序章 一話 前夜祭

【前夜祭】

 「公演は明日から」ずっと前に決めたことだ。今、再び決意したことだ。

 だから、今夜は宴をしよう。「わたし」に見切りを付けよう。

 「わたし」を消滅させるための演目を、予定通り執り行うために。





上のほうは雲にも届いているのではないかと錯覚するほどに背の高い本棚。翼や十字架をモチーフとした透かし彫りのテーブルと、それを挟んで向かい合わせに置かれた真紅のソファ。そして、その上に堂々と置かれた金の大皿。

至高の品だけを集めた豪華絢爛を極めるこの部屋には、そんな調度品の数々に見劣りすることのない強さと美しさを兼ねた者が居る。この城の主人と、主人をそのまま幼くしたかのような風貌の少年だ。


二人は机の上に置かれた大皿を、何を言うわけでもなくじっくりと、射貫くように見つめている。

どうやら大皿は水鏡となっているようで、水面の奥のほうに何かが見える。――もっとも、窓ガラス越しでは何が映し出されているのかはわからず、ゆらゆらと揺れる水面を眺めていることしかできないのだが。


はく

視線は水鏡を射抜いて話さないまま、少年の口が動いた。音は出ていない。何かをつぶやこうとして、やめたような。たった一瞬口を小さく開いて、少し迷って閉じた。そんな具合だ。

狭い窓の下枠の上でもう一歩、足を動かしてガラスに頭をこすりつける。

「おうさま」

小さな声が聞こえた。

呟くような、少しばかり舌足らずな、少年の声だ。

その声は、頭が形を変えてしまいそうなほどに頭を、顔を擦りつけていた私の耳にも拾うことができた。


私は続く言葉を待った。

否。待っていたのは私だけではない。

王と呼ばれた美しい人も、先刻水鏡を運んできた少女のような風貌の従者も、果てには部屋中に置かれた豪華絢爛な調度品まで自己の主張を控えて見守る姿勢でいる。(調度品が自己の主張を控えたのは、突然空が陰り始めたからであった。あの光物たちが自らその輝きを自重するはずがない。あれらの輝きがなりを潜めるのは、総じて己に自信がなくなった時と決まっている。)


「どうした」

とても太い弦が振動しているかのような、低い声が響く。

てっきり次にこのからっぽの世界に響く音は少年の小さな声だと思っていた私には、その腹の底をぐわんぐわんと揺らされるような感覚に陥り、窓枠から足を滑らせた。

慌てて羽を動かすも、なぜかうまく飛ぶことができない。何度も羽をばたつかせてもそこにとどまる以上のことはできない。気を抜いた瞬間に地に叩きつけられてしまいそうだ。

必死に飛ぼうと、せめてその場に留まろうと。必死に羽を動かす私のことなど露知らず、彼らの会話はのんびりと、しかし確実に進もうとしている。


――一つ。従者の固唾を呑む気配

私は少しでも窓に近づこうと、先ほど以上に早く羽を動かそうとする。

――二つ。少年が小さく深呼吸をする空気の揺れ

私は「早く言葉を紡いでくれ」と、唸るように願う。

――三つ。少年が再び息を吸う、音

力の尽きた私は、視認できないほど先の地面に向かって頭から落ちてゆく。

――四つ。私は、それでも音を拾おうと耳を傾ける

風切り音ばかりが聞こえて、少年の小さな声は拾えそうもない。

それどころか、太い鎖で縛られたかのような重さの羽を動かす気はもう起きず、ただ自然に身を委ねて真っ逆さまに落ちていく。


体が、鼬が悪さをしたかのように痛む。

鎌鼬が、体どころか意識までも切り刻もうとする。


ああ、

視界は雲のように白くぼやけ、脳は仕事を放棄した様で解決策は見つかる気がしない。

羽は大きな鎖で縛られたかの様に重く、これ以上動かせる気がしない。


そろそろ地の色が見えそうな距離まで落ちていそうだという頃に、声が聞こえた。

凛とした、先ほどのように舌足らずではない、中性的な声だ。

「王様、そろそろ良い頃合いだと思うのです」

はっとして空を見上げても、私のすぐ側から生えている筈の大きな城すら見えない。

先ほどまでのぞいていた部屋など、見える筈がない。

『ありえない』

私が働くことをとうにやめている脳みそを無理に動かそうとしている間にも、少年が次の言葉を紡ごうとしていることがわかった。

何故、口を開く気配まで察知することができるのだろう。


「……あの計画を、実行しようと思います」


全てがどうでもよくなった気がした。

生きることをとうに諦めた体が、そうさせたのだ。

脳はとうに死んでいる。羽も、視覚も同様に。

ただ、意思だけが生きていたのだ。

彼らの会話を聞き届けようとする、意思だけが。

それがなくなった私には、聞き遂げた私(意思)には、生きることはもう必要ないのだから。


遂になくなろうとする意識の中「ああ。それでいいのだな?」と。

もう、腹の底がぐわんぐわんと揺れる感覚もない。

なぜなら私は……。



――鴉が一羽、黒に溶けた。

否、崩壊に巻き込まれた。


鴉だけでなく、地面から徐々に黒に飲まれていく。

否、「侵食」といった方が良いのだろうか。イギリスのヴィクトリア朝を彷彿とさせる街並みを。町外れの森の奥、小高い丘の上に空にも届きそうなほど高く建つ城を。馬と同じくらいの速さで侵食していく。


城の最上階にいた子供も、主人の後ろにあった大窓が黒く染まったことに気がついたようで。少し目を丸くした後に穏やかに微笑んだ。

「この選択を、受け入れてくださるのですね」

再び城の主人に目を合わせて、意外でした。そう聞こえてくるような話し方でそう言った。

その言葉に城の主人はため息交じりの声で「何を言っても変わらないだろう」と言うと、ガタリと乱暴に椅子を引いて席を立った。少年もそれに続いて席を立つと、城の主人のそばへ行き――


パリン

ガラスの割れるような音が、残された空っぽの世界に響いた。




魔術儀式用の工房。その中央の床に、銀色のナニカで魔法陣が描かれている。

その魔法陣の上。空中には様々な形をした太陽の線が、床に書かれた魔法陣の中心から1mの場所を中心として、くるりくるりと回っている。それによって金色こんじきの魔術式は様々な模様を作っては壊し、作っては壊しを繰り返している。


今日もまたいつものようにその不思議な形を見にきたわたしは、工房に入った途端に違和感を覚えた。そう、魔法式の上に浮いているぶどうの皮の様な色味のクッションの上に置かれた大きなガラス玉が真っ黒になっているのだ。


我は慌てて入り口の反対側に置かれた使い古された魔道書の前に行くと、「魔術に長けている」や「あらゆる知識を持っている」と書かれた頁を探す。

あのガラス玉。否、小世界には兄がいるのだ。

小世界が壊れれば、兄は強制的にこの本に戻される。強制的に戻された際に兄はどんな怪我でも回復するが、兄はこの本の中を嫌うのだ。

兄の主人もいない今、私が誰かを呼んで小世界の崩壊を阻止しなくては。


パリン


ガラスの、割れる音。

慌てて後ろを振り返れば、割れたガラス片が砂のように粉々になって宇宙そらの上に落ちていく。闇色の上に落ちなかった銀色の粉の一部が、魔法陣の上や私の足元に散らばっている。


――小世界が崩れる音と共に、兄の助けを乞う声が聞こえた気がした。


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