第4話 山井出 勝希の見た世界 ① 『大嫌いな姉』
――私には、大嫌いな姉がいる。
何でもできる優秀な姉と、何にもできない、優秀じゃない方の妹。
その妹が私、
――私の姉。
学校でのテスト。 そのほとんどが満点で、順位だって常に学年一位。
――というか、それ以外の結果を私は見たことがなかった。
それと、前に一度だけ――姉の学力テストの結果を見せてもらったことがある。
「――――」
『1』の数字が、やけに浮かび上がって見えたのをよく覚えてる……。
姉は全国共通の学力テストで、全国一位をとっていた……。
前々から……すごく頭がいいと思っていた私の姉は、どうやら日本で一番頭のいい中学生だったということが、この結果で証明されてしまったようだった。
さらに私の姉は、スポーツ界においても比類なき才能を発揮した。
中学に入ってすぐ、単なる興味本位で始めた剣道――それが負け知らずの不敗。
完全な初心者+圧倒的な経験不足のハンデ差なんてモノともせず、そのまま大会で負けることなく勝ち続け――ついには一年生で全国優勝……。
どうやら天才過ぎる私の姉は、日本一頭のいい中学生だけでなく、日本一強い剣道家でもあったようだった。
さらに姉はそのまま破竹の快進撃を続け、中学の三年間で公式戦無敗。 全国大会三連覇という、初の偉業を成し遂げた。
その活躍はドキュメンタリー番組にもなって全国にテレビ放送もされ、元々顔の作りも整っていた姉は美少女剣士として、一躍時の人になったりもした。
さらに姉の扱う、オリジナリティーの強い独自の剣術は『山井出流』と称されて広く一般にまで知れ渡り、ひとつの流派を立ち上げるまでに至った。
そう……私の姉は、天に手が届くほどの天才で……。
――そして、『不治の病』だった。
それは――発症したら数年で死に至るという、致死率100%の死の病。
この病を専門に調査していた、ある医師が言った。
『これはまるで、人の中にある魂そのものが減少しているかのようだ』――と。
そんな医師の証言が元となり、とりあえず感染原因が解明されるまでの間、
『
それが一度発症したら最後、その後はまるで魂が抜け落ちていくかのように髪の毛や色も抜け落ち、それに
その結果、あらゆる病を誘発させ、通常一年から二年で死亡する。
この病はどういうわけなのか、年齢が14歳以下の子供にしか発症せず、15歳以降の発症例がないことから『子供病』、あるいは『十四歳病』という名称で世間に広まった。
それは発症対象の子供自身はもちろん、幼い子を持つ両親や親類縁者でさえ、この病のことを頭の片隅に置きながら常に危惧して怯え続けなくてはならない、世界中で最も恐れられている病のひとつだった。
そんな『死の病』に姉は、先天性――つまり、生まれた瞬間からその病を持った状態で生まれ……。
――そして、17歳まで生き続けた。
姉は『
「――――」
私が両親から姉の病気について初めて聞かされたのは中学になってからだった。
私はその事実に強い衝撃を受けたと同時に、同じだけの戸惑いも覚えた。
……確かに姉は昔から多少学校を休みがちではあったけれど、普段の生活については健康そのもので、激しいスポーツに分類される剣道だって問題なく続けていたからだ。
そんな理由もあって私は、姉の病気についてあまりピンとこないというか、実感が湧かない感じで両親の言葉を受け止めていた。
そう思っていた私が、姉の病気のことについて初めて認識させられることになったのは、それからすぐのことだった。
中学三年に上がった姉がほんの数日とはいえ、初めて病院に入院することが決まった。
帰ってすぐ――私は入院中の姉が退屈しているだろうと、家から持ってきた携帯ゲームをカバンの中に入れ、直接病院に向かった。
「――――」
「――――」
「っ! ――かっきちゃんっ!」
個室の引き戸を開けて中に入った瞬間、パッと花を咲かせたような笑顔を見せた姉が読んでいた本を閉じ、私の名前を叫んだ。
「……―――」
無言のまま……ベッド近くまできた私がカバンの中からゲーム機を取り出し、ニヤリと微笑んでみせると、それを見てワクワクさせた表情になった姉も、枕元に置いてあった色違いのゲーム機を見せつけてきた。
そうして、私がゲーム機の電源を入れながらベッド横の丸イスに腰掛けると、どちらから何を言うこともなく二人の対戦が始まった。
『――――』
私と姉がプレイしてるのは携帯ゲーム機、SMKポータブルの『剣豪スピリッツ』というタイトルのゲームで、和風の剣士が剣技や能力を駆使しながら戦う2D格闘対戦ゲームだった。
私の使用キャラはリリ。 水を操る力を使って短剣で戦う、青い短髪が特徴の女の子。
対する姉はナナを使用。 髪は長い黒色。 風の力を刀身に宿して戦う女の子で、リリのお姉ちゃんでもある。
リリは数ある強力な技を簡単な操作で手軽に発動させることができる強キャラで、私が最初から使い続けてるお気に入りだった。
逆にナナの方は、リリの姉なのに使える技の数自体が少ない上、その技もクセがあって使いづらく、さらに操作が複雑で非力という不遇キャラだったりする。
やる前から結果が見えているようなこの勝負、結果は当然――。
『――――』
画面に表示された『YOU LOSE』の文字を見ながら、うぐぐと歯ぎしりしてしまう。
私と姉がゲームで対戦する場合、どんなゲームをしても二通りの結果しか待っていなかった。
パーフェクトで負けるか、パーフェクト以外で負けるか、その二つだけだった。
どうせ同じ負けなら、どこまで姉を追い詰められるか、いつからか私はそこに
「――――」
――けど、その日は違った。
2本先取の勝負で初めて私が勝ち、1勝1敗の接戦。
何というか、普通の勝負らしい――とてもいい勝負になっていた。
もしかしたら、初めて姉に勝てるかもしれない。
そんな思いが私の思考をさらに加速させ、ゲームに対する集中力をさらに高まらせていく。
そして、その時の私はゲームに集中するあまり気付いてなかったし、気付けるわけもなかった。
『――――』
画面に浮かんだ『YOU WIN』の文字に、私の口の端がつり上がる。
私に負けた姉は、今どんな顔をしているのだろうと思って気に掛かり、勝ち誇った笑みを向けてみた。
「――――」
「アハハ~……。 お姉ちゃん、負けちゃった~……」
そこにはゲーム機を片手に、どこか愛想笑いのような困った笑みを浮かべている姉が、いて……。
「――――」
――見た。 というより、見逃さなかった。
私から見えないような角度で、隠すようにしていた姉の右手……。 その指先が細かく小さく、異常に震え続けていた。
「――――」
「――帰る」
短くそう告げた私が持ってきたカバンを背負い、口を横一文字に閉じて立ち上がる。
「―――っ」
そのまま立ち上がった際、ゲーム機を片手に持ったまま振りかぶると――。
「―――っ!!」
心の内から湧き出す感情そのままに――ボスンッ! と、かなり強めにゲーム機を姉のベッド上に投げつけてやった。
「――~~~~っ!!」
すぐさま振り返り、そのまま出ていこうとした私だったけど、こんな程度でこの感情の高ぶりが収まるわけもなく――。
「―――っ!!!」
――バタンッ! と、病室のドアをかなり乱暴に閉め、病室から出ていった。
「――――」
「……~~~~っ!!!」
「――ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな……っ!!」
病室を出てすぐ――視界に最初に入ってきた廊下の壁を、小さく叫びながら何度も蹴り続ける。
一体いつから……!? 今日が初めて!? それとも――もっと、ずっと前からっ!?
