第二章

第二章

翌日。杉三は、台所で利用者の食事を準備して、ブッチャーが製鉄所で玄関掃除をしていたころのことである。恵子さんが不在であるので、ときに杉三もこうして手伝いを頼まれることもあった。

「すみません。」

製鉄所の玄関先に、かばんを持った人物が入ってきた。持っていたトランクから医者だとわかった。でも、あの赤城医師みたいな変にきざなところもなく、年を取った、悲しい感じの医者だった。

「すみません。あの、こちらに磯野さんという方はいらっしゃいますでしょうか?」

「磯野だって?あ、水穂さんのことか。はい、今寝てますが、なんのようでしょう?」

ブッチャーが、思わずそういうと、

「はい。診察に来たのですが、どこにいらっしゃいますかな?」

と、聞いてきたのである。

「確かに奥の四畳半で寝てますけど、なんですか。」

「あ、失礼。わたくし、血液内科医の沖田眞穂と言います。以前、こちらに往診にあたっていた、赤城春男先生のご依頼で、こちらに参りました。」

「赤城先生?ああ、あの若手の先生ですか。確か、水穂さんのことを散々おせっかいをして、ある日突然姿を消してしまって、いい迷惑しているところでしたが。」

ブッチャーは、赤城という人の印象を、正直に言った。彼に対しては、あまりいい印象がもてなかった。

「はい。ですから、その赤城先生が、うちへ見えられましてね、磯野さんのことをお話しされて行かれまして、どうしても放っておけないので、お願いできませんかと言ってきたのですよ。それで、こちらに伺ったわけですが。」

ブッチャーは、どうしてもその老人を信用したくてもできたくて、どうしていいのか返答に困っていると、車いすの音がして、杉三の声がした。

「おい、どうしたのブッチャー。誰だよ、この爺さんは。」

「あ、杉ちゃん、この人ね、おきたさんって言って、なんでもあの赤城先生に頼まれて、水穂さんの診察に来たんだって。」

「沖田だって?沖田総司にしては、ぼろぼろの爺さんって感じ、、、。」

「沖田総司じゃないよ、杉ちゃん。そうじゃなくて、沖田眞穂先生。診察に来たんだって。でもさ、俺、正直に言うとあの赤城先生のことは、、、。」

ブッチャーは頭をかいた。

「うん、僕もあいつのことはただの馬鹿だと思っている。でも、今日はやってもらおうぜ。すぐに入ってくれ。こっちだぜ。」

「おい。杉ちゃん、そんな風にポンポンポンポン、、、。」

「いいじゃん、ちょうどいいところに来てくれた。こりゃ間違いなく闇夜の提灯だ。この前畳張り替えたばっかりなのに、もう新しく畳を張り替えなきゃならんぞ。」

「畳?畳なんてもう張り替えるの?いつだよ?」

「今だよ!たった今!もう、にっぶいなあ。だから闇夜の提灯だ!このままだと、河童のさんぺいの布団は全滅だ。早くみてもらわないと、大変だよ。頼もうぜ!」

「え、つまり、またやったんだね。おい、どうすんだよ。この前縁側でああしたばかりなのにさ、、、。」

「だからみてもらうんだ。このままだと、カウントダウンの第一歩を踏み出したことになるぞ!」

「失礼ですが、具体的にいつどこでどのようになったのか、お話ししていただけませんかな?」

老人が、二人の話に割って入った。

「ま、百聞は一見に如かず!とにかく中に入れ!前触れとして、どんな事件があったかなんて、話している暇もないんだよ。聞きたいことがあれば、本人に話を聞きなよ、爺さん!」

「杉ちゃん。そんな言い方するなよ。先生に対してやくざの親分みたいに、、、。」

「いえ、すぐに伺いましょう。ご案内願います。」

「おう、入れ!」

杉三は、無視して老医師を製鉄所の中に招き入れた。

「あーあ、本当に、、、。もうちょっと加減してもらえないもんかなあ。あんな風にやくざの親分みたいなしゃべり方で、お医者さんに向かってしゃべらないでもらたいよ、、、。」

頭をかじりながらブッチャーは箒を置いて、頭をふりふり中に入っていく。

「こっちだ!」

杉三が、でかい声で案内するのについていくと、四畳半に近づいていくにつれて、弱弱しくせき込む音が鳴っているのに気が付いた。

「ほらあ、見ろ。爺さん、こんな有様だ。これでは、もう、部屋というより戦場みたいになっている。」

杉三がそういって部屋のふすまを開けると、水穂が布団の上に横向きになってせき込んでいた。布団からはみ出して、畳が真っ赤に汚れているのに気が付く。

「ひどいもんじゃないですか。カウントダウンというのは、やっぱり本当なんですね。ほら、今から見てもらいましょうね。ほら、よっこらせ。」

ブッチャーは、水穂の血液で汚れた口元を拭いた。その間に、杉三が、老医師と何かやり取りしていたが、それを聞き取って注意することも忘れていた。背中をたたいて、血液をふき取る作業に手間を取らせてしまったのである。杉三と老医師が、やり取りしているのなんて、ある人の言葉を借りれば、「口の動くのが見えるだけ、声が聞こえるだけ」の状態で、耳には入らなかった。

