第11話 臼井 さちの見た世界 ① 『アイドル』

 そう言って目の前の女の子――ふえるちゃんが嬉しそうにまた拍手する。


「まあね~♪ 何たって私の夢は世界のトップアイドルになることなんだからっ!!」


 エヘンと腕組みしながら、さちがそう宣言する。


 その自信もあったし、それに見合うだけの努力もしているつもりだった。


 顔だって、まぁ……そんなに悪い方じゃないし? ――っていうか、むしろ美少女だし?


 歌やダンスだってそう――同い年で私より上手い子に、これまで一度も会ったこともない。


 きっと私は、世界一のアイドルになるための才能を与えられて生まれてきた、神様に選ばれた子なんだ……っ!


「うんうん! さっちゃんならぜ~ったいになれるよーっ!」


 まるで今の心の声が聞こえたかのような反応で、ふえるちゃんがグイグイと私に迫ってくる。


「――………」


 けれど、私はそんなふえるちゃんを見ながら瞳を半眼にさせ、軽く息を吐き出し――。


「相変わらず……私の歌とダンスを見た後のふえるちゃんはまるで別人だね~」


 そう言いながらおもむろに近づき、ふえるちゃんの表情をきちんと確かめるために少しだけ身を低くさせ、下から覗き込む。


「……え? ――ぁ……っ」


 その瞬間、今まで明るく元気だったふえるちゃんの態度がまるで風船がしぼんでいくかのように縮こまり、同時に顔も真っ赤に染まった。


「――――」


「でもいーな~、ふえるって名前。 何だか、芸能人みたいでかっこよくて~」


 そう言いながら手にしていた水筒で喉を潤し、今まで私を応援してくれたふえるちゃんのすぐ真横に座る。


「そ! そんなことないよっ! 私なんてさっちゃんと比べたら勉強もスポーツも全然ダメダメで~っ!」


「ん~~……」


「――――」


 立てた自分のヒザを枕代わりにしながら、いまだ隣でせわしなく話すふえるちゃんを観察するかのようにして眺めつつ、ふと思う。


「ん~……やっぱり――ふえるちゃんって普段は大人しいのに、私のことになると急に声大きくなるね~」


「――ふえるちゃんはすっごくカワイイんだから、いつもそうしてればいいのに~……」


「――ええっ!? カ、カワイイって、そんなのウソだよ~っ!」


「そ、それに私、さっちゃん以外の子とはあんまり長く話せないし……。 さ、さっちゃんがずっとお友達でいてくれるんだったら、私はそっちの方が――」


「そうかな~? 色んな人と話すのも、それはそれで楽しいと思うよ~?」


「……でも、ありがと♪ ――ずっと友達でいようね、ふえるちゃん♪」


 そう言いながら私が目の前にスッと、小指を差し出すと――。


「うん!」


 ふえるちゃんがパッと花が咲いたような満開の笑顔を見せ、小指を絡めて指きりしてくれた。


「――――」


「――――」


 瞬間――流れていた映像がパッと途切れ、通常の景色に戻った。


 あ、あれ? 何だったんだろ……今の……。


 今の、って……小さい頃のさっちゃんとふえるちゃん?


 ――にしては、さっちゃんがすっごく元気で社交的で、それとは逆にふえるちゃんがすっごくオドオドしてて~……。


 もしかして、あれって……さっちゃんの見た過去の記憶? それとも夢?


「―――っ!」


 ズキン! と、再び頬に走る痛み。


 その痛みと、一緒に伝わってくるのは……また、同じ――。


「――――」


「――――」


 それは――同じ小学校に通う私とふえるちゃんが、いつも通学に使っている電車を待っていた時のことだった。


「さっちゃん、今日もおけいこ?」


「うん、そうだよー。 ダンスでしょ、ピアノでしょ~、それとボイストレーニングッ!」


「えぇーっ! そんなにやってたの!? からだ、大丈夫? つらくない?」


「え? 何でー? ぜ~んぜん! だって私が好きで始めたことだし、すっごく楽しいよ~♪」


「それからねー、ピアノはまだまだとして、歌とダンスはすっごい才能があるって、先生が私のことほめてくれるんだー!」」


「へぇー!! やっぱり~っ! たしかに、音楽とかにあんまりくわしくない私から見てもさっちゃんの歌とダンスはとってもすごいと思うし、それに何だかすっごくキレイな感じもする~」