「……~~~~っ!」
私が乱暴に出ていった後の、病室での姉の様子が容易に想像できてしまう。
きっと私がゲーム機を乱暴に投げつけた後でさえ姉は怒りもせず、あの困ったような微笑みを続けているのだろう。
私に心配掛けまいと、無理してぎこちなく笑う……あの愛想笑いのような笑顔に怒りを覚える。
――そして……そのことに気付けなかった自分自身にも……っ!
「――――」
廊下を通る人達が私の後ろを大きく避けていく気配が伝わってくるけど、そんなのはどうでもよかった。
病室前の壁に黒ずんだ跡が残り、足の先に痛みを感じるようになってから……私は、ようやくその事実に気付く。
私は……そんな姉のことが……すごく『大嫌い』なんだ、と――。
「――――」
その日を境に――なのか、病院の方から姉の状態が日増しに悪化していってるようなことが母を通じて耳に入ってきた。
姉が病院から退院し、それからまた体調を崩して再入院する。
そうやって体調を崩す間隔が入退院を繰り返す度に短くなり、入院期間も最初の数日から、一週間、二週間と徐々に増え続けていく。
そんな状態の中でも姉は高校の入学を推薦で決め、中学の卒業証書も無事に授与した。
そして、姉の……最低でも一ヶ月。 長くて三ヶ月以上の見込みとなる初めての長期入院が決定したのも、ちょうどこの頃。
この時の私は知らなかった。
この入院が、病院内で最終的に一年近くまで延長され――……ついには、姉が人生を終える最期の場所になる、と……。
「――――」
ゲームの一件以来、なるべくお母さんと一緒に行くようにし、行く頻度も減っていたお見舞いだったけど、その日は久しぶりに一人で姉のお見舞いに行くことをお母さんに伝えた。
するとその母から、お見舞いには私一人で行くのか、誰と一緒で、何時に来るのか――など、何故だか色々細かく聞かれた。
どうしてそんなことを気にするのか、多少疑問に思ったりはしたけど、それでも病院に行く予定を普通に母に伝えた。
「――――」
そして、その予定通りに姉の病室を訪ねた私だった……――けど、何故だかそこに姉の姿は無かった。
ただ……その代わり――。
『かっきちゃん、やっほー♪ 私だよっ、わかるかな~?』
しゃべる巨大なウサギのぬいぐるみが、やけに機敏な動きで私に手を振ってきている。
そのウサギは、姉がいつも使っていたベッドの中にいて、ぬいぐるみ部分なのは大きな頭と両手のみで、胴体部分は病院着だった。
こんな馬鹿な真似をする人物は一人しか心当たりがなかったけど、すぐにそうだと断言できなかった。
元の声がかろうじて残って伝わる、風邪声より数段ひどいかすれた声。
そのぬいぐるみの頭の隙間からわずかに覗いて見えるのは、元の――……明るい栗色だった頃の面影のなくなった、老人みたく真っ白になった髪の毛で……。
それから……剣道をしてた頃の、健康的で筋肉質だった腕も……細い、枝のようになって、いて……。
「――――」
「――――」
話した内容なんて覚えていない。
二言、三言は言葉を交わしたのかもしれない……。
けど……そんなに長い時間じゃなかったのだけは確かだったと思う。
「――――」
気付くと私は一人、廊下の外に立っていて――。
「――~~~~っ!!!」
――前回なんて比じゃない。
胸の内から湧くドス黒い感情そのままに、廊下の壁に向かって全力の蹴りを放つ。
「―――っ!!」
足の痛みなんて気にも掛けず、この壁をブチ抜くつもりで蹴りに力を込める。
「~~~~っ!!!」
あのバカ姉のことだ、どうせ今の自分の姿を私に見せたら私を怖がらせてしまうとか、心配掛けたくないとか、そんなくだらない理由でやったことなんだろうって思うと、余計に心が掻き乱される。
――バカ姉っ!! 隠すんだったら、ちゃんと隠せよっ!!!
――~~~~っ!! 何で……あんな――っ!!