「そうですかそうですか。それはそれは。それでは生まれつきということですか。それは特定の食品が引き金になるということですね。」

「意味はよく分からないが、これまでに100個以上の食べ物で、こうなっている。イスラム教に改宗したとしても、賄いきれないだろう。かといって野菜ばかり食っていれば安全とも限らない。唯一、当たらないで完食したものは河童巻き。それが一番安全なので、寿司屋に行けば、必ず河童巻きばかり食べている。それに、醤油と胡椒は禁物。」

杉ちゃんと、先生がそういう話を繰り返しているのは聞こえてきたが、それ以外何もわからなかったような気がする。

とにかく、ブッチャーが、水穂を介抱して寝かしつけた時、杉三たちは、部屋を出て、どこかに行ってしまっていた。たぶん、本人の前では、残酷なので言えないということだろう。

気が付いた時は、もう晩御飯の時間になっていたので、すぐに晩御飯を食べさせなければと、ブッチャーは急いで台所にいった。


同時に、応接室では、杉三がちょうど学会から戻ってきた青柳教授と、例の沖田眞穂先生とを交えて何か話していた。

「ああ、そうですか。そういうことですか。それでは、一般的な対処療法ではとても根絶は難しいですね、そうなれば、強硬手段にもっていったほうがいいと思いますな。」

「強硬手段といいますと。」

懍が冷静にそう相槌を打つ。

「ええ、赤城先生から大体のことは聞きましたが、ここまでひどいとは思いませんでしたよ。赤城先生は、免疫抑制療法をと言っていましたが、これでは間に合わないでしょう。ですから、こうなったらもう強硬手段というわけです。」

「ああ、そうですか。できれば、僕もそうしたいところですが、重大な問題がありまして。それは非常に難しいと思うので、実行できれば苦労しないというところですね。実行させようと、何回も思いましたけど、本人が頑としていうことを聞かないのと、適した病院がないということから、もう無理ではないかと思いました。」

「なんだよ、教授もおんなじこと考えてたの?」

「そうですよ。だって、こうするしかないじゃありませんか。たぶん、彼の家族や親族であれば、二つ返事で同意すると思います。ただし、人種的と言いますか、民族的と言いますか、そういう問題が浮上してしまうと思うんですよ。親族がいれば、その人物が名乗り出てくれるとは思いますが、彼の親族は当の昔に行方不明になってますし、居住地はすでにゴルフ場になっています。」

これを言えばわかってくれるだろうか、と思いながら懍は発言した。こういうことは、どうしても直接こうだと口にすることはできないことである。それに、若い人には理解できない問題でもある。

「ゴルフ場と言いますと、富士市内には複数ありますが、どちらなのでしょう。あ、そういえば、二十年近く前ですかね、伝法にゴルフ場をつくった際、住民の反対が激しくて、立ち退き交渉に難しかったと聞いたことがありました。しかし、行政が無理やり立ち退かせたと聞きましたが?もしかして、そこに住んでいた住民の一人だったということですかな?」

「ええ、そういうことですよ。先生。先生のお年なら、大体推測できると思います。この問題を知っているのは、大体高齢者でなければわからないとは思うのですが、知ってしまうと途端に周りの態度が変わるというのが非常に難しいところだと思います。なぜなら、子供のころに、学校で、そういう身分が作られていると教えられているからでしょう。それを本当に理解できるかは、難しいところですね、、、。」

「わかりました。つまり、死牛馬処理権を持っていたということですな。しかし、それがあるからと言って、治療が遅れるというのはあってはなりません。確かに、非常に重大な問題ではありますし、うちで使っている看護師などが、いくら偏見を持つなと注意をしたとしても、その通りに動けるとは限らないのもまた事実でしょう。しかし、それにのっとって、放置してしまっては、さらに悪事を働いてしまうということになりますので、直ちに提供できそうな人物を探し、実行に移すというのが目下の急務でしょう。」

