第四章
第四章
その翌日。沖田血液内科のナースステイションでは、ちょっとした話題で持ちきりになっていた。
今日から一般病棟に、一人の患者がやってくるという。患者は中年の男性で、職業は音楽家だという。と、いうことははっきりしている。しかし、
「なんともね。その人が、本当にきれいなんですって。も、も、もう若い女の子はいちころだって。」
20代の若い女性看護師が、そう言いだすと、別の看護師も、それを待っていたかのようにしゃべりだした。
「そうなんだってね!なんとも、フランス映画の俳優みたいにきれいだって!だ、誰に似ているのかしらねえ。フランス映画といえば、歌舞伎役者もかなわないくらいきれいな人たちばっかでしょ。あーあ、楽しみだわあ!」
「もう、うちの病院は、ただでさえ重病の爺さんばっかりなんだから、なんだか、広い荒野に花が咲いたようだわね!」
また別の看護師がそういうことを言った。確かに高齢の患者ばかり相手にしていると、どうしても若い男性がやってくるということになれば、こうして話題になってしまうのである。
「だけどさ、ここは担当制だからさ、どうせあたしたちがその人に顔を合わせるには、担当にならないとできないんでしょうね。」
ちょっとこの病院のシステムを知っている30代の看護師が、そういうことを言った。確かに、この病院のシステムとして、担当看護師制度というものが設けられており、一人の患者につき、一人の看護師が退院するまで担当としてつくことになっている。そうなると、担当以外の看護師がその患者に接することはまれとなる。不特定多数の人を相手にしなくてもいいという便利なシステムではあるのだが、この時はどうも不便なシステムだなあと、看護師たちは思ってしまった。
「あーあ、じゃあ、たった一人の人だけが、顔を見られることになるのかあ。」
「残念ねえ。と、いうことはよ。この中の誰かが担当になるってこと?あたしたちのだれかが?」
と、思って周りを見渡す看護師たち。
「そういうことねえ、、、。」
そうなると、女性特有の感情なのだが、私こそはあの人の!という気持ちがわいてしまう。それはいけないことだけど、女性というものは、好きな人が出ると、独り占めしてしまいたくなってしまうものらしい。そして、危ないからよしな、なんて言ってくれる人が、敵に見えたり、同じことを考えている人をライバルと思って、変な小競り合いをしたりするのである。今ここのナースステイションでも、そういうことが起きて、看護師たちはなんだか嫌悪な雰囲気になった。
「選挙みたいな雰囲気になるのかもしれないわね。ま、どっちにしても、最終決定権は、あたしたちではなく、沖田先生が持ってるのよ。」
ちょっと年上のベテランの看護師が、そういうことを言ったのだが、若い看護師たちは、その年上の看護師が担当になってしまったら、一貫の終わり、と思ってしまったのだった。
とはいえ、彼女のいう通り、最終決定は沖田先生がすることであった。彼女たちがいくら立候補しても、沖田先生が決定する。
よし、アピールしなきゃ、なんて彼女たちは話を始めた。
ナースステイションの隅では、彼女たちからポツンと離れたところで、体育会系の体の大きな中年の男性が、あきれた顔で彼女たちが話しているのを見ていた。名前を熊沢直巳といった。その名前に似合わず、無骨な顔と、暴力団並みの体の大きさで、ほかの看護師からは嫌われていて、患者からも看護師からも「くまさん」と呼ばれていた。本人は、くまさんと呼ばれることに、何も抵抗はないようで、くまさんくまさんと呼ばれても平気で返答していたが。
そのくまさんは、彼女たちがそういう話をしているのを聞きながら、どうせ、二枚目の患者がやってこようが、俺には相手にされないだろうな、としか考えていなかったのだが。
ちょうどその時、朝のカンファレンスが始まる時間になったため、沖田先生が入ってきた。看護師たちは、おしゃべりをやめて、すぐに指定位置につく。
「おはようございます。」
全員、沖田先生にむかって一礼する。
「はい、今日はですね。新しい患者さんが隔離病棟からこちらに移ってこられますが、」
女性の看護師たちの間に緊張が走った。
「彼の担当は、熊沢直巳さんにしてもらいます。」
女性たちは動揺した。
「熊沢さん、とりあえず、造血幹細胞移植自体は終了しており、拒絶反応などは一通り回避していますが、体の衰弱というものが著しく、ここを回復させることが目下の課題と言えます。まあ、たぶん、非常に難しい患者さんだとは思いますけれども、よろしくお願いします。」
