第12話 臼井 さちの見た世界 ② 『拳王』

「――――」


 話し声が、聞こえる……。


 一人はいつも聞く山鷹さんの声だけど……何だか、ちょっとだけ懐かしい……?


 ……あれ? もう一人、って……?


 そのことが気に掛かり、薄ぼんやりだった意識を覚醒させながら、ムクリとなって身を起こす。


「――――」


 その瞬間、まるで下からロケットみたく飛び出してきた山鷹さんに驚きはしたけど、まず最初に目に入ったのは手に持っていた大きな花束だった。


「その花束って……もしかして私のお見舞い、に……?」


「っ!! ――は、はぁ!?」


 どうやら違ったみたいだった……。


「だ、大体っ、アナタなんかにこの花を渡したら、逆に花の方がもったいないですわ!」


「―――っ」


 何だろ……こんな会話はいつものことで、普段の私だったら――そっか……のひと言ぐらいで済ませてるところなんだけど……あれ?


 何だか私……少し、頭にきてる?


 まぁ、確かにちょっとショックだったけど、実際にこんな高そうなお花もらったところで、逆に私の方が困っちゃいそうな気が――。


 ……あれ? あまにし……すず、ね……?


「――~~~~っ!!」


 一気に目が冴え、覚醒した。


 私の……――女神さまっ!?


 もちろん山鷹さんの隣にいた女性のことは最初から見えてたし、意識だってしてたけど、半分寝てるような状態だったから、つい夢の延長を見てるような気になってた。


 だってその人は、同じ同性の私から見ても思わず息を呑んで見とれちゃうような――そんな、あまりにも現実離れした美貌と顔立ちで……。


 さらには私と同じ病院着を着てるのに、それすらも着こなして様になっていて……それこそ本当に、物語か何かの世界からそのまま抜け出してきたかのような、そんな……。


 確かに、風のうわさで天西先輩がすごく美人だというのは聞いてはいたけど、それがまさかこれほどだなんて思いもしてなかった。


 悔しいけどこの瞬間だけは、鳥間さんが山鷹さんのことをおねえさまと呼ぶ気持ちが、心の底から理解できてしまった。


 そう……まさに目の前の女神さま……天西先輩は、私にとっての『おねーさま』だった。


 聞くところによると、天西先輩――……ううん、おねーさまは脱衣所で心肺停止状態だった私に気付いて駆けつけてきてくれて、心臓マッサージと人工呼吸をしてくれた私の命の恩人とのことだった。


 そっか……私は、それで……。


 ――って、人工呼吸!? こんな私なんかと!?


「そ、そんなっ! 汚れちゃいますっ!!」


 せめて今からでも――と、慌てて手にしたシーツでおねーさまの口まわりを力を込めて拭き取り続ける。


 その直後――。


「だって~、私ってばさっちゃんを救命する時に、もう百回ぐらい人工呼吸しちゃってるし~」


「――――」


 おねーさまのその言葉を聞いた瞬間、ドクンと私の心臓がひときわ高く鼓動し、胸の奥がゾワゾワッとなった。


 生まれて初めて感じた、その妙な感覚に……私自身、この感情の正体が何なのか答えが出すことができない――。


 ……けど、そんな私の心の状態なんてまるでお構いなしに、おねーさまの顔がみるみる迫ってくる。


「さっちゃんてば、こ~んなにカワイイのに~♪ ね~♪」


「~~~~っ!!!」


 何何何何何~~~っ!!?


 さっきまで気に掛かっていた妙な感覚のコトなんて頭から完全に吹き飛び、心臓がまるで壊れたエンジンのようになって高鳴り続ける。


 おねーさまの身体、すっごくやわらかい~……――っていうよりこれ、香水じゃなくておねーさまの体臭!?


 う゛ぁ゛ぁ~~、何だか脳がしびれて何も考えられない~。


 そんな――様々な感情が脳内からあふれ出し、頭がパンクしそうになっていた最中さなか――。


「――この子、私がもらっちゃうよ~?」


 耳元でそうささやかれた、おねーさまのひと言。


 え? ――え!? え!?


 も、もらっちゃうって、私を!? おねーさまが!?


 さっきから展開が急展開過ぎて、頭が全然――。


「――そ! そんなの、私いりませんわっ!」


「――――」


 ズキン! と、まるで心臓を直接傷付けられたかのような、胸に突き刺さった鋭い痛み。


 ついさっきまで幸福いっぱいの中で無防備な気持ちになっていた分余計に、山鷹さんのその言葉が思った以上に心の奥底まで届き、頭から冷水を浴びせられたような気持ちにさせられた。


 そっか……山鷹さんにとっての私って……所詮、その程度の価値しかなかったんだ……。


「――――」


 そして、まるでそのことを示唆しさしているかのように……私の目の前から走り去り、いなくなってしまった山鷹さん。


 あぁ……これで、私には……もう、何も……。


「………」


 ――違う。 私には、まだおねーさまがいた。


 私に残ったのは、もうおねーさまだけ……。


「――おねーさまぁ……」


 おねーさまだけは絶対に私を見捨てないで欲しいと、必死の想いになってしがみついた両腕にグッと力を込める。


「げ」


「げ?」


 そんな時、私の頭上からおねーさまらしからぬ声が聞こえ、腕に抱きついたままの状態で顔を見上げる。


 見ると――おねーさまは病室の入り口の方を見ながら、何かに驚いているような状態で、私も気になって視線をそちらの方向へ移す。


「――――」


 ――美少女だった。


 おねーさまほどではないにしろ、おそらくスポーツか何かでもしてるのか、年頃の筋肉質な健康美というか、そこに清潔感と清純さも兼ね備えているかのような……そんな美少女、で――。


 ――あ。 そうだ、この子……前に体育の合同授業で一緒になった時、クラスのみんなから注目されて話題になってた、前におねーさまと戦って引き分けたっていう、あの子だ……。


 そして、今はおねーさまと同じ部屋で同棲してるっていう……もう一人の剣王だった。


『――――』


 ドクッ、ドクッと、早まっていく心臓の鼓動が聞こえる。


 ――私からじゃない。 おねーさまの腕に顔を寄せて抱きついている、私の片耳から。


 ? おねーさま、もしかして……あの子のことが怖い?


 そう考えた私が、あの子に合わせていた視線をいったん外し、再びおねーさまを見上げる。


「――――」


 私の目に映るおねーさまは確かにすごく慌てた様子であたふたしていたけど、それでもその仕草はどことなく楽しそうで、さらにはこらえ切れないといった感じで口元に浮かぶ小さな笑みまであふれ出ていた。


 それから……あの子を見つめる瞳の奥に妙な熱が込められているような……――ううん。 それだけじゃなく、両頬に薄っすらと赤みすら差して――。


「――――」


 結論が出た。


 目の前のあの子とは対峙するのは初めてで、会話だって一度もしてないけど……あの子――アイツは敵だ、と。


 そして、何やら急に近づいてきたアイツが気持ち悪い不自然な笑みを貼り付けたまま、私に花束を差し出してくる。


「誰かのお見舞いのつもりで持ってきた花束だったんですけど~。 たった今、何の価値もないゴミに変わってしまったので~」


 言われた言葉の意味はよくからなかったけど、アイツの口から私に向かってゴミと言われたことが無性に腹立だしく感じられ――。


「……ゴミ? あの……それって、私のことがゴミみたいとかって、そう言いたいんですか?」


「――は?」


 どうやら向こうも私の挑発に乗ってきたようだった、けど――。


「―――っ!」


 私はアイツから差し出された花束をあえて強引気味に奪って受け取ってやった直後、アイツの目の前でおねーさまに思いっ切り抱きついてみせることで、その怒りを無理やりごまかすことにした。


「――――」


 それからほどなくし――そのまま何もせずに病室から逃げるように出ていってしまったアイツ。


 それを見て、普通にざまー見ろって思ったけど、おねーさまがすぐにその後を追いかけようとする。


 行ってほしくない! ――行かないでっ!!


 そう思いながら、全力でおねーさまの腕を必死になってつかみ続ける。


 そんな私の本気の想いが伝わったのか、おねーさまはアイツの後を追うことなく、少し困った顔をしながらもここに留まってくれた。


「――――」


 ……けど、それからしばらくした後で、またおねーさまが立ち上がろうとして、その身を動かす。


「おねーさまっ、行かないで!!」


 今度は声に出してしまった。


 あぁ……こんなこと言ったら、またおねーさまを悲しませて、困った顔をさせてしまう……。 けど――。


「――――」


 ……あれ? 私の予想とは違い、おねーさまは何やらその顔を赤らめていて――。


「う~っ! トイレッ!! お花摘みに行くの! わかって~っ!」


 そう言いながら、ブンブンと大きく手を振り、しがみついていた私の手がその勢いでほどけた。


「――――」


 そうして……少しだけ小走りになって、病室の外に出ていくおねーさま。


 さっきまで隣にいたのは、学院の先輩で……剣王で……みんなの憧れ……。 それなのに――。


「~~~~っ」


 反則です……おねーさま……。


 同性の私に、ただトイレに行くと伝えるだけで赤面しながら恥ずかしがって、ブンブンと手を振る勢いに合わせて私の手をほどく……。


 その年上らしからぬ子供っぽい振る舞いと純粋さに、私の心は再度わしづかみにされてしまったのだった。


「――――」


 ――けど、その直後。 そんな幸せに包まれていた私の心に水を差す――どころか、粉々に打ち砕くような出来事がこの病室で起こった……。


「――――」


「失礼しまーす」


 そう言いながら軽く病室を見回し、中に入ってきたのは鳥間さんだった。


「――――」


 何というか、すごく失礼だけど……意外だった。


 ……確かに、鳥間さんと山鷹さんはとても仲の良い友達だけど、私と鳥間さんは友達の友達って感じで、山鷹さんが席を外して二人っきりになると途端に会話もなくなってしまう。


