第三章

第三章

蘭は落ち込んでいた。

確かに、曾我、つまりジョチが言ったことも間違いではないことは知っていた。それはそうだと思う。エベレストに登るほど大変だというのもわかる。だけど、そうだから初めからあきらめろ、と言われると悔しくてしょうがないのは、人間ゆえの甘えか。もちろん、危険すぎる賭けであることもわかる。それを求め続けて、精神がおかしくなり、うつ病などにかかってしまって家庭崩壊を招いたことも少なくない。つまりそれだけ提供者を見つけられない。だから、あきらめろ。ジョチはそういっている。でも、でも、どうしてあきらめられないんだろう。聞かされてしまったら、二度と出てこられない落とし穴に落とされてしまったような気分だ。もし、この治療が全く効果を発揮しないというのならあきらめられる。でも、

そうではない。提供者が現れればあいつは救われる、ということを聞かされている以上、

どうしてもそこに目を向けてしまう。それに向けてエベレストに登るような準備が必要なのだと聞かされても、やってみたくなる。

「たとえそれは危険でもだ!」

蘭は、でかい声でテーブルをバアンとたたいた。

「何やってんだよ。そんなにばんばんたたくと、テーブルが壊れるよ。せっかく屋根を直してもらったのに、今度はテーブルの修理かい?」

杉三が、買い物袋をもって入ってきた。

「蘭、しっかりしてくれ。あんまり落ち込みすぎて、お前までぶっ壊れたらどうするよ。もう、恵子さんだって実家に帰ってしまったんだし。いいか、これから、看病人として、もっと苦労を強いられることになるんだって、青柳教授が言ってた。だから、そうなるって腹をくくって生きなくちゃ。それに、兵力がなくなったら、弱体化していくだけじゃないか。介護現場の最大の課題は、兵力不足だぜ。」

「うるさい!もう、当の昔に壊れてるさ!ていうか、もう壊れたほうが楽だ!」

蘭は、でかい声でそう言い返した。

「まあ、女の人であれば、そういうこともあるな。でも、男は泣いたらいかんぞ。女ってのは、壊れちゃう可能性があるが、男とはこういうとき、ぐっとこらえて勇敢に立ち向かうのが男なんだって、原住民の間ではそういう定義になっているらしい。日本人は甘ったれてて、いろんなところが退化しているから、原住民のそういうところを見習わなければだめだって!」

「ひどいこと言うな。いきなり原住民の話はしないでよ。なんでこんな時に原住民の話?」

「だから、機械に頼らないで人間そのもののやり方で生きているのは、原住民なんだから、人間の退化している能力を、みんな持っているんだって。」

「うるさい!」

「何を言っても無駄だな。」

杉三は、買ったものを冷蔵庫に入れる作業を始めた。

「杉ちゃんも、ブッチャーも、みんなある意味超人だよな。僕はある意味、能力がないということだろうか、、、。」

蘭がそういったのと同時に、ちょうど窓から、風が吹いてきた。カーテンがテーブルの上にあったカバンをガタンと倒して、中身がテーブルの上に散乱した。

「杉ちゃん、カバンの中くらい整理しなよ。もういろんなものが糞詰まりで、しっちゃかめっちゃかじゃん。」

確かに、杉三は、近場に出かけるときでさえも、いろんなものを携帯していくのが当たり前だった。買い物に欠かせない、財布やスマートフォンだけでなく、ショッピングモールで配られている、いろんなチラシをもらってきてしまう癖があるので、すぐにカバンはパンパンになってしまうのである。

そのチラシの中に、「AB型のあなた」と書かれているものを見つけた。蘭は思わず、それを出して読んでみる。よくある血液型占いというものらしい。たぶん、店の中に占い店が出張していて、話に乗ってしまった杉ちゃんが、そこで頼んでしまったのだろう。

「杉ちゃん、これいつやった?この血液型占い。」

「は、それか?今日、ショッピングモール行って、アンケートに答えたら、福引をやらされてさ。それで、血液型を鑑定して、占ってくれるというのだが、果たして当たっているのかさっぱりわからん。要らないから、捨てよう。」

「つまり、杉ちゃんの血液型はAB型というわけか、、、。AB型、、、?あ、そういうことか!杉ちゃん、この占いは間違っていないぞ。君の血液型は、AB型ということなんだね。よし、望みが出てきた!」