誰よりも、一番驚いたのはくまさんこと熊沢直巳で、まさか自分が例の二枚目の相手をすることになるとは、晴天の霹靂である。
「ポカンとしてないで、朝食が終了したら、隔離病棟から出してもらうことになります。」
「は、は、はい!わかりました!すぐ行きます!」
カルテを渡されたくまさんは、急いで立ち上がって、沖田先生についていった。
「はあ、、、くまさんが、フランス映画俳優の担当か、、、。」
「あーあ、なんだかあたしたちではダメかあ、、、。がっかりだわあ。」
口々にそう言いだす若い看護師たち。
「まったく、沖田先生も人選へたくそね。二枚目には美人が似合うってこと、わからないのかしらねえ。」
「いいえ、こればかりは、沖田先生の勝ちよ。美人同士だったら、すぐに戦争状態になって、肝心の医療提供がどっかいっちゃうということを、沖田先生は見抜いてたから、あなたたちじゃなくて、くまさんが選ばれたんじゃないの。」
例のベテラン看護師が、そう解説したが、若い看護師たちは、まだ不服だった。
「えー。でも、やっぱり美人のほうがいいんじゃありませんか。ああいうきれいな人は、普段からちやほやされているでしょうから、美人が寄ってくる方法なんていっぱい知っているでしょうし、美人といたほうが気持ちよくなるって、知り尽くしてますよ。」
「だから、患者さんは芸能人ではないでしょう。三枚目であろうが、二枚目であろうが、みんなつらい気持ちでやってくるんだから、美人がどうのなんて、言ってはなりませんよ。さ、あたしたちにも、担当の患者さんに、ご飯くれたりしてこなくちゃ。」
ベテラン看護師は、そういってよいしょと椅子から立ち上がった。
「あーあ、おばさんになると、目が黄色くなっちゃうのかしら。きっときれいなひとであっても、何も感じないほど、感情がマヒしてんのよ!」
「ほらあ、いつまでも変なことばっかり言っているんじゃありませんよ。それに、くまさんでなければ、彼の看病はできませんよ。相当、衰弱しきったまま、立ってるのもほとんどできないようですし。」
「立ってるのもできないって、長くあっちにいれば誰でもそうなんだけどねえ、、、。」
「それに年寄でなければ、文句も言わないでしょうしね。」
まだ文句たらたらの若い看護師たちだったが、
「ほら!」
一喝されて、彼女たちは、ナースステイションを出た。
一方。
水穂本人は、とりあえず隔離病棟最後の朝食と言っても、葛湯とか重湯のようなものを食べさせられて、隔離病棟によくある衣類もすべて脱がされて、通常の浴衣に着替えさせられ、またストレッチャーに乗せられて一般病棟に移動されて行った。まあ、救いとしては、この病院に相部屋は一切設けられておらず、すべて個室になっていることで、ほかの患者さんと接する機会は少ないということである。
でも、なんだか天国から地獄へ落ちたなあという気持ちは抜けなかった。隔離病棟の担当看護師たちは、早く出れてよかったね、やっぱりお日様が眺められるところがいいよね、なんて言っていたけれど、そんなこと、余計なおせっかいにすぎないのである。
結局、お礼も何も言わないで、隔離病棟を後にした。
それを眺めていた看護師たちは、かわいそうだね、何か特別なわけがあるのよ。なんて噂していた。それはきっと、ここを出る患者たちは、九分九厘が大喜びするのが当たり前であるのに、こうして悲しそうな顔をする人は、ほとんどないと知っていたからである。喜ばない人は、家族の支持がないとか、とにかく孤独であるとなんとなく感づいていた。年寄でないのに、そういうことを強いられるなんて、かわいそうよ、なんて、隔離病棟の看護師たちは言っていた。そう噂していると、また患者さんがやってくると指示が出た。今度は、無骨な爺さんだった。一瞬の夢か、と彼女たちは言っていた。まあ、そういうことだと解釈できるのは、重病人ばかり扱う隔離病棟ならではだった。一般病棟では、そういう解釈はしない。そこが天と地の差であり、内紛の原因になる。
とりあえず、エレベーターにのって、一般病棟と書かれた看板のある、建物に入ったが、入ると日の光が真正面に来て、ある意味目を刺す痛さだった。
人の声が聞こえてきたので、水穂はぎょっとして、顔を隠してしまいたくなったが、中庭から患者や看護師がしゃべっているのでしょうと解説された。とりあえず、道中、人に遭遇することはなかった。とりあえず、長い廊下を移動して、一つの個室に入らされ、中にあるベッドに寝かされる。それが終わると、もう立ち入り禁止なのか、一礼して看護師たちはさっと散っていった。
