マーガリンロール

 朝起きると、すでに京香は出勤した後だった。

 僕は二日酔いでジンジン痛む頭に顔をしかめつつ、冷蔵庫を開ける。

「あ……」

 買い置きの爽健美茶がなくなっている。

「京香のヤツ、買ってないな」

 後から京香に聞かされたところでは、二日酔いの原因となった僕の脱稿を祝う宅飲みでしこたま酒を飲んだ僕を介抱するために、京香が爽健美茶を僕に飲ませていたらしい。それでも二日酔いは免れなかったのだから、僕は相当飲んでしまっていたのだ。

 この時の僕はそれを知る由もないから、ただ京香のことを恨んでいた。仕方なく蛇口をひねって浄水器から出る水を飲む。多少ぬるく、また独特の鉄サビ臭の残る古い水道管の水だったが、寝起きの、しかも二日酔いの体にはだいぶ甘露だった。

「朝飯でも食うかあ……」

 リビングは足の踏み場もないほどにゴミで溢れていた。

 昨日の宅飲みでさんざん暴れまわったのもあれば、普段から積み上がったスーパーの総菜弁当の空き箱、洗濯を忘れた京香が仕方ないとばかりにコンビニで買ってきたストッキングの外装や、夜の営みの後など、人間を形作るあらゆるものの痕跡がそこに散乱しているように見える。

 僕も京香も、整理整頓というものが……というよりも家事一般がとても苦手だ。

 飯をつくるのもろくに出来ない。掃除も洗濯も苦手。皿洗いなどもってのほか。おかげで家は荒れ放題。同棲しているのに両方とも仕事をしているものだから、互いに自分の仕事を優先してはばからない。

「だからって、冷蔵庫があんまりにもからっぽ過ぎるんだよな」

 中に入っていたのは、京香用の栄養ドリンクといつ買ったのか忘れたマーガリン。マーガリンなんて何に使ったのかすらもう覚えていない。オーブントースターも最初は電子レンジと一緒にキッチンに鎮座ましましていたが、今ではその場所に牛乳パックがうずたかく積まれている。

 リビングに比べてキッチンはなぜか恐ろしいまでに何もない。いや、あるにはあるのだが、ゴミによってではなく物置きになってしまっており、しかも料理をするためのものは一切ない。

 震災に備えた保存食など、その月のうちにすっかり食べてしまったのだから、無精は相当のものだ。とは言え僕も冷蔵庫の中に入っていたのがマーガリンでなくマヨネーズだったりしたら、ちゅうちゅう吸っていたかも知れない。

 冷蔵庫を閉めて膝を抑えゆっくり立ち上がる。

「……買ってくるしかないか」

 とは言ったものの、ふらつく足元ではコンビニに行くのも大変だ。五階建てアパートの四階にあるこの部屋は、何が辛いって昇降に階段を使うしかないということだった。

 エレベーターは、壊れて久しい。

 大家にそれを直す気がないのは薄々知ってはいたが、いつぞや張り紙で「このエレベーターは直りません」と貼られたときはいっそ清々しさすら感じた。

 いずれは出るアパートだと思いつつも、今はその後回し精神が厭わしい。いや、後回しにするのは僕と京香も同じことなんだけど。

 ふと、昨日の宅飲みを思い出す。脱稿によるテンションの上昇は僕の財布のひもを緩めさせた。かなり色々なものを買ったから、もしかしたら……というよりも高確率で何か食べる物が残っているはずだ。

 踏み場のない廊下を超えて、リビングに戻る。

 テーブルの上には飲み終えて横に潰されたビール缶、焼酎の瓶、空になった様々な総菜パック。つまみのチーズやナッツの類がテーブルの下そこかしこに散乱しており、ウェーイ系の男子学生でももう少し大人しく飲み会をするぞという有り様。

 ベッドの上までつづくツマミの食べかすはそこで途切れて、代わりに京香の脱ぎ捨てられたストッキングが置かれている。

 つまり、何もなかった。

 酒の一滴、水のペットボトル一本さえ残っていない。買い置きの爽健美茶もなくなるわけだ。

「ううう」

 昨晩の痴態にうめくしかない。しかしうめいていても朝食はやってこないし、マーガリンがパンに変わるわけもない。

 仕方なく、リビングの一所に積み上がった洗濯物から自分の服を見繕う。ジーンズは別の棚に入れているのでそこから取り出して履く。

 意を決して家を出ると、すぐ目の前には階段が地上へと口を開けている。

「うへえ……」

 四階分の階段を、二日酔いの重たい頭で踏破するのはかなり気が滅入る。昨晩の脱稿して浮かれ気分だった自分を殴り飛ばしたい。

「まあ、行くしかないんだけどさ」

 手すりを握って慎重に階段を下りていく。せめても体が動く程度の二日酔いで良かった、と思いつつ、僕はゆっくりと足を動かし続けた。


 二日酔いに効く飲み物をアパートを出てすぐのコンビニで買って、駐車場で座り込んで休憩がてらに飲む。

 すっかり日も高くなっていた。

 雲もなく、小春日和。二日酔いさえなければこのまま近くの公園まで散歩に行きたい陽気。

 しかし今は痛む頭を何とかするのが先決。

 温かい爽健美茶を飲みながら、コンビニのパンをもそもそと齧る。

 六個入りで安いな、と思って買ったマーガリンロール。

「バターロールじゃないところが、いじらしいんだよな」

 企業努力の結果なんだろうが、マーガリンロールはバターロールよりも軽いし、口の中でゆっくり噛んで味わってもうるさくないのが良い。

「紛いモンって、昔の人は起るかもしれないけどさ」

 マーガリンがバターの代替品だった時代もあっただろう。ビールに対する第三のビールのように、日本酒に対する焼酎のように、マーガリンにも肩身の狭い時代があったのかもしれない。

 僕ら二人の生活も、結婚の代替品のようなものだろうか?

「京香は、どう思ってんのかな……」

 部屋の荒れ具合が二人の生活を示している、などと言うが、だとしたら僕と京香の同棲生活は台風のようなものだろう。

 しかし、僕は割とその台風のような部屋が気に入っている。

 京香はどうなんだろうか?普段から物を部屋のあちこちにポイポイ投げ捨てるような彼女は、実はそんな部屋に辟易しているのだろうか。

 スマホにメッセージが入る。

 京香からだった。

『起きた?』

『アンタ昨日酷かったけど、吐かなかったし、アンタが酒強いのは知ってるからそのまま出て来ちゃったけど、連絡くらい寄越してよね』

「起きた」

『お、良かった。何か欲しいものある?』

「大丈夫、コンビニで適当に買ったから」

『そう。あ、今週アタシが洗濯当番なんだけど、できなくてゴメンね』

『仕事の方が何とか今日で決着しそうだから、帰ったらやるね』

「大丈夫?代わりに僕がやっておこうか?」

 しばらくメッセージが来なかった。京香が何か書いている気配はあった。

『は?二日酔いで頭グズグズになった?当番は当番なんだから、アタシがやるよ』

「そうか。分かった」

『じゃ、休憩終わるから』

 僕は二つ目のマーガリンロールを食べる。

 きっと京香もこの生活を悪いとは思っていないだろう。

 二日酔いの頭はまだだいぶ痛んだが、それもきっと午後には治る。明日からはまた別の原稿にとりかかる。

 帰ってきたら京香に言って、一緒に少し部屋の片づけをしようか。きっと京香は面倒くさがるだろうけど。

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