「――君」
そんな私に近づき、肩に触れてきた影がひとつ――。
「―――っ!」
視界の端で白衣の姿を捉えた瞬間、私の怒りが一気に臨界点を超え――。
「―――っ」
振り向き様に一発。 つま先で思いっ切り脚のすねを蹴りつけてやった。
「――………っ!!」
蹴られた医師の口元が苦痛で歪んだのが見えたけど、私はもう止まらなかった。
「お前ら医者ってのは、病気を治すのが仕事なんだろっ!!」
「――……だったらっ! ウチのバカ姉もちゃんと治せよっ!!」
そうやって理不尽に叫んだ私が息を荒くさせながら、姉の病室の方を指差す。
「―――っ」
その医師は指先の病室を見てわずかに顔色を変えると、そのまま私に向き合い――。
「――――」
……私の目の前で、深々と頭を下げてきた。
「――申し訳ありません……。 お姉さんの治療は現代日本の医療技術をもってしても身体の苦痛を和らげる程度しかできなく、その治療法はおろか原因の究明すらされていないのが現状なんです……」
「本当に、申し訳ありません……」
「――――」
そんな医師の言動を見た瞬間――スッと、私の中にあった感情が途端に冷えて冷静になり、頭に上っていた血も急速に下がっていくのを自覚させられた。
――あぁ……医者はバカなんだと、そう思った。
……だったら、バカじゃない私が姉の病気を治してやるって、単純にそう思った。
――うん。 我ながら、いいアイデアだ。
何せ、あの姉に一生かかっても返しきれないだけの借りが作れるのだ。 これはいい――と。
「――――」
そのために……私が、すべきことは――。
とりあえず、まずは図書館やインターネットを駆使し、病気の原因と治療法を可能な限り調べる。
そして、その治療の過程で医師の免許が必要になるのだったら、後からそれも取ればいいだけだ。
私の夢……――というより、当面の目標が決まった。
けど……将来の就職先が左右されるとするなら、まず大学からになるだろうし……。
だから高校は、まぁ適当に……通学に便利そうな、近くの高校でいっか……。
偶然、大嫌いな姉と同じ高校になってしまうけど、それはもうしょうがなかった。
「――――」
自然と、私の心の負担が軽くなっていくのがわかった。
今の自分にできること……――それを一歩ずつ、確実に。
「――――」
そう気持ちを切り替えると、これまで以上に集中して勉学に励むことができ、それはおのずと結果にもつながり、成績だって向上した。
そんな日々が続いていた、ある日。
「――――」
その瞬間は――あまりにも早くやってきた。
最近になって、立て続けに続いた姉の危篤状態。
担当医師が言うには、次に姉が危篤状態になった場合……もう戻ってこれないかもしれないと言ってから、息を呑み――。
『あと三日が峠でしょう』と、最後に告げた。
「――――」
話を聞いてからすぐ――私と両親の三人はその医師から特別な許可を得て、この病院に泊り込むことになった。
「――――」
そして、それは……家族で病院に泊り込んだ、翌日の昼だった。
姉に再び大きな発作が起き、これが最期かもしれないと言われた危篤状態になった……。
「――――」
私は……何にも、できなかった……。
姉の病気を治すんだ――と、決意めいたモノをするだけして……。 結局は今――こうして横で泣いている両親と同じ……。
何の力も持っていない……ちっぽけで無力な子供がここにいる……。 ただ、それだけだった……。
そして――。
「――――」
「――――」
「――ねぇ。 バカ姉、死んだの?」
心肺停止を知らせる計器の警告音と、むせび泣く両親の泣き声が混じり合う中、私は冷たい口調で二人に尋ねた。
『こんな時に何を言ってるんだっ!!』
誰か――お父さんあたりにでも、そうやって怒鳴られたい……。
何故だか……無性にそんな気分だった……。
「――――」
けど……そんなお父さんやお母さんも、私の方をチラッと一度見ただけですぐに視線を元に戻し、また小さく
――何だ……つまんないの……。
期待外れの両親の行動を見て私は小さく息を吐くと、病室の外へ視線を向けながら、袖でグイッと目を擦る。
「………」
窓の外に見える変わらない景色を黙って見続けながら、袖でまた目を擦る。
――あぁ……それにしても、何だろ……。
――……何か……。
今日は、目が曇るなぁ……。
そうやってぶっきら棒に着ている服の袖を何度も目に当てながら、何の変化もない窓の外をただ眺め続けた私だった……。
「――――」
姉が危篤状態になっている間、私はあらゆるものに対して怒りを覚えていた。
姉、両親、医師、看護師……それから、全く関係ない入院患者や面会者に至るまで、全てに対し怒りを覚えていた。
そして、その全てをひっくるめた怒りをさらに超える怒りで、自分自身を怒っていた。
それは、これから先……私が生きていく人生の中で、きっとこれ以上の怒りを覚えることは絶対にないだろう――と、そう確信するほどの怒りだった……。
「――――」
――違った。
上には上があった。
あの時のことは、いま思い出しただけでもはらわたが煮えくり返りそうになる。
それは……姉が亡くなってからひと月ほど経った、ある日の朝――。
ソイツは何の前触れもなく、いきなり私の前にやってきた……。
「――――」
『――――』
コンコンと、ドアをノックする音が部屋全体に鳴り響く。
「――勝希、起きてる? お母さんこれから仕事に行くけど、冷蔵庫にカレーがあるから後でちゃんと食べなさいね」
「………」
母の言葉はちゃんと耳に届いていたし、起きてもいた。
ただ……どうしてだか、言葉を発する気になれなかった。
「………」
私が寝ていると思ったのか、しばらく続いた沈黙の後――トントンと階段を降りる足音が聞こえ、遠ざかっていく。
それから少し遠くの方で……バタンと、1階玄関のドアが閉じられた音がかすかに耳に届く。
「………」
姉が亡くなったのが5月で、今は6月……季節はもう梅雨の時期に入っていた。
姉の葬儀は
そして……私はその後からずっと学校を休み続け、部屋からもほとんど出ていない。
せっかく毎日食事を用意してくれる母には悪いけど、きっと今日もご飯を食べる気にはなれないのだろう。
どうせ無理して食べても、すぐに戻して吐いてしまうのだから、それはもうどうしようもなかった。
「………」
――トイレ……。
さすがに尿意ばかりはどうするわけにもいかず、ムクリと身を起こす。
『――――』
2階のトイレから自室に戻る際、かすかに聞こえた物音――。
聞き違いかと思い、その場で立ち止まって耳を澄ませたけど、どうやら間違いなさそうだった。
「――――」
不意に、頭の中をよぎる『不審者』の文字。
「………」
ゴクリと小さく息を呑み、足音も消す。
それから近くの階段まで歩みを進め、物音の聞こえた1階の方を慎重に覗き見る。
「――――」
見えたのは、
「――………」
小さく息を吐き出し、私の中の警戒レベルが一気に引き下がっていくのを感じる。
そして、それと同時に『またか』とも思った。
私を学校に来させようと――友人やクラスメイト、学級長や担任までもが私の家まで直接訪ねてきてくれた。
そして、そんなせっかく来てくれた人達に対し、私はいつも色よい返事をすることができないでいた。
「………?」
ふと最初に、私の頭に浮かんだ疑問。
……あれ? 今日って、祝日か何かだった?