「じゃあ、わかってくれるんかね。」

杉三が口を挟むと、

「わかってくれるというか、医者が実行しなかったら、必ず天罰が下りますよ。神様は、人間が悪事をしないように、必ずどこかで見ていますからな。」

と、沖田先生は言った。つまりクリスチャンだったのだろう。懍も、そういう人物でなければ、こういう発言はしないだろうな、と頭のどこかで確信した。

「じゃあ先生、どういう作戦で戦おうとしているか教えてくれ。まず、敵がどういう状況なのかを詳しく教えてくれ。ただ、あんまり専門的過ぎてはだめだぞ。僕は馬鹿だからね。」

「はい。わかりました。説明すればこういうことです。人間には、もともと、外敵から自身の体を守るために、免疫というものを持っています。わかりやすく言えば、常に爆弾をもって武装しているということです。例えば、細菌などが侵入した場合、それを使って戦いを挑み、体を守っている。これは理解していただけますね。」

沖田先生は、しっかり語り掛けるように説明を始めた。

「ところがどういうわけなのか、人間というのはおかしなもので、本来健康なはずの自分の体に武器を向けてしまうことがあるんです。自分どうして戦争をしているといえばいいですかね。そのせいで、本来あるはずのからだというものが全部破壊されるわけですから、いろんなところで症状が出るわけです。例えば、足の関節が戦争を始めれば、関節リウマチということになる。ほかの臓器がそうなれば、自動的に別の病名が付く。それをひっくるめて自己免疫性疾患と言います。」

「もう、そんな変な解説はいいから、水穂さんが何とかなる方法を言ってくれよ。」

「はい。つまりですね、彼の場合、その武器というものが強烈に働きすぎており、極端に免疫が暴走化しているせいで、肺が壊滅的に破壊されております。詳しいことは、画像検査をしないとはっきりしませんが、極度に食欲の減退ということもある以上、ほかの臓器も破壊され始めているのかもしれません。ですから、まずその危ない武器を薬物で取り除く、という治療が行われるわけです。これが免疫抑制療法と言います。ところが、」

「ところが?もう、もったいぶらないで、早くしてくれないかな?」

杉三が、また揚げ足を取った。懍は申し訳ないと軽く会釈した。

「はい。ですから、その免疫抑制療法では、彼の場合間に合わないと思うんです。まあ、たとえて言えば、原子爆弾に竹やり一本で挑むようなものでしょう。それではいけませんから、原子爆弾そのものを撤去して、新しい武器に変えさせるということです。それを今から試してみようというわけなのですよ。」

「そうですか。でも、人種差別的な問題もあるほか、それに提供者を確保するということも難しいですしね。実現できるかどうか、疑わしい。それに非常に危険な戦法と言えるでしょう。」

懍も、耳の痛い話を始めた。

「はい。それさえ確保できればとんとん拍子に進んでしまうことが多いというのが、問題点と言えると思います。代理でよくあるのが臍帯血移植ですが、それでは足りな過ぎて間に合わないというケースが非常に多いのですよ。その対策として、若いうちに自らの骨髄を冷凍保存しておいて、いざ必要になった時に使うという、自家移植も普及していますが、芸能人のような人でなければ、やりたがらないんですよね。やり方が面倒だからでしょうか。」

「そうですね。危機意識に乏しいということかもしれないですね。それに、芸能人は自分の体が資本ですから、できるだけ早急に解決をという考えを持っていますけど、一般的にはそんなことを考える余裕はないですからね、、、。」

「あーあ、結局だめかあ!強い味方ができたと思ったんだけどなあ!」

二人の話を聞きながら、杉三はがっかりと落ち込んだ。


そのころ。

「なんですか、蘭さん。こんなところに呼び出して。今日は大事な話があるからって、そんなに逼迫したことが起きたのですか?」

駅前の喫茶店で、ジョチは一番奥の個室席に座った。座ると、深刻に悩んでいる蘭の顔が真正面に来た。

「お客様、ご注文は?」

座ったと同時に、ウエイトレスがそう聞いてきた。まだ早いと思ったが、ウエイトレスの顔を見ると、早くしてくれという表情が見え見え。と、いうことは相当待っていたなと分かったので、とりあえず、コーヒーを二つ、あとは頃をみて追加します、と言っておいた。