「そう? ――ふふっ♪ ありがと、ふえるちゃん♪」


「けどね~……ああいうトコの教室の先生って、生徒にやる気を出させるとかで、きっと誰にだって同じこと言ってるんだよー?」


「っ! そ、そんなことない!! ぜったい、ぜったいに違うよっ!!」


「――――」


 急に叫び出したふえるちゃんにグイッと肩をつかまれ、無理やりに正面から向かい合ってしまう。


「さっちゃんにはすっごい才能があるって、私そう思ってるし! だ、だから……ぜったいっ!!」


「――――」


 それは、嘘偽りを感じさせることのない……純粋で、真っすぐな瞳……。


 そんなふえるちゃんを見ながら、私は――。


「あ、あの……ふえるちゃん……顔、近いんだけど……」


 チラッと、微妙に視線を逸らしながら、顔も熱くさせてしまう。


「……え!? ――あっ! ゴ、ゴメン……ッ!!」


 言われた瞬間、いつもの調子に戻ったふえるちゃんがパッと身を離し、その顔を真っ赤にさせる。


「――………」


 そんなふえるちゃんを見ながら、私は一度だけ小さく微笑むと――。


『――でも、ありがと……』


 と、そこからだと絶対に聞こえない声の大きさで、小さくお礼をつぶやいた。


「……ん? さっちゃん、何?」


「えっ!? い、いや~~……――そ、その傘っ! すっごくカワイイって、そう言ったのっ!!」


「え? コレ? えへへ~、そうかな~?」


「この傘ね~、私からお母さんにどうしても欲しいって何度もお願いして、それで買ってもらったんだ~」


「そ、そうなんだー。 へ~、見せて見せて~」


「うん、いいよ~。 ちょっと待ってね~」


 ふえるちゃんが持っていた傘の止め具をいそいそと外し、私にもちゃんと見えるようにしてくれる。


「この傘ね~、いつもはただの花柄なんだけど、水に濡れるとアジサイの葉っぱとカエルさんが浮かび上がってくるんだって~」


「私も楽しみにしたいから、まだちゃんとは見たことはないんだけど~」


「へ、へ~……。 思った以上のこだわりがあったことが逆にびっくり~」


「それだけじゃないよ~……――っと。 こうして下から見ると裏にヒマワリの絵柄があって~――」


 そのまま傘を広げてみせたふえるちゃんが、いかにも嬉しそうな様子で絵柄の説明を続けていた中――。


『――まもなく、一番線を電車が通過いたします。 危ないですから、黄色い線までお下がりください』


「――――」


「――――」


 それは――通過した電車の風圧か、突然の突風か。


 あるいは、その両方だったのか。


「―――っ」


 どちらにせよ、傘を広げていたふえるちゃんの全身が瞬間的にフワッと宙に浮き、そのまま走る電車の方へ吸い込まれていった。


「――え?」


 その時のふえるちゃんは、自分に何が起こったのか全くわからないといった、そんな顔をしていて――。


「―――っ」


 助けなきゃ! と、考える前に私の身体はとっくに動き出していて――。


「………―――っ!!!」


 ギリギリ、何とか手の届いたさっちゃんの手を必死になってつかみ、こちら側へ思いっ切り引き寄せた!


「――――」


 ――あ。 と、思った時にはもう遅かった。


 気付くと――私とふえるちゃんの位置がきれいに入れ替わっていて、それはつまり――。


「――………」


 私の身体が、まるで……スローモーションのように遅く……。


 目の前を高速で通過する……電車の横腹へ、吸い込まれていき――。


「――――」


「――――」


「………」


 ……え? ――ちょ! こ、ここで終わり!? 嘘でしょ!?


 この後ってどうなったの!? 続きは!?


 あの子――さっちゃんは無事なの!?


「―――っ!」


 あ、来た……この、痛み……っ!


「――――」


「――――」


「………」


 何、だろ……? 誰かの……泣き声……?


「――ふぇ……?」


「さ、さっちゃん目が……! 起きてるの!? さっちゃん! 私だよ! わかる!?」


「っ! 目が動いて……っ!」


「えーと、えーと~……私! 先生呼んでくるっ!!」


 今の子……誰だっけ……。


「………」


 ダメだ……何か、まぶたが……すごく、重い……。


「――――」


「――――」


 ……あれ? ……目が開かない……人の、声?


「ほ、ほんとうですっ! ウソじゃないですっ!! 本当にさっきまで目を開けてて……それに目だって動いて――」


「――――」


「――――」


「ふえるちゃん……気持ちは嬉しいけど、毎日毎日、こんな遅くまでいてくれなくてもいいのよ?」


「ご両親だって心配するでしょうし、夜は危ないでしょ?」


「へ、平気ですっ! 両親はいつも家にいませんし、家の者が迎えにくることになってますから」


「ダ~メ。 今日は仕方ないとして、明日からは遅くても5時までには必ず病院を出ること、さっちゃんママとの約束よ、いい?」


「5時って、そんな……さっちゃんがこうなったのは全部私のせいで――」


「コラ! 前にも言ったけど、違うでしょ?」


「あれは事故……。 誰のせいでもないの、わかった? それ以上言うと、さっちゃんママ本当に怒るよ~?」


「――ハイ……。 すみません……すみません……」


「だーかーらー」


「………」


 声は聞こえてくるけど、何だか音って感じで、意味が頭の中に入ってこない。


 ただ、眠い……。


「――――」


「――――」


「早いね……さっちゃん……。 あれから二週間だよ……」


「やっぱり……さっちゃんのいない学校はすごく……すごく寂しいよ……」


「――グスッ! ゴ、ゴメンねっ、暗い話ばっかりで!!」


「き、今日は学校で調理実習があったんだけど、私ってばそれですごい失敗しちゃって――」


「――――」


「――――」


「さちさ~ん、おはようございまーす。 今日もすっごくいい天気ですよ~」


「今からお身体お拭きしますので、少し前の方はだけさせますね~」


「失礼しま~――って、あら? あらあらあら!?」


「さ、さちさん! 大丈夫ですか!? ここは病院ですっ、わかりますか!?」


「……――ぁ……」


「大変っ! すぐ先生呼んでこないと……!」


「さちさん! 聞こえてましたら何とかそのまま、意識を保ってて下さいっ! また、すぐ来ますから!」


「――ぅ………ぁ……」


 何、だろ……。 すごく声が出しにくいし……それから……眠い……。


「――――」


「――――」


 あれ? もう夜?


 ――っていうか、ここって病院?


 そっか……私、あの時ふえるちゃんを助けようとして、そのまま……。


 それより、昼間は声どうしたんだろ。


「――ぁ……ぁ……」


「ぁ……ぁ~……」


「――ぁ……――ぁあ~♪」


 あ、何か調子出てきた。


 ん~、何だか今夜はちっとも眠くないし、身体も疲れてよく動かないから、このまま眠くなるまで発声練習でもしてよ。


「――――」


「――――」


「ん……ぁ……」


 また寝てた……。 もう日が昇って……――夕方!?


「あー、あー」


 ――うん。 声はもう大丈夫みたい。


「さちー。 調子はどう~? 新しい着替え持ってきたわよ~」


「――あ。 おばさま、私手伝います」


 ……あれ? うーん……え~っと……。


「……うん。 おはよう、お母さん。 それに、ふえるちゃんも……」


「「――え?」」


 私の声を聞いた瞬間、二人がキョトンとした顔になって同時に私の方を向き――。


「えええ~~~~っ!!!!」


「さち……さち……さち~~っ!!」


 いきなり大声を上げたふえるちゃんに、その場でうずくまって泣いてしまったお母さん。


 え、え~っと……。


 親に泣かれてしまったのは初めての経験で、ふえるちゃんのあれだけ大きな叫び声を聞いたのも初めてな気がする。


 そのまま……しばらく私が途方に暮れていると――。


「――おや? おや、おや、おや、おや~?」


「おぉ……っ! アナタは臼井うすい さちさんっ!!」


 そう言いながら開けてあったドアから入ってきたのは、見覚えのない白衣の男性。


「アナタがこの病院に搬送されてから約一ヶ月……ようやくお目覚めになりましたかっ!!」


 ――え? 一ヶ月、って……?