今日は月曜日で、時間だって……確か9時半頃――。
そもそも大体にして、誰かが私を訪ねてくるのは、決まって放課後になってからの時間だったし……。
「――――」
リボンの色……二年生?
ますます広がっていく私の疑問。
同じ一年のクラスメイトならともかく、入学してすぐの私に親しい上級生の先輩はまだいない。
っていうか、お母さん……またカギ掛け忘れたんだ……。
いつも通りの母の物忘れの多さに内心あきれつつ、頭痛のする頭に片手を当てる。
……ん? それ以前に、玄関のチャイム鳴った?
そうして私が色々と思考をめぐらせていた
『――こ……こんにちは~……』
やけに小さく、それでいて自信のない声だった。
何はともあれ、中に入ってこられた以上、対応だけはしないと――。
「……誰、ですか?」
「――――」
私の声を聞いた瞬間、下にいる上級生がわかりやすいほどに動揺し、うろたえる様子が見て取れた。
……何? 確かに急に声を掛けたのは私だけど、いくら何でも焦り過ぎじゃない……?
「………」
再び私の頭をよぎる『不審者』の文字。
「……あの――」
多少語気を強めにし、意識的に階段の音を踏み鳴らして近づく。
「あ! あのっ!! わ、私は――っ! 学校からっ、近くに来てっ!」
――? 何て?
意味不明なのですが……。
え、何? 何かこの人、急に下向いて震え始めたんですけど……。
この時――本気で通報を意識した私は、自室に置いてあるスマホの位置を頭の中で思い返し、確認までしていた。
その時――。
「――――」
続く会話の中で聞こえてきた、『
――そうだ……。
姉の病室に掛かってたあの制服も、リボンの色は青……二年生の色だった……。
「――――」
ギュッと、私の手が小さく握られ、自然と力が込められていくのがわかる。
そして――。
「――もしかして、姉の友人の方ですか?」
次に気付いた時には私の方からそう言い、話し掛けていた。
「――そ、そうっ! マブ!!」
私の言葉に嬉しそうに反応し、笑顔を見せた彼女を見た瞬間に気付く。
――彼女は、この短時間でありえないほどに顔をグシャグシャにさせ、涙をポロポロとこぼして泣いていた。
「――――」
それ見た瞬間、私は何でもない風を装い、彼女をリビングの方に
この時点ですでにもう、私の中にあった警戒とか不審といった心の壁は完全に消え去っていた。
私よりひとつ年上の先輩が、ここまでみっともなく泣くなんてよっぽどのことなんだろうって思う。
その涙は……一体何を想い、いかなる理由からあふれ出たモノだったんですか……?
――亡くなった姉のことを思い出して?
――姉の住んでた、この家を見て?
それとも……姉の妹である、私を見たから……?
初対面の人相手にここまで興味を持ったのは生まれて初めての経験で、彼女のことをもっと知りたい、話してみたい……と、そう思わされた。
「――――」
リビングで向かい合って、すぐ――。
「――
コミュニケーションの基本。 ――というより、その一歩手前。
お互いに名乗り合い、名前を確認し合う。
相手が先輩であることと、わざわざ家を訪ねてきてくれたこともあり、自分の方から名乗り出るのが正しい礼儀だと、私はそう思った。
――それは、いいんだけど……。
問題はその相手……目の前にいる先輩がニコニコしたまま、一向に口を開こうとしない。
それから急にハッなって、ようやく彼女の自己紹介が始まった。
「――――」
これ以上はないってほどの……怪しさ満載で……。
何、なの……?
大体……自分の名前に疑問符がつくって何?
それは本当にアナタの名前ですか?
「――――」
その後も続く、彼女の奇行の数々。
やたらとテンションが高く、私のことを気安く妹ちゃんと呼び、挙句の果てには――。
自らの写っている生徒手帳の顔写真を私に見せつけながら、私ってカワイイでしょ~? とか自慢してくる始末。
「――そ、そうですね……とてもお綺麗だと思います……」
本心だった。
多少顔が引きつり、言い淀んでしまったものの、嘘じゃない。
これまでテレビや雑誌、映画なんかで見てきたアイドルやモデル――女優さんなんかは当然すっごく可愛いし、美人だって思う。
――けど……目の前の彼女は、その誰とも違っていて……。
「――――」
リビングに射すわずかな光にすら反応してキラキラと
本当に……純和風の
……――ううん……むしろ神々しくさえ――。
『――――』
そんな私の思考を中断させるほどの大音量で、彼女のお腹の音がリビングに鳴り響いた。
「―――っ」
思わず横を向き、私は吹き出してしまった。
こういうのを残念美人と言っただろうか。 言葉自体は知っていたけど、実際にこうして目の当たりにしたのはこれが初めてだった。
「――――」
さっきからずっと上がったままの、下りてこない頬を触って気付く。
そういえば……お姉ちゃんが亡くなってから笑ったのって、これが初めてだ……。
「あの……私の朝食の残りでよかったらですけど……カレーとか、食べます?」
残り――というか全部だったけど、それはどうでもよかった。
「っ!? そ、それって、もしかして妹ちゃんのお母さんが作ったヤツ!?」
「そ、そうですケド……」
「――食べるっ! もちろん食べるよっ!!」
相変わらず、テンションが……とか思ったけど、冷蔵庫に鍋ごと入っていたカレーを温め直し、ついでに一緒に入っていたサラダも出しておく。
「――――」
――また泣いた……。
目の前にいるのは、高校二年の先輩。
小学校低学年の頃でも、ここまですぐに泣く人はいなかったと思う。
こんなに美味しいカレーは生まれて初めて食べたよ~と、涙ながらに言い、本当に美味しそうにカレーを口に頬張る。
「――大げさですよ……」
二回目……。 この人といると、よく笑うなぁ……。
「――――」
会話のキャッチボールが何故か自然と続く中、私は心の内のどこかに温かで――心地よい何かが満ち足りていくのを感じていた。
そんな中――。
「――――」
チクリと、不意に私の胸を刺す小さなトゲ。
姉の――『千夏』の名前に反応し、心の内に黒いモヤが広がっていく。
――『いつもの』、が来た。
『コレ』が心を覆い尽くしてしまうと、それが徐々に全身にまで侵食して広がり、やがて現実の身体も動かなくなってしまう。
私一人だと、それに押しつぶされて負けてしまうだけだったけど……。
――けど、二人……。 目の前にいる彼女となら、私の前に立ち塞がる壁を乗り越えられる……。
乗り越えていきたい、って……そう思った。
だから――。
「――あの……今から私、紅茶とケーキを用意しますので……よかったら一緒にどうですか?」
意を決して立ち上がった私は、お茶を口実に――彼女を姉が使っていた部屋で待ってもらうよう勧め、先に行ってもらうことにした。
「――――」
「………」
給湯用のヤカンでお湯を沸かしている間、私は考える。
彼女とは……出会って半日はおろか、1時間も経っていない。
なのに……どうして私は彼女にここまで気を許し、信じているのだろう……。
――変な人。 不審者。
それが彼女の第一印象だった。
けど、今――。
変、だけど……ちょっとだけ、いい人……かも?