 前の保健室での一件もあったし、てっきり私は鳥間さんに嫌われてるとばかり思ってたんだけど――。


臼井うすいさん、倒れたって聞いたけど大丈夫~?」


「これお見舞いのお花~。 よかったら飾って~♪」


 そう言って――すごくいい笑顔で笑う鳥間さんを見ながら、私は心の中で少し申し訳ないような気持ちに……。


 ――ならなかった。


 鳥間さんが笑顔で私に渡そうとしていた花は、『椿の鉢植え』だった。


 鉢植えは病院に根付くということで縁起が悪く、椿の花も花が散るときに首が落ちてしまうということで、同じく縁起が悪い。


 入院のお見舞いに持ってくるには最悪の組み合わせ――というより、椿の鉢植えなんて普通の花屋においてないだろうから、わざわざ植木屋さんとかで――。


 そう考えていた矢先、鉢植えを持ったままにこやかな笑みを浮かべていた鳥間さんの表情が一変。


 目つきは鋭く、口元もきつくなって歪ませる。


「――ねえ……何? 私のお見舞いのお花……受け取ってくれないの?」


「……え? う、うん……それじゃ――」


 今の鳥間さんの機嫌を損ねるのはあまりよくない……――というか危険だと感じた私は、ビニール袋に入れて差し出されていた鉢植えに普通に手を伸ばし――。


「――――」


 その手が――フッと、空を切った。


 ――見ると、急に両手を下ろしていた鳥間さんが歯を食いしばり、全身をブルブルと震わせていて……。


「――ねぇ、見て……? 私のココ、すっごく赤いでしょっ!?」


 そう言いながら、自身の左頬を指差す。


 ――確かに赤い……けど、すごくというよりは、よーく見ると少しだけ赤いといった感じだけど……。


「何か私ぃ~、アンタのこと正直にクサイって言ったら、あの後おねえさまに思いっ切り叩かれたんだけどーっ!」


「アンタのせいで、もしおねえさまに嫌われたらって、そう思うと……それだけで、すっごく頭にくるっ!」


 おねえさま――って……あ、そっか。 それって山鷹さんのことだった。


 たった今まで、隣に本物のおねーさまがいたから、つい……。


 ――にしても鳥間さん……そんな心配なんてしなくてもいいのに……。


 ……確かに、私なんかのために山鷹さんが怒ったっていうのは少しだけ意外だったけど、たかがその程度のことで、これまであんなに仲の良かった二人が今さら仲違なかたがいになるだなんて想像もできないし……。


 そんな――山鷹さんの関係を過剰に心配している鳥間さんの考えが逆に可愛らしく感じられ、思いがけずにクスリと笑みが浮かんでしまう。


「―――っ!!」


 そのことが気にさわってしまったのか、鳥間さんがビニール袋からバッと鉢植えを取り出し、それを持って振りかぶった、その瞬間――。


「――――」


 その動きを、不自然に停止させた。


「………?」


 いや……止まったのもそうだけど、何だろ……。


 ――この、黒い線。


「――――」


 その黒い線はわずかに沈んだ放物線を描いていて……向かって伸びた先は――私の脇に置いてあるマクラだった。


 ……にしても鳥間さん、そこそこ重そうな鉢植えを持って振りかぶったまま、器用に止まったな~。


 それと同時に――どうして? ――何のために? といった単純な疑問も次々と頭に浮かぶ。


「――――」


 ……あれ? 見間違いかとも思ったけど、どうにも違うようだった。


 動いて……る?


 例えるなら、テレビとかでたまに見るスローモーションの映像……それに近かった。


 こうして動きがゆっくりに感じられるのって、もしかして一部の限られたスポーツ選手がたまに経験するゾーンとかっていう状態だったり?


 う~ん……けど私、これまでスポーツとか特にあんまりやってこなかったしなぁ……。


 もしくは鳥間さんが何か私をからかおうとして、それでワザとゆっくり動いてる、とか……?


 ……うん。 何だか、その可能性が一番高い気がする。


 けど……仮にそうだとすると、次に問題なのは何のためにそうしてるか、ってことになるけど~……。


 う~ん……。


 ――あ。


 そんなことを考えていた間、鳥間さんの手から離れていた鉢植えがいつの間にか私の横にあるマクラの中心に、吸い込まれるように命中していて――。


 その次の瞬間、ありえない現象が起きた。


「――――」


 上から下から――窓から差し込む光によって、大小様々な大きさの粒子がキラキラと反射しながら、細かな輝きを放つ。


 そんな……あまりにも非現実的な現象に目を奪われてる中――それは鉢植えから飛び散った土なんだと、しばらく経ってから気付いた。


 こん、なの……鳥間さんが私をからかうためのイタズラってレベルじゃない。


 その限度を越えてるし、何よりも説明がつかない……。


 ――これって……一体……。


 周囲に飛散し、広がっていく土の粒子に見とれていた間に、放たれた鉢植えはいつの間にか私の後ろの壁に迫っていて――。


「……―――」


 壁にぶつかって聞こえてくる音も、妙に間延びした感じの変な音になって耳に届く。


 そうして壁に跳ね返ったプラスチックの鉢植えが、そのまま床へ――。


「――――」


 今度は普通の音だった。


 直後――パラパラと、まるで小雨のような音を鳴らしながら、飛散した土がベッド上に広がっていく。


 間違いなかった。


 たった今――ついさっきまでの私は、1秒を何秒にも感じるような……まるで奇跡のような瞬間を体感していた。


 先ほどまでの……土が舞い広がっていく幻想的な光景が目に焼き付いて離れず、私がぼ~っとなっていると――。


「――~~~~っ!!」


 いつの間にか激昂した鳥間さんと目が向かい合っていて――。


「――死ねっ!! もう学校来んな!!!」


「――――」


 そんな捨てゼリフを残し、病室から出ていってしまった……。


「………」


 鳥間さんが出ていったドアの方を黙って見つめながら思う。


 いつもの私だったら今の鳥間さんの言葉に強いショックを受けてしばらく落ち込み、そのまま塞ぎ込んでしまったかもしれない、けど……。


「――――」


 今の、私は……。


 ふと気付くと、私は知らず知らずの内に口元に笑みを浮かべていたことに、自分自身で気付いてしまった。


「――――」


 と、ちょうどその時、微妙に気恥ずかしそうな表情をしたおねーさまが病室に戻ってきた。


「さっちゃん、たっだい~……――って!! どうしたの!? この惨状は!?」


「――あ。 おかえりなさい、おねーさま」


「あ~……いえ~、さっき私のお友達がお見舞いに来て、お花だけ置いて帰ったんですけど、それをそこの小物棚の上に置こうとしたら手を滑らせてしまいまして~……」


 慌てることなく、驚くほど冷静にスラスラと出てくる自分の言葉に、逆に驚いてしまう。


 その後で、ベッドや床を土まみれにして申し訳ないという気持ちを表情に出し、おねーさまの顔を見つめる。


「――――」


 あれ……? おねーさまが不機嫌……というか、何やら怒ってるような顔をしていた。


 ……もしかして、私がいま話した内容にどこか不自然な点でもあって――。


「――ちょっと!! さっちゃんってば、昨日心臓が止まってたんだよ!! ダメじゃないっ、ちゃんと安静にしてなきゃっ!!」


「何考えてんの~!? 全く……も~……」


 そう叫びながら全身を脱力させ、息を大きく吐き出すおねーさま。


 おねーさまのその瞳からは、私のことを本気で心配する真剣な想いが伝わってくる。


「あ~もう~っ! シーツから、服から~……頭の上まで土ついてるし~、ケガとかしなかった~? 大丈夫?」


 そう言いながらおねーさまが私の身体を気遣って優しく、ほとんど撫でるような動きで土を払ってくれる。


「――いよっ、と」


 おねーさまがいったん私から離れ、土まみれになったシーツを一気につかむと、手慣れた動きで立ったままシーツを四角く折りたたんでいく。


 私がその手際のよさに、ぽ~っとなって見とれていると――。


「――――」


 次の瞬間――フワッとなって、私の重力がいきなり消えた。


「さっちゃん軽いね~、ちゃんと食べてる~?」


「え? え? え? あわわわわ~っ!!」


 気付くと私はいつの間にかおねーさまの両腕に抱きかかえられたまま――俗に言うお姫様抱っこをされている状態で、それで一気に慌てふためいてしまう。


「――――」


 胸の中で暴れ続ける私に全く動じることなく、そのまま歩みを進めていたおねーさまが自分の使っていたベッド横で立ち止まると、その上に優しく下ろされ――。


「――………っ」


 その直後――私の顔まで覆い隠すような形でシーツもかぶせられる。


「――――」


 その瞬間、ブワッと胸いっぱいに広がったおねーさまの匂い。


 う……わ……っ。


 や、ばい――これ……もう麻薬、だ……。


 頭がクラクラ、視界だってチカチカとなって点滅し、もう何も考えられなくなってしまう。


「いーい~? さっちゃんは、絶対にここで大人しく横になっていることっ!」


「後の片付けは、私と病院の看護師さんとでやっておくからっ。 わかった~?」


「――は……はい~……。 ――って! い、いけません、おねーさまだって、私と同じ入院患者じゃないですか」


 思わず肯定しそうになってしまった私だけど、すぐにハッとなってまともな思考が少しだけ戻る。


「ん~? 平気平気~。 私の場合、さっちゃんと同じ入院っていっても、念のための検査入院らしいし~」


「そ・れ・よ・り~。 さっちゃんはぜ~ったいに大人しく安静にしてることっ!」


「言うこと聞かなかったら私、本当に怒るよ~っ」


 そう言いながら片頬を膨らませ、怒るような仕草を見せてくるおねーさま。


 それを見た私は、ちょっとだけ怒られてみたいかも~と、思いつつも。


「わ、わかりましたぁ~……」


 と言いながら、シーツをさらに手前に引っ張り、顔全体を見えないように隠したのだった。


「――………っ」


 ――その瞬間。 私の胸がドクンとうずき、背中もゾクゾクッとなる。


 それは、少し前に感じたあの感覚だった。


 その感覚に妙な違和感を覚えつつも、私のためにせわしく動いてくれてるおねーさまと、その後からお手伝いに来てくれた看護師さんを横目で見ながら、いつしかその意識を手放していった……。


「――――」


 その後――。


 おねーさまの検査入院は五日と思いのほか長く、その間の中で私は――男の人の前で何回も下着姿になったりして、すっごく恥ずかしい~と、顔を真っ赤にしながら話すおねーさまの言動をニヤニヤしながら眺めてたりした。


 憧れのおねーさまと他愛のない話をし、安静して時を過ごす……。


 そんな――まさに夢のような時間は瞬く間に過ぎ去り、おねーさまの退院の日がやってきた。


「それじゃあ私、先に学校で待ってるね~♪」


 私の退院がもう間もなくだと知っていたおねーさまは最後にそう告げ、そのまま退院してしまった。


 退院して学校に戻った後も、私とおねーさまの関係は何ら変わらない。


 そのことがたまらなく嬉しく、おねーさまの退院を笑顔で祝福し、明るく手を振って見送った。


「――――」


 その日の夜遅く、昨日まで隣のベッドにいたおねーさまがいない。


 たったそれだけのことで私の心は妙にザワついてしまい、つい考えなくてもいいことを考えてしまう。


 ――というより、それ以前に……ベッドのシーツを頭まで掛けてるのに、何故だか妙な肌寒さを感じてしまう。


 昼間におねーさまを見送った時に感じてた心のぬくもりなんてとうの昔に消え去り、今はただ冷たく冷え切った風が胸の中を通り過ぎているように感じられる。


「――――」


『――死ねっ!! もう学校来んな!!!』


 聞こえてきたのは、あの時のあの言葉。


「――――」


 思わず目が据わってしまう。


 どうでもいい、関係ない。


 だって……今の私にはおねーさま、が――。


「………」


 ……あれ? 待って。


 おねーさまは友達が全然いない私に対しても、分け隔てなく仲良くして下さったお優しい方……。


 そんなおねーさまが、学校に戻ったら……。


「――――」


 目に浮かんでしまう……学院の中でたくさんの友人達に囲まれ、さらにその周囲にいる生徒からも羨望の眼差しで見つめられる……そんな、おねーさまの姿が……。


「――………っ」


 自然と荒くなってしまう呼吸。


 どうしても思えない……。 想像できない……。


 昨日までのように明るく、病室で楽しく談笑する私とおねーさま。


 それをあの学院の中でもう一度再現させる……。


 たったそれだけのことが、想像の……イメージの中ですらまともに思い浮かぶことができない……。


 多分……おねーさまにとっての私は、きっとまわりに数え切れないほどいる友人の中の一人なのだろう……。


 そして……そのおねーさまのお見舞いにやってきた、私と同級生のあの子……。


 おねーさまとの戦いに引き分け、おねえさまと同じ剣王の称号を持ち、おねーさまと同じ部屋に同居してる、あの子……。


 そんなあの子に対し……おそらくおねーさまは、私に向けてくれた……――ううん、それ以上の笑顔を向けて接しているのだろう……。


 ――今……この瞬間でさえ……っ!


