひょっとしたらだけど、山鷹さんの持ってるその花束って……もしかして私のお見舞い、に……?」


 さっちゃんが私の持ってきた花束に興味を示し、上目づかいになって私を見つめてくる。


 ――もちろんっ!!


 心の中でそう叫んだつもりの私だった、けど――。


「っ!! ――は、はぁ!? ど、どうして、この私がアナタなんかのお見舞いにわざわざ来なければならないの!?」


 私の口からつい出てしまったのは、それとは真逆の――そんな言葉だった。


 わ、私のバカ~ッ!!


 そうやって怒ったような演技を続けながら、さっちゃんと――私のことを応援してくれたあの店員さんに、心の中でゴメンなさい~と謝ってしまう私だった……。


「――――」


「――――」


 その一週間後……。 結局、私はあれから一度もさっちゃんのお見舞いに行くことができず、そのまま普通に退院してきたさっちゃんが登校してきてしまった。


 だって……よく考えてみたら、さっちゃんと病室で二人っきりになって話し込むだなんて、どんな顔で何を話したらいいのか全然わからないし~……。


 せ、せめて一緒に鳥間さんでもいれば――。


 ……って、あれ?


 何だか、その鳥間さんとさっちゃんの様子が……。


 上手く説明できないけど、何だかすごく空気が悪いような、そんな感じが……。 そう思いつつも、さっちゃんと会うのが久し振りだったせいもあって、前からそうだったような気もしてくる。


「―――っ!」


 ――けど、どうやらそれは私の勘違いじゃなかったらしく、一体何が原因だったのか、二人の間が一気に険悪になった。


 何事かと思い、とりあえず二人の間に割って入ろうとした、次の瞬間――。


「――――」


「―――っ」


 鳥間さんがまわりの机を巻き込みながら、いきなりさっちゃんに吹き飛ばされてしまった。


 そして、何やら勝ち誇ったような顔をしたさっちゃんが、その鳥間さんを見下ろしていて……。


「何? 山鷹さんだって見てたでしょ? 先に手を出したのは鳥間さんで―――っ!!」


 そう言って悪びれた顔も見せず、むしろ自慢げな表情を見せていたさっちゃんを見た瞬間――。


「―――っ!!!」


 私のこれまでの人生の中、最大級に力を込めて放たれた平手打ちがさっちゃんに直撃した。


「――――」


「~~~~っ!!」


 ポロポロと、流れ出る涙が止まらない。


 ただただ、悲しかった。


「アナタの……その手は……! 何のために……っ!」


「――~~~~っ」


 思い返されてくるのは過去の――……昔の思い出。


「――――」


「――――」


「いつもありがと♪ これからもよろしく~、また来てね~」


「――はい! この手は一生洗いませんっ!!」


「――いや……洗わないと私、友達やめちゃうよ?」


「―――っ」


「ゴメン……ウソだから、たかがその程度で世界の終わりみたいな顔しないでよ……」


『――――』


 ピピッと鳴るアラーム音。


「え~と……それじゃあ、あの……時間? なので~」


「は、はい! わかりました! 絶対にまた来ますっ!! ――それじゃ!!」


 私はそう言って元気にそうさっちゃんの前を通り過ぎ――それから、また少し離れた場所で待機し、順番を待つ。


 ここにいるのは、私とさっちゃんの二人だけ。


「………」


 さっちゃんが、私との間にある微妙に空いた空間を見ながらジト目になる。


「ねぇ、ふえるちゃん……コレ、楽しい?」


「え、何で? すっごく楽しいよっ!!」


「まぁ……ふえるちゃんが楽しいんだったら、私は別にいいけど……」


 言いながら、さっきまで半眼だったさっちゃんの表情が、今度はあきれ顔になっていく。


 こうして私とさっちゃんがやっているのは、ある遊び。


 その内容とは、私がさっちゃんの目の前をグルグルと一周する、ただそれだけ。


 ただ『回る』といっても、動く時間と比べたら立ち止まっている時間の方がはるかに多く、割合でいったら1:9ぐらいで、動かない時間がほとんどだった。


 そして、ようやく待ちに待った時が訪れ、さっちゃんの前へと再びたどり着く。


 それと同時にさっちゃんが料理用のキッチンタイマーをセット。 その設定時間は1分。


 私はその1分の間だけさっちゃんと会話をしてコミュニケーションをとることができる。


 ――そう、これは握手会。


 世界のトップアイドルを目指すさっちゃんの将来のために絶対に必要になると言って私が考えた、アイドルのことを楽しく遊びながら学ぶことのできる、少し私の楽しみ成分が大目だったりする二人だけの遊びだった。


 そんな遊びに気乗りしない感じで参加してるさっちゃんだけど、私知ってるよ?