しばらくここでゆっくりしていろ、と言われても、あまりにも明るすぎて落ち着かなかった。やっと落ち着きを取り戻したのは、薬が投与されて、しばらく眠ったあとだった。時折、廊下で患者や看護師がしゃべっている声もありありと聞こえてきた。その中には、一般的な世間話をしている看護師も見られる。隔離病棟では、重病の人ばかりだからか、恋愛のはなしは禁句となっていたが、一般病棟はそういう人はいないので、してもいいということだろう。そうなると、きっと他人の噂話を平気でしている看護師もいるし、患者もいる。そういう世界に自分が入ったら、また身分がばれて、「内紛」が勃発してしまうと思う。患者たちが、同和地区の人間と一緒なんて、こんな病院出ていくぞ!と怒鳴っていくこと、そして、看護師たちが、あんな汚い人間を看病するなんて、最悪だわ、病院はいっぱいあるから、もう出ていくわよ!なんてやめていくさまが、ありありと浮かぶ。
あーあ、とうとう来ちゃったか。そういう気持ちしか思いつかなかった。
「磯野さん。起きてますか。」
太い男の声である。
思わずぎくっとして、身構えようとしたが、それはできなかった。
がらっと病室のドアが開いて、一人の男性が入ってきた。たぶん看護師さんだと思うのだが、それにしては、体育会系の人だなと思った。同時に美人ではなくてよかったと思った。
「磯野さん。今日からですね、こちらで担当看護師になりました。熊沢直巳です。患者さんにも、ほかの看護師からも、みんな揃ってくまさんと言いますので、くまさんと言ってくださいませ。」
と、くまさんは一礼した。その顔と、名前とのギャップに、思わずポカンとしてしまった。
「す、すみません、、、。」
「すみませんじゃないですよ。とりあえず、点滴しましょうね。いいですか。ちょっと痛いかもしれないですけど、我慢してくださいよ。」
といって、くまさんは、水穂の腕を取った。というか、もうすでに点滴には慣れていたから、平気だったのだけど、改めてこういうことを言う人は、やっぱりどこか優しいということだと思った。
実際、くまさんは点滴が上手で、たいして痛い気がしなかった。
「しかしですなあ。お天気がいいのに、黙ってないで、何か言ったらどうでしょうかね。こんなに静かで従順な患者さんなんて、初めて見たような気がするんだけどなあ。」
でかい声で、そういうくまさんは、看護師として当たり前のことを言ったつもりだったのだが、水穂は返答しなかった。
「なんでまた何も言わないんですかね。そんなに俺、変なやつでしょうかね。まあ、初めてなので、緊張しているのかな。まあ、少しずつなかよくなっていきましょうね。それとも、怖いですか。暴力団顔負けって、以前入院されていた患者さんから言われたことがありました。」
そんなことはどうでもいいから、早く一人にしてもらえないかと思ったが、それは許されないことだろうか、、、。
「ま、とりあえずくまさんと呼んでいただければ結構ですよ。くまさんと。」
今日はそれ限りで撤退してくれたのだが、これからこの、太った口のうるさい看護師に看病されなければならないなんて、ある意味では、もうお先真っ暗というか、絶望的だなあと思った。
その日は夕食として、もう葛湯も重湯でもない、普通のご飯が出されたが、水穂は手を付けられなかった。翌日も、翌々日も食べなかった。それでいいのだと思った。どうせ、こんなところにいたって、たいしたことにはならない。そんなことはどうでもいい、どっちにしろ、生きるなんてことはしたくない。一言でいえば、ほっといてくれ、これであった。
数日後。
「水穂ちゃん、おためしのつもりで、お外へ出てみますかね。まあ、病院のつまらない庭ですけど。沖田先生からは、30分したら戻ってくるようにと言われていますけどね。でも、それだけでもいい刺激になるでしょ。」
いきなりくまさんがそういうことを言いだした。聞かされて、水穂はぎょっとする。
「どうですか。行ってみましょうか。」
くまさんの体育会系の顔が真正面に来た。
「僕は、、、。」
言いかけたが、それで黙ってしまった。
「水穂ちゃん、黙っているということは、それでいいということですかな。よし、じゃあ行きますかね。」
くまさんは、半ば強引に水穂をストレッチャーに乗せた。たぶん、黙り込んでしまったので、それを肯定と思ってしまったのだろう。
「狭い庭ですが、行きますよ。」
くまさんにストレッチャーを動かされて、まるで火葬場に向かうような気分になった。廊下などで、ほかの患者たちにも遭遇してしまうことになり、顔を見られるのではないかと、怖くてたまらなかった。幸い、誰かが自分のことをからかうということはなかったのだが、からかっているように見えてしまうのが、きっと習慣は恐ろしいというか、そういうことだろう。