「―――っ!!」


 突如襲ってきた激痛に胸元を押さえ、着ていた病院着の繊維がブチブチと何本か切れる音が聞こえた。


「――はぁ……っ! はぁ……っ!」


 そのまま呼吸が荒くなって、目だってかすむ……。


 けど……きっとこれは肉体的なものではなく、心の内から湧く擬似的な痛みだと直感し、ナースコールを押す気にはなれなかった。


「――――」


 結局……あれから私は一睡もできず、それから明け方や日中になって浅い眠りを繰り返し――その結果、また眠れぬ夜を迎える。


 そんな睡眠サイクルは私が退院するその日まで続き、ほとんど昼夜逆転のような生活となっていた。


 そうした中で起きた変化。


 それは、夜――ベッドの中にいる間にだけ感じていた原因不明の漠然ばくぜんとした不安……。


 それが徐々に……日の出ている日中でも感じるようになっていて――。


「――――」


 そんな状態のままで退院し、迎えた登校日。


 学校に行く用意が整い、鏡に映る自分を見る。


「…………」


 続く寝不足のせいで目元には深いクマができており、瞳からも生気が感じられない……。


 それと、これも寝不足からくるものなのか――。


 ズギズキと、地味に続く頭の鈍痛……。 それが市販の頭痛薬を大量に飲んでも治らず、消えてくれない。


 体調は最悪……。 それでも学校に行けばおねーさまに会えるという可能性がある以上、私に休むという選択肢はなかった。


「――――」


 教室の前にたどり着いた。


 ドアに手を掛けようとしたところでピクッとなり、その手を躊躇ちゅうちょしてしまう。


 自然と思い返されてしまうのは、最近――夜中になる度に思い返される鳥間さんのあの言葉。


 それでも、私は――。


 ガラッと教室の引き戸を開け、中に入る。


「――――」


 見た。


 不意に私と目が合った瞬間、山鷹さんと楽しそうに話をしていた鳥間さんの顔がいきなり曇り、不機嫌になったのを。


 不自然に態度の変わった鳥間さんの様子から、背中を向けていた山鷹さんも私に気付くと――。


「あ、あら~っ! お、おはよう、臼井うすいさん。 あれから体調はよろしくって~?」


 何やら少し緊張しているようにも見える山鷹さんが、自分の髪をクルクルと指先でいじりながら私に話し掛けてくる。


 ――山鷹さん……おねーさまのついでで私のお見舞いに来たクセに、なに今さら心配してたような顔してるんだろ……。


「……うん。 おはよ、山鷹さん」


 私はそっけなく一言だけそう言ってから山鷹さんの横を通り過ぎ、自分の席に向かうと――。


「――――」


 その先にいた鳥間さんが顔を険しくさせながら片腕を組み、私をにらみつけていた。


 そして、その鳥間さんがツカツカと近づいてくると――。


『もう学校に来んなって言ったろ』


 と、私だけに聞こえるような小声でそう告げてきた。


「――――」


 どうでもよかった。


 今の私にとって、おねーさまが全て……それ以外は全部どうだっていい……。


 私はそんな鳥間さんの言葉を聞いてから、軽く息を吐くと――。


「おはよ、鳥間さん」


 さっきの山鷹さんと同じ口調、全く同じリズムで告げ、その横を通り過ぎていく。


 瞬間――。


「――――」


 あの時見えた『黒い線』が、また見えた。


「――――」


 こうして見えているその黒い線は、鳥間さんの手から私の胸元に向かい、真っすぐに伸びていた。


 これって――あの時の……。


「………」


 そう思いながら教室全体を、まるで俯瞰ふかんするかのように見渡してみる。


「――――」


 やっぱり――あの時と同じ……世界の全てが遅く、動きがスローモーションに見えてる。


 どうやら鳥間さんは左手を伸ばし、そのまま私の胸ぐらをつかもうとしているようだった。


 こうして見てると、鳥間さんの表情は怒りに満ちあふれていて、そうまでして私のことを怯えさせたいのだと他人事のように分析できる。


 けど、こうして動きと表情の噛み合っていない今の鳥間さんを見ていると、どこかそれが滑稽こっけいに思えてくるから不思議だった。


 ――にしても……たった今まで忘れてたけど、世界が遅く見えてるこれって……一体何なんだろう?


 もしかして、私の内にある秘められた才能が急に覚醒して――。


「………」


 自分で言ってみてないなーと思い、あらためて考えてみる。


 そう……この現象は私が入院してから、急に現れた……。 つまり……最近あった急激な変化、っていったら……。


 ――おねーさま……!?


「―――っ!」


 そこまで思い至ったところで急に息が苦しくなり、呼吸も止まってしまう。


 どうやら鳥間さんの伸ばした手がようやく私のもとにまで届き、胸ぐらをつかみ上げたようだった。


 けど、そんなことより今は――。


 この特別な力……。 これっておねーさまからのプレゼントだったんだ……っ!


 もしかして、私と百回くらいしたっていうあのキスで……!?


 私の頬がだらしなく緩み、それで笑みもこぼれて出てしまう。


「―――っ!!」


 そんな私のニヤケ顔が気に入らなかったのか、鳥間さんがさらに顔をきつく歪ませ、手からまた新たな黒い線が伸びてきた。


 ん? 今度は顔? 全く……。


 鳥間さんの右手から伸びる黒い線が、今度は私の頬に当たっていて、その手が開いた状態で向かってくる。


 これから私にビンタをしようとするのが、それこそ手に取るようにわかってしまう。


 先に手を出してきたのは鳥間さんなんだから、これって正当防衛だよね?


 しょうがないなぁ……。 見せてあげる……おねーさまからもらったこの力を……っ!


「――――」


 っ! お、重……っ!


 鳥間さんに合わせて私も身体を動かそうとした瞬間、すぐに気付く。


 そっか……。 いくらまわりが遅く見えるからっていっても、その中で私も普通に動けるわけじゃないんだ……っ。


 とりあえず、こうして向かってくる鳥間さんの手首を普通につかんで止めようとしたけど、多分それはもう間に合わない。


 ――だったら……っ!


 胸ぐらをつかまれながらも頭を思い切り後ろに逸らし、今はビンタを避けることだけに専念する。


「――――」


 そうしてる内に、私の頬に当たっていた黒い線が、今度はすぐ眼前で見えるようになった。


「――………」


 その状態を維持しながらしばらく待っていると、鳥間さんのビンタがその黒い線に沿い、ゆっくりと通り過ぎていく様子が目に映った。


 最初に時間がないと思って避けることに専念した私だったけど、時間的にいくらか余裕があったので、もしかしたら手をつかむのだって間に合っていたかもしれない。


「――――」


 ビンタが空振りしたことで鳥間さんの体勢が大きく崩れ、無防備な頬が今度は私の目の前に。


 そういえば鳥間さん……。 前に、山鷹さんから叩かれて赤くなったっていう頬を気にしてたっけ……。


 だったら――。


「―――っ」


 私の持つ力。 その全てを左手に込め、思いっ切り腕を振るう。


 本来だったら運動神経のあまりない私なんかが利き腕じゃない手で全力で腕を振るったりしたら、その狙いが上手く定まらなく、きっとあさっての方へ向かってしまうんだろうけど、これなら――。


 確かに全力状態の動きで、私の狙いは微妙に逸れていく……――けど、その全力が遅く感じている今はその都度つど微調整が可能で、方向を修正し続ける。


「――――」


 そうして無事(?)に、私の全力ビンタが鳥間さんの右頬の中心へ吸い込まれていった。


「――………っ」


 手から伝わってくる手ごたえ……そのすぐ後から、『パン』という音も間延びして響いてくる。


 夏に見上げる花火がイメージとして頭に浮かんだ。


 どうやらこの状態は、この距離からでも実際の動きと音がズレて聞こえてくるようだった。


 そうして――ついさっきまで、澄ました顔で偉そうな顔をしていた鳥間さんが変な顔になって吹き飛んでいく。


「――――」


 あぁ……まただ……これで三度目。


 私の胸がゾクリとうずき、込み上げてくる感情が抑えられない。


 おねーさまと百回近く唇を重ねたと聞いた時や、おねーさまのベッドを使わせてもらった時もそうだった。


 例えるなら――真っ白で純白のシーツに、真っ黒で汚いドロを投げつけて、思いっ切り汚しまくったような、そんな――。


 ――美しく綺麗なものを……私が汚して、壊す……。


 あぁ……それって――。


 それって、何て気持ちがいいのだろう……っ!


