しずくの思い出話
青海 嶺 (あおうみ れい)
しずくの思い出話
わたしたちが住む地球には、とてもたくさんの水があり、水は世界中を巡っています。長い長い、果てしのない旅です。
しずくは、海流になって大洋を巡り、蒸発して雲になり、雨になります。山に降った雨は、集まって川や湖になります。動物の喉を潤し、草木を育てます。
もっとも動物に飲まれるのは、とても珍しいことです。ほとんどのしずくたちは、ただ海を巡り、雲になり、雨になり、誰に出会うこともなく、また海となり、ぐるぐると地球を回り続けるだけなのです。
ですから、しずく同士の雑談では、珍しい体験をした者は、大変な人気です。誰もが話を聞きたがるので、引っ張りダコです。
しずくたちがもちよる体験談のなかでも、やはり人間がらみの話が、いろいろと変化もあり、話にふくらみもあって、聞き手から珍しがられます。
「オレは、魚に飲まれて魚の体液になって、人間の釣り師に釣られて、焼き魚になって食卓に上ったよ」
そのあと、どうやってこの海まで帰ってきたのか。それは言わぬが花でした。
「ぼくは、地下水になって、泉から湧き、そこで人間に、ポリタンクに入れられて、街まで運ばれ、喫茶店で美味しいコーヒーになったんだ」
それを聴いていたしずくたちは、コーヒーの味というものを、様々に空想しました。
「わたしなんて、フランスのブドウ畑に降って、ブドウの果汁になって、収穫されて、ワインになって瓶に詰められ、そのあと倉庫で十年も寝かされたあと、三ツ星レストランの食卓に上ったのよ」
ワインになった話というのは、いつでも聴衆たちから一番うらやましがられる話でした。しずくたちは、うっとりとして、高級レストランの様子を思い描くのでした。
しかし、しずくたちに、いちばん深い満足を感じさせるのは、動物や人間の体の一部になって過ごした話です。この地球上の生き物の体にとって、水は欠かすことのできない大切なものだからです。
しずくたちは、自分たちがこの青い星に命を育んできたという誇りを持っています。そして、様々な、美しい命でこの星が満たされていることに、深い喜びを感じていました。
しかし、よいことばかりではありません。しずくたちは、時には、寄り集まって恐ろしい台風や、暴風雨や、もっと恐ろしい津波にもなります。そうして地上の生き物たちに襲いかかり、容赦なくその命を奪うこともあるのです。しずくたちは、そのことを思うと、いたたまれない気持ちになるのでした。
夏の終わりのある日。大海原の上空で、分厚い黒い雨雲となったしずくたちは、誰もいない海の上に、激しい豪雨となって、降ろうとしておりました。強風と、激しく上下する波も揃って、大騒ぎになりそうです。
そうして、しずくたちが、バシャバシャと海面に落ち始めたときです。気づくと、嵐の真ん中に小さなヨットがいて、まるで木の葉のように、巨大な波に小突き回されているのです。たったひとりの船乗りが、必死に帆をたたみ、船を操ろうとしていましたが、ほどなくヨットは転覆し、海の底へと沈んでしまいました。船乗りは、救命胴衣を着けていましたので、荒波の間に浮かんでいました。しずくたちは、この冷たい海の水の中で、この人は、はたして何日生きるだろうか、と暗い気持ちになりました。
翌日、嵐が止んでみると、船乗りはまだ生きていて、海面に浮かんでいました。今度は、海面に強い日差しが照りつけました。こんな大量の水の中にいながら、飲む水のない男は、喉の渇きに苦しみました。海水を飲むと、塩分のせいで余計に喉が渇くのです。
しずくたちは、なんとかしてやろうと思いました。そして、男のまうえで寄り集まって、小さな雨雲となり、ほんの少しの雨を降らせました。それがしずくたちにできる精一杯でした。男は、天に向かって口を開け、雨水を飲みました。そうして命をつないだのです。
十日後、たまたま通りがかった貨物船に発見され、漂流していた船乗りは、救助されました。しずくたちは、胸をなでおろしました。
そのとき、そこにいたしずくたちは、しばらくの間、仲間と会うと、かならず、
「ぼくらは難破した船乗りを救ったよ」
という思い出話をしました。けれども、その男のヨットを沈めたのも自分たちだけどね、という部分については固く口を閉ざして、胸のうちに留めておきました。
(終)
しずくの思い出話 青海 嶺 (あおうみ れい) @aoumirei
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