思わず、杉三のほうが、ポカンとしてしまった。

「どうしたんだよ、蘭!」

「杉ちゃん、一生のお願いだ!すぐに病院行ってくれないだろうか!杉ちゃんが立候補してくれれば、あいつが助かるかもしれないぞ!」

「もう、興奮するな。単に血液型の合致というだけでは、解決しないって、ジョチも言ってたよ。それだけじゃなくて、もっともっと、条件が厳しくなるそうじゃないか。だから、あきらめたほうがいい。」

「そんなこと、やってみなければわからない。頼む、一回でいいから、病院行ってきてくれ!」

「バーカ。もし、悪い結果であれば、どうするの?」

「そうしたら、本当にあきらめるよ。とにかくな、何かちょっとでも望みがあれば、やってみるのが常だろう。だから頼む!この通り!」

蘭が、深々と頭を下げると、杉三は、頭をかじって考え込んだ。

「そんな危ないことして、果たしていいのかなっていう問題もあるよ。」

「君までそんなこと言わないでくれよ。一人だけでも、喜んでやるやつがいたっていいだろう。とにかく、君が立候補してくれれば、あいつは助かるぞ。それでいいじゃないか!」

「そうだねえ、、、。」

しばらく間が開いた。

「ま、こういう見方もできるよな。新しい血液に全部入れ替えてしまうと言いたいんだろ?蘭は。」

ふいに杉三がそうつぶやく。

「そうだよ、杉ちゃん。そうしなきゃ、あいつは助からないんだから!」

「つまりだよ。水穂さんだって、長年悩んでいた、部落民というコンプレックスも少し解消してくれることになるな。」

蘭は、ここで同和問題を持ち込むなと言いたかったが、確かに、血液そのものを全部交換するという解釈は間違っていない。小学生時代、水穂本人が、穢れた男がやってきた、穢れた血で汚すな、などとからかわれていたことを数多く目撃している。その当時理由は何も知らなかったが、確かに部落民であれば、穢れる、汚い、などとからかわれる例が数多いのは、小久保さんから聞かされていた。それは、法律的には、解決はしないけど、血液そのものを入れかえるということは、「穢れた血」は少なくとも消滅することにはなる。

「よし、やってみようぜ。」

蘭は、涙を拭くのも忘れて、スマートフォンをとった。


数日後。蘭の必死な懇願により、ブッチャーとカールさんが付き添って、杉三と水穂は、沖田眞穂先生の経営している「沖田血液内科」に行くことになった。本当は蘭が付き添いになりたかったが、そういう場所では不向きであるとして却下された。夕日が落ちたころ、製鉄所に車の音が聞こえてきたが、帰ってきたのはカールさんとブッチャーだけであった。蘭が結果を聞いてみると、奇跡的に適合したのと、水穂自身が一刻を争うほど重篤であったために、杉三が二つ返事で移植に同意したという。杉三は提供者となるために入院し、水穂は、事前処理を施すため隔離病棟に収監されて行ったと、ブッチャーは涙ながらに語った。

とりあえず、水穂の血液を採血して原因を検査したところ、原因は明らかに自己免疫性疾患であり、免疫細胞の狂暴化であることは確定した。つまり、免疫細胞による自己破壊ということになるが、その威力はペスト菌と変わらなかったという。すでに狂暴化した免疫細胞は血液中を巡っていて、細菌によるものではないものの、敗血症と同様の状態であった。とりあえず目下、肺のみが中心的に破壊されているが、これがもし全身に回っていたら、さまざまな臓器が破壊されて、文字通り、ペストにそっくりなやり方で亡くなったと聞かされた時は、ブッチャーは卒倒したという。ペスト菌といういい方はなんとも古臭いと蘭はあきれたが、昨日まで元気だったものが、ペスト菌のせいで一日もしないうちに亡くなったのを目撃したことがあると、青柳教授に聞かされてだまった。