 そうやって笑いながら――私は、自分の胸中で渦巻いていた感情の正体をようやく理解した。


「――――」


 ――直後、通常通りに戻った時間の流れ。


 ガシャンッ! となって、吹き飛ばされた鳥間さんが周囲にあった机やイスを巻き込みながら床に倒れ込んだ。


 私には、おねーさまからもらったこの特別な力がある。


 この力がある限り……誰であろうと、もう私に敵わない。


「――鳥間さんっ!!」


「――………っ!」


「……さち~~っ!!」


 友達の鳥間さんが叩かれたのを見て激昂したのか、山鷹さんが私との距離を一気に詰め、迫ってくる。


「~~~~っ!!」


 続けて山鷹さんが何だかやたらと怖い顔になってにらんでくるけど、今の私には余裕があった。


「……何? 山鷹さんだって見てたでしょ? 先に手を出したのは鳥間さんで―――っ!!」


「――――」


 私の頬に鋭い痛みが走り、視界がガクンとなって揺れた。


「…………」


 ズキズキ……と、熱くなったその箇所に手を触れるまで、私は叩かれたという事実を認識できなかった。


「………」


「――~~~~っ!」


 しばらく呆然となっていた私だったけど、しだいにフツフツと怒りの感情が込み上げてきて、横を向いてしまっていた視線を山鷹さんの方へ鋭く向ける。


「――――」


 見ると……山鷹さんは両目にあふれんばかりの涙を溜めながら泣いていて――。


「アナタの……その手は……! 何のために……っ!」


 言いながら両手をプルプルと震わせ、小さく握りられたその拳にかなりの力が込められているのが見て取れた。


「――グスッ」


 山鷹さんは今の私の表情を見て自分が泣いている事実に気付いたらしく、私の視線から逃れるように横を向いて手の甲で涙を拭うと――。


「――鳥間さん。 保健室、行きましょう」


 そう言いながら鳥間さんに肩を貸して一緒に立ち上がり、鳥間さんを気遣う足どりでそのまま教室から出ていってしまった。


「…………」


 全く……意味がわからなかった。


 叩かれて……痛くて……泣き出したいのはこっちだっていうのに……。


 ……それにしても、さっきの山鷹さんのビンタ……。


 全然遅く……スローに見えなかった……。


 おねーさまからもらったこの力……。


 この力には、私の知らない……知らなくてはいけないことがまだまだありそうだと、そう思った。


「……――~~~~っ」


 そうしてズキズキと、なかなか痛みの引かない頬をさすりながら、とりあえず自分の席へ向かっていく私だった。


 その後――教室全体がザワザワと騒がしくなり、それで多少注目されたりもしたけど、そのことで私が先生から呼び出しを受けて叱れたりするような事態も特に起こらなかった。


「――――」


 そして、その日の放課後。


 おねーさまからもらったこの力の秘密を早急に解明する必要があると考えた私は、ちょうどある場所に向かっていた最中さなかで――。


「――――」


「失礼しま~す!」


 ドアをノックし、なるべく大きな声で言いながら、そのまま中へ――。


「――――」


 入ってまず目に飛び込んできたのは中央にある四角いリング……。 そして、その四方には赤と青のロープが張られている。


 それから天井から吊るされたサンドバックに、どうやって使うのかもわからない練習器具? のようなものがいくつもあって……。


 ――そう、ここはボクシング部の部室。


 私はとりあえずここで自分の力の正体を確かめてみようと、このボクシング部に直接訪れていた。


「――……は~い」


 奥の方から聞こえてきた声。


「……―――っ」


 ゆっくりと近づいてくるその人の姿を直視したと同時に、思わず息を呑んでしまう。


 少し大人びた顔つきに、色黒で鍛え抜かれた身体。


 ひと目見て上級生だとわかり、慌てて頭を下げる。


「あ、あのっ、初めまして! 私、一年の臼井うすいと申します!」


「本日はボクシング部の体験入部をさせて頂きたく、こちらを訪ねました!」


「――……え? アナタ、が……?」


 そんな私の言葉が意外だったのか、少しだけ目を見開いた先輩が私の身体をジロジロと無遠慮ぶえんりょに見回してくる。


「え~っと……一応確認なんだけど、マネージャーとかじゃなく、選手ってことでいいんだよね?」


「は、はいっ、そうです!」


 やっぱり……私って肌が青白くて筋肉もないし、病弱な感じに見えるんだ……。


「ん~、そっか~……」


 先輩が口元に手を当てながら、少し悩むような仕草を見せる。


「――あぁ。 ゴメン、ゴメン。 私、この部の部長をやらせてもらってる長田おさだ 那久留なくるって言います」


「――――」


 ピクッと私の眉が勝手に動き、目つきも鋭くなってしまう。


「――拳王……」


「あ、知ってるんだ~。 そうそう、一応学院から拳王としても認定されてて、それも兼任してるんだ~」


 長田おさだ 那久留なくる――この学院の拳王だって、名前だけは聞いてたけど……実際にこうして会うのは初めてだった……。


 実際に戦ったところは見たことは無い、けど……ただ――強い。 そのうわさだけは、一年生の間でも広まっていた。


 今……私の目の前にいるのが、その拳王……。


 そう理解した上で、あらためて相手のことを観察してみる。


「――――」


 背は私より少し高いくらいで、そこまで大きくない。


 肌は健康的に焼けた色黒で、髪はショートというよりベリーショート。


 そして、無駄な脂肪が一切無いように見える、鍛え抜かれて引き締まった身体……。


 それから……右手には水の入ったバケツを持っていて、もう一方には使い古されたぞうきんを……――って、あれ?


「あの……すみません、掃除中でしたか?」


 それに、他の部員達は……?


「――――」


 部室全体を見てみても誰もいないような感じで、そもそも人の気配が感じられない。


 それに、部長自らが掃除だなんて……もしかして部員自体がかなり少ない、とか?


 そんな私のいぶかしげな視線に気付いたのか、先輩が持ってるバケツとぞうきんをヒョイとかかげると――。


「――あぁ、これ? あんまり気にしないで~、掃除は私の趣味みたいなものだし~」


「でも困ったな~……昨日までずっと試合だったから、みんなクタクタで、今日は部活休みなんだ~」


「――休みって……先輩はその試合に出なかったんですか?」


「ん~? もちろん私も出たよ~? けど、私の出番はすぐに終わっちゃってさ~」


「それに試合が終わった次の日に部室の掃除をするのは、いつものことだし~」


「でも、これでみんなが少しでも気持ちよく練習できたら、それだけですごく嬉しいな~って」


 話を聞いてる間に、先輩に対する警戒レベルがますます上がっていく。


 那久留なくる先輩はボクシングの試合に出場し、すぐに出番が終わったと言った。


 早い時間……それはつまり、KOで決着がつき、勝利したことを意味している……。


 当然その逆、すぐにKO負けしたという可能性もある、けど――。


「あの……キレイな顔ですね」


 先輩の顔をじっと見つめながら、そう話し掛けてみる。


「え? キ、キレイって――わ、私が!?」


「いやいや~、そんな見えすいたお世辞はいいから~」


 ブンブンと手を振りながら、少しだけ照れた様子をみせる先輩。


 そう……私もボクシングに詳しいわけじゃないけど、テレビでたまに見る限りだと、試合では勝っても負けても互いに打ち合ってボロボロになるのが普通だった。


 ……先輩は、試合があったのは昨日だと言った。


 いくら一日経ってるとはいえ、どれだけちゃんと見てみても、鳥間さんの時に見えたあの薄いビンタの跡すら見えない……。


 つまり先輩は昨日の試合をかなり早い時間――それもほぼ無傷に近い状態で終わらせ、それで勝利したということになる。


「――――」


 今だって……こうして普通に目の前に対峙してるだけで、その強さと自信がひしひしと伝わってくる――……気がする。


 さすがは拳王……おねーさまの剣王と同格の称号を持ってるだけのことはある。


 おねーさまと同格……。 ――そう、それが私にとって最も重要なことだった。


 おねーさまが前に病院で密かに胸を高鳴らせ、熱い視線を送っていた一年生のあの子も、おねーさまと同じ剣王の称号を持っていた。


 だから、私も……。 私もおねーさまと同格の称号さえ持っていれば、私だってきっと――。


 ……けど、今から私がおねーさまと同じ剣王の称号を得ようとするなら、最悪あの二人と同時に戦わなくてはいけないのかもしれないし……。


 対戦相手があの子ならともかく、おねーさま相手に勝てる気が全くしない……。


 となると、残りはもうひとつの称号しかない。


 素手における最強――『拳王』。


 私の当初の予定だと、何度かここの部員と適当に戦ってみて、その実戦の中であの力の仕組みをじっくりと解明し、それから拳王に挑戦しようと考えてたんだけど、それが最初の最初でいきなりつまずいてしまった。


 ……まあ、かなり予定が前倒しになったけど、しょうがない。


 私は気楽にそう考え、気持ちを切り替えると――。


「あの、先輩……今から私と戦ってくれませんか?」


 と、自分の胸に手を当てながら真剣に先輩を見つめ、そうお願いしてみる。


「え、え~~!? いきなりスパ!?」


「ん~、まいったなぁ……今日は私しかいないから、さすがに~……」


「あ、あの~……臼井うすいさん、だっけ? 悪いけど日をあらためて明日、また来てもらえる?」


「それに、そもそもいきなりスパ――練習試合っていうのはかなり危ないから~。 だから体験入部でやるのも一緒に練習するぐらいで――」


 ……あれ? 何だかこれって、私の望まない方向に話が進んでるような……そんな気がしたので――。


「あ、あの! 私、那久留なくる先輩に憧れてボクシングを始めてみようと思ったんですっ!!」


「だからっ、ほんの少しだけでもいいので私と戦って下さい! ――お願いしますっ!!」


 そう叫びながら懇願こんがんし、私が憧れてるのはおねーさまただ一人だけど、と心の中でつぶやきながら、下げたくもない頭を下げる。


「う、う~ん……でもな~」


 後輩からお願いされることにあまり慣れてないのか、少しだけ困った感じになった先輩がうろたえた様子で考え込み――。


「……うん、わかった。 臼井うすいさんの熱意に負けて、今からちょっとだけ特別にスパーリングしてみよっか」


 笑顔でそう言われ、私と拳王との戦いがついに実現した。


「それじゃあ、ロッカーに案内するから、そこで着替えよっか」


「あ~……それと~、始める前に言っておくけど、私って人を気遣うっていうか、手加減がすっごい苦手だから、そのせいでボクシングが嫌いになっちゃったりしたら……ホント、ゴメンね?」


「――――」


 そうしてロッカーに案内され、そこで用意してもらったTシャツとスパッツに着替えた後、私の両手にテーピングを巻いてくれる先輩。


 その上からグローブをつけて手首の紐を結んでもらい、頭にヘッドギアもかぶせてもらう。


 それで私の用意が整ってから――……って、あれ? これって一人で準備するの無理なんじゃ~……と思って先輩を見てみると、どうやらマジックテープのグローブもあるらしく、ちょうどそれを装着している最中だった。


 先輩の方はそれで準備完了。 どうやら先輩の方は頭にヘッドギアをつけずにやるようだった。


 これでようやくお互いの準備が整い、先輩が入りやすいように縦に広げてくれていたロープの間をくぐって、いざリングへ――。


「――――」


 思ったよりも広い……そう思いながら見回していると、続けてリングの中に入ってきた先輩が私の正面に立ち、私と向かい合う。


「ボクシングの1ラウンドが3分なのは知ってる?」


「今日はここに二人しかいないからゴングは鳴らせないけど、時間だったら私が体感で覚えてるから――」


「とりあえず……。 まずは1ラウンド、やってみよっか?」


 そう言いながら――スッと、先輩が右手を前に突き出してくる。


「………?」


 それを見て、私は首をかしげていると――。


「挨拶。 軽くポンって合わせたら、それで試合開始だから」


「………っ」


 先輩のグローブを見つめながらゴクリと息を呑み、腰だってわずかながらに引けてしまう、けど――。


「それじゃあ、よろしくお願いしま~す」


 明るくそう言いながら再度伸ばされた先輩の右グローブに、私も意を決して右手のグローブを伸ばし――。


「――――」


 ポンと軽く鳴った音とともに、先輩とのスパーリングが開始された。


「――………っ」


 ――瞬間、ついさっきまで広々と感じていたリングの端が歪んで見え、狭いオリに閉じ込められているような錯覚を受ける。


 先輩の目つきが急に鋭くなり、にらみつけられている……――というワケでもない。


 今の……目の前にいる先輩はだたグローブを目の高さまで上げ、普通に構えて立っているだけ、なのに……。


 これが……素手における学院最強……。


 ――これが、拳王……!