「いや~、それにしてもアナタは本当に素晴らしい!!」


「あの事故が起きた瞬間の映像は、駅の監視カメラの記録をお借りして見せてもらいましたが、あの瞬間――」


「目の前のご友人を助け、なおかつ自分も死ぬことなく助かる……っ!」


「断言してもいいですが、もしアナタと同学年の子が同じ状況に置かれたとしたら、100人中99人――いえ、1万人中9999人はそのまま立ち尽くしていたか、あるいは仮に友人を助けることができたとしても、自らの命を落としていたでしょうっ!」


「――たしかにっ! アナタの顔には一生消えないキズが残り、手足も元の機能を取り戻せるかいまだ不明ですが、それはアナタにとって誇っていい勲章です!」


 ――え?


「動かせない手足も、今後のリハビリでいずれ――ちょ、あれ?」


「せ、せんせ~? あの~、ちょっと部屋の外でお話が~」


「な、何ですか!? 私は今っ、アナタのお子さんがいかに素晴らしいかの話をしていて――」


「と、戸松先生~っ!! いいですからホラ~、外行きましょ~!?」


「キ、キミまで何だね! 私は――」


「――――」


 お母さんと病院の先生……。 それから横に付き添っていた看護師の三人が、慌ただしく部屋から出ていってしまい――。


「………」


「………」


 ――ポツン、と……この場に取り残されたような形になった私とふえるちゃん……。


 そこに――。


「あ、あのね……私、さっちゃんが起きたらずっと伝えたかったことが――」


「――ねぇ、ふえるちゃん」


 ふえるちゃんが何か言っていたようだったけど、それよりも先に気に掛かることがあった。


「そこに置いてあるのって鏡だよね? ちょっとそれ、取ってくれる?」


「――……え?」


 ピクッと一瞬だけ、ふえるちゃんからわずかに動揺する気配が伝わってきた。


 そんなふえるちゃんを見ながら、私の胸中で渦巻く不安が大きく広がっていく。


「私もさ、自分で取りたいんだけど……さっきから何だか身体が上手く動かせなくて……」


「――だからふえるちゃん……私の代わりに、そこの鏡とって?」


 こんな言い方をされたら、ふえるちゃんは絶対に逆らえない。


 我ながら卑怯だと思いつつも、それよりも今は自分の状態が気になってしょうがなかった。


「――う、うん……」


 少し怯えて、腰が引けてるような感じになったふえるちゃんがすぐ近くにあった手鏡を私に持ってきてくれる。


 その際、ふえるちゃんの指先がかすかに震えていたのが目に入ったりもしたけど――。


「――ありがと」


 私はそれにあえて気付かないフリをし、何とかまともに動く右手でその鏡を受け取る。


「―――っ」


 ゴクリと、勝手に鳴ってしまう喉。


『一生消えないキズ』


 さっきの先生がそう言ってたのを思い出しながら、恐る恐る鏡の中を覗き込む。


「――………」


 覚悟していた私の口から、小さく息が漏れ出る。


 私の左目にはかなり大きめガーゼが貼り付けられていて、その上を包帯でグルグル巻きにされていた。


 それを見ながら――。


「ねぇ、ふえるちゃん。 顔のガーゼ、外してもらえる?」


 ふえるちゃんに続けてそうお願いする。


「――え……でも……」


「ちょっとめくるだけでいいから……お願い」


 感情を抑えて……なるべく普段通り……お母さん達が戻ってくる、その前に……。


「――……う、うん……」


 何やら怯えたような感じになったふえるちゃんが腕をプルプルと震わせながら、鏡の中に映るガーゼに、そっと指先を触れ――。


「――――」


 腐り切ってブヨブヨで、赤黒く変色したリンゴ……。


 そんなイメージが、とっさに浮かんだ。


「―――っ」


 左まぶた近くに見えた傷口をとっさに手で触れて確認しようにも、反対側の左手が動かない。


「――……ありがと……もういいよ」


「――――」


 さらには、どうやら脚すらもまともに動かせないような感じで、今の私は普通に歩くことすらできないのだと気付かされる。


 私の夢は世界のトップアイドルになること――だった……。


 顔に傷のあるアイドルなんて見たこともないし、いるハズもない。


 私の夢は今、ここで終わったんだ……。


「……――~~~~っ」


 ――あ、ヤバイ。 瞳の奥からこみ上げるものを感じる中、私の目の前にはふえるちゃんがいたのを思い出す。


「――あのさ、ふえるちゃん……私の手足のこと、何か聞いてる? 正直に答えて」


 あ、何だか語尾が荒くなってる。


 だめだ……自分の心が――感情が、上手くコントロールできない。


「――う、うん……。 一年か二年リハビリを頑張れば元の機能を取り戻せるかも、って……」


「けど――」


「……けれど、もしかしたら取り戻せないかもしれない……って」


「――そう……」


 とりあえず聞いてはみたけど、実のところどうでもよかった。


 リハビリをすれば手足が良くなって元通りに動かせる……。


 けど……その良くなった先に、私の夢見たアイドルの道はもうないのだから……。


「ゴメンなさい……ゴメンなさい……。 本当に、ゴメンなさい……」


 消え入るようなふえるちゃんの謝罪を何度も聞きながら、私の心がさらに冷たくなっていく。


「あのさ、ふえるちゃん……。 悪いけど……少しだけ一人にしてもらえる……?」