――と、そんな感じに私の心象は変化しつつあった。
「――――」
二人分にしては少し多いかもと思ったけど、用意してしまった以上しょうがない。
少し大きめのガラスポットいっぱいに入れたお湯――その中で紅茶の茶葉がユラユラと踊り、全体の色を紅く染めていく。
このティーポットは丸っこい感じの形状もさることながら、ガラスに透けてちゃんと中が見えることで、その見た目からも紅茶の良さを楽しむことのできる私のお気に入りだったりする。
そうして用意した紅茶と、イチゴのショートケーキ、二人分のお皿とフォークをトレイに載せ、それらを落とさないよう慎重に階段を上っていく。
「………」
そのままたどり着いた部屋の前でいったん立ち止まり、目を閉じて考える。
最初に玄関で会った時も……カレーを食べてた時もそうだった……。
こうして実際に見えてなくても、自然と脳裏に思い浮かんでしまう。
このドアの向こうにいる彼女はきっとまた泣いていて、その流した涙を私に悟られないようにするのだろう――と。
軽くノックしてからドアを開け、姉の部屋に足を踏み入れる。
「――――」
入ってすぐ――お互いの目が合った瞬間、彼女がどことなくぎこちない不自然な笑みをみせた。
――ほら、やっぱり。
慌てて目を強く擦ったから? 彼女の両目の端が少しだけ赤くなっていた。
そんな期待を裏切らない彼女の行動に安心感のようなものを覚えながら、持ってきたティーセットを二人で並べていく。
私の見る目が確かなら、彼女は純粋――というか天然で、何かをごまかすのがすごく下手な性格なんだろうと、そう感じた。
そんな彼女だからこそ私は、この部屋で心ゆくまで姉の話をしてみたいと、そう思った。
「――――」
――直後、私は思い知らされることになる。
私の見る目――その目はまぎれもないポンコツの節穴で、ガラス玉やビー玉にすら劣る、何の価値もないガラクタ以下の存在だった――と。
私は、もしかしたらまた彼女が泣いてしまうかもしれないと思いつつも、姉の残した様々な実績と、その記録の数々を聞かせた。
多少私の主観が入ってしまい、それで変に誇張されたところもあったかもしれないけれど、なるべく起きた事実をそのまま丁寧に伝えたつもりだった。
「――――」
そうして私が夢中になって話し続けている内、彼女が微妙に身体をクネらせ、モジモジしているのに気が付く。
……もしかして、トイレ? だったら2階に――。
私はいったん話を中断させ、トイレの方を指差そうとしたところで――。
「あーっ、うー~っ!! もうやめて~っ!!!」
「何かもう背中がゾワゾワ~ってなって、これ以上聞けないってばぁ~~っ!!」
「――……え?」
最初、彼女の発した言葉の意味をすぐに理解することができなかった。
けど、目の前の……目を閉じながら両耳を塞いでいる彼女を見ることで、ようやく意味を理解した。
「――ぁ……あぁ……そうですか……」
呆然となり、そう言うだけでせいいっぱいだった私。
――あれ……? 姉の残した実績や記録についての話って、興味なかった……かな?
そうして固まっていた私に対し、彼女はすぐさま姉の卒業アルバムが見たいと催促してきた。
そんな――どこか言動のおかしい彼女に多少の違和感を覚えながらも、私は本棚にあった姉の卒業アルバムを手にし、一緒に見ることにした。
……よく考えてみたら、姉の卒業アルバムに目を通したのはこれが初めてのこと、で――。
「――――」
そこには入院する前の、元気だった頃の姉が写っていて、私はそんな姉の姿に目を奪われてしまった。
そして、彼女にもその姿に注目してもらおうと、私の知っている姉の髪型や服装、容姿やスタイルについて色々話し続けていた。
そんな会話の途中――。
「……だから私も髪を伸ばして脱色させて、それからパーマもかけてみようとか考えてまして――」
それはちょうど、私が姉と同じような髪型にしてみようと、そんな話していた時のことだった。
「っ!! ――絶っ対に、ダメッ!!!」
「ダメッ! ったらダメッ!! そんなキレイな黒髪っ! もったいないよっ! こんな、カワイイのにっ!!」
急に悲鳴に近いような声を発した彼女が、叫びながら徐々に迫ってきて、私の考えを必死に否定してくる。
「――……えっ? そう……ですか?」
同じ女性とはいえ、ここまで真正面からカワイイと言われたのは初めの経験で、それでさすがにかなり照れしまい、まともに顔を見ることができない。
その後も続く、彼女からのカワイイ連呼の褒め殺し。
「そ、そうですか……っ」
そういったことに全く耐性のなかった私は、目の前のショートケーキに意識を向けることで気を紛らわせ、口元に何度もケーキを運ぶ。
そうしていた中、ふと聞こえてきた声――。
「――そうそう、知ってる~? 千夏ちゃんってば病気になった時、あのモジャモジャの茶髪も全部真っ白になっちゃたんだよ~」
「その見た目が、何だかもう本当のわたあめみたいに見えて、それがすっごくおかしくって~」
「――……は?」
私は一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思った。
「その髪だって後からかなり抜け落ちて細くなって、それでボリュームも減っちゃったもんだから、それがストレートヘアーになったみたいで、ある意味嬉しかったって~」
こうして聞こえてくる言葉が、彼女の口から発せられているものだと信じられない。
「――――」
彼女……いや、コイツ……いま何って言った?