 ともかく始まってしまった――。


 この試合でまず私が確かめるのは、山鷹さんと鳥間さん――それ以外の第三者にもあの力が発動するかどうかの、その確認。


 あの時……鳥間さん相手には発動した遅く見える力が、山鷹さんの場合だと全然発動せず、ビンタをまともに受けてしまった。


 つまり、相手が鳥間さんだったから発動したのか、それとも山鷹さんだけ特別に発動しなかったのか――まずはそれを確かめるっ。


 さあ……那久留なくる先輩は、一体――。


「――――」


 気付くと、私はマットの上で尻餅をついてた。


「――~~~~っ」


 頭がグラグラ……景色がグニャグニャとなって歪み、視界が前後左右に揺れる。


 顔面……というか、鼻の頭がズキズキと痛む。


 どうやら私はいつの間にか顔に攻撃を受けて意識が飛び、それでダウンしていたようだった。


 速く見えるとか、スローに見えるとか、そんな次元じゃない……。


 ――何も見えなかった。


 左右のどちらのパンチだったのか、どのぐらい意識が飛んでいたのかもわからない……。


「――~~~~っ!!」


 すぐに立ち上がろうと足に力を込めるけど、プルプルとヒザが震えてしまい、まともに立つことすらままならない。


「―――っ!!」


 それでも何とかして立ち上がった私は両手を肩の高さまで上げ、ファイティングポーズを取ってみせた。


「……どうする? もうやめる? だから言ったのに~……」


 先輩が私の顔を心配そうな顔で覗き込みながら、そう聞いてきたのに対し――。


「……――大丈夫ですっ! 続けます!!」


 すぐさまそう答え、スパーリングを再開させた。


「――――」


 ――わかった。


 よ~く、わかった。


 2ラウンド、通算三度目のダウンで私は自分なりの答えを出し、今の先輩の攻撃はどうやっても遅く見えないと、そう結論付けた。


 スローになるために相手は関係なく、きっと別の条件がある。


 そのことを充分に理解した。


 だから、後は……私が事前に考えていたもうひとつの予想――それを今から確かめる……っ!


「……~~~~っ!!」


 すぐ近くにあったロープに手を掛けながら上半身を無理やりに起こし、どうにかしてそのまま立ち上がる。


「――――」


 私の覚悟は決まった。


 おねーさまの隣に絶対立つ……。 そのために、私がすべきことは……っ!


「―――っ」


 ――グイッと、顔近くまで持っていったグローブの紐を口を使ってほどき、何とか片方だけ緩める。


 そうして緩んだ方の右手をブンブンと振っている内、その勢いで外れたグローブが大きな軌道を描き――そのままリングの外へ飛んでいった。


「――――」


 ファイティングポーズを取ったまま――その軌道を目で追っていた先輩が、小さく息を吐いてからその両手を下ろす。


「……うん、そうだね。 もう、ここまでにしよっか」


「結構強めに当たっちゃったけど、大丈夫だった~?」


 そう言った先輩が私の身体を気遣いながら近づき、笑顔を見せてくる。


 それから、リングの外に落ちたグローブをチラッと見て――。


「でも、あのグローブは部の備品で、みんなが使うものだからもう少し大事に使ってね?」


 と、軽く注意もしてきた。


 それを聞いた私は――。


「あ! そ、そうですよねっ! 私ってば、ほんとすみませんでした~っ」


 そう言いながら、もう片方のグローブを慌てて外すと、そのまま自分の足元へポトリと落とし――。


「――――」


 パシッと、そのグローブを軽く払うように足で蹴り、リングの外へ落とした。


「――――」


 さわやかに微笑んでいた先輩の口元がスッと閉じられ、落ちたグローブの行方を無言のまま、無表情で見つめる。


「ふぅ……。 ――しょっ、と!」


 さらに続けて――汗まみれになったヘッドギアを両手で外して前方へ投げつけ、その汗しぶきが先輩の足元までピッと飛び散った。


「………」


 さっきまで……リングの外のグローブに向けられていた先輩の視線がゆっくりと動き、今度は自らの足元へ……。


 そんな黙ったままの先輩の様子を見ながら、私は――。


「……でも、そうですかぁ~。 もう終わりだなんて、すっごく残念ですぅ~」


「けど私ぃ~、まだまだ先輩から学べることが、い~っぱいあると思うんですケド~」


「だからぁ~、もう少しだけ続けてもらえませんかぁ~」


 意識的に、あえて語尾を延ばした挑発めいた口調で明るくそう言い、無邪気に笑ってみせる。


「――――」


 そんな私の言動を見ながら、先輩は少しだけ目の色を変えると――。


「……うん、そうだね。 確かに臼井うすいさんはボクシングでも、ボクシング以外でも、何かと学ぶべきことが多そうだし――」


「もう少しだけ残って、勉強しよっか?」


 そう言いながら、どこか張り付いたような感じの、不敵な笑顔をみせてきた。


「――――」


「――………っ!」


 さっきまでとは比較にならない。


 空気が……先輩の、存在自体が怖い……っ!


 この場に……まともに立つことすらままならないほどに。


 これが拳王、の……本当の顔なんだ……。


「どうせ当たらないだろうから、グローブはもう着けなくてもいいよ~」


「それと自分から捨てたんだし、ヘッドギアだっていいよね~」


 ピリピリ、ビリビリと空気が痛い。


 これで私の予想が外れてたら、もう一度病院行きになるのはほぼ確実だと思う……――けどっ!


「そうですかぁ~? でもぉ~、もし当てちゃってケガとかさせちゃったらゴメンなさ~い」


 そうやって舌を長く見せながら笑ってみせ、さらなる挑発も忘れない。


「――――」


「―――っ!」


 次の瞬間、今度はグローブを合わせることなく再びスパーリングが始まり、先輩が一気に距離を詰めてきた。


「――――」


 ――やっぱり、私の予想は正しかった。


 ついさっきまで……その軌道すら目で追えなかった先輩の攻撃。


「――――」


 それが今――ほぼ停止しているかのようにスローに見え、グローブの表面に付いてる細かなキズまで確認できる。


 この状態になるのはこれで三度目。


 その際に共通してるもの……それは――その攻撃が私に対し、強い悪意の感情が込められている、ということだった。


 鳥間さんの時は二度ともそうだったし、さっきまで速過ぎて全然見えなかった那久留なくる先輩の攻撃も、挑発した途端にこうしてスローに見えてる……。


「………」


 ……あれ? 待って。 これが悪意のある攻撃に対してのみ発動するんだったら、全然スローに見えなかった山鷹さんのビンタって――。


「……―――っ!」


 考えようとした瞬間、叩かれた頬に鋭い痛みが走り、思考が中断されてしまう。


 まぁ、いいや……。 とりあえず今は、目の前のコレを何とかしないと――。


 前の――鳥間さんの時は、何とか手でつかみ取る余裕もありそうだったけど、これは絶対に無理だって明らかにわかる。


「――――」


 先輩の左ジャブ。 それが私の顔面目掛け、最短距離で迫ってきている。


 後ろに下がっても、きっと避け切れない……っ!


 そう判断した私は全力で頭を傾け、横に回避しようと試みる。


 確かに今の先輩の攻撃はスローになって見えているけど、同じ分だけ自分の動きもスローだった。


 けど、言ってみれば今の私は先輩の――未来の動きを見ながら動いているようなものなんだから、こんな攻撃――。


「~~~~っ!!」


 ――近い近い近い。


 先輩のグローブがとうとう目の前まで迫った時点で視界が半分となり、何がどうなっているのかもわからなくなってしまう。


「――――」


 ――熱っ!


 タイミング的に相当ギリギリだった。


 先輩のグローブが私の頬を徐々にかすめていき、そこから生じる摩擦熱だって感じる。


 その熱から少しでも逃れる。 ただそのことだけに意識を専念させていると――。


「――――」


 ――フッと、私の頬から先輩のグローブがようやく離れ、何とか回避に成功したようだった。


「―――っ」


 ガクンと、私の身体が先輩から完全に離れ切ったところで、流れる時間の感覚も元に戻った。


 その直後、最初に目に入ってきたのは先輩の驚愕きょうがくの表情。


「――――」


 ゾクリと、それを見ながらまた私の胸がうずく。


 あぁ……やっぱりだ……。


 多分……那久留なくる先輩は、これまで私には想像もできないようなすごい努力と経験を積み重ね、その結果――この学院の拳王になれたんだと思う……。


 その那久留なくる先輩を、今まで何の努力もしてこなかった私が踏みにじり、メチャクチャに蹂躙じゅうりんする。


 あぁ……それって、やっぱり……どんなにも――。


「――――」


 けど……冷静になってよく考えてみたら、今この場で先輩に勝ったとしても、それで私が拳王になるれワケじゃないし……。


 だから、あくまでこれは練習……。 そのことを念頭に置いたまま、とりあえずはこの力の仕組みを理解することにただ専念する。


 次は連続発動や回数制限、持続時間の限界なんかを確認しないと。


 先輩には悪いけど、もう少しだけ私に付き合って下さいね……っと――。


「センパ~イ、どうしました~? ほら~、次、次~」


 言いながら、クイクイッと指先で先輩を誘い、さらなる挑発を重ねておく。


「―――っ!」


 すぐさま――おそらく死角を突いたつもりで動いたのだろう先輩が、表情をきつくさせながら私に向かってくる。


 ……けど、これだけ遅くて、オマケに黒い線が見えてるんだったら何の意味もないけどね。


 今回はさっきと違って距離があるし、これから攻撃に移ろうとしている全身が丸見えだから、だいぶ余裕を持って対応できそうだった。


「――――」


「――――」


 あれから、多分……100近くは先輩の攻撃を避け続けてる。


 結局、かすったのは最初の1回だけで、それ以降は完全に見切り、全て回避している。


 どうやらこの力に連続発動や持続時間の制限はなさそうで、私は今も問題なく動けてる。


 そうしてる内、私の動きにも多少の変化が生じていた。


 目の前の先輩の動きを参考にしながら、元々ギリギリで避けていた動きをさらにギリギリにし、余分な動きをなるべく小さく、それでいて次につながるよう動いていく。


「――――」


 そうして――今では避け続ける動きにもだいぶ慣れ、ある程度余裕も出てきた私は攻撃の練習も始めてみることにした。


 けど、これはあくまでも練習……。 私の攻撃を受けたせいで先輩の動きが鈍くなってしまったら元も子もないので――。


「――――」


 避けた時の動きに合わせ、先輩の頬に――ポンと軽く、手を当てるだけにしておく。


「―――っ!!」


 ……あれ? 私が手を当てた瞬間、何だか先輩の目がやたらと見開いてた感じになってた、けど……。


 ――あ、そっか……。


 始まる前の最初――どうせ私の攻撃は当たらないだとか、そんなこと言ってたような~……。


「――――」


 ゾクリと、また胸がうずいてしまう。


「――――」


 それから――攻撃される度に私の拳を先輩の頬に軽く当て、それを繰り返し続ける。


 それと……これは実際にやってみた後で初めて気付いたけど、私の今やってるこれって、もしかして直接殴るよりもずっと効果的だったんじゃ~……。


「――~~~~っ!!」


 どうやらそれはボクシング選手にとって耐え難い屈辱(?)なのか、先輩はもう目尻に涙を浮かべてすらいた。


 そんな情けない先輩の様子を視界に収めることで多少の優越感に浸りながらも、私は心の内で自身の限界を感じていた。


 大量の汗と乱れる呼吸――そして徐々に精細さを欠いていく全身の動き。


 けど、それすらもこの状態ならその都度つど動きの微調整が可能なため、戦いの中では全くといっていいほど影響は出ていない。


 ――とはいっても、おそらくこれ以上疲労が蓄積していったら体力的に考えて、きっと私の方が先輩より先に倒れてしまう……。


 だから、その前に――。


 先輩の動きも、身体の動かし方も、大体理解した……。


 何せ、ほとんど完璧と言っていいボクシングの見本が私の目の前で実演指導しているようなものだから、私の上達が早いのも当然だった。


 ――だから、これはその集大成……っ!