「あ! あのっ! さっちゃん、私ね――」


「――ふえるちゃんっ!!」


 ほとんど怒鳴るような叫びで、意識的にふえるちゃんの言葉をさえぎる。


「一人にしてって……私、そう言ったよ?」


 怒りがこもっていたであろう私の目を見たふえるちゃんがビクッとなり、その場から距離を取る。


「――う、うん……わかった……ゴメンね……」


「――――」


 言われたふえるちゃんがジリジリとなって後ずさっていき……そこから――ダッと、逃げるように病室から出ていってしまった……。


「………」


 これで……この部屋には、誰もいない……。


 だったら……もう、何の我慢もしなくていい。


「―――っ!!」


「う、うわああああああああっ!!!」


「――――」


 小さい頃から、ただアイドルになることだけを夢見て、自分なら絶対になれると信じ続けていた。


 その夢が消えた今、私は何を目指し……何のために生きればいいんだろう。


 今の私は……ただ生きているだけ……もう、何もない……。


「――――」


「………」


 カラッポになってしまった私は、その後――病院の先生やお母さんから色々と何か言われたようだったけど、その内容についてはよく覚えていない。


 ただひたすらに……もう、どうでもよかった。


「――――」


 病院での入院生活は、車イスでの移動になった。


 トイレに行くことすら一人でできなくなり、その度にナースコールを押す……。 そのことがどうしても心苦しく、申し訳なく思ってしまう。


 そして、それから毎日――。


 お見舞いに来たふえるちゃんが、気晴らしや気分転換と称しながら、私の後ろにまわって車イスを押し、中庭で一緒になって散歩してくれる。


「――――」


 そんな散歩をしていた最中さなか――急にお腹が痛くなってしまった私はトイレが我慢できず、友達であるふえるちゃんにトイレ介助をお願いしてしまったことがあった。


 その時……私は自分自身というモノが、すごくみじめな存在に思えてしまってしょうがなかった。


「――――」


 病院の中庭で車イスを押しながら、私と一緒に散歩をしてくれるふえるちゃんは、これまでとは別人と思えるほどに明るく元気で、色んな楽しい話を聞かせてくれた。


 けど、それは……今までの優しくて気弱な、本当のふえるちゃんを知ってる私からすれば無理をしているのが見え見えで、それだけあの事故がふえるちゃんに強い罪悪感を感じさせてしまっているのだと思うと、ますます心の内が暗くなってしまう……。


「――――」


 そんな日々がしばらく続いていた中――私は何かのついでのように、しばらく自分が笑っていない事実を思い出したりした。


 けど……よく考えてみたらそれは別にどうでもいい、私にとって何の意味も無い些細なことのように思え、次の瞬間には私がそう思い出した記憶すら闇に溶け、消えていった……。


 そんな、意識が虚ろな……まるで人形のような日々を過ごしていた、ある日――。


「――――」


 クシャッと、何か乾いた感じの音が車イスの下から聞こえてきた。


 私の視線がそれに合わせて自然と少し後方の足元を向くと、そこには車イスのタイヤで踏み潰された、一匹のセミがいて――。


「ぅわぁ……」


 虫全般……というか、チョウチョですら苦手だった私は、グチャグチャに踏み潰されたセミを見ながら顔を軽く引きつらせ、小さなうめき声を上げてしまった。


「え、何!? どうしたの!? さっちゃん!!!」


 そんな私のどうでもいいつぶやきに、やたらと過剰反応したふえるちゃんがグイグイと迫ってくる。


 何で……と考える途中で、すぐに思い至る。


 そういえば私……これまでの散歩や、お見舞いの度に話し掛けてくれたふえるちゃんの話をほぼ完全に無視してて、反応らしい反応を見せたのはこれが久しぶりだったかもしれない。


「何を……――っ! う、うわ~っ、セ、セミが死んでるね~!!」


「――――」


 無理して明るく振る舞ってるけど知ってる。


 ふえるちゃんは私以上に虫が苦手で、虫の種類と状況によっては見ただけで泣き出してしまうほどだった。


 ましてや潰れたセミの死骸なんて、本当だったらすぐに逃げ出してもおかしくないハズ、なのに……。


「さ、さっちゃんは今これ見て笑ったの~!? き、気持ち悪いよね~っ!!」


 ピクピクと、話すふえるちゃんの口の端が微妙に引きつってる。


「で、でもね~!? こ、こうすると――もっと気持ち悪いよ~っ!!」


「~~~~っ!!」


「――ホ、ホラ~~ッ!!」


 そう言いつつ、目の端にわずかに涙を浮かべながら、潰れたセミを何度も踏みつけ、グシャグシャにする。


「――――」


 ――気持ち悪いと思った。


 グチャグチャに潰されていくセミの死骸も……それを嬉々として踏み続けるふえるちゃんの姿も……。


「あ~っ! さっちゃんまた笑った~!」


「そっか~! さっちゃんって、こういうのが好きなんだ~っ! そっか~、そうなんだ~っ!」


 ――え? 私……笑ってた?


 ふえるちゃん、違うよ……? 私は今、笑ってたわけじゃなく――。


「――………」


 そういえば……私だけじゃなく、ふえるちゃんの笑った顔を見たのも久しぶりだったかも……。


 だったら……私が余計なこと言わなくていいの、かな……?