「――ま。 そうまでしても、私のこんな綺麗な黒髪と比べたら、当然雲泥の差だったけどね~」
アハハ~と、笑いながらそう言い終えたコイツは、最後に自分の髪を自慢げに私に見せつけるようにし、それから余裕の態度で紅茶を口元に運んでいく。
「――――」
そんな言動を見せつけられながら、私は全てを理解した。
――あぁ、そうか……。 コイツ……何のつもりかわからないけど、今まで私に見せてた態度は全部演技で、あの涙も嘘だったんだ……。
「――――」
そうだよね……涙なんて目薬でも隠し持ってたら簡単に再現できるもんね……。
ハハッと、口元に浮かぶ笑み。
――ねぇ……そんな涙に一喜一憂してた私ってアンタの目からどう見えた? さぞかし
「~~~~っ!!!」
コイツもそうだけど、それを見抜くことができなかった自分自身が一番腹立たしく、許せない。
そうして……私が全身を震わせていたところへ――。
「――ブハッ!!! ゴホッ!! ゴホッ!!!」
いきなりコイツが口に含んだ紅茶を全てぶちまけ、テーブルの上を台無しにさせた。
――へぇ……そう……。 私の用意した紅茶も、ケーキも……これ以上口にしたくないって、そういうこと……?
「――――」
――あぁ、何だ……。 コイツ、さっきから私にケンカを売ってるんだ……と、私は遅まきながらにそう理解し、目が据わった。
さっき紅茶を避けた際に立ち上がっていたこともあり、こちらの態勢は万全だった。
私が自然と身構える中、コイツはプルプルと指を震わせながら、姉の机の方を指差し――。
その後で、右端にあった英和辞書の持ち主を何故か私だと言い当て――。
「……何で……まだ、ここにあるの?」
と、そう聞いてきた。
――嫌な質問だ。 と、私は思わず舌打ちした。
……けど、あの辞書は私にとって特別なものだから、答えないわけにもいかなかった。
「――だって……私は、まだそれを姉から返してもらってない……」
「返してもらってない以上、私にそれを受け取る資格はないから……」
――そう……姉が入院している間、私は信じて待ち続けた。
病院から戻ってきた姉から、直接その辞書を返してもらう、その日を……。
多分、ひょっとしたら……今でも――。
「ジャッジャーンッ!」
考え込み、沈んでいた私の空気をぶち破り、馬鹿っぽい声を上げたコイツがいきなり叫び出したかと思った、次の瞬間――。
「――――」
私の目が大きく見開かれ、同時に思考も停止させられてしまう。
コイツが今、自慢げに
『パパ、ママ、かっきちゃんへ』 と、見覚えのある筆跡で書かれた手紙。
「――――」
震える指を無理やり押さえつけて書いたのかな?
多少歪んではいたけれど、どことなく丸っこい特徴的な字は、あの姉の書いた筆跡にしか見えなかった。
「――――」
その便箋はかなり分厚く……つまり、それだけたくさんの想いがその中に込められているということになる。
今すぐ手に取って中を確認したい……っ!
そう思い、私が一歩近づくと――。
「――あ、妹ちゃん。 はい、コレ」
目の前の彼女が胸元にグイッと辞書を押しつけてきて、私を近づけさせない。
「――あ。 ――え?」
――そう、だった……! いま手紙を持っているのは目の前の……コイツだった!
「――あ、あの……っ!! それ……!!」
「ゴメンね! ちょっと先に中、確認させてっ!」
「――あぁ゛!?」
私が叫んだ瞬間にはコイツはもう動き出していて、持っていた手紙の封に手を掛ける。
「――――」
それは――まるで、ゴミか何かを扱うような手つきだった……。
可愛いピンク色だった便箋が、適当に破かれて足元に落ち――。
その中に入ってた手紙の束を、何故か偉そうな態度をしたコイツが最初に目を通してる。
そればかりか――。
姉が書いたであろうその手紙を、いかにも嫌そうにしながら遠ざけて読み――。
さらに、これ以上は無理と言わんばかりの態度で目を背け、途中で読むのすらやめてしまった。
さらに……。
「――――」
あろうことかコイツは、私の目の前で姉の手紙をグシャグシャにして丸め――。
「――妹ちゃん、ゴメンッ!! やっぱりコレ無しっ!!」
「手紙だったら、後でちゃんと私が書き直すから――」
「――――」
そこまで聞いた瞬間、私の怒りは軽々と臨界点を超え――黒き殺意の塊となって全身を弾けるように突き動かした!
「―――っ!!」
歯をきつく食いしばり、右手に持ったままだったフォークにありったけの力を込めて腕を振るう。
「――――」
フォークの切っ先が、目の前にいる相手の瞳へ吸い込まれるように伸びていく――。
――目を狙ったつもりはなかった。
このままさらに勢いを上乗せし、頭を粉々に撃ち砕く。
そうさせるつもりで全体重を右腕に預け、その腕を全力で振り抜き――。
「――――」
「―――っ!!」
――天井、壁、床、ベッド、天井。
「――――」
――壁――天井。
「――――」
そして、最後に――制、服……。
視界が目まぐるしく変わる中――最終的に止まって見えたのは、彼女の制服だった。
「――~~~~っ!」
ズキン、ズキンと右肩から肘にかけて尋常じゃない痛みが発せられ、その指先もチリチリとなってしびれたように熱く、そこだけが火傷してしいるかのようだった。
そんな右腕全体から残り、伝わってくる感覚から、さっきのが掛け値なしの私の全力の一撃だったと、間違いなくそう言い切れる。
――手ごたえがなかった。
彼女が避けたのか、私が無意識に外したのかはわからないけど、結果として攻撃は外れ、床に尻餅をついてしまっている。
「――――」
ヒュー、ヒューと、開いた穴から漏れ出るスキマ風のような呼吸音が、やけに大きく耳元で聞こえる。
――我に返った。
ハッキリ言って、いま私がしたのは殺人未遂――その現行犯だ。
それには当然、正当防衛が適用される。
つまりそれは――今から私は逆に相手から殺されるような結果になったとしても、法的に逆らえない立場にいるということを意味していた。
「――――」
私の視線はさっきから彼女の制服の胸元を見たまま……固まってしまい動かせない……。
――怖い。
あまりの恐怖に、これ以上顔を上げることができない……。
彼女が、じゃない。
殺人未遂を犯してしまったという大罪の重みで、自身の心が押しつぶされそうになっていた。
彼女は今、どんな顔をしているのだろう……。
私に対しての恐怖? 怒り? 憎しみ?
それとも……私と同じ――殺意?