「―――っ!!」


 向かってくる先輩の左ジャブを最小限の動きでかわしつつ、真下からの渾身のアッパーを放つ。


 それは、今までの軽く当てるだけのつもりとは違う、今の私の全力を込めた本気の一撃だった。


「―――っ」


 それが当たる寸前、というかもうほとんど触れているような状態だったけど、それを先輩のアゴ先でピタリと止めてみせた。


「――――」


 私の拳の風圧で先輩の髪がフワッとなびき、瞳の奥に恐怖の色が浮かんだように見えた。


「……―――」


 私はそんな先輩を確認しながら、ニッコリと満足気に微笑むと――。


「さっすが那久留なくる先輩っ! 色々勉強させてもらいました~♪ ありがとうございま~す♪」


 と、明るく場違いな感じで元気にそう言い、ペコリと頭を下げた。


「――う……ぁ……っ」


 そんな私から、まるで怯えるように後ろにフラフラと後ずさりした先輩が途中で足をもつれさせ、その場にドスンと尻餅をついてしまう。


 そうして動けなくなった先輩を見下ろしながら、私は嬉しそうにしてトコトコと近づくと――。


「……近い内、その拳王の称号を獲りにうかがいますので……その時は――またよろしくお願いしますね~♪」


 先輩の耳元にささやくよう小声で……最後の方は明るく元気に告げ、その身を離す。


「―――っ」


 ビクッと、先輩の全身が震えた様子が見て取れたけど、私はそれにあえて気付かないフリをし――。


「それじゃあ私、今日のところはこれで失礼しますね~。 さようなら~『センパイ』」


 そうやって、あえて先輩の部分を強調して言った後――ロッカーに置いてあった自分の制服とカバンを回収し、部室から出ていった。


「~~~♪」


 さっきの運動で身体は相当に疲れ切っていたけど、私の足どりはすごく軽かった。


 やっぱり、おねーさまからもらった力はすごいっ。


 大して運動神経の良くない私が、二年も先輩で、その上拳王でもあるボクシング部部長の那久留なくる先輩を圧倒できた。


 この力があれば、私もおねーさまと同じ場所に立てる……!


 そのためにも、少しでも早く拳王の称号を――。


 近い内――そう、明日にだって……っ!


 善は急げとも言うし、私はもう明日の昼休みに拳王に挑戦することを決めた。


 早く明日にならないかな~と、寮の自室でワクワクしながら眠りにつき、迎えた次の日。


「――――」


「……――~~~~っ!」


 朝起きてすぐ、全身がひどい筋肉痛で泣きそうになったけど、それでも負ける気は全くしなかった。


 拳王に挑戦する試合の申し込みは朝一番で済ませていたので、後は試合開始の昼休みを待つだけだった。


 午前中の授業なんて今の私にとってはどうでもよく、内容だってよく覚えていない。


 昼休みまでの時間が待ち遠しく、授業中に両足を前後にプラプラ揺させながら、その時を待ち続け――。


 迎えた昼休み。 かなり事前に待機していた控え室でようやく私の名前がコールされ、私は会場へと向かった。


「――――」


 会場に入ってすぐ、巨大スクリーンに表示されていた『不戦勝』の文字。


「――………」


 はぁ……と、大きく息を吐き出しながら、私は落胆の想いに包まれた。


 どうやら拳王は私に恐れをなして逃げたらしく、私は戦わずして新たな拳王になってしまったようだった。


 ――ま、結果としてこれで私も拳王になれたわけだから、他の細かい事情はどうでもよかった。


 私の中でひとつの区切りがついたところで、さっきまで戦おうとしていた先輩のことなんてキレイさっぱり頭の中から消え去ってしまい、これからのことについて意識を向ける。


 これで、私も拳王……っ。


 ――けど、その拳王の称号って一体いつもらえるんだろ……。


 ……何か、そういった賞状みたいなモノとかがあって……それをみんなの前で発表して表彰、とか?


 どちらにせよ、そのことに一番詳しい人に話を聞かないと……っ。


「―――っ」


 そう考えた直後、まるで後ろから背中を押されるかのように駆け出した私は、そのまま会場を後にし――。


 その足で直接、学院長室まで訪れた。


 そして、ドアをノックして中に入るなり――。


「――あのっ! 私が拳王になれるのっていつからですか!?」


 と、端的に用件だけを告げた。


「――あぁ、アナタは……たった今、試合を終えたばかりの臼井うすいさん……でしたか?」


「あの会場からここまで走ってきたのですか? ずいぶん早いですね……」


 確かに走ってきたけど、そんなこと今はどうでもよくて。


 結果……結果は……?


 私はいつから拳王に――。


「アナタは拳王に勝利しました。 ……確かに、それは紛れもない事実です」


「ですが残念です……。 この学院では戦いの強さこそが全て……――ですから、実際に戦ってもいないアナタを拳王だと他の生徒達は認めないでしょうし、私も認めるわけにはいきません」


「――――」


 最後にそう言ってから首を振った学院長を見て私は愕然がくぜんとした表情になり、それと同時にフツフツとした怒りが湧いてくる。


「な、何を言ってるんですか!? アイツ――那久留なくる先輩は私から逃げた!!」


「それが何よりの強さの証明じゃないですか!! それに――」


「たとえ――」


「たとえ、それが事実だとしても、私の決定が覆ることはありません」


 さらに続けようとした私の言葉にかぶせるようにして学院長が告げ、目を閉じながら再度首を横に振った。


「――――」


 それを見た瞬間、今まで炎のように熱く燃えたぎっていた私の怒りが途端に冷たく、まるで氷のように冷え切っていくような感覚を覚えた。


 そうして冷え切った頭で、再度学院長に問い掛ける。


「――あの、学院長……この学院では強さが全て。 強いことは常に正しい」


「そして、その強いということは学業よりも優先される。 ……確か、そうでしたね?」


「――はい、そうです。 我が学院の裏の校訓にもうたっていますし、間違いありません」


「そうですか……」


「――――」


 私はそれだけを確認した後、クルッときびすを返し、入ってきたドアの方へと戻っていく。


 そして、そのままドアノブに手を掛け、そこでいったん立ち止まると――。


「――後悔、しないで下さいね?」


 そうニッコリと微笑み返し、部屋から出ていった。


「――――」


 そのまま歩いてすぐ、廊下の端に置いてあったゴミ箱がチラッと目に入ったので――。


「―――っ!!」


 感情そのままに、全力でそれを蹴り飛ばした。


「――――」


 プラスチック製のゴミ箱が半壊しながら廊下の奥に転がっていき、中に入っていたゴミがあたりに散乱した。


「―――っ!」


 その歩く先で邪魔になったたゴミを踏みつけ、さらに蹴散らしながら前へと進む。


 私のやるべきこと……覚悟が決まった。


「――――」


「――――」


 その日の放課後、再びボクシング部の部室を訪れた私。


 そして、昨日と同じようにドアノブに手を掛け――。


「初めまして~! 私、一年生の臼井うすいって言いますっ。 本日はこちらの部活見学をさせて頂きたくこちらを訪ねましたっ。 よろしくお願いしま~す!」


 と、なるべく元気な声で明るくそう言い、ペコリと頭を下げた。


「――――」


 頭は下げたまま――目線だけを上げ、周囲に視線をめぐらせる。


「………」


 昨日までとは違い、部員がたくさん……15人か20人ぐらいはいる。


 そんな中、今の私の姿を見て明らかにうろたえた態度をとる人物が一人。


 ――あえて無視。 なるべくその人の方に視線を向けないようにしながら、部室の端の方に進んでいき――。


「うっわぁ~っ!! 賞状やトロフィーがこーんなにたぁ~っくさん! スゴイですね~っ! 見てもいいですか~っ!?」


 そう言ってテンション高めに、一番近くにいた先輩に聞いてみる。


「え? ――あぁ、もちろんどうぞ~」


「ここの女子ボクシング部って歴史は浅いけど、歴代の先輩の分からあるから結構な数でしょ?」


「それに今年は豊作でみんなも頑張ってるから、過去一番の成績になるかもって話なんだ~」


「へ~。 そうなんですか~、すっご~い♪」


 私はそんな先輩の説明に空返事しながら、その棚をキョロキョロと見渡し、置いてあるトロフィーを2、3個、適当に手にすると――。


「―――っ」


 無表情のままそれを手放し、すぐ横に置いてあったゴミ箱の中にガシャンと落下させた。


「――――」


 乾いた金属音が周囲に響くとともに、部室内の空気が急速に冷え、凍りついたのがわかった。


 そこに――。


「で・も~っ。 そのトップの部長さんが私の戦いから逃げ出す臆病者なんですから、きっと皆さんもそうなんですよね~? アハハハ~ッ!!」


「――――」


 静まり返る部室の中、口元に手を当てながら楽しそうに笑う自分の声が、やけに響いて耳に届く。


 そんな中――。


「ねぇ、アンタ……確か一年の臼井うすいさん? って言ったっけ?」


「どうでもいいけど……アンタが今ゴミ箱に捨てたそれ、元に戻しなよ……――っていうか戻せよ」


 背の高い、おそらく三年であろう先輩が近づき、私と正面から向かい合う。


 そんな先輩の圧力を受けながら、軽く肩をすくめてみせた私は――。


「え~? 戻せって、一体何のことですか~? しかも命令口調で~」


「私ってば頭悪いんで、口で言われても全然わっかりませ~ん」


 おちゃらけた態度で完全に先輩をバカにし、挑発してみせる。


「口でって……アンタ、本気で言ってる? この人数のボクシング部員相手にアンタ――」


「あっ、そっか~! もしかして、こういうことです……――かっ!」


 先輩の言葉を途中でさえぎった私は、近くにあったゴミ箱を片手でつかむと――。


 そのまま振りかぶり、トロフィーの並んでる棚へ思いっ切り叩きつけた。


「――――」


 棚のトロフィーが崩れ落ち、ゴミが散乱していく中、何やらジュースや生ゴミやらの腐ったような酸っぱい異臭もあたりに漂う。


「……センパ~イ、まだわかんないんですか~? 私ぃ~、アナタ方にケンカ売りにきたんですよ~?」


「ひょっとしてそれがわからないぐらい、アナタ方はおバカさんなんですか~?」


 そう言いながら周囲を見渡し、それから散らばった自身の足元を軽く指差し――。


「だったらホラ~、アナタ方もコレと同じ~……――ゴミと! 一緒ですよ~?」


 『ゴミ』のタイミングで、足の先で転がしていたトロフィーを踏み砕いてみせ、嘲笑の笑みを浮かべた。


「――――」


 黒い線が見えた。


 発信源は一番近くにいた大柄な先輩。


 火蓋は切って落とされた。


 ――ようやくだ……ようやく始められる……。


 見せつけてやる……! おねーさまからもらった……この、特別な力を……っ!


