シミュラークル

 一人の天才が捕まった。


 その天才は、持ち前の悪知恵と無節操な善悪の意識によって作りだした独自の方法によって、法の目をかいくぐり、人々の憎悪をいなし、あらゆるマスコミの目をそらしてのうのうとその犯罪まがいの手口を使い続けてきた。


 しかし、その天才性に胡坐をかいてしまったのがいけなかったのだ。


 完璧なものが綻ぶのは、必ずその完璧の外から。

 天才の存在は徐々に認識され、その鮮やかな手法がアーリーアダプターの目に触れるようになると、称賛の眼差しをもって天才を見る者が現れた。

 信者の誕生である。

 人は信じる者を貶されることを許さない。

 信者もまた、その天才を貶されることを許さなかった。彼自身はまわりの声など全く意に介さず、ただ淡々と自分の行うことを行っているというのに、周囲の信者が憎悪の声をいなせない。

 持ち前の悪知恵も、盲目的な信者の前には敗北を喫した。天才も、敵意はいなせても愚かな好意には逃げる以外の対処する術をもたなかったのだ。そして、今の世の中、盲目の好意に晒されて逃げおおせる者などいない。


 天才は、愚かな信者によって、ついに余計な一歩を踏み出した。


 無節操な善悪とは、言わば善と悪の境界線に佇むということ。善にも足を踏み入れず、悪にも足を踏み入れず、よって善き者とは見られなくとも犯罪者として捕まることもない。そういうマージナルな場所に佇んでいるはずだった。

 それが、盲目の信者によって周囲を固められてしまった。身の回りに増えた厄介な人間たちのせいで、天才は己の道を見失ってしまったのだ。


 綱渡りのようなマージナルから、足を踏み外してしまったのだ。


 一人の天才は、多くの模倣犯を生んだ。

 多くの模倣犯は、大抵の場合その独自の方法のみを真似したために、彼の哲学を、その精神の根底を理解しようとする者は多くなかった。

 それもそのはずで、天才は非常に不可思議な成育歴をしており、それを単純に模倣をしたところで彼のような精神性を得られるかというと、果たしてそれは難しい。多くの人間は、己の境遇に絶望し、己が通ってきた来歴に更に絶望する。そんな育ち方をした。

 天才は天才であったゆえに、その嵐のような子ども時代を、柳のようにしなやかに過ごしてきたのだ。誰もが一人住まうための家を建てるような人生において、彼はその一人住まいの家のデッドスペースを集めて自身の部屋にするような生活を送ってきたのだ。


 さて、同じように苛烈な子ども時代を送ってきたもう一人の天才……天才と同質の天才が、独自の手法を真似したとしたらどうなるか。


 天才がそれまで己の人生を費やして生み出してきたシステムを模倣して、より労力少なくその独自のシステムを窃盗する。

 方法は継承されるべきである。システムは模倣され、次代へ受け継ぐべきである。それが産業の歴史となり、望むべき未来への進歩となる。とは言っても、一人の天才が生み出したマージナルを行く独自の方法は、そのシステムが非常に巧妙に人々の心理や悪意から目を逸らし続ける以外に何一つ褒められたところのないものだ。そんな小賢しい技術が、神を欺き嘲笑うかのような方法が、次代への希望となるはずがない。

 果たしてその一人の天才が、そんな殊勝なことを考えたかどうかは定かでないが、彼はその独自の方法を他の誰かに教えるのを極端に嫌がったのは確かだ。


 彼は、そのシステムを失われる技術にしたかった。


 後に彼以外の天才が再発明をするにしても、そのきっかけが彼ではないようにしたかった。そうすることによって、彼の名は、その存在はその時代にのみとどめられ、後の人口に膾炙しないようにしたかったからだ。しかし別の天才が、それを不可能にしてしまった。

 一人の天才が生み出したシステムを模倣した、もう一人の天才。

 その天才は、その独自の方法をさらにエゴイスティックに進化させた。善悪の境界を、その綱の上を進むスピードをさらに速くしたのだ。

 エゴイズムは、独自の方法をさらに洗練させるとともに、シビアな操縦が要求された。独自の方法を生み出した天才が、その方法を生み出すことに費やした労力を、エゴイストに進化させた天才は、その操縦の仕方に費やせたために可能になったのだ。

 レジスターを作った人よりもレジスターを用いて働いている人の方がよりよくレジスターを用いるのに似て、独自の方法を模倣した天才はその操縦のブラッシュアップに注力した。

 また、模倣犯には信者がつかなかった。

 ゼロを一にする人間とは違い、一を十にする人は、大抵の場合それほど信者が生まれない。

 ゼロを一にする人のカリスマ性を超えられないからだ。

 しかし、その天才模倣犯にとってはむしろ好都合だった。

 エゴイスティックに進化した独自の方法(いや、それはかつて一人の天才がゼロから生み出したがゆえに独自だったのであり、今この模倣犯が窃盗したシステムは、もはや独自でもなんでもないのだが)は、誰の目に見ても、犯罪であった。


 善悪の境界を全速力で進んでいたはずのシステムは、こうして悪とみなされた。


 しかし、それを誰が見るだろうか。

 そのシステムは、法の目をかいくぐり、人々の憎悪をいなし、あらゆるマスコミの目をそらしつづける。

 信者はおらず、見えるはずなのに人の意識の外にあるためにシステム自体が存在していないかのよう。


 あるはずなのに、ない。


 そんな存在を、誰が見るだろうか。

 結局、二人の天才によって極められたその独自の手法は、多くの粗雑な模倣犯たちの影に隠れて、ひっそりと消えた。

 真の模倣犯は、逃げ切ったのだ。

 ただし、その逃げ切った方法も、本当に逃げ切れたのも、あるいは天才模倣犯がそれによってどんな幸せを得たのかさえも、誰にも分からなかった。

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