 私から、さっちゃんは必ず世界のトップアイドルになるから将来絶対に必要になるって言われた時、ちょっとだけ視線を逸らしながら嬉しそうにしてたのを。


「――――」


 そんな遊びをした数日後――。


 その日は学校で少し嫌なことがあって落ち込んで泣いてた私に対し、さっちゃんの方から初めてあの遊びをしたいと言ってきてくれて――。


「――――」


「すごいね、さっちゃん! さっきまで私、あんなに泣いてたのに! 今は何だかもう、すっごく楽しくて笑いが止まらないよっ!」


 握手するさっちゃんの手をブンブン振りながら本当に笑いが止まらず、今度は別の意味で涙が出てきてしまう。


 そんな泣き顔を見られたくない思いから、握手した両手を握り締めたまま――その手の上に頭を重ねてつぶやく。


「さっちゃんの手はね……触れたみんなが不思議と笑顔になってしまう、そんな魔法の手……」


「将来……さっちゃんの夢がちゃんと叶ったら私だけじゃなく、もっと色んな人達を笑顔にしてあげてね……」


 そう言いながらさっちゃんの顔をまともに見れずに照れてしまい、チラッと少しだけ顔を見上げると――。


「うん……わかった、約束するね……」


 目の前のさっちゃんが私の目を見つめ、真剣にそう答えてきた。


「――~~~~っ!」


 私はそんなさっちゃんの本気の想いを、正面からまともに受け止め切れず――。


「――で、でもっ! さっちゃんのファンとして一番最初に握手したのは私で、二番目も三番目も! その次も次もず~っと私なんだからねっ!」


 と、よくわからないことを口走ったりした。


「――――」


「――――」


「アナタの……その手は……! 何のために……っ!」


 くそっ、くそっ、くそっ! くやしい、くやしい、くやしいっ!!


 あまりのくやしさで感情が全くコントロールできず、自分の下唇を思い切り噛んでしまっていて――。


「――――」


「――鳥間さん。 保健室、行きましょう」


 おそらく――このままここにいたら私、さっちゃんに何するかわからない。


 だから、これからどうにかなる前に私の方から動き、この場から離れることにした。


「――――」


 鳥間さんに肩を貸して隣を横切る際、さっちゃんに何か声掛けするどころか、目すら合わさなかった私だけど、こうして保健室へ向かって歩く間も頭に思い浮かぶのは横にいる鳥間さんのことじゃなく、さっちゃんのことばかり。


 私の中にあんなに激しい感情があっただなんて知らなかった。


 ――それと、さっきのあのビンタ……。


 あれだけの強い衝撃だったら……きっとさっちゃんの口の中が切れて出血してるか、あるいはそれ以上の――。


「………っ」


 たとえそうだったとしても、私の方から謝ることはない……――というより、絶対に謝りたくないって、強くそう思ってしまう。


 今の私は鳥間さんに肩を貸している状態のため、次々とあふれ出る涙を自分でちゃんと拭くこともできない。


 これもそれも、何もかもさっちゃんのせいだ。


 ……バカ。


「………」


 そうしてみっともなく鼻を鳴らして保健室に向かっている途中でも、隣にいる鳥間さんは何も言わず……無言のままだった。


 さっちゃんのことなんてもう知らないっ!