「―――っ」
それでも……今の私は彼女の視線を正面から受け止めなくてはいけない。
私にはその責任がある――と覚悟を決め、視線を上げて彼女の顔の方を向く。
「――――」
何……嘘、でしょ?
彼女の表情は私が想像していた、そのどれとも違っていて、私はそれに戸惑い――というより、戦慄を覚えた。
最初は、そうだと気付かなかった。
彼女はそっぽを向いたまま微妙に頬を染め、時折チラッと私に視線を向ける。
――いや……私、というより……私の脚?
あろうことか彼女は、その位置からなら見えているであろう私の下着を見ながら普通に恥じらって頬を染め、私のことを気遣って微妙に視線を逸らしていた。
「――――」
私の中の常識が、ガラガラと崩れ落ちていく音が聞こえた。
今の……この状況で目を背けるって……私が怖くないの?
……あ、あれ? 何? ちょっと待って……もしかして、この人……私に対して、そもそも――。
そんな混乱状態が続いていた
「コ、コラ~ッ!」
「い、妹ちゃんっ、わ、私はケーキじゃないぞ~っ!!」
――と、私にウインクし、軽くおどけてみせた。
「――――」
底の見えない崖が二人の間を完全に隔絶し、それが広がっていくイメージが錯覚として目に映った。
いくら見る目がない私でも、その人が強がりを言っているのか、あるいは冗談を言っているのか、さすがにその程度は見抜けるつもりだ。
目の前にいる相手は何も、プロの女優や詐欺師、というわけではないのだ。
――いや、たとえプロの女優や詐欺師だったとしても、それも一人の人間。
自らの命を狙われたその瞬間でさえ、まともに演技を続けられるなんて到底思えない。
「――――」
自分で言うのも何だけど、私は普通の女子高生じゃない。
姉にならって、中学の入学と同時に始めた剣道。
一年生の大会……そのほとんどが一、二回戦負け。
二年生で、やっと県大会に出場。
三年生になってようやく初出場できた全国大会だったけど、その結果は初戦敗退……。
友人から言わせたら、私も充分天才らしいけれど、それが単なるお世辞だというのは私が一番理解している。
多少話がズレて脱線したけど、さっきの私は殺意でリミッターが外れていたこともあり、かつてない速さで動けた。
学校にも行かず、家にばかりいて身体がなまり続けている今の私……。
――けど、たとえその分を差し引いたとしても、さっきのあの瞬間の一撃は同年代の女子の中でも全国トップクラスの攻撃だった……と、そう言い切れるだけの確信があった。
それだけの……全身全霊を込めた一撃だった。
彼女は……一体何なのだろう……。
視覚外から、完全に虚を突いて放ったつもりの私の一撃を軽く避けた上、それを冗談として返す。
そんな人間が……現代の――この平和な日本に実在している……。 その事実を、現実として受け止め切れない。
目の前にいるのは、私と一つしか違わない……同じ学校の上級生。
「――――」
けど、今……私の目に映る彼女は、全身が黒いモヤに覆われた、得体の知れない何かに見えていた。
その黒いモヤがガスのようになって周囲に広がり……それが私の足元から侵食し、胸元まで這い上がってくる。
そのおぞましさによって全身がガタガタと震え出し、同時に呼吸すら乱れ――。
「―――って……」
「――出てってっ!!!」
そう叫んだ瞬間、立ち上がると同時に彼女の背中を強く押したつもりの私だったけど、その手の感覚すら
足元もフワフワとなっておぼつかず、まるで雲の上を歩いているかのようで――。
「―――っ」
――あっ。 と、つい階段の所でも押してしまった私だったけど、彼女は特に気にした様子も見せず、まるで歩き慣れた階段であるかのように、危なげなく下へ降りていく。
尋常じゃないボディバランス……。 ――さっきのアレも、やっぱりマグレじゃないんだ……。
「――――」
それから、とうとう玄関先にまで彼女を追いやることに成功した私だったけど、最後の最後で彼女は――。
「あ! あのっ! せ、せめてっ、ご両親に挨拶だけでも――」
「――――」
そう言われた瞬間、一気に沸騰した血液が私の全身を駆けめぐり――。
『――出てけっ!!!』
玄関のドアをアイツの顔面にぶつけるつもりで、思いっ切りドアを叩きつけてやった。
「――はーっ!! はーっ!! はーっ!!」
ガチャンとカギをロックした手はドアノブを持ったまま……呼吸を荒くさせてうつむいていると、さっきまでの怒りが『冷静』に私の中で再燃し、燃え上がっていく。
そう、だった~~っ!! ア・イ・ツ・は~~っ!!!
いいのは、見てくれだけ!! 性格最悪の腹黒女だった~~っ!!!
ついさっきまで視界を覆っていた黒いモヤなんて影すら見えず、見えるのはいつも通りの家の中。
「――――」
フーッ、フーッと、獣のように荒くなっていた息がようやく整ったタイミングに合わせ、私のお腹が盛大に鳴った。
お腹……空いた……っ!