「―――っ!」


 スローで向かってくる先輩の拳を紙一重で避け、完璧なタイミングでカウンターを叩き込む。


 この人、大柄だしちょうどいい。


 吹き飛ばす方向はトロフィーやゴミを散乱させたあの棚。


「――――」


 動きはスローのまま――遅れて聞こえる大音量とともに半壊していた棚が完全に壊れ、倒れ込んだ先輩の上に残ったトロフィーが雪崩のように落下していく。


 それを横目で見ながら、私は――。


「あ~ぁ……これじゃあもう、どれがゴミなんだかわからなくなっちゃいましたね~♪ ――アハハッ!」


 さらなる挑発も忘れず、追加しておく。


「やっぱり部長が臆病者だと、部員だってこの程度なんですね~」


「私がボクシングを始めたのは昨日からですけど~、この程度ならどうにでもなりそうです~」


「ホラホラ~ッ、一人一人だとまどろっこしいんで全員でかかってきていいですよ~?」


「……―――っ!!」


 そんな挑発に乗った周囲の部員達が目の色を変え、一斉に私へ襲い掛かってきた。


 ――確かめる。


 この力は複数の人数相手に対しても有効なのか……。 その、最後の実験――。


「――――」


「――――」


「はぁ~……」


 大きく息を吐き出しながら……部室の『高い所』から、全体を見下ろす。


 ――あぁ……スッキリしたぁ~……。


 これまで純粋に……ただ強くなることだけを考え、切磋琢磨してきたであろうボクシング部の部員達……。 それを昨日ボクシングを始めたばかりの私がムチャクチャにして壊す……。


 やっぱり、これ……。


 ――最高に気持ちいい……っ。


「――――」


「――……こっちです、先生っ!」


 この騒ぎを聞きつけてきたのか、かなり遠くの方から響いてきた声の後、ようやく一般生徒や先生方が駆け込んできて――。


「―――っ」


 部室に一歩踏み込むなり、ここに来た全員が言葉を失い……その場で立ち尽くしてしまった。


 そんな状況の中――。


「これ、は……」


 私の待ち人……。 少し遅れてやってきた学院長が、私と『私の下の方』を交互に見ながら、口元に手を当てている。


 ――うん。 私も結構苦労したし、学院長にはよ~く見てもらわないと。


 さっきまで相当に部室で騒がしくしていたから、遅かれ早かれ人が来るのはわかっていたけど、学院長が直接ここに訪れたのは私にとって幸運だった。


 結果は結果でもちろん大事だけど、それとは別に――見た目は見た目ですっごく大事だと私は思っている。


 何が言いたいかというと、その答えは私の足元――というか、お尻の下にあった。


 ……にしても、実際にやってみて初めて知ったけど、人って結構重いんだね~。


「――――」


 そう……私のこの力は多人数に対しても有効で、その力を使って拳王を含むボクシング部の全員を殴り倒した後――。


 その全員を一人ずつ引きずってリング上に『人の山』を作り、それから仕上げとして頂上部分に拳王の那久留なくる先輩を乗せ、私はその上に腰掛けていた。


 その光景がよほど衝撃的だったのか、ここに駆けつけた教師を含む全員が、いまだ動けずにいる状態だった。


 その反応に大満足した私は、それで上機嫌になると――。


「――あの~学院長~。 私どうしても拳王になりたいんです~。 だから~昼休みに言った件、考え直してもらえませんか~?」


 そう語尾を伸ばしてしおらしく言う中――足元にある那久留なくる先輩の頬を足の腹でペシペシと叩き、途中でグリグリと軽く踏みつけてみせたりもする。


「……―――っ」


 それを見た瞬間、学院長の身体がピクンと小さく揺れ、わずかに眉をひそめた、けど――。


「……わかりました。 今、この瞬間からあなたが我が学院の新たなる拳王です……」


 結局はそう言い、私のことを認めてくれた。


 ――まぁ、ちょっとだけ嫌々言っているような感じではあったけど、そんなのはもうどうでもよかった。


 これで、私もおねーさまと同じ……やっと対等の関係になれた。


 私の心が晴れ晴れとした想いで満ちていく中、足どり軽く――ポンポンと人の山を下りていく。


 それから学院長の正面に立ち、一言。


「あの~。 ちなみに私~、ボクシング部に正面から乗り込んで叩き潰したんですけど~、これで停学とかになったりしますか~?」


 それは、昼休みに学院長が言った『強さが全て』、その真偽を問う質問だった。


「……確認ですが、あなたは不意をついて襲い掛かったり、凶器を使用したりしましたか?」


「いいえ~。 まぁ……挑発はしましたけど、先に手を出してきたのは向こうですし~。 私が使ったのは――」


「――ホラ♪ コレだけで~す」


 言いながら両手をヒラヒラさせて表と裏を見せ、凶器を持ってないアピールをすると、手に残っていた返り血がピッと床に飛び散った。


「――………っ」


 学院長の表情がまた歪み、わずかに息を呑んだ様子が伝わった。


「でしたら構いません……。 一応、倒れている部員の治療が終わった後で事情を聞き、あなたがいま言ったことと食い違いがないかを確認します」


「あなたの話と部員の証言に食い違いがあった場合は拳王の件も含め、結果が変わるかもしれないということだけは覚えておいて下さい」


「――はい♪ 私、嘘なんてついてないですし、別にいいですよ~」


「それじゃあ私、これで失礼しま~す」


 最後に明るくそう言いながらドアの前で軽く一礼し、早々に部室を出ていく私。


 昼休みにアレだけのことを言って私を怒らせたのだから、面倒な事後処理は残った学院長に全て丸投げすればいいと、そう思った。


 ――けど、これでようやく私は念願だった拳王の称号を手に入れた。


 心も身体も軽く、どうせならこのまま寮の部屋まで廊下をスキップして行こうと、そう決めた瞬間――。


「―――っ!!」


 ガクン! と、いきなりその足が止まってしまい、思わず壁に手をついたまま、その場で動けなくなってしまった。


「――………っ!」


 左の、頬が痛い……っ。


 これ、は……虫歯の痛みが一番近いけど、痛いのは外側だし――それに……胸だって……。


 さっきのボクシング部員との戦いは、私の圧勝だった。


 拳なんて一発も当たってないことはもちろん、ほんのわずかにかすらせることすらなく、私は拳王を含む部員全員を叩きのめした。


 それ、なのに――。


「―――っ!!!」


 原因不明の痛みと、湧き上がってくるイラつきが抑え切れず、感情そのままに思わず近くの壁を殴りつけてしまう。


「……―――っ」


 ゾワリと、強まり続ける痛みが私の心臓の鼓動に合わせて広がり、同時に――あの時の教室で映像が、瞳の奥で繰り返し流れ続ける。


 そう……あの時の、頬の痛みと……涙……それが、何度も――。


 何度、も……っ!


「~~~~っ!! 山鷹……ふえる……っ!」


 私の感情がそのまま口に直結し、この原因となってる人物の名を思わず吐き出してしまう。


 ……けど、思い返されるその人物は、まるで痛いのはこっちの方だと言わんばかりに両目から涙をあふれ出していて――。


「―――っ!!!」


 ズキン! と、最後にひときわ鋭い激痛が走った瞬間、さっきまでチラついていた映像が痛みと共にいきなり――フッと消えた。


「………」


 全然意味がわからなかったけど、このことはあまり深く考えるべきじゃないと本能的にそう感じ、今日のところは大人しくそのまま自分の部屋に戻ることにした。


「――――」


 それから迎えた次の日。 偶然――というより、運命の再会……っ!


 休み時間、普通に廊下を歩いていた私の目の前に、いきなりおねーさまが現れたのだった。


 それはちょうど拳王になった日の翌日で、病院で別れてから初めての再会だったため、それで私のテンションもいきなりMAXになってしまい、自分でも何をどう話していたのかよく覚えてない。


 そんな中、おねーさまの口から発せられたひと言。


「さっちゃん、変わったね……」


「~~~~っ!」


 天にも昇る想いだった。


 私が拳王の称号を手にし、おねーさまと同格になったのを、私から言うまでもなくすぐに見抜かれた。


 やっぱりっ! さすがは私のおねーさまっ!


 これで、私もようやくおねーさまと――。


「――臼井うすいさんっ!!」


「――――」


「――はぁ……」


 水を差された。


 それもあるけど、原因不明の頭痛と不快感がまた同時に襲ってきて、思わずため息が漏れ出てしまう。


 私に急に話し掛けてきたのは、山鷹さんだった……。


 人がせっかく幸せな気分に浸っていたのに……少しは空気を読んでほしかった。


 そんな山鷹さんを見ながら、私が少し気持ちを暗くさせていた、その時――。


「―――っ」


 いきなり――ちょうど前方から歩いてきた誰かと、私の肩がぶつかった。


 それは結構な衝撃で、そのせいで私の思考も中断させられてしまい、上半身ごと大きくのけぞらされた。


 ――……何?


 互いに後ろ向きとかならともかく、正面からってことは――。


 これって、もう決定的だよね。


 よくも……私とおねーさまの、大切な二人だけの時間を~~……っ!


 私の胸の奥が燃えたぎるように熱くなり、込み上げてくる感情を抑え切れない。


 そして、そのまま立ち去ろうとしていた女生徒の肩をグイッとつかんで強引にこちら側を向かると、片手を大きく振りかぶり――。


「―――っ」


 命中寸前、私の平手打ちがおねーさまによって止められた。


「………」


 どうして止めたのか、単純に疑問を感じた私はその理由をおねーさまに問いただしていると――。


「―――っ!!」


 ボクシング部乱入の時もかすらせることさえなかった私の顔面が激しく揺れ、再び山鷹さんに平手打ちされていた。


「……~~~~っ!!!」


 途端に私の胸に湧いて渦巻く黒い感情。


 その想いを直接ぶつけてやるつもりで山鷹さんを強くにらみつけ――。


「――~~~~っ! バカッ!!!」


 また泣かれてしまった。


 まるで、あの教室の時の再現……。


 けど……そんな山鷹さんと おねーさまが、何だかお互いにわかり合ってるみたいな感じで見つめ合っていて――。


「――~~~~っ!!」


 この、感じ……これって昨日と同じ……ザワつくような胸の不快感……と、頬に走る激痛。


 ううん……。 昨日よりもっと濃厚で、これまでよりずっと酷い。


 ――そうだ……この痛みの原因……山鷹さんのことが、憎い……っ。


 感情が、抑え切れない……っ!