 私がそう決めていたのもつかの間。


「――――」


 すぐ別の日に廊下で問題を起こしていたさっちゃんを見た瞬間――ついまた手が出てしまった。


「~~~~っ!」


 それ、だけじゃない。


 前回と同じ……――ううん、それよりもっと酷い状態で……内から湧き上がってくる。


 感情が、全くコントロールできない。


 まるで、私……さっちゃんのことが、すごく――。


『――――』


 そんな状態の中――その私を救ってくれたのは、またしても天西先輩だった。


 どんな方法なのかは全くわからないけど、天西先輩が何かをして私を助けてくれた――そんな漠然ばくぜんとした感覚だけが、不思議と伝わってきた。


 それから――話している内容はよくわからなかったけど、ほとんどケンカしそうになってたさっちゃんを天西先輩が無事なだめ、その場は解散となったようだった。


「――――」


 ――にしても……あの時のさっちゃん、やけに怖かった~……。


 昼休みになって、そんなことを思い返しながら、教室でお弁当を食べていると――。


『――――』


 聞こえてくるテレビの実況から、ある人物の名前がコールされたのが耳に届き、ハシを動かしていた私の手がピタリと止まった。


「―――っ」


 バッと、すぐに振り返って教室を見渡してみたけど、当然のようにその人の姿はなく――。


 いたのは画面の中。


 何、だか……学院の頂点を決めるとされる見桜戦の出場者の中に……――さっちゃんの姿があった。


 さらにどういうわけか、さっちゃんがこの学院の拳王として紹介されていたりもして――。


 ……え? ――え!? な、何!? これってドッキリ!?


 そんなあまりにも突然の事態に混乱しまくりで、固まってしまう私。


 そのまま――私が混乱状態から回復する間もなく準備は整い、見桜戦が始まってしまった。


『――――』


 そして、あのさっちゃんが現剣王の天西先輩と遜色そんしょくのない動きで猛攻を仕掛ける戦い振りを見ながら、私は再度 驚愕きょうがくの感情に包まれてしまう。


 その動きも当然そうだけど、さっちゃん……。 何だか、すごく怒ってる……?


 あんな怖い……感情をむき出しにさせたさっちゃんの顔……。 まるで、さっき見た廊下の――。


『――――』


『……――ふえるっ!!!』


 ――え? ……私?


 続く戦いの中、会場のマイクが一瞬拾ってきた音声は、何故だか私の名前に聞こえた。


 それから――さっちゃんの動きがさらに、さらに速くなっていき――。


『――――』


 その直後、さっちゃんの拳がとうとう天西先輩の顔面を捉えてしまった。


『――~~~~っ!』


 けど、何故か逆に殴った方のさっちゃんがつらく、とても苦しそうで……。


 それでもなお、私の名前らしき言葉を発しながらさっちゃんが動き続ける。


 その声は飛び飛びでたまにしか聞こえてこないけど、今の私にはもうそれが自分の名前にしか聞こえなくなっていて――。


 素人の私が見てもわかる……。


 あんな動き……人が――さっちゃんが持つわけない。


 このままじゃさっちゃんが壊れる……っていうより、死んじゃう……っ!


『――――』


 そう思っていたところで、聞こえてきた実況の声。


『会長~っ! 何ぼさ~っとしてんですか~っ!!』


『前々から戦ってる音声が聞こえないって一部の生徒からクレームきてるんですから、もっと近くに行ってきて下さいよ~っ!』


『――んなっ! ちょいコラーッ!! あの戦いの中にって……――ミケーッ!! アンタ、私に死ねって言ってんのーっ!?』


『会長は何かと運がいいから大丈夫ですってば~♪ ……早くしないとあの秘密、バラしますよ~?』


『――は? おい……ちょ――』


『ホラ~♪ 5、4、3~……』


『う、うわああっ!! 待って! わかった! 行くからっ!!』


『お願いしま~す♪』


『ミケ!! アンタ、ロクな死に方しないわよっ!』


『最高の褒め言葉で~す』


 そんなやり取りが聞こえてから、しばらくし――。


『――――』


『ふえる! ふえる!! ふえるっ!!!』


 聞こえてきたのは、やっぱり私の名前だった……。


 さっちゃん……。 どうして天西先輩と戦いながら、私の名前を何度も叫び続けてるの……?


 その人は天西先輩で、私はここだよ?