「で、どうやって、すぐに移植の決定までこぎつけた?」

蘭がそう聞くと、カールさんがまた詳細を語り始めた。ここからは杉ちゃん特有の性質なのかもしれないが、それが、最も確実に引っ張る方法なのかもしれなかった。基本的に、適合したとしても、一度や二度は躊躇してしまうということがほとんどであり、内紛が勃発することも珍しくない。あるいは、経済的なことでもめることも多い。しかし、それは一切なかったという。理由はこうだ。病院に向かう時でさえも、水穂は、歩くなんて全くできなかったから、ストレッチャーに乗って移動し、検査中も横になったまま、検査後に結果を聞くときも座っていられなくなって、診察室の中にあった寝台に横になったまま話を聞くことになった。その時に疲れ切ってしまったのか、急にせき込みはじめ、すぐに、説明が聞こえなくなるほどの大音量でせき込み、あれよあれよと内容物を吐き出す羽目になった。慌ててブッチャーが介抱したが、同席した若い女性看護師が、一瞬ひいてしまうほどの凄惨な光景であった。沖田先生などは、看護師よりブッチャーのほうが慣れていて感心してしまうほどだった。この錯乱状態を収めるためか、

「わかった!役に立つんなら、何でも使ってしまえ!もう、かわいそうすぎるから僕が立候補するよ!」

と、杉三が怒鳴った。そこから、満場一致で決定し、あれよあれよと手続きは成立してしまったという。

「杉ちゃんでなければ絶対にできない決定方法だな。僕や、ほかの人たちでは絶対にできないや。」

蘭は、自分にはできない杉三ならではの特技に、大きなため息をついた。

「まあ、いいじゃないですか。一か八かの賭けになりますが、もう杉ちゃんが立候補してくれましたので、確実に実行はされると思いますよ。蘭さん、とりあえず、これでよかったと思って、もうあとは沖田先生と、杉ちゃんの協力、水穂さんの体力に任せましょう。」

ブッチャーは、自分に言い聞かせるように、そういった。

「そうですよ、蘭さん。ほかの事でいちいち感情移入されては、無駄に体力を使うだけです。今ある問題だけを、解決することに努めましょう。」

懍が蘭をなだめるように言った。こういう考え方は懍の十八番であるが、実行するのは非常に難しいのである。

「とにかくですね、あとはとにかく、運を天に任せるしかありません。人間が幾らなんとかしようとしても、どうしてもできないことだってあります。聖書にだって、いくらでも書かれています。」

イスラエル人らしく、カールさんは信心深い言い回しを使ったが、蘭はそういうものが本当に苦手なので、ちょっとイラっと来た。

「いえ、今回は、カールさんの考えが一番近いでしょう。僕たちにできることは、ほんのわずかしかありません。須藤さん、申し訳ないのですが、恵子さんにもこのことを知らせてくれませんか?」

懍がそういうと、

「そうですね。恵子さんの出身は福島でしたね。一時、福島は危険と言われたこともありましたが、今はそうでもないと聞いていますから、すぐにお知らせできますね。」

と、ブッチャーもそれを考えていたようである。

「はい、彼女の実家は郡山市の安積永盛駅ちかくですね。ここよりもさらに田舎の出身者ということになります。それに、福島すべてが、危ないということはありませんよ。少なくとも郡山市は、浜通りには位置していませんからね。」

「そうですね、それに、チェルノブイリのほうが事故としての規模は大きかったそうですし。日本人は騒ぎすぎなんですよ。」

懍も、カールさんも相次いでそういうことを言った。すでに、こういうチームワークが出来上がってしまっているんだなと、蘭は初めて気が付いた。もう、自分の出る幕はなくなってしまったのだろうか?それこそ、本当に「お役御免」だ。

そこを知ってしまうと、人間、まわりの人の話など、どうでもよくなってしまうらしい。そこから、入院生活の話とか、恵子さんに知らせることなど、あらゆる話が展開されたが、蘭の耳には全く入らなかった。人間にとっては、お役御免こそ非常に悲しいものなのだろうか。人間は、お役目をもらって働くことに、一番の価値を見出すものだからだろうか。


一方そのころ。

白い天井と白い床、白い壁に囲まれた隔離病棟で、水穂が古い武器と新しい武器を交換するための「作業」をされていた。まず、当り前のこととして、古いものはすべて捨てる必要があるので、凶暴化した免疫細胞を死滅させるための、放射線療法が開始された。それが完了すると、新しい武器を授与される、いわゆる造血幹細胞移植が実行されるのであるが、移植といっても、内臓移植というわけではないので、手術をして内臓を入れ替えるということは行われなかった。単に、大型の点滴を持ってこられて、それを注入されるだけのことであった。実感も何もなく、単にぼんやりとして、点滴を受けるだけのことであった。

