ハムルビ #2-3

 半開きの戸の向こう側から、左半身を覗かせている【ダレカ】はじっとこちらを睨みつけていた。

 切迫する空気が時間と共に圧を増してゆく。

「…………ょ」

 どれくらいの時が流れたのだろう。【ダレカ】の口元が小さく動き、二人を分かつ沈黙が破られた。

 オレは何と言ったのか聞き取れず、耳をそばだてる。

「…………しねよ」

 キラリと何かが反射したようで、オレは目だけを動かして【ダレカ】の手元に視線を落とした。

「え?」思わずオレの口から声が漏れる。

 【ダレカ】の手にはサバイバル・ナイフが握られていたのだ。ナイフからぽたり、ぽたりと糸を引きながら地面に滴る赤い液体は血だと直感した。

 誰の、血だ。


 ぐちゃり


 もしかして──。

(…………母さん?)

 先程聞こえた音は幻聴なんかじゃない。

 言の葉は上手く口から出てこない。パクパクと口が言葉をかたどるだけで空回る。

 次の瞬間、混乱と動揺を隠し切れていないオレに目掛けて【ダレカ】が一気に間合いを詰めてきた。

「う、うわあぁ」

 情けない声を上げながらも、オレは思い切り戸を閉めた。【ダレカ】が閉めた戸を力任せに叩く音が風呂場内に反響し始める。今にも壊れそうな勢いで戸を叩く【ダレカ】に、オレが恐怖を抱くのは必然だった。

 ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン──


 やめろ、やめてくれ


──ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン ドン、ドン……

 心の声が届いたのか、次第に戸を叩く音は小さくなり、終いには静けさが訪れた。

「……諦めたのか?」

 否、そんなわけ無い。そう心に言い聞かせながらもポリスチレン型板の浴室ドアの向こう側からは、いつの間にか【ダレカ】の影が消失していた。耳を澄ませてみたが、物音一つ聴こえてこない。

 オレは一つ、安堵の溜息を漏らす。

 戸を背にしてズリズリと腰を落とすと、硬い地面と尻骨が肉を介して触れ、自分が全裸だった事を思い出した。

「流石に冷えてきたな」

 全身に付着している水滴は、先程浴びたシャワーだろうか、あるいは冷や汗か。

 額から一筋の雫がじりじりと流れ、頬を伝うと顎から一気に滴り落ちた。ぴちゃ、ぴちゃと雫が少しずつ床に溜まり、小さな円を形成すると、床に溜まった雫の塊は小さな池を作り始める。それは風呂場のタイルの幾何学模様をなぞりながら少しずつ形を変化させてゆく。

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