『――――』


 それは、錯覚なのか何なのか……。 テレビ画面を通して自分の名前を呼ばれる様を何度も見ながら――私自身がまるで会場の天西先輩になったように感じられてしまう。


『―――っ』


 そして、今まで防戦一方だった天西先輩が急に距離を詰めて向かっていき、さっちゃんの攻撃を抱きとめるようにして身体全体で受け止め、その動きを封じた。


『――――』


 それと同時に、教室全体から沸き上がった黄色い声援。


「―――っ」


 同じく私もその歓声の中心にいながら、まるで目の前にさっちゃんがいるかのように錯覚させられてしまう。


 画面の中にいる映像のさっちゃんと、目の前に見える錯覚のさっちゃん。 その二人の間にはもうへだたりはなく、私の中には映像を見て感じられる以上の情報が伝わってくる。


『~~~~っ!!』


 放った自身の攻撃を止められながらも、さっちゃんの目にはいまだに戦う意思が強く込められていて、その必死の抵抗や息づかい――全身の震えまでもが直に伝わってくるかのようだった。


 そんな中、聞こえてきた声。


『――――』


『――……さっちゃん、ゴメンね……』


『あの時……本当は顔が引きつっただけだったんだよね……?』


『――――』


『今も、私がこうして生きてるのはさっちゃんのおかげだよ?』


『だから、本当に……本当にありがとうっ』


「――――」


「――――」


 世界が……時間が止まってしまった。


「………」


 なん、で……。


 どこから……どうやって、その言葉を引き出したの……?


 さっちゃんから直接聞いて? それとも私達二人の関係を調べて……?


 ――ううん……。 さっちゃんがそれを話すとは思えないし、単純に調べてわかるような内容でもない……。


「――――」


「――――」


 剣王、天西 鈴音……。 アナタは、一体何者なの……?


 強く、美しく……それでいて、力の底がまるで見えず……。


 さらにその言動すらも……人の心の全てを、知り尽くしているかのような……。


「………」


 そして……そんな二人をただ見ているだけしかできない……今の、私って――。


「――――」


『この子、私がもらっちゃうよ~?』


「―――っ」


 ピクッと勝手に腕が震え、不意に頭をよぎったのは、あの時のあの言葉。


 ――そうだ……あれだ。


 病院の……あれが、分岐点だったんだ


 フラワーショップの店員さんからも応援され、せっかく自分の気持ちをちゃんと伝えるチャンスだったのに、私は全然素直になれなくて……。


 それでも……天西先輩が最後の最後に、もう一度だけチャンスをくれたのに、それすらも私は――。


『――そ! そんなの、私いりませんわっ!』


「――――」


 引くべきじゃなかった、絶対に引いちゃいけなかった。


 そうだ……あの時の私は、さっちゃんのことなんて二の次にして――。


 私の知る『イリス』だったらこの場面でこう言うだろう――って……そんな、的外れなこと考えてた……。


 ――そう……私はあの時、自らの手でさっちゃんを手放してしまったんだ……。


 そして……私のもとから離れたさっちゃんは、もう二度と戻ってこない……。


「――――」


 ジワーッと、私の目頭が勝手に熱くなっていき――。


「う……――う゛あああああ~~っ!!!」


 そのままヒザから崩れ落ち、嗚咽おえつを鳴らしながらその場で泣きじゃくってしまった。


 教室内でライブ中継されていた見桜戦はとても素晴らしい内容で、感動して泣いてる人がまわりにちらほらいた。


 私もその内の一人だと思われたのか、そこまで周囲がザワつくような事態になっていなかった、けど。


「――――」


 トンと、軽く肩に手を置かれ、腰に手を回される感覚。 そこからすぐに――。


「おねえさま、立てます?」


「……さ、とりあえず廊下行きましょ?」


 そう言いいながら私の手を取り、一緒に立ち上がるよう促してくれる鳥間さん。


「~~~~っ!!」


 ――反則だと思った。


 悲しみに打ちひしがれ、泣いてる今の私なんかに優しくしたら――。


「うわあああああっ!!!」


 涙腺が崩壊し、もっと泣いてしまうに決まっていた。


「――――」


「……~~~~っ!!」


 それからしばらくの間――鳥間さんに頭を預け、私だけが泣きじゃくる。


「――………っ」


 このまま、こうして……鳥間さんの優しさに甘え続けるのは簡単だけど、それじゃあダメだと思った。


 あの人は……どんな方法で、何のために。


 その手段も、方法も――理由だってわからないけど、天西先輩は私の代わりに私の言いたいことを私以上に伝えてくれて、さっちゃんのことを無事に救い出してくれた。


 だったら、せめて私も勇気を出さないと……っ。


 鼻をぐずつかせながらもいったん身を離した私は、鳥間さんと正面から向かい合い――。


「鳥間さん……あの時は、いきなり叩いてしまって……本当にごめんなさい」


 そうしっかりと目を合わせて言い切り、頭も深々と下げた。


 鳥間さんと友達になって、いつかは言わないといけないと思いながらも、今の今まで言えなかったその言葉を――今日、ようやく言うことができた。


「………」


 ――あ。


 そう思っていたところで、ハタと気付く。


 あの時、叩いたって……鳥間さんにしてみたらついこの間の保健室のことだって思うよね?