「終了ですよ。よく頑張りましたね。」

と、沖田先生に褒めてもらっても、うれしいなんて気にもならなかった。単に大型の点滴を刺されただけのことで、何か大掛かりなものをした気にもならない。出たものは、ため息一つだけであった。

とりあえず、しばらくは隔離したままここで生活するようにということであったが、ただいるだけの事であって、何も気持ちはわかなかった。とりあえず、急激な拒絶反応が心配されたがそれもほとんどなく、逆に、薬の成分で眠っているだけのことであった。それを許されればそこでよかった。何も文句もいう必要もない。テレビドラマのように、いつになったら出れるのかと騒ぐ必要もない。日の出もないし、日の入りもない。時間の流れもないし、季節感もない。ただ寝ているだけの隔離病棟は、かえって居心地のいい世界かもしれない。たぶんこういうことを描くと、変な奴だと思われるかもしれない。でも、自分にとっては、それでいいと思う。理由はただ一つ。文字通り、隔離病棟だからである。実社会から隔離されているからである。自分のような身分では、実社会で得をする事なんてほとんどなかったので、実社会から隔離された世界は、非常に居心地のいい世界と、思い込んでしまったのだ。ここに居れば、もう、人種差別を受けることがないからである。常に人種差別が付きまとう実社会とは全く違う。人間なんて、点滴を付け替える看護師か、時々様子を見にやってくる、沖田先生だけであり、あとは天井だけが相手をしてくれているようなもの。

それでよかった。現実はろくなことはないことは、もうとっくに知っている。そこから逃げるには、この世からさようならするしかないので、まるでそれを疑似体験しているようとしか、感じなかった。

寂しくもないし、悲しくもない。

そうだもの。

そう考えていたし、時間を示すものは一切ないから、ずっとそのままでいたいような気がしてしまうのだった。それではいけないと、ほとんどすべての本やメディアでは描かれるが、自分のような身分の人間はその逆である。

ところがある時。

「磯野さん、そろそろ新しい骨髄が定着してきたようですし、心配していた拒絶反応も最低限で済んだようですので、明日から、一般病棟に行っていただきますからね。まあ、ずいぶんと長くこっちにいてもらいましたが、明日からは、もうちょっと気楽にいられると思いますよ。」

にこやかな顔をして、沖田先生がそう言ったため、水穂はぎょっとした。

「よかったじゃないですか。これから、少し人間らしいというか、そういう生活ができますね。」

余分なことしないでください。先生。人間らしいというのはつまり、人種差別がかかわってくるのです。それほど、辛いことはないし、解決方法は、こういう風に実社会から逃がしてもらうことしかないのです。

と、訴えても無駄なことは知っていた。

「どうしたんです?ため息なんかついて。おかしな方ですな。大概の方はここで喜ぶんですけどな。中には、今までのことが嘘のように元気になって、万歳をする方もたくさんいますよ。」

不思議な顔をして、沖田先生が自分を見ているのが分かったが、こんなことを口にしたら、怒られるに決まっているのも知っている。

「いえ、単に体力が。」

とりあえずそれだけ言った。

暫く、沖田先生が自分をじっと見ていたのがわかる。思わず目をそらしてしまうのであった。目をそらすと、あれだけ真っ白で、綺麗だと思っていた天井が、一気に灰色になったような気がした。

「磯野さん、確かにこっちにいたのが、ほかの人より長かったのは事実ですが、心まで隔離されては、なりませんよ。そうなったら、人間として、おしまいということになります。どんなことがあっても、人間社会がいやになってしまうということはあってはなりませんよ。」

そうはいっても、人間でありながら、人間扱いされないという運命を背負わされた自分には、そういうことを言われても、失望するだけのことだ。

「磯野さん、生きたくないなんて、そんな我儘を言っていると、神様はもっと重大な罰を下すことになっています。それに背いて生きていたら、いつか必ず、重大な何かを喪失することになります。それにあってから、気が付くのでは遅いんです。」

キリスト教ではそうなっているが、全部の人がそうとは限らない。

「それに、もう、次にこっちへ来る患者さんも決まっているんですよ。その人が、助かるためにも、あなたには、出て行ってもらわなきゃ。それはうれしいことでもあるんですよ。」

「そうですね。」

逆らうことはできないと思って、それだけ言っておく。

「じゃあ、明日の朝いちで出ますからね。」

涙がポロンとでた。

地獄に落ちた気分だった。


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