「で、ご用件はなんでしょう?今日はこの後会議もあります。あんまり長くはいられませんので、手短にお願いしますよ。」

「じゃあいう!お前また製鉄所を買収しようと思っているのではないだろうな!」

いきなり蘭が単刀直入にそういったので、何のことだかわからないという顔で、

「何のことでしょうか。」

と、答える。

「とぼけるな!水穂にまでまた手を出して!いろんなやり方で善人ぶって、結局製鉄所を自分のものにしたくて企んでいるのだろう!」

蘭がでかい声でそういうと、周りの客がなんだこの人、と言いたげに彼を見た。しかしそれにも気が付かなかった。

「ええ、出しましたよ。それがなんだというのですか。それ以外に彼を助ける方法などどこにあります?変なことで言いがかりをつけるのはやめてもらいたいものですね。」

「あっさり認めるということは、やっぱり製鉄所を買収するつもりなんだな!」

「しませんよ。そんなこと。製鉄所は企業ではないのですから、こちらは何の利益にもなりませんよ。」

「うるさい!赤旗のくせに、何の利益にもならないなんて、偉そうな口をきくな!もう一度いうが、製鉄所の買収はさせないからな!」

「ご存知ないんですね。」

そういわれて蘭はさらに頭が熱くなる。

「本当に、友情というものは、役に立つんでしょうか。単に蘭さんは怒りの感情で、いっぱいになっているだけであって、水穂さんに対して思いがあるわけではないでしょう。それだったら、僕のところに、お医者さんを何とかしてくれと頼みに来たブッチャーさんや、水穂さんの容体悪化に耐え切れず、実家に帰ってしまった恵子さんのほうがよほど人間的だと思いますけどね!」

「なんでお前がそういうことを全部知っているんだよ!」

「蘭さんが知らないだけで、この事実は当の昔に皆さん知っていますよ。だから、僕のところに相談に来たんでしょう。僕としてみれば、なぜ蘭さんが何も知らないのか、のほうが不思議ですけど。」

蘭は、ここで無意味なガチンコバトルをしても意味がないと悟り、話題を変えることにして、こう切り出した。

「じゃあ聞くが、あいつに良くなってもらうには、どうすればいいんだ。」

「どうすればいいって、何もありませんよ。手の施しようがないと言われて、あとはそっとしておいてやろうというだけでしょ。」

「本当に何もないのかよ!」

「はい、まずありません。方法はないこともないけれど、これを実現するのはおそらく至難の業であり、よほどの金持ちでなければできないでしょうし、倫理的にも、民族的にも難しいと思いますので、まず不可能でしょう。ですから、できないものはできないとして、あきらめたほうがいい。」

「ないこともないんなら、あるんだな!あるんなら、教えてくれ。あきらめろなんて言わないで、口に出して言ってみろ!言わなかったら、お前の店に乗り込んでやる。」

「そういう脅しには乗りませんよ。店には汚点などありませんから。」

「とにかく教えろ!お前!」

「わかりました。じゃあ、言いますよ。造血幹細胞移植というものになります。つまり、血液を製造するという造血幹細胞を誰かにもらってきて、患者の体に移植すること。こうすれば、凶悪な免疫細胞はなくなって正常な免疫が得られるということになりますからね。ただ、今の日本では、その提供者を探すのは至難の業で、提供者を探している間に逝ってしまうほうがほとんどですから、あきらめたほうがよろしいかと思います。提供者の第一条件として、血液型の一致、白血球の形状の一致など、非常に条件が厳しいので。見つかれば比較的早く実行できるのですけどね。」

「そうか、実行ができるのなら、どうなるんだ!」

蘭は、これを聞いて、わらにもすがる思いでそう詰め寄った。

「だからいったでしょ。提供者を探しに行くのさえ、エベレストに上るほど大変だと思ってください。探しに行ったら、見つかるまでに間にあった例はほとんどありません。蘭さん、水穂さんによく人のいうことを聞かないといわれる理由を考え直すべきでは?」

「うるさい!質問に答えろ!」

無視して蘭は、でかい声でいった。

「仕方ありませんね。それなら言いますが、提供者を仮に発見できたとしても、人種差別的なことが原因で没になるか、提供者側が拒否することがほとんどなんですよ。これは、日本特有の問題ですが、提供者と被提供者の保証格差の問題もある。基本的に、一日ですべて終わる作業ではなく、一週間から十日くらいは入院して提供手術を受ける必要があり、その間には、会社や学校を休む必要があるんです。それに、年齢制限があって、提供できるのは54歳までですから、これまでの年齢で、そこまで長期に休みをとれるほどの暇人はそうはいないでしょう。それに、提供者側は入院費などは自腹で払わなければなりませんし、万が一医療事故があっても、それに対する補償も全くないのです。日本ではこれが一番問題になりますが、海外では民族差別的な問題が必ず勃発するので、同じように普及しておりません。どこへ行っても至難の業でしょう。海外事情はカールさんにでも聞いてみたらいかがですか。もっと詳しく聞かせてくれますよ。」

「畜生!なんとかして助けようと思ったのに、何もないのかよ!」

テーブルをたたいて泣き伏す蘭に、

「はい、ありません。もうあきらめてください。あっても手が出ないものには手を出すべきではありません。そういうものに手を出せば、精神的にも経済的にも破綻をきたします。今日の飲み物は僕が払っておきますから、しっかりと頭を冷やして考え直してくださいませ!」

と、言い残して、ジョチは店を出て行った。

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