誘惑

「あ、おはようございます」

「おはようございますぅ、今日も寒いですねえ」

 寒いのはそんな格好してるからですよ、とはさすがに言えなかった。

 首回りはダボダボなのにヘソが見えるほどに丈が短いモコモコの上着、ピッチリとしてショーツの形が浮き出て見えるタイツのようなパステルカラーのパンツ。

 ほんの少しの間だからと言って、あまりに無防備すぎる格好は、僕にとって眼福ではあるが、同時に理性を蝕む劇毒でもあった。


 心地よい劇毒。


 知らぬ間に人間の脳をとろけさせるような色香のその女性は、同じ団地に住む新婚の女性だ。朝のゴミ出しの時間と僕の出勤の時間がたびたび重なるので、こうして挨拶をするくらいには見知った顔になっている。

「お仕事、お忙しいんですか?」

 わざとらしいほどに丁寧な言葉が、ぷっくりと膨らんだ花弁のような唇から僕を誘う。

「いえ、今はそれほど忙しくないんですが、これから忙しくなりそうなんです」

「そうですか。もう十二月ですものね、師走って言いますしねえ」


 この、蜘蛛が獲物を逃がすまいとにじり寄ってくるような間合いの計り方!


 他人の妻と分かっていても、いや分かっているからこそ抗えない魅力がある。そして魅力があることをこの女性は分かっている。

 分かっていてやっているのだ。

 僕をからかっているのだ。

「お一人暮らしだと、寂しいこともあるでしょう?」

「ええ、まあ……その分気楽ということもありますが」

「そうなんですね。うちなんか……」

 今日はもしかしたら長時間コースかもしれない。

 時々、彼女はこうやって僕に日ごろの新婚生活のアレコレについて語る。ノロケも聞くし不満も聞く。甘い生活も一筋縄ではいかないらしい。

「最近、旦那から変な香水の匂いがしてくるんですよお」

「それは……大変ですね」

 はぐらかすような言葉を繰り返しているうちに、いつの間にか人妻は僕の首元ほどまで接近してきた。吸血鬼が歯をあてるように、子どもが抱っこをせがむように、僕の身体にすり寄る。

「……近くないですか?」

「あら、ごめんなさいね」

 上から覗き込むように見ると、ダボダボの首回りからのぞく谷間をどうしても見てしまう。僕は極力顔を女性の方に向けないようにした。

「ふふ。あなたも、いい女性が見つかるといいですね」

「ありがとうございます」

「いってらっしゃい」

 今日は牙をかけるのを諦めたようだ。女性は踵を返して、僕はみぞおちからゆっくりと息を吐く。

「さて……」

 気配で分かる。

 今日はあと何人の団地妻と会話をしなければならないのか。

 このゴミ捨て場から、最寄りの駅に向かうまでの間、僕は彼女たちの誘惑から逃げ続けなければならない。

 ほんの少しでも、その素振りを見せたら終わる。独身男性というのは、団地妻と呼ばれる飢えた絡新婦にとって、とても美味しい獲物らしい。巣に持ち帰って、ほんの一口つまみ食いをしたい、くらいの気持ちで僕を手招きする。

 なんて恐ろしく、甘美な出勤時間だろうか。これほど暴力的な時間が、他にあるだろうか。

「あら、おはようございます」

「あ、おはようございます」

 ほら、待ちきれなくなった別の人妻が、灰色のスーツ姿の僕をロックオンした。

 どこかで聞こえるはずのない爪を噛む音が聞こえた気がする。

「今日も寒いですねえ」

 ほうれい線を隠すように手を当てて微笑む女性。

 さあ、今度はどうやってこの女性の毒牙をかわそうか……。

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