 そう思いつつも、どこか普通とは違って見えるふえるちゃんの笑顔を見ながら……――『私は間違えた』。


 何かはわからないけど、決定的な何かを間違えてしまった……と、そんな感覚だけが残った。


「――――」


 そんなことがあってからほどなくし、無事に病院を退院して登校した私は、学校でのふえるちゃんの言動を見て、言葉を失ってしまった。


「――――」


 ――バチン! と、教室の中で甲高い音が鳴り響き、見ると一人の女の子が顔を押さえながらふえるちゃんの前でうずくまっていて――。


「生意気ですわよ、アナタッ!!」


「何ですの、その目つきは! 私に何か言いたいこと――文句でもあって!?」


「それとも私にケンカでも売ってますの!?」


「――――」


 端から見てて、ひどい言いがかりだった。


 その上、さらに――。


「それといいかしら!? 私のお父様は県の議員で、この学校にも多額の寄付金をしてますの! ――わかる!?」


「アナタ程度を退学にするくらいワケないんですのよ!?」


「………」


 なんというか、最低だと思った。


 たかが子供同士のケンカに自分の親の権力を振りかざし、それを利用して脅す。


「~~~~っ!」


 言われた側の相手の子は、頬を押さえながらグズグズと鼻を鳴らし、涙をポロポロとこぼしながら泣いていた……。


「――――」


 それから――ことあるごとにふえるちゃんは他人と衝突し、その度にケンカとなる。


 以前までのオドオドしていた感じなんて影すら見せず、他人との距離をズカズカと無遠慮ぶえんりょに詰めて自分の言いたいことを何でも言い、その内容も厳しく、トゲがある。


「――――」


 そんな中、ふえるちゃんがたまに私の方にチラッと目線だけ送ってきて、一瞬だけ目が合う。


 ……? 何だろ……。


 何にせよ……ふえるちゃんはもう変わってしまった。


 あの頃の……私だけの知る、優しかったふえるちゃんはもうどこにもいない。


 そのことが……何だか無性に悲しく思えてきてしょうがなかった。


「――――」


 ふえるちゃんは変わった。


 性格もそうだけど、大きく変化して特徴的になったのはその言葉遣いだった。


 今まで自分のことを『わたし』と言っていたのを『わたくし』と言い換え、その口調もどこか芝居がかっているというか、まるでドラマや映画に出てくる性格の悪い女の人――みたいな……。


 あるいは、アニメやマンガの中でよく出てくる金髪縦ロール、お金持ちでお嬢様だけど性格が高飛車の……悪女? のようで……。


 それから、ふと気付いた時にはふえるちゃんが私のことをさっちゃんじゃなく臼井うすいさんと呼ぶようになっていて、それに合わせて私もふえるちゃんのことを山鷹さんと呼ぶようにした。


 そんなふえるちゃん――山鷹さんは何かある度に散々まわりと衝突して、信じられないぐらいたくさんの敵を作ったけど、それと同時に私以外にも普通に話すことのできる友達が何人かできていった。


 そして、そんな山鷹さんとは真逆に、私の方は人付き合いがどんどん苦手になっていき、それで口数や友達もしだいに減ってしまい――。


「――――」


 ついには教室で仲の良いと思える友達が誰もいなくなり、体育のグループ分けや修学旅行の班決めの時なんかでも、山鷹さんの方から誘われて一緒になった。


 それはきっと……私に対しての同情か、罪滅ぼしの念からくる行動なんだと思う。


 そのことがわかってしまうからこそ、私は一定のライン以上から山鷹さんに踏み込むことができず、表情だってより固く、暗いものになってしまう。


「――――」


 そのまま時は流れ、高校生になった私。


 時間は掛かったけど、身体の方もとりあえず一般的な機能を取り戻すまでに回復し、通常の日常生活を過ごせていた。


 当たり前――というか、当然のごとく左まぶたの近くにできた傷痕は消えずに残ったままで、それは片側だけ伸ばした前髪で隠すようにしていた。


 なるべく遠く、知り合いが少ないという条件のつもりで選んだ見桜学院だったけど、そこには何故か山鷹さんと鳥間さんもいて、二人とはまた同じクラスになった。


 二人はいつも昔から一緒で仲が良いから、多分どちらかが見桜を受験したいと言い出し、それに合わせたんだろうな、と思った。


 ――けど、さすがに学生寮に住むのは私だけだったようで、二人は少し遠いながらも自宅から通学するそうだった。


 私も最初は普通に両親から反対されたし、おそらく私の方が珍しいのだと思う。


 ちなみに『鳥間とりまさん(本名:鳥間 マキ)』――とは、前に山鷹さんが思いっ切り顔をひっぱたいて泣かせたあの子で、それ以来どういうわけか山鷹さんのそばから常に離れず、そのまま二人は仲の良い友達になっていった。


 それから、同級生で同い年の山鷹さんのことを何故か『おねえさま』と呼び、とても慕っていたりもする。


 そして、昔からの付き合いで仕方なく一緒にいるだけで、誰も友達もいない性格の暗い私に対し、あまりよくない感情を持っているのがひしひしと伝わってきて――。


 ……そんなワケもあって、私は鳥間さんに対し少し苦手意識を持っていたりした。


 それと――これは入学した後で知ったことだけど、この高校は女子校なのに何故か戦うことに重きを置いているという、少し変わった学院だった。


 そのことが顕著に表れるのは昼休みで、教室に備え付けてあるテレビに生徒同士が会場で戦っているライブ映像がたまに流れ、それでクラスの一部が盛り上がったりしてたけど、そういったことに全く興味の無かった私にとってはどうでもよかった。