 私は――。


「――――」


「―――っ!!!」


 瞬間、こめかみを撃ち抜かれたかと思った。


「――――」


 思わず、とっさにそこに触れて確認するけど血はついてない。


 最悪の気分だった。


 言うなら、風邪か何かで具合が悪くなって寝込んでいるところに、いきなり顔面にバケツで水を浴びせられたような……――そんな気分だった。


「~~~~っ!!」


 私をこんな目に遭わせた原因――その人物をにらみつける。


「おねーさまが……やったんですか……?」


 確証はない。 ……けど、確信に近い何かを持った私が、直接おねーさまを問いただす。


「………」


 おねーさまからの返答がない。


 ……どうして? 黙って何も言わないのは、私の言ったことが図星だったから?


 それとも、何か別の――。


「―――っ!!!」


 今度は腕が弾かれたと思った。


 すぐにそこに視線を移すけど、腕は何ともなってない。


 ――けど、これで完全に確信した。


 やっぱり、私の身に走るこの激痛はおねーさまが原因だ。


 何故かって理由を聞かれても困るけど、ともかく間違いなかった。


 普段の私だったら別に大丈夫だったかもしれないけど、特に――虫の居所が悪い……今だけはダメだった。


「……~~~~っ!!」


 頭の中でダメだってわかっているのに、おねーさまに対する悪意の感情がどうしても向かってしまい――。


「――さちっ!!」


 また聞こえた声。


「――――」


 ――そう、だった……。


 勘違いしちゃいけない……忘れちゃいけない……っ。


 今……私の頬がこれだけ痛いのも、胸の奥がザワザワするのも――全部、山鷹さんのせいだった……っ!


 そう……山鷹さん何かと違っておねーさま、は……――。


「――――」


 ――あれ? ちょっと待って……。


 前の……昨日から続いてた、あの痛みも……。 目の前の……この人のせいだ……。


 あ、あれ? あれ? そうだ、私が夢を失った原因も……。 いま心を許せる友達が一人もいないのも……。 たまに他人から白い目で見られるのだって――。


 全部、全部……! 何もかも、目の前にいるコイツのせいだ……っ!!


「天西……鈴音~……っ!」


 一度口にしてみたことであらためて確信する。


 ――もう、ガマンの限界だった。


「―――っ!!」


 とりあえずぶん殴ろうと速攻で距離を詰めて拳を振るった瞬間――何故だかコイツは余裕の態度で目を閉じ、フルフルと首を振っていて――。


「―――っ」


 それを見た瞬間、とっさに動きを止めてしまい、振り上げたままの拳をどうしようと固まっていたところで、コイツが口を開く。


「――せっかく舞台を整えてあげたんだし、どうせならそこで負けてもらえないと~」


 ――上等だ。 望むところだった。


 そこでなら誰にも邪魔されることなく、存分にコイツを叩きのめせる。


 見桜戦という大義名分がある以上、全校生徒の目の前でコイツに恥をかかせてやれる……っ!


 ――うん。 そっちの方がより楽しめそうだし、これまでで一番気持ちのいい戦いになりそうだった。


「――――」


 そうして迎えた見桜戦。


 選手紹介の時に、そういえば剣王は二人いたことを思い出したりもしたけど、それはどうでもよかった。


 ……けど、私の邪魔するようだったら容赦はしない、そう決意した上であらためて正面を見据える。


「――――」


 どうせ私の狙いは最初からただ一人……。 目の前のコイツだけ……っ。


 コイツさえいなくなれば、私とおねーさまとの間に何も障害がなくなり、私は目の前のおねーさまとこれから先、二人で一緒に幸せな時間をずっと過ごすことができる……っ。


「………」


 ――あれ?


 何故だか一瞬、自分が頭の中で何かおかしなことを言ってるような気がして、あらためて考えを整理してみる。


「………」


 ……うん、間違いない。


 やっぱり目の前にいるコイツは私の憎むべき相手で、倒すべき敵だ。


 つまり……おねーさまと私の間に立ち塞がる障害で、それは――。


「―――っ!」


 ズキン! と左頬に走る痛み――。


 おねーさま? 違う……紛らわしい……コイツ……コイツの、名前――。


「――――」


 そうだ、思い出すまでもない。


 長年私が憎しみの感情を抱いている相手……――山鷹 ふえる。


 もう、忘れない……!


 山鷹、ふえる……っ!


 ふえる……! ふえる……っ! ふえる~っ!!


 とりあえず、コイツ……山鷹 ふえるを倒す。


 それからのことは、その後で考えればいい。


 そう考えを整理し終えてから構え、試合開始の合図を待った。


「――――」


 試合が開始されてから1分。


 私、は――。


 当たらない! 当たらない!! 当たらない~っ!!!


 というより、あの力が全然発動しないし、遅くもならないっ!!


「――はぁ……はぁ……!」


「―――っ!」


「――――」


 違う……落ち着け、冷静になれ……。


 試合開始直後からがむしゃらに攻め続けていた私は、無駄に乱れてしまった呼吸を整えるためもいったん大きく後ろに跳び、距離を取った。


 そうだ……これは私が初めて拳王と戦った時と一緒の状態なんだから、まずは相手を怒らせるところから……。


 そう考えながら、私が思考を整理させていた時――。


「――――」


 ……? 何か、聞こえた。


 いま聞こえてきた言葉を、頭の中で思い返してみる。


 ……悪口?


 その口調にあまりにも悪意も敵意も込められていなかったため、それが悪口なんだと理解するまでしばらくの時間を要してしまった。


 ……でも、何で急にこんな、不自然な……。


「――――」


 考えようとしたところですぐに思い至る。


 そういえば……これまでのコイツの動き……やけに私の攻撃をギリギリでかわしていて、それなのに妙な余裕があって……。


 ――もしかして……。


 今……コイツの目には、私の動きが遅く見えてる?


 そう仮定するなら、色々と合点がいく。


 けど……っ!


「……~~~~っ!!」


 何でこんなヤツなんかが、おねーさまからもらった私と同じ力を……っ!


 っ! ――違うっ、落ち着け……!


 コイツはおそらく今の私と同じようにあの力の仕組みを理解していて、その力を安定して発動させるため、あえて私を挑発してるんだ。


 ――そうとわかれば話は簡単だ。


 相手の思惑がわかった以上、これから私のすべきことは相手の挑発に乗らず、意識的に自身の怒りを抑える。


 それからどうにかして、逆に向こうを怒らせて――。


「――――」


 また聞こえた悪口……。


 落ち着け……ここで挑発に乗ったら、コイツの――。


「――ブス~」


「……――~~~~っ!!!!」


 許せなかった。


 それだけは、どうしても聞き流すわけにはいかなかった。


 私が、ブス!? ――クソッ!! 


 アンタに――その原因を作った、お前だけには言われたくなかったのにっ!!


 私が、これまで……一体どんな思いで……っ!!!


「~~~~っ!!!!」


 そのまま――爆発させた感情そのままに拳を振り続け――。


「――――」


「―――っ!!」


 ビクッ! と、逆にこっちの方が驚いた。


 今までどんなに振り回してもかすりすらしなかった私の拳が、いきなりコイツの顔面に直撃したのだから。


 瞬間――。


「――~~~~っ!!!!」


 これまでの中で最大級、最高レベルの激痛が私を襲った。


「――――」


「――――」


「――はぁ……はぁ……はぁ……」


 いつの間にかチカチカとしらんでいた視界が徐々に元に戻り、私は呼吸を荒くさせたまま……彼女から大きく距離を取っていた。


 何だか……すごく長い夢を見てた気もするけど、何も思い出せない……。


 けど……今ハッキリとわかっていることが、ひとつ……!


「――~~~~っ!!」


 痛い、痛い、痛い~~っ!!!


 今までのパターンだと、時間経過とともにしばらくすると治まっていった頬の痛みが、ますます酷くなっていく一方だった。


 この、痛みは……――今の私は、明らかに異常だ。


 それ、でも……っ!!


 目の前のコイツをぶん殴るっ!


 さっきみたく……もう一度っ、何度だって……! コイツが、倒れるまで……っ!


「―――っ!」


 そう意気込んで再開させた最初の攻撃は空振り。


「――~~~~っ!」


 たったそれだけで私のヒザがガクンとなって崩れ、体勢も大きくヨロけてしまう。


 私の身体はとっくに限界。


 それでも憎む。 憎まずにはいられない。


 憎い! 憎い!! 憎い!!!


 体勢が崩れてほとんど後ろ向きに近い状態の中、無理やりに腕を振るう。


「――――」


 当たりはしなかったけど、明らかにスピードが上がったのが自分でもわかった。


「―――っ」


 ポタポタと、大量の汗が全身を伝う中、口元にニヤリと笑みが浮かぶ。


 新たな――別の力の使い方がわかった。


 相手を憎む、敵意を込める。


 そう思う度に私の拳が鋭く、速く、重くなっていく。


「――――」


 けど、それでも当たらない……っ。


 つまり――足りないんだ……。


 憎しみや悪意なんかでも、まだ足りない……。


 だったら――。


 それを超える――……殺意ならっ!


「――――」


 肩が外れたかと錯覚するほどの衝撃とともに腕が消え、同時にアイツの前髪が数本、宙を舞った。


「――~~~~っ!!!」


 直後、頬に走る激痛。


 痛い! 痛い!! 痛いっ!!!


 何で私がこんな思いをしなきゃならないんだっ。


 あの時叩かれた頬が痛い。


 私が夢を諦めた原因……――ふえるっ!


 この痛みの原因……――ふえるっ!


「――――」


 そうだ……そもそも拳で殴ったぐらいじゃ、人は簡単に死なない……。


 ……――だったらっ!!


「――――」


 これまで固く握っていただけの私の拳が、振るっている途中から形を変え、そこから指先が伸びる。


 狙いは顔面。 ――というか目を狙った。


 そう――目に直撃したら指をさらに奥へ突き刺し、その目をえぐり出す。


 最初に触れたのが喉だったらその喉を握り潰し、そのまま全力でねじり切る。


 それが胸だったら身体の中心に腕ごとねじ込み、貫通させる。


「――――」


 身体の重心がさっきから安定せず、視界だってボヤけてかすみ、さらには焦点さえまともに合わなくなってきた。


 原因はわかってる……まだ、足りないんだ……。 私の――この殺意がっ!


「―――っ!」


 私の人生を狂わせた元凶……ふえるっ!


「――ふえる! ふえる!! ふえるっ!!!」


 さらに、さらに――私の放つ攻撃が鋭さを増していく。


 憎むべき相手の名前を叫ぶ度、私の動きが天井知らずに上がり続けていく――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る