序章 二話 開演ブザー

【開演ブザー】

 ホール中に無機質な音が響いた。客は口を噤み、話の始まりを待っている。 

 わたしはまだ、覚悟を決められずにいる。




少年が、長い長い廊下を駆けている。

廊下には窓が一つもないようで、明かりは手元でゆらゆら揺れている頼りないアルコールランプだけ。

『この灯りが消えてしまう前に、なんとしてもここから脱出しなくては。光がなくなってしまったら、二度と外に出られなくなってしまう』

少年は口にこそだしていないものの、心のどこかでそう確信していた。


外に出たところで、今やり残していることも目標もない。

それでも、

「このまま終わってしまうのは癪だ」と。

その心だけで走っているのである。


ところで先刻から少年は出口を探してさまよっているわけだが、分かれ道で以前とは違う方向に曲がっても、ひらけた場所にでてきても、片っ端から扉をあけてみても。どれも数分、数時間前には見た覚えのあるものばかりなのだ。

ここにはグリム童話の仲の良い兄妹のように、白く輝く石を用意する時間もなければ、己の腹を紛らわせる分のパンすらない。その上、寂しい時間を共に過ごす人もこの少年にはいないのだ。

故に少年は先刻と同じ場所を通っているのか、それともただ同じような部屋が数多く存在するのか、それさえも判断できない。ただ手当たり次第に、出口を探すよりほかないのだ。



 -Siki-



明るいゲーム音楽が響く白く無機質な病室で独り、スタッフロールが流れるゲーム機の画面をぼんやりとみつめる。

「このゲームも、おもしろかったなあ」なんて言葉を口にして、現実に戻された瞬間に訪れた損失感を紛らわせる。

この作品も終わらせてしまった。また今日中にでも看護師に新しいゲームを強請ねだろう。

ぼくは病院暮らしだ。ずっとこのベッドで横になっていて、もうそろそろ一年目になる。

学校には通えておらず、クラスメイトや友人の中にはもう二年近く顔を見ていない人もいる。


ふと幼い頃から仲良くしてくれていた友人の顔が脳裏に浮かんだ。

あいつはきっと今も普通に学校へ行って授業を受けて、ぼく以外の友達と面白おかしく過ごしているのだろうと思うと、蛍光灯が煌々と光るこの病室に独り取り残された気分に陥る。

ぼくは一体どこで道を間違えたのだろう。学年のほぼ全員が同じ小学校出身で、そのほとんどが保育園から同じだというのに。それなのに何故。なぜ、ぼくだけが……。


なんてくだらない。妬んだところで、何も変わりはしないのに。


ふと、手元に影がかかる。

知らぬ間に看護師が来たのだろうか。ベッドの淵に顔を向けると、そこには底のない黒紫色。

突然起きたありえない現象に俺の背筋はピンと伸び、体を引きずるように後退る。ぐるぐるとした思考を一旦落ち着けるよう大きく深呼吸をして、その黒紫色をまじまじと見る。

それは俺がすっぽり収まるくらいの大きな楕円型で、立派な鏡の様に少し錆の入った金の枠がついていた。そして今も尚ぼくから数十センチの離れた場所に背筋を伸ばして立っていた。

「な、なんだこれは」

もっとも、どこにでもある市民病院の個室に金の枠が付いた鏡があるはずがない。その上枠の中には鳥肌が立つような黒紫が広がっており、ぼくの姿が映ることもない。

とてもじゃないが鏡と呼べないその品は、ただでさえ重そうであるというのに何の支えもなくまっすぐに立っていた。

「異質」それ以外に言いようのないそれは、さらに恐怖を煽るように黒紫は額の中でゆらゆら模様を作り出す。


ぼくにとって毒を表現するにふさわしい色・濃淡といえるその楕円は、今にもぼくを骨の髄まで溶かしていってしまいそうでブルッと身震いした。

しかし「それに手を伸ばせば退屈で窮屈な日常が変わるかもしれない」と、退屈を極めた身にとってこれ以上にない甘美な誘惑がぼくを苦しめる。

ぼくには家族なんて居ないし、見舞に来る人もいない。そもそもこんなところで生活している理由も知らなければ、友人と最後に会った日のことも、友人たちの顔も覚えていない。