 最初に変わっていると思っていたこの学院生活も一ヶ月もしない内に慣れ、他の学校より体育の授業が若干多く、昼休みに多少騒がしくなる程度の認識になっていた。


 それ以前に――私の中での戦いのイメージは、痛くて野蛮。


 ましてやそれが女子ともなると、もう不良という単語しか浮かばないって、そう思っていた。


「――――」


 ――あの日、あの時までは。


 それは――ある何でもない日の昼休み、私が普段通り教室の片隅で一人お弁当を食べていた最中さなか、教室全体からいきなり沸き起こるような歓声が上がった。


 昼休みに教室が騒がしくなるのはいつものことだったけど、今の歓声はその中でも群を抜いて大きく、何とも言えないような一体感があった。


 さすがの私もそのことに少しだけ興味を引かれ、クラスのみんなが注目しているテレビ画面に視線を移した。


『――――』


 そこには、神がいた。


 少なくとも私にはそう見えた。


 神……というか――戦っている女生徒の姿が、まるで女神さまのようになって私の目に映った。


 二人は互いに剣道の防具を身に着けていて、その顔までは見えないけど、そんなのは関係なかった。


 私が注目していたのは、その戦い振り――特に実況で、天西選手と呼ばれていた彼女の動きから目が離せなかった。


 彼女と戦っている対戦相手だって負けてない。


 途中から着ていた防具を自ら脱ぐことでその身を軽量化させ、そこからまるで自身が風と化したかのような嵐の猛攻を仕掛け続ける。


 けれど、相対する彼女から繰り出される剣技は、あまりにも別次元で――そして、あまりにも速すぎた。


 放送部の撮影用カメラはもちろん、会場全体を見下ろす広域カメラですらその姿がブレてしまい、まともに目で捉え切れない。


 そんな中――私は確かに見た。


 彼女の背中から広がる双翼の翼と、その剣先から放たれる、輝かしい閃光を――。


「――――」


 そして……そんな二人の戦いの行方は私の期待を裏切ることなく、私の女神さま――天西先輩の勝利という形で決着した。


 それから、決着の瞬間のリプレイ解説をしているところで時間となり、昼休みが終了した。


 結局――最後の最後まで私の女神さまは防具を身にまとったままで、その素顔を知ることは叶わなかった。


 戦うことは野蛮で品がないと勝手に思い込み、今でも戦いの良さについては疑問に思うことの方が多い、けど――。


 それでも、わかったことがひとつだけ……。


 ――戦う彼女は、美しい……。


「――――」


 次の休み時間、山鷹さんの方から話し掛けられた際、ついさっきの昼休みでの戦い、特に天西先輩がすごかった~、ということを話題にしていた。


 その時の私は多分いつになく冗舌じょうぜつで、少し嬉しそうな顔をして話していたと思う。


 そっか……私、いま楽しいんだ。


 それは、かつてアイドルになることを夢見ていたあの頃の感情と少し似ていて……とても懐かしい感覚だった。


「――――」


 ――あれ? 山鷹さん……。 何だか……顔が、怖い?


 クラスのみんなだって、さっきからこの話題で持ち切りなのに、何で……――って、そっか……。


 考えようとしてすぐに思い至る。 山鷹さんってば、きっと……自分以外で目立ってる人の存在が許せないんだ……。


 全く……しょうがない――っていうか、相変わらずだな~。


「――――」


 それから日付が変わった後も私は、山鷹さんとの会話でどうしても天西先輩のことを話題にしてしまい、その度に山鷹さんを不機嫌にさせてしまった。


 その中でも、私も剣道やってみようかな~って、言った時の山鷹さんのあの顔、忘れられない。


「――――」


 何だかすっごく怖い目をしてた……気がする。


 その隣にいる鳥間さんも、すっごい私をにらんでたし……。


 何だか、少しだけ……嫌な感じだった。


「――――」


 次の日の昼休み、新たな剣王となった天西先輩に、今度は一年生が挑戦してきたということで、クラス中がその話題で持ち切りとなった。


 その戦いの様子はいつも通り、教室にあるテレビで生中継されるだろうけど、私は居ても立ってもいられなかった。


 昼休み――待ち切れなかった私は、ちょっと急だったかもしれないけど、昼食を食べ終わってすぐの山鷹さんを多少強引気味に誘い、直接会場へ向かっていた。


 山鷹さんはやっぱり天西先輩に苦手意識を持っているのか、すごく嫌そうな顔をしていたけれど、それでも一応ついてきてくれた。


 それからちなみに、おねえさまに付き添うという名目で、鳥間さんもその後からついてきていた。


 その後――山鷹さんが途中で急にトイレに行ったり、やっぱり教室に戻ろうと言いながらもようやくたどり着いた会場前。


 そこからは逆に、山鷹さんの方から私が案内される形になって、会場の入口に手を引かれていく。


「――――」


 私と考えることはみんな一緒なのか、そこにはまるで全校生徒のほどんどが集まっているかような混み具合で、特に会場に何箇所かあるここの入り口は大混雑で、とてもじゃないけど中に入るどころじゃなかった。


 それは――今回の対戦相手が私と同じ一年生だったからなのか、決着は思いのほか早くついたらしく、私は会場の外からその結果だけを聞く形となってしまった。


 その結果は何とっ、一年生の挑戦者と天西先輩が引き分けたとのことで、二人の剣王が同時就任という前代未聞の事態になっていた。


 それから天西先輩の素顔がすごい美人だった~とかで、教室全体が盛り上がったりしてたけど、私はその話題に全くついていけなかった。


 山鷹さんがもう少し急いでくれて、それから空いてる方の会場の入り口に向かってれば、間に合ってたかもしれないのに……もうっ。


「――――」


 何にせよ、私もようやくこの学院に入学した意義のようなものを見出し始めていた、そんな頃――。


 あの事件……――そう、私にとっては事件と言っていいような、あの出来事が教室で起きた。


「――――」


「お・ね・え・さ・ま~~っ!!」


 それは朝のホームルーム前、やたらとテンションの高い鳥間さんが私と山鷹さんの会話に強引に割り込んできて――。


「ジャーン!! こ・れっ! 何だかわかりますか~!?」


 そう叫びながら、山鷹さんの目の前に一枚の封筒をヒラヒラと見せびらかせてきた。


「……何、ですの? それ」


 本当に心当たりがないらしく、山鷹さんの小首がナナメに傾く。


「ふっふっふ~♪ そんなにこの中が気になりますか~? これは、ですね~……」


 鳥間さんが封筒の中に手を入れてガサゴソ、多少もたつかせながらも――。


「――これ! これっ! これですよ~っ!!」


 封筒の中から一枚の紙を取り出し、それを広げてみせた。


「ん~~……?」


 目の前でヒラヒラと動かしているせいで書いてある文字がなかなか読み取れず、見ている山鷹さんが目を細める。


「――ホラッ! 見て下さいっ! ここの、『合格』って文字!!」


「これはですね~。 一次審査ですら合格率5%以下とされる話題のアイドルユニット! ABC14の追加メンバーの合格通知で~すっ!!」


「――――」


「鳥間さん……アナタ……これ……」


 山鷹さんがそれを見て驚愕きょうがく……というより、何やら青ざめた顔になってる。


「へっへ~! ゴメンなさ~い♪ 私が今まで撮り溜めてたおねえさまの写真の中で、私の特にお気に入りの一枚を添付して、友人推薦枠で勝手に申し込んじゃいました~♪」


「これから二次、三次と審査は続きますけど大丈夫ですっ!! おねえさまなら絶対合格できますよ~っ!!」


「そこの~……臼井うすいさんもそう思いますわよねっ!」


 そう言いながら、仕方ないといった感じで私にも話題を振り、笑顔をみせる鳥間さん。


「――――」


 笑えなかった。


 これは……これだけは、どうしても笑って祝福できなかった。


 その場限りの、偽りの笑顔すら浮かべることができず、私は――。


「ゴメン……私、ちょっと……」


 そう振り絞って言うのがせいいっぱいで、教室からとっさに飛び出してしまった。


「――――」


 行き先なんて決めてない。


 朝のホームルーム前で混雑する廊下の人の波を、ほとんど逆走するような形になって必死に駆け続ける。


 自身の心の奥底に、あんなドス黒い感情があっただなんて知らなかった。


 ――隣の芝生は青く見える。


 歩いても歩いても何も先の見えない、真っ暗な道だけが続く私の未来と比べ、山鷹さんの進む未来は様々な可能性で満ちあふれ、輝かしく照らし出されている希望の道に見えてしょうがなかった。


 そして、考えたくもないのに思ってしまう。


 私じゃなく、何であんな性格の悪い山鷹さんが……っ!


