ハムルビ #2-2

 ドタドタと足音を響かせながら一階に下りるも、リビングからは物音一つ聞こえてこなかった。しかし、特に理由もなく部屋を覗くのも時間的に余裕が無いと思ったオレは、学生鞄だけ玄関先に置いて脱衣所へと直行した。そうしている間も、違和感が独りでに膨張する感覚にさいなまれ、それは次第に不安へと変換されていった。

 脱衣所に着くと、そんな負の感情を払拭するように、身に着けていたタンクトップシャツとトランクスを雑に脱ぎ捨て、ストライプ柄の洗濯籠に放り込んだ。

 ふと、自身の上半身が写り込んでいる洗面鏡に目を配る。オレは腰の辺りまで視線を落とした。

「…………」

 生唾をゴクリと飲み込むと、腕を背中へと回す。夢の中でナイフが突き刺さっていた位置にゆっくりと指先が伸びる。

「まさか、な」


 ぐちゃり


 夢の中で聞こえた生々しい音がすぐ近くで聞こえたような、そんな気がした。

 鏡に背面を向けてみたものの、振り返る勇気が湧かずに風呂場の戸を押した。

 風呂場の中は清潔感に溢れ、一歩足を踏み入れると、それだけで胸に支えていた何とも言えないモヤモヤとした気持ちが洗われるようだった。

 風呂場の椅子に腰掛け、シャワーヘッドへと手を伸ばし、カランを回した。

「気持ちいー」

 頭上から降り注ぐ冷水を全身に浴びていると、知らぬ間に心に住まうモヤモヤとした支えは消滅していた。心身ともに清められたような気分になったオレは、更なる清さを求めシャンプーのヘッドに手を伸ばす。手のひらにワンプッシュ分の薬液を乗せると、それを手のひらで泡立て頭に付けた。髪と髪の間に行き渡る泡群がなんとも心地良く、寝汗やベタつく皮脂汚れを一掃しているのがよく分かった。

 そろそろ頭を流そうか、と再びシャワーのヘッドに手を伸ばす。しかし、その手は宙でピタリと静止すると、そのまま動かなくなった。

 視線を感じる──誰か、いる。

 瞼を開けようと試みたが、泡が目にみて痛みを伴った。

 いい歳して、小学生じゃあるまいし何をそんなに怖がっているんだ。

 自身に言い聞かせるように心の中で呟いてはみたものの、視線に混じる殺気のようなものを感じ取り、背筋がぞわぞわとうごめいた。

 転瞬、オレはバッとシャワーのヘッドを掴むと、自身を中心にブンブンと振り回した。

「うわあぁあぁぁぁああぁあ!!!」

 風呂場で頭を泡立て、叫びながらシャワーのヘッドを振り回す様はさぞかし滑稽であっただろう。

 ガン! と大きな音が風呂場に反響すると共に、鈍い衝撃がシャワーを持っていた腕に伝わった。

「はぁ、はぁ……はぁ」

 それ見たことか。やはり杞憂だったではないか。妙にリアリティのある変な夢を見たせいで五感が敏感になってるだけだ。第一、風呂場の戸を開けようものなら音がするはずだろう。風呂の蓋の下に潜んでたりはしない……よな。変な考えは止めてとっとと頭を洗ってしまおう。

 小さく首を振って否定を表にすると、先と同様に冷水を頭から被った。オレは、やはり心が洗われるような爽快感を抱かずにはいられなかった。

「ふぅ……」

 泡を隅々まで綺麗に洗い落とすと、念の為、と風呂の蓋を少し開けて覗くようにして浴槽の中を確認した。が、湯船に半分まで溜まった水が静かに揺らめいているだけで、人が入る余地など微塵も無かった。

 何をこんなにも警戒しているのだろうと自分でも呆れ返ったものだが、今朝の夢が何度も頭に過ぎるせいだと確信していた。

 びくり、と鏡に写った自分に身を引くつかせる。オレはいつからこんなに臆病になっていたのか。

 堂々巡りの思考を働かせながらもう一度全身に冷水を浴びると、ヒンヤリとした空気が身体全体を包み込んだ。

「……出るか」

 そう独りちて風呂場の戸を半分まで開けた所で脱衣所に誰かが立っていることに気が付いた。ゆっくりと視線を上げると、そこに立っていた【ダレカ】と目が合った。


 ?


 誰だ。こいつ。でも何だろう、どこかで見た事があるような──。

 何の前触れもなく、我が家の脱衣所に正体不明の【ダレカ】が突っ立っている現状に理解が追いつかず、全身の血液が沸騰するように熱を帯び始める。身体が金縛りにあったように硬直するが、心臓だけは忙しなく鼓動を加速させていた。

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