そんなぼくがいなくなったところで、悲しむ人なんている筈がなくって。看護師たちも手のかかる患者が一人減って精々するだろう。


ぼくは頬を軽くたたいて小さく深呼吸をしたあと、四つん這いになって楕円に近づく。一歩進むたびに白くてごわごわした、しわの多いシーツが手足に張り付く。

数歩。ほんのわずかな距離だ。シングルベッドの上を少し動くだけ。でもそれは、ぼくにとってはとても長い時間だった。

黒紫の正面。ぼくは大きな深呼吸を三回すると、それに向かってゆっくりと手を伸ばした。



ぴちゃん。

ついに伸ばした左手の指先が黒紫に触れた。

生暖かい水に指を付けたような感覚。ぬるい液体などもうしばらく触っていないぼくには違和感が多く、きっと今ぼくの顔はとても歪んでいることだろう。

そんなことを考えていたら、突然額の中が黒く光りだした。そのまま直視していたら目をつぶされてしまいそうで。

否。今になって怖くなって、ぼくは固く目を瞑った。


瞼を閉じた状態でも感じるチクチクとした眩しさが収まったので恐る恐る目を開けてみると、あたりはあの黒紫色に染まっていた。まるで空気に色をつけたみたいだ。

体は変な体勢で寝てしまった時ように、確かに自分のもので思い通りに動くのになぜか感覚がない。

それだけではない。先ほどまで寝転がっていた、今座っているはずのベッドの感触もなく、ぼくの体はなんの支えもなくふわふわと宙に浮いている。


それにしてもこの空間は、ほんの十数秒いただけ気分が悪くなる。

真夏のエアコンをつけ忘れた部屋に放置された野菜ジュースのような、生暖かくてとても飲めたものじゃない紫色の液体の中にいるような。そんな気持ち悪さ。

ベタベタとしないことだけが救いか。

否、服を着たまま風呂に入った後のように、ここから出た瞬間に服と一緒にベタベタとするだけのような気もする。


こんなことを言いたいのではない。


確かにぼくは「退屈で窮屈な日常が変わること」を望んだが、悪い方向に変わることは望んでいない。我ながら自分勝手な話だと思うし、「こんなにつまらないのならば一層のことーー」と思ったことは数え切れないほどにあるものの、所詮ぼくも人間。目の前の恐怖から逃げたいと思うし、今になって命が惜しくなる。……常にそうならいいのに。

ぼんやりと、相変わらず気味の悪い黒紫を眺めながらそんなことを思う。


ああ、さみしいなぁ。

気味の悪い空間にぼく独り。病室に戻ってもそれは変わらないけれど。

無性に悲しくなって、ぼくはぼく以外誰もいない空間で独り、気味の悪い空間で独り。己の体を抱きしめるようにして丸まって目を瞑った。


でも、マイナスの感情を強く認識するとどんどんマイナスなことしか考えられなくなるのが人間なわけで。


怖い、怖い。これからどうなってしまうのだろう。

ぐるぐる。ぐるぐると。

マイナスな感情ばかりがぼくを埋めていく。

瞼に力を入れて、歯をくいしばる。でも、震える手足は隠せなくて。ただひたすらに、なんとも言えない恐怖と共に終わりを待つ。


待つ。


『ねえ』

ふと耳元で、静かな水面に朝露がひとしずく落ちた時のような、落ち着いた声がした。

初めて聞いたはずなのにどこか懐かしく、ぼくの恐怖心を少しずつ和らげていく。

その声ははじめ、言葉を選んでいるようで言いにくそうに「あ」とか「う」とか言ってはその続きを言うことがなく、それを何度か繰り返した。それがどうしようもなく愛らしくて、だんだんぼくはこの先に何が起きても受け入れられるような気がしてきた。


少し経った後、その美しい声は相変わらず言いにくそうに戸惑いながら。しかし、確かに言葉を伝える意思を持って口を開いた。


『……貴方は、幸せでしたか?』


ぼくにとってその質問は予想外で、目をパチクリさせた。

ぼくはこの声にこの人生の終わりを告げられる覚悟はしていたものの、質問される心構えはできていなかったのだ。

その声はぼくが動揺しているのを察したのか、また気まずそうに言葉にならない音を発し始めた。

ぼくは自分のせいでその声の主を困らせているのが申し訳なくなって、急いで質問に対する返答を探した。


ふと、先刻に強く思ったことを思い出した。

少し息をすって、はいて。

少し微笑みながら――

「常に命が惜しいと思える人生を送ってみたかったなって、思います」


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