 忘れようとしても、どうしても頭に浮かんでしまう。


 山鷹さんなんて、小さい頃は私しか友達がいなくて、それでいつもビクビクオドオドしてたのに……!


 いけない――。


 私が……あの時助けてあげなきゃ、山鷹さんは生きていなかったのかもしれないのに……っ!


 絶対に考えてはいけない……それ、なのに――。


「……―――っ」


 今まで駆けていた足が、ピタリとなって止まる。


 ――そう、だ……。


 あの時……。


 あの時、山鷹さんのことを見殺しにしてたら……私だって、今頃――。


「―――っ」


 不意に込み上げた吐き気。


「――~~~~っ!!」


 同時にすぐさま駆け出し、近くにあった水飲み場で勢いよく石鹸をつけて両手を洗う。


 汚い、汚い、汚い、汚い~~っ!!


「――――」


 何だか、自分の両手から――全身の毛穴から――黒いドロのようなものがにじみ出ているような……そんなイメージが錯覚として目に映ってしまう。


「――……~~~~っ!!」


 涙目になりながらも、備え付けの石鹸でゴシゴシと乱暴に手を擦り、洗い続ける。


 その間に頭だってグラグラ揺れ、吐き気だって止まらない。


「……――ちょっと! 大丈夫!?」


 急に肩に手を置かれ、誰かがいきなり私に話し掛けてきた。


「――――」


 着ていた白衣から、それが保健の先生だとすぐに気付かされた。


 どうやらここは保健室前で、何やら様子のおかしい私に気付いた先生が心配し、声を掛けてくれたようだった。


 その後――。


 私は先生に具合が悪い旨を伝え、しばらくの間保健室のベッドで休ませてもらうことにした。


「………」


 横になっていも体調は一向に良くならず、じっとしているとまた考えなくてもいい別のことが、どうしても頭の中をよぎってしまう。


 考えないように、考えないように……。


 そうしている内に気疲れしてしまったのか、いつの間にか私は意識を手放していて――……。


「――――」


 次に気付いた時……窓の外は、茜色の日が射す夕方となっていた。


「………」


 そういえば……保健の先生から昼休みに起こされて、食欲はなかったけど、少しだけお昼を食べさせてもらったような……。


 それから、私が寮暮らしだって知った先生が、もう少しここで休んでいきなさいって言って、それでまた眠っちゃったんだっけ……。


「――――」


 ふと見ると、ベッド横の丸イスには教室に置きっぱなしだった私のカバンが置かれてあった。


 昼休み……そこのイスに誰かがいた気もしたけど……夢だっけ?


「………」


 おそらく、このカバンは保健の先生か誰かが持ってきたのだろうと、あまり深く考えることなくベッドがら抜け出し、内履きを履く。


 それからイスに置いてあったカバンを右肩に掛け、保健室のドアまで近づくと――。


『おねえさま~、わざわざアイツが起きてくるのを待ってる必要なんてないですよぉ~』


『何でしたら、私が直接行って叩き起こしてきてあげましょうか~?』


『――あの……鳥間さん、あなたまで私に付き合って待ってる必要なんてないんですのよ?』


 そのままドアに触れる寸前だった私の手が――ピクッとなり、途中で止まってしまう。


 今、一番聞きたくない……会いたくない人の声が聞こえてきた。


 それと――今のやりとりで知ったけど、鳥間さんってば普段、私のことはアイツ呼ばわりなんだ……。


 ――ま、どうでもいいことだけど……。


 それはともかくとして、今日は何だかすごく疲れてるから……このまま寮の自室に戻って、ただゆっくり休みたい……。


 そう思いながら、今度こそ本当に保健室のドアに手を掛け、ガラガラッと全開にする。


「――――」


 今の会話を私に聞かれたと思ったのか、最初に目が合った鳥間さんがバツを悪そうにしながら――フィッと、私から視線を逸らした。


 別に……気にしなくていいのに……。


 そう思った私が軽く肩をすくめ、息を吐き出すと――。


「う、臼井うすいさん!? か! ――お身体の方は大丈夫ですの!?」


 何だかちょっとだけ慌てたような口調になった山鷹さんが、私の方ににじり寄って話し掛けてくる――けど。


「………」


 山鷹さんの方をまともに見れない……――というより、今は顔を見たくなかった。


 そんなワケもあって――。


「ゴメン……悪いけど、私帰るね……」


 私はうつむいたまま……山鷹さんの方に一瞥いちべつも向けることなく、その横を通り過ぎていく。


 その際――。


「なっ!! ――ちょっと!! 待ちなさいよ、アンタッ!!」


「わざわざ今まで待ってたおねえさまに対して何!? そのふざけた態度!!」


「―――っ!!」


 かなり強く――おそらく本気に近い力でグイッと肩をつかまれ、二人のいる方を強引に向かせられた。


「………」


 そこまでされても何も言えず、ただ黙った状態になっている今の私……。


 激昂してた鳥間さんも、そんな私を見ることで多少落ち着きを取り戻すことができたのか、口の端が薄っすらと開いた様子が見てとれた。


 そして――。


「――――」


 そんな鳥間さんが急に近づき、私の周囲の匂いをスンスンと鼻を鳴らしながら嗅ぐと――。


「あれあれ~? 何だか、ヘンなニオイがしますよ~?」


「ん~? もしかしてぇ~、臼井うすいさぁ~ん……アナタからじゃないですか~?」


 と、軽く鼻をつまみながら目の前でパタパタと軽く手を振り、意地悪く嘲笑までされた。


「―――っ」


 冗談に聞こえなかった。


 今の――今日の私だけはどうしてもダメだった。


 朝、保健室前で見えたあの黒いドロのようなイメージ。


 あの黒いドロが、朝から今まで……その間ずっと全身からにじみ出し続けていたとするなら、今の私は……一体どれほどの――。


「………っ! ―――っ!!」


 その場に居ても立ってもいられず、わずかに後ずさった後……――ダッと駆け出してしまった。


『――――』


 その後――後ろの方から何か聞こえた気がしたけど、振り返ることなんてできなかった。


 早く……早く、部屋に行かないと……っ!


