くたびれたスーツ

 夜も明けきらぬビル街を行く人間など、二種類しかいない。

 始発で帰る者と、浮浪者。

 薄明の空にはまだ点々と星が輝いている。冷やりとした清冽な空気を混ぜっ返すかのように、浮浪者がビルとビルの隙間に積まれたゴミをガサゴソと漁る。

 人の営みだ。

 道行くサラリーマンが着ているスーツがくたびれて見えるのは、スーツが悪いのではなく、着ている人が疲れくたびれているからだろう。これから帰ろうという人の、一体いつ再び出勤するのだろうか。

 煌々と照るコンビニから、一人の男性が現れた。

 その男性は他のスーツ姿のサラリーマンとは違って、身支度がすっかり整っている。

 始発で帰る人々に逆行して、男性はビル街の奥へと向かっていく。

 その手には、コンビニで買った野菜ジュースが握られている。バーコードにコンビニのテープが貼られたそれをストローで吸いながら、もう片方の手に革カバンを握って、彼は大股で歩いていた。

 ビル街は途切れることなく続く。

 浮浪者が彼を濁った瞳で見る。何をしているのだ、とでも言わんばかりに。

 男性は、誰よりも早く出勤しているだけだ。


 それが男性の矜持の一つだった。


 始発で帰り、午後一で出勤するのを是とするビル群の世界において、彼だけが夜明け前に出勤し、日が暮れる前に帰ることを信条としている。

「人は、太陽と共に生きるべきだと思います」

 彼の口癖だ。

 誰よりも早く出勤し、様々な自分の仕事を済ませて後、折衝交渉話し合いが必要な仕事を午後から始める、というのが彼の日課であった。

 その男性だけ、時間の流れがビル街で生きる他の人と全く別なのである。

 人に与えられた時間は全員同じである。同じ時間を過ごしているはずなのに、寝起きの時間が違うだけで、彼はまるで次元が違う人間のように扱われている。

 それでも、仕事を疎かにしないので、重宝されてはいた。

 守衛が口を大きく開けながら、男性のビルに入っていく姿を見送った。

「あんれ?」

 守衛が不思議そうに男性を見送る。あくびの途中で颯爽と通り過ぎてしまった男性に、守衛は声をかけそびれた。

 エレベーターは使わず、一段一段、階段を上っていく。ちょっとした運動になるし、早すぎる出勤は、エレベーターがまだ通電していないことも多々あるからだ。

 確認するよりも階段を上った方が早い。

 五階まで上って社員証を入口ドアの電子ロックキーに掲げる。

「……?」

 ドアが開く様子はない。

 不審に思った男性は持っている社員証の後ろに忍ばせているはずの電子キーを確認した。

 キーは確かに入っている。

 普段から男性が一番に出勤するので、昨日も男性がこのカードキーを使ってドアを開けた。壊れる時はあっさり壊れるとは言え、何の反応もなくなるとは思っておらず、男性はどうしても首を傾げてしまう。

「参ったな……」

 いつもの時間に仕事が始められないと、男性はどうしてもきまりが悪い。普段と同じように活動できないと、それだけでどうにも気持ちがもやもやとしてしまい、仕事が手につかなくなってしまうのだ。

「部長に頼まれた仕事があったんだが……」

 昨夜(その男性にとっては夜と言って差し支えない時間だが、他の人たちにとっては夕方とでも言うべき時間だ)、部長から頼まれた仕事を、朝のうちに終わらせておきたかった。

 しかしドアが開かないとなると、それもできない。他の社員が出勤してくるのは彼よりも五時間は後だ。五時間をドアの前で無為に過ごすことなど彼にはできない。

「ああ、あんさんここの人だったんねえ」

 どうすべきかとドアの前で悩んでいると、守衛がやってきた。息を切らせて膝をさすっている。

 守衛なのだから自身で電源を操作してエレベーターを使えば良いだろうに、と男性がわずかに眉根を寄せると、守衛は大きく息を吐いて、それから男性に向かって言った。

「今日は勤労感謝の日ですぜ」

「ええ、それは知っていますが」

 一般的には休日である。しかし、残業や休日出勤など珍しい話ではないはずだ。ましてやここはビル街である。仕事を生きがいにしているような人たちが社を構え、隙あらば新しく大きな社屋に引っ越そうと日々目論んでいるような、意識の高い会社だらけの街である。

 勤労感謝の日だろうが、仕事をするのがエリートという者だ。

「あれ?連絡が行ってたはずなんですがねえ」

「連絡?」

「ええ、ええ。勤労感謝の日にはビルの電気検査を行うので、ビルは一切通電しなくなるって話が回覧されていたと思うんですが」

「……は?」

「回覧板も、掲示物もありましたぜ?ほら、入口の」

 そんな話は聞いていない、では済まされないほどに周知されていたらしい。

 男性は、愛想笑いを守衛に向けながら、すごすごと帰るしかなかった。


 帰り道。

 朝日の昇るビル街の歩道を、ジョギングする人々が通っていく。

 その中で、男性ただ一人が、誰よりもくたびれたスーツ姿で歩いているのだった。

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