 私、さっきまで昔のこと思い出してたからつい……―――っ!


「――――」


 瞬間、目の前の鳥間さんが私との距離を不意に詰め、ギュッと抱きつかれる。


「いいよ、別に……結局はそれが原因で私達は友達になれたんだし……」


「今では逆に、むしろ感謝してるぐらい……」


 と、耳元でささやくように告げられた。


「――………っ」


 また涙が出た。


 鳥間さん、すごいな……。


 何であれだけで私の言いたかったことがちゃんと伝わったんだろ……。


 理由はともかく……今はとっても嬉しい。


「―――っ」


 言葉が出ない代わりに、私の方からも抱きつき返すことで、今の自分の想いを相手に伝えた。


 胸がいっぱいで苦しくなっている中、ここは教室だったことに今さらながらに気付き、チラッと周囲に意識を向けた、けど――。


『――――』


 いまだに教室全体がかなり盛り上がっているような状態で、それで私達と同じように抱き合ってる子達も周囲にチラホラいて、それほど注目はされてなかった――……って、思いたい。


 そのまましばらく経ってから、ようやく心が落ち着き――。


「鳥間さん、これからもよろしく。 ず~っと私と友達でいてね」


 と、私から鳥間さんへの心からの想いを口にした。


「――……うん、もちろん。 私の方こそ、これからもよろしく」


 少し遅れて私に賛同してくれた鳥間さん。


 今の……ちょっとだけ微妙な間があったような気がしたけれど、それでも私の心は全く揺れなかった。


 ――だって、私はもう決めたから。


 というより思い出したから、私が本当に目指していた『イリス』の本質……その図太さと欲深さを。


 だから、鳥間さんが本当は私のことを友達と思っていなく、むしろ嫌っているのだとしても、私は図太く鳥間さんと友達であり続ける。 そうするって自分で決めた。


 そして――どこまでも欲深な私は、さっちゃんのことだって諦めない。


 天西先輩に取られたのならまた取り返してやるんだと、新たなる決意を胸にした。


『――――』


 そんな決意に満ちた私の視線の先が、まだテレビでライブ中継されていた映像を見続けていた――画面の中に映る、あるモノを捉えた。


 クルクル……フワリ――と、ゆっくり回転しながら。


 人の大きさ程度もある、黒い布? のようなモノが天井から落ちてくる。


『――――』


 その数3つ。


 その布が、それぞれ会場の三隅に別れ、別々に落ちていく。


 それはちょうど線でつなぐと三角形のような形で、その中心は会場でまだ倒れたままになっているさっちゃん達だった。


 そして、その3つの黒い布がいきなり――スクッと、同時に起き上がった。


 ―――っ! 人!?


 どうやらそれは黒い布を頭からかぶった三人の人だったらしく、あまりにもゆっくりと落ちてきたように見えたから、中に人がいただなんて考えもしていなかった。


 そして、そのまま立ち上がった三人の人影が同じ速度で三角形の中心……つまり、さっちゃん達のいる方に向かっているようで――。


『――さぁ! 先程までの戦いっ! それは例えるなら、まるで山井出 勝希選手という『姫』のためだけに開かれた御前試合っ!』


『こうして新たに誕生した『姫』の前に、我々は――……お~っと!? これは――』


『――――』


 ――ブツッと、いきなり不自然に途切れたテレビのライブ映像。


「――――」


 教室のみんなは普通にそれで中継が終了だと思ったらしく、今まで向けていたテレビ画面からいったん視線を戻し、そこからそれぞれの感想を思い思いに話すことで、教室全体がガヤガヤと騒がしくなっていった。


「………」


 そんな周囲の喧騒に包まれる中――何故か私はただ一人、捉えようのない不安で心が圧迫され、心臓の鼓動を早まらせていた。

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