「――~~~~っ!」
ドカドカと大きく足音を踏み鳴らしながら、すぐさまリビングへ向かっていく。
とりあえず……何でもいいから、ご飯――。
そう思いながら炊飯器を開けると、そこには何も入ってなく、カレーの鍋も空だった。
あの時は特に関係ないと思って意識していなかったけど、お腹が減ってる今となっては話が別だった。
そういえば、アイツ~~ッ! 美味しい美味しい言いながら、
「あーまーにーしーりーんーね~~~っ!!!」
自己紹介の時に聞いたアイツの名前を思い出し、ここにはもういないアイツのフルネームを思わず叫んでしまった。
「――――」
それから――冷蔵庫に余っていた野菜を切って適当に炒めて作った焼きそばで小腹を満たし、2階に戻った私だった、けど――。
散々に散らかされまくった姉の部屋を見て、それを片付けるのは自分しかいないことに気付き、再びアイツのフルネームを叫ぶことになったのは、それからすぐのことだった。
「――――」
ちなみにアイツは、姉の手紙とカバンを部屋に置いていったままだった。
その手紙を拾ってすぐにでも内容を確認したい――そんな衝動に駆られた私だったけど、それだと何だかアイツに負けてしまったような気がして、どうしてもその行動を実行に移せない。
家のどこに置いても誘惑に負けて読んでしまいそうだったので、その手紙をとりあえずアイツのカバンの中にそっと丁寧にしまうと――。
「……――~~~~っ!!」
怒りそのままに全力でカバンを部屋の壁に投げつけ、
「――――」
その日の夕食。 ものすごくお腹の空いていた私は、お母さんにこれじゃ足りないと言ってご飯を大盛りにしてもらい、その後からおかわりもした。
母が目を丸くして、どうしたの? と聞いてきたので、とりあえず私がいま怒っていることと、明日から学校に行く旨を伝えた。
私が何かおかしなことでも言ったのか、母はそうなの? と言いながら口元に手を当て、嬉しそうに笑うばかりだった。
私がこんなにも怒ってるっていうのに~っ! ……どうやら、私の胸の内で燃え盛るこの怒りの想いは、全く母に伝わっていないようだった。
「――――」
それからひと晩明けての翌朝。
昨夜はずっと……目を閉じる度にムカつくアイツの顔が浮かんできたおかげで、私はその度に怒り心頭。
頭の冷える状態が全く無いまま朝を迎え、ほとんど眠れていなかった。
かなりの寝不足で体調は相当に悪かったけれど、それでも食欲はあった。
ちなみに――うちの家族は、私とお父さんお母さんの三人暮らしで、お父さんはいつも朝早くから仕事に出ていてその帰りだって遅いので、一緒に食事をする機会は土日か祝日ぐらいしかない。
だからこうして、一緒に朝食を食べるのは私とお母さんの二人だけ。
それと……今朝の私はそんなに具合が悪く見えるのか――。
母から何度も――本当に大丈夫? ちゃんと学校に行ける? 途中まで一緒についていこうか? と、しつこいぐらいに心配された。
私はそれに対し――大丈夫だと答え、朝からしっかりとご飯のおかわりだってした。
そもそも大丈夫も何も、学校に行かないとアイツに会えないのだから、それはしょうがなかった。
続く会話の中――昨日何かあった? と聞かれたので、とりあえず昨日アイツが来たことをかいつまんで伝え、今の私のこの怒りを少しでも母に知ってもらうことにした。
母は私の話をうんうんと頷きながら真剣に聞いてくれていて、私が最後にそう思うでしょ? と、同意を求めると――。
「――ふふっ、そうだったの~? それじゃあ今度、その子連れて
と、ニコニコしながら私に言ってきたところで、ちょうど学校に行かないといけない時間になってしまった。
――ダメだった……。
どうにも昨日あたりから、私の心情が上手く母に伝わってないような気がしてならない。
それはともかくとして、学校だった。
家から学校までは、バスですぐ。
通学時間なんて、あってないようなものだった。
「――――」
今日の私は自分用の通学カバンの他に、もう一つのカバンを持っている。
それは、アイツが昨日忘れていった、あのカバンだった。
とりあえず朝――アイツを見かけたら至近距離まで一気に近づき、このカバンを顔面目掛けて思いっ切り叩きつける。
それから、その中に入っている姉の手紙の件を謝らせた上で、それを直接返してもらう。
他のことは全部どうでもいい、まずはそれからだった。
「――――」
バスを降り、学院の敷地内に入ってすぐ――私の視線があるモノを捉えた瞬間、固まった。
かなり遠く――それも後姿からの横顔だったけど、間違いなかった。
「あ~ま~に~し~り~ん~ね~っ!!!!」
考える前に動き出していた私は、大声でアイツの名前を叫びながらドシドシと足を踏み鳴らし、アイツとの距離を確実に詰めていく。
「―――っ」
そのままカバンを後ろ手に回し、大きく振りかぶった、その瞬間――。
「あ、妹ちゃん。 ゴメン、それ嘘」
急に振り向いたアイツが開口一番、そう告げてきた。
「――は?」
――え、嘘? ソレ? どれ?
全く予期してなかったアイツのひと言で私の思考が完全に停止させられ、その動きもピタリと止まってしまう。
「りんねじゃなく、すずね。 ――それが私の正しい名前みたい」
「――は! はぁ!?」
思わず声が裏返ってしまい、素っ頓狂な声も上げてしまう。
そこに――。
「ああ~~っ!! それって、私のカバンだ~っ!!」
「妹ちゃん、わざわざ持ってきてくれたの!? ありがと~っ!!」
「――なっ、いや……ちょ――」
何故だか瞬間的に抱きつかれるかと思い、思わず身を引いてしまった私だった――けど、狙いは当然私が持っていたカバンだったらしく――。
「――――」
私が何をする間もなく、そのカバンは元の持ち主に大事そうに抱きかかえられてしまった。
「………」
何、にも……できなかった……。
まさか……私の行動が事前に読まれてた? それともコイツ、何か野生的な直感とかで自らの身の危険を察知して~……。
そう思いながら私が表情を歪ませ、あらゆる考えをめぐらせていた時――。
「――あ、あの~……い、妹ちゃん? あ、あのね? よかったらでいいんだけど~……」
「い、妹ちゃんのこと、これからはかっきちゃんて呼んでもいいかな?」
と、目の前にいるコイツが信じられないことを告げてきた。
「―――~~~~~~!!!!」
顔が沸騰してしまったかのように熱くなり、頭の血管が切れてしまうかと思った。
――『かっきちゃん』。 それは小さい頃の姉が、舌足らずで『かちき』と上手く発音できず、『かっき』となっていた時の名残だった。
性格最悪のコイツは、当然それすらも前もって全て調べ尽くし、私の気持ちを理解した上で、あえてそう言っているのだ。
当然、そんな
「言いわけねーだろぉっ!!! このクソ馬鹿ぁ!!!」
なるべく顔の近くでありったけの大声でそう叫び、全力で拒否した。
「え~~~……」
言いながら、コイツは可愛らしく――じゃなくっ! ふてくされた生意気な態度で、片頬を膨らませながらむくれてみせた。
「――――」
「――あっ、これって予鈴? かっきちゃ……じゃなく――妹ちゃん、またね~♪」
激昂し、うなり続けていた私なんて完全スルーしたアイツは、ごく自然体のままで普通に時間を気にし、校舎の方へ駆けていってしまった。
「~~~~~っ!!!」
「あ~ま~に~し~す~ず~ね~っ!!!!!」
これで通算四度目。
四度目にしてようやくアイツの正しい名前をフルネームで叫ぶことができ、その怒りをあらわにさせた。
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