 私の部屋は学生寮の1階。 保健室からは走ってすぐの場所だった。


 戻って……そこで今すぐシャワーを浴びないと……っ!


「――――」


 そうして、たどり着いた寮の自室前――。


「~~~~っ!!」


 もどかしい動きで部屋のカギを取り出し、ガチャガチャと何度も音を鳴らしながらようやくドアを開けると――。


「―――っ」


 中に入るなりそのまま後ろ手で内カギをロックし、手に持っていたカバンやカギやらを床に放りながら奥へと進む。


「――――」


 そのまま――歩きながら身に着けていた制服や下着をその辺に脱ぎ捨てながら浴室へ駆け込み、すぐさまシャワーを全開。


「……――~~~~っ!」


 まだ冷水だったシャワーに構うことなく、頭のてっぺんからつま先まで――全身を一気に泡だらけにさせながら、なおも強く擦り続ける。


 それから――。


「――――」


「――――」


「………っ!」


 ビクッとなって上体が震え、シャワーを当てた箇所に熱い痛みが走る。


「――………」


 ……鏡を見ると、腕を始め、全身から――私の手が届きやすかった部分を中心に、所々かなり赤くなってしまっていた。


「………」


 私は……自分自身で、自分の肌が弱いのを自覚している。


 それでも、再び全身を泡まみれにして、またシャワー……。


 全身を泡まみれにして、またシャワー……。


「――――」


 それをたっぷり時間を掛けて五回ほど繰り返した後、私はようやく浴室から出てきた。


「――――」


「――――」


「………」


 鏡に映っている私の眼には光が無く、機械的に洗面台に置いてあるドライヤーで髪を乾かし続ける。


「………」


 そうしている間……どうしても脳裏に思い浮かんでしまう。


 私がクサイって言われた時の、山鷹さんのあの目……眉間に凄いシワが寄っていて、すごく嫌そうな顔してた。


 多分、本当にクサかったんだ……。


 いくら昔からの……お情けの同情だとしても、山鷹さんにまで嫌われちゃったら私……これから先、一体どうしたら……。


「――………っ」


 もう一回……シャワー浴びよ……。


 グスッと鼻を鳴らしながら目を擦り、再び浴室に向かう。


 いま頬を伝っていったのは、きっとドライヤーで乾かし切れなかったシャワーの水滴だ。


 そう言い聞かせながら浴室のドアを押し開け、そのまま中へ――。


「――――」


 ……あれ? 足元に何か――。


「――………」


「―――っ!!!」


「――――」


「――――」


 その瞬間、いきなり映像が途切れた。


「………」


 これ、って……下にいた私が初めて五感を取り戻した時の、あの感覚に似てる……。


 そっか……あの時の停電って、こうして起きたんだ……。


「――――」


 ……ぐっ! ――っと!


 吹き飛ばされ――後ろにのけぞっていた上半身を強引に前に倒し、何とかその場に踏み止まる。


「……~~~~っ」


 殴られた右頬がズキズキと痛む。


 けど――今はただ普通に痛いってだけで、ついさっきまで見えてたさっちゃんの過去らしき映像はもう見えなくなった。


 最初は夢か幻かもって思ってたけど、あの時の電車の事故が原因で二人の性格がガラリと変わっちゃったんだとしたら、あれってやっぱり本当に過去にあったことかも……。


「――~~~~っ!」


 むぐぅ~~と、頬をふくらませ、うなってしまう。


 ……けどっ! もし本当に過去のことだとしたら、あの鳥間さん!? だっけ? あの子ってばヒドイよね~っ!


 年頃の女の子に対して『クサイ』だとか、デリカシーなさすぎ~っ!


 それって何だかまるで、空気の読めないオジさんみたいだよ~っ!


 ううん――それ以前に何かもう、人としての常識を疑っちゃうような、そんなレベルだよっ! 全く~っ!


「………」


 にしても……さっちゃんてば、私のこと女神さまみたいって……いくら何でも~……。


 ん~……私のコト、そんなふうに見てるのって、さすがにさっちゃんだけだよね?


 さ、さっちゃんがたまたまそうだったっていうだけで、他の人は絶対違うよね。


「――はぁ~……」


 そう思いながら大きく息を吐き出し、前方に身を屈める。


「――――」


 直後、聞こえてくる風切り音。


 ホント……まわりの人みんながそんな目で私を見ていたら、って――そう考えるだけで私、これから先どう過ごしていけばいいのかわからなくなっちゃうよ~。


 ――っと。


 目の前を通り過ぎる拳に、私の前髪が軽く触れる。


 さっちゃん……最初はすごくスローな動きだったのに……このイベントの空気に呑まれてる?


 ――速度がどんどん上がってきてる。


 ……とはいっても、何かはよくわからないけど、まるで私が回避するのをサポートしてくれているかのように見える、この黒い線。


 この線が見え続けてる限り、たとえもっと速くなったとしても全然問題なさそうではあるけど~。


「………」


 一番の問題は――今の、さっちゃんとふえるちゃんとの関係だった。


 二人の関係は、私の想像してた以上に根が深い……。


 ――仮に、私がこれからさっちゃんに『でも大好き』って伝える。


 けど……そんな言葉程度じゃ全然足りない……さっちゃんの心の奥底まで、きっと届いてくれない。


 それだけはわかった、けど……それがわかったとして、今の私はさっちゃんに何て言ってあげたらいいんだろ……?


 ふえるちゃんが本当に伝えたかった想い……。 そして、今のさっちゃんが本当に欲しいと待ち続けている……その言葉、って……。


「―――っ」


 拳が頬をかすめた。


 さっちゃんの拳がさらに、さらに速くなっていく……。

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