石を磨く
雷藤和太郎
ゼフュロス
「なあ、こんな有名な絵画を見て何になるって言うんだ?」
彼の囁き声が私の耳をくすぐった。
「……あなたにはこの絵の迫力が分からないの?」
分からないのなら黙っていて、と言外に仄めかすと、彼は口を尖らせて「先に行ってる」と言い残し、去っていった。
ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』。ヴィーナスがホタテの貝に乗って海から流れつくその姿が描かれた絵画を知らない人はいないだろう。一目見れば忘れることのないインパクトと、精巧な筆致に誰もが感嘆する。
今、私はその実物を目の前にしている。
ピカソの『ゲルニカ』がそうであるように、ミュシャの『スラブ叙事詩』がそうであるように、絵画というのは実物を見た時にその面が発するオーラというものがある。実地に赴いて、実物を見た時に受ける衝撃がある。
彼は絵画に疎かった。
絵画に、というよりは芸術一般に、と言った方がよい。
私がどうして彼と付き合っているのかは、もはや定かでない程古い付き合いなのだが、古い付き合いにもかかわらず、私と彼とはどうにもその一点にのみ意見が全く合わなかった。
彼にとっては、モニタの向こうの『レディ・ジェーン・グレイの処刑』も、実物のそれも全く同じなのだという。
なんとつまらない男だ、とその時は思ったが、結局多くの男というものはそういうものらしい。
私も、彼の好む格闘技戦や野球の試合など一向に興味が持てないから、きっとお相子なのだ。趣味が合わないというのはつまらないが、それでもしぶしぶ付き合ってくれる彼はきっと優しい部類に入る人間なのだと思う。
ボッティチェリの作品を目の当たりにすると『春』と『ヴィーナス誕生』の二つの作品において、同じ登場人物がいるのが分かる。
ゼフュロスだ。
ヴィーナスが天上のヴィーナスと地上のヴィーナスで描き分けられているのとは違い、ゼフュロスに関しては、全く同一の存在として描かれている。ゼフュロスは春の訪れを告げる西風の神であり、彼が吹きかける息は、生命の象徴である花を咲かせる。
しかし、二つを見分ければその姿の違いに驚くだろう。片方はいかにも健康に、もう片方は死神然とした、人間離れした色をしている。
ともに背中に羽を生やして、美女に祝福の息吹をかけているにも関わらず。
初めてこの二つの絵画を見たとき、私はそれらゼフュロスがとても同一の人物(いや、神なのだから人と形容するのはおかしい。……神物か?)だとは思えなかった。それほどまでに、二つの絵画におけるゼフュロスの描き分けは甚だしかった。
『春』に描かれる寓意は多く、そしてまた謎に満ちている。一枚の絵画の中に漫画のように展開される物語の整合性がとれないという点において、『春』という作品は不思議な作品なのだが、その中でもこのゼフュロスは異彩を放っている。
青白く描かれた肌で、命を芽吹かせる。芽吹いた命は彼のゆるりと伸ばした腕の先、クロリスと呼ばれる大地のニンフを娶る。娶られたクロリスは名を変えて、花の女神フローラとして生まれ変わる。
娶る者として、奪い去る者として描かれているから青白く描かれている?
それにしても二つの絵画に描かれたゼフュロスの姿形の違いは、やはり実物で見るとさらに違和感が増す。
まるで、双子の兄弟のようだ。
私が十分にその二つの絵画を堪能し、彼を探し始めたのはそれからさらに一時間ほどたってからの事だった。
それでもまだ後ろ髪をひかれる思いだった。隣で絵画を見ていた外国人に腕を押されて腕時計がずれ落ちさえしなければ、私はあと二時間も三時間も、その荘厳な絵画に心を奪われていただろう。
時間を忘れていた私は、彼が「先に行ってる」と言ったのを思い出して、急いで美術館を後にしたのだ。残りの絵画を早足で見るのはとても悔しかったが、いつまでも彼を待たせておくわけにはいかない。彼には彼のプランがあるのだし、美術館ばかりに時間をとってしまえば、後の予定が後手後手になってしまう。
彼は、近くの公園で空を眺めながら座っていた。
強い日差しを遮る木々が、西風に揺れている。ときおり強い風が吹くと、彼を匿う木陰が強く揺れて、彼は太陽の光に目を細めるのだった。
「木陰」
私の呟く声に、彼がこっちを向いた。
周囲には私たちの他に日本人の観光客はおらず、それゆえに馴染みの良い日本語が、彼の耳に入ったのだろう。木陰の下で彼が困ったように笑う。
「ったく、ずいぶん待ったよ。シャーベットを買ったけど、溶けちまうから二つとも食っちまった」
腹がいっぱいだ。彼はそう言って笑った。
「ごめんね」
「いいよお。お前が絵画好きなのは知ってるし」
私は彼の隣に座って、同じように木陰からのぞく青空を見上げた。
日本の夏とは全く違う、真っ青な、透き通るような青空。
「こっちの夏はさ」
「ん?」
「こっちの夏は、喉が渇くよね」
「ああ、気をつけないとすぐに脱水症状になる。汗なんかかいたそばから蒸発しちまうもんな」
ゼフュロスは、冬を春にする神だ。
青い冬。クロリスを娶ろうとしたとき、ゼフュロスはきっと寒いほどに独りぼっちだったに違いない。
だから、青かったのだ。
「『ヴィーナスの誕生』のときは、まだそれが恋心だとも分からなかったのかな」
「どういうこった?」
「絵画には、謎がいっぱいあるんだな、ってこと」
頭にクエスチョンマークを浮かべる彼を見て、私は微笑んだ。
「ねえ、私にもシャーベット、買ってよ」
「ダメだね、もうお昼の時間だ。飯を食うんだ」
「じゃあ、デザートはシャーベットね。とびきり酸っぱくて、とびきり冷たいやつ」
「どんな注文だよ」
ちょっと甘ったるいから、酸っぱいのがいいんだよ。
ちょっと熱がでそうだから、冷たいのがいいんだよ。
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