とりあえず、病院の庭に出た。庭と言っても、小さな公園のような場所で、池とベンチが設置されているだけの狭い庭である。確かに、歩いて一周したとしても、30分あれば、余裕で帰ってこれるくらいの面積しかなかった。
「よう、くまさん。ずいぶんきれいな患者さんを相手にしているじゃないか。それではいよいよ、窓際族も解消かなあ?」
庭を散歩していた老人が、そんなことを言いながらくまさんに声をかけた。
「さあねえ。なんだかわけがわからないよ、俺だって。まあ、いずれにしても、この年で平社員だから、出世街道大外れだ。」
「まあいいじゃないの。若い姉ちゃんばっかだと、かえって言いたいことも言えなくなるよ。たまには、不細工なおじさんがいてくれたほうがいいよ。」
そうなると、くまさんも、あまり相手にされなかったのかなと思った。
くまさんが、その老人と話している間、水穂は軽くせき込みながら、庭の様子を眺めていた。せき込んでもよくある内容物は、流出してこなかった。
不意に、前方から、一人の男性がやってきた。右手に売店でも行ってきたのか、小さな紙袋を持っていた。
「こんにちは。」
ちょっとばかり、日本語としては変な響きがあった。
「一度でいいから君とお話してみたいと思ってた。すごい綺麗な人だと思って、びっくりしたよ。隣の部屋に入っていたのを見たんだよ。日本人らしくないから、ヨーロッパとか、そっちのほうかと。」
つまりこの人は、自分の事をヨーロッパ人だと思い込んでいるのだろう。初対面の人に対して、なれなれしく声を掛けてくることも、日本人ではほとんどないし、その発音の仕方から、どこかテュルク(トルコ)系の訛りがあるとわかった。
「残念ながら、生まれも育ちも地元です。西洋ではありません。」
そういうと、残念がるどころか、どこか面白そうな顔をした。
「そうなんだね、日本にもそういう顔した人がいるって珍しいよ。とても日本人らしくないし、どっかの外国の俳優さんに見える。ところで、君の名前、なんていうの?」
「あ、名前ですか。僕の名前は、磯野水穂です。」
「磯野水穂さんね。僕は、イスマイール。姓は鈴木。長ったらしいから、先生以外の人からみんなぱくちゃんと呼ばれているの。だから君もぱくちゃんと呼んで。」
と言って、彼は軽く礼をした。つまり、日本式の挨拶は知っているらしい。一見すると酒に酔っているのかと思われるほど赤面しているので、この人は、多血症に罹患しているとわかった。酒の持ち込めない病院では、そういうことだとすぐわかる。
「さ、どら焼きたべな。売店で買ってきたものだけどさ。」
ぱくちゃんは、水穂にどら焼きを突き出した。
「どら焼き?」
「いいんだよう。どうせ、どら焼きと、日本人のカミさんしか相手にしてくれないから。カミさんだって、店が忙しくてさ、月に一回見舞に来るので精いっぱいさ。」
ぱくちゃんはそういった。よくわからなかったが、後で意味が分かる。
「おいぱくちゃん。あんまり水穂ちゃんにちょっかいは出さないでもらえないかな。この人、隔離病棟に長くいて、今日久々にそとにでたんだからな。」
くまさんがそう注意すると、
「くまさんごめん。歓迎のあいさつくらいさせてくれよ。どうせ、みんな相手にしてくれないんだから、寂しくてたまらんなあ。」
という。つまり、多少ながらの分別はあるんだとおもった。店というのだから何か商売をしているひとなのだろう。しかし、敬語の文法はまるで知らないらしく、誰に関しても俗語のままである。
「もう、はやくカミさんのもとへ帰りたいなら、どら焼きの食べ過ぎをやめろ。暇さえあればここにきて、どら焼きばっかり食べて。少しさ、鉄の取り過ぎには気を付けようとか、自分で考えて対策を取ったら?」
くまさんの話を聞くと、やっぱり多血症だ。
「せめて、新しい友達に、どら焼きくらい渡してもいいかな?僕が食べない代わりに彼が食べるんだから、どら焼きの食べ過ぎ対策にはなるだろ?」
「まったく。一個だけにしろよ。あんまり不安そうなことを与えちゃいけないぞ。」
くまさんがそういうと、ぱくちゃんは、赤い顔をさらに嬉しそうにして、
「食えよ。」
と、水穂にどら焼きを渡して、点滴を引きずりながら病棟へ戻っていった。水穂もくまさんに連れられて、病棟に帰っていった。
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