陰気な兄と病気な妹の二人暮らしの話。

三好ハルユキ

「止み、病み、已む。」




 最近は妹との二人暮らしにも、就職先の雰囲気にも慣れてきた。

 数字にして六ヶ月と十日。早いか遅いかは分からない。

 特にきっかけはなく、これといった目標や志もなく、ただ、いつの間にかすんなりとこの状況を受け入れているという、自覚。 

 ……傍から見れば単に、流されているだけなのかも知れないけれど。

 物心ついた時から暮らしているマンションの一室に、小学生の妹と二人。兄貴は大学入学を機に、両親は俺の高校卒業を待っていたかのようにそれぞれ、この家から出て行った。祖父の代からの分譲マンションを惜しげもなく託していったのは責任ごと放り出したいという気持ちの表れか、もしかしたら俺への罪悪感なんてものもあったりして。 

 どっちにしても多分この先あの人達と顔を合わせることはないだろうから、その心情を知る意味も無い。

 二十年にも満たない人生の中でいろいろと積み上げたり崩されたりして、残ったものは住む処と、仕事と、たった一人の愛すべき家族。ところで愛すべきであるという事実と、愛することが出来るかどうかは別物だと思うのは間違っているだろうか。

 十時前に起きて、ベッドの上でぼーっとそんなことを考えていたらいつの間にか昼の十二時を過ぎていた。

 目はとっくに覚めているけど、俺の腕を枕にしている妹が一向に起きないので物理的な金縛りにあっていた。前に無理やりどかそうとしたら寝惚けた妹に噛みつかれて左肩が止血処置のお世話になったので、大人しく待つ他ない。

 妹の寝顔を間近で観察する。目蓋は緩く閉じられ、薄く開いた唇からは真っ白な牙がちらちらと見え隠れしている。頬の鱗を指で優しく撫でてやると、んん、と黒い鼻がひくついた。いつもの仏頂面とは違って、寝ている時は幸せそうだ。

 さっきは小学生と言ったけど、妹はもう学校には通っていない。八歳で発症した時から勉強は俺が家で教えている。両親はかわいそうだと話していたが本人は当時、もう登校しなくていいことを聞いて喜んでいた。友達が居ないのは兄貴にそっくりだ。俺も妹のことが周知されてから、誰にも寄りつかれなくなったけど。

 妹が唸りながら反対の方に寝返りを打ったので、その頭からそーっと腕を抜いてベッドを出る。寝返りついでに横っ腹を尻尾で強打されたが、かろうじて声は我慢した。

 「……」

 部屋を出ようとして、部屋の扉が破壊されていることにようやく気付く。ノブを根本の部分から捩じ切るように剥がされた扉は半開きで、ほとんどその役目を果たしていない。そういえば前にベッドに忍び込まれてから、寝る時には部屋の鍵をかけるようにしていたっけ。謎は全て解けて犯人はお前なのに、何一つ解決しない。理不尽だ。

 リビングを通って、ベランダの燃えないゴミ用のポリバケツに廊下で拾ったドアノブだった物を捨てる。それから昼食の用意をして、ソファでテレビを見ながら冷凍のチキンライスをチンして食べた。

 お昼過ぎのワイドショーではちょうど、妹と同じ症状の男の子が話題に上がっていた。

 医者でも専門家でもないコメンテーターが様々な妄想と奇想天外な発言を紙飛行機のような手軽さでどんどん飛ばして、話を受けたキャスターはしたり顔で斜め上の方向にそれを打ち返す。それぞれが相手の話を聞かずに言いたいことだけを述べていく様子は小学校時代の学級会を思い出させて、少し愉快だった。

 番組によれば、民衆の中には妹のような症状を病気ではなく新人類誕生の予兆であると唱える人も居るらしい。要するに、あれを自分と同じ種類の生き物だと思いたくないわけだ。

 俺は……どうだろう。もしも実の妹じゃなかったら、今と同じように居られたかは疑問に思う。今の状況が最良かどうかも、正直なんとも言い難い。何かを選んでここまできたなら信じられるものもあったかも知れないけど、俺はただ、周りの選択の結果を受け入れ続けてきただけだから。

 家を出て行くとき、父親は俺に「すまない」と言い、母親は何も言わなかった。世間にはうちの両親を娘の病気から逃げた薄情者と呼ぶ声もあるけれど、俺はそうは思わない。生まれた子供が何に成るかなんて誰にも想像出来ないし、想像出来ないものに対して覚悟を決めろと他人が言うのはあまりにも無責任だ。相手が肉親だろうが、理由が病気だろうが、受け止めきれないものからは逃げることは間違っていない。

 生きている以上は個なのだから、誰でも自分を守るべきだ。

 食休みを済ませて食器を流しに置いてから、リビングの隣の洋間に向かう。

 洋間はもともと両親が寝室として使っていた部屋で、今は保管庫代わりに使っていた。

 引き戸を開いて電気を点けると、ベッドの上に丸まっていたエサがびくりと跳ねてこっちを見た。反応が機敏なのは良いことだ。活きが良い、とも言う。

 機器の数値を確認して記録表を付けている間、エサがずっと何かを訴えかけてきていたが、拘束具の轡で何を言っているのかは分からなかった。よって不問とする。服を脱がして、体を拭いて、点滴を替えて、簡易トイレを交換して……正直、妹の世話よりもよっぽど手間がかかる。このエサはまだ両足が残っているので、片腕だけの俺にとってはエサをベッドの上で少し動かすのも一苦労なのだ。右の目玉が無いことにはもう慣れたが、右腕だけでも妹の腹の中から取り返せないものだろうか、なんて。たまに本気で思う。

 前に妹に世話を任せてみた時は、我慢出来ずに一日で丸ごと食べてしまったし。

 エサの世話を終えてリビングに戻ると、妹が起きてきていた。眠そうな目を指で擦りながら、おにーちゃんみっけー、と指を差してくる。見っけられてしまったので、おはようを告げて頭を撫でた。ぐるるるる、と妹の喉が鳴る。寝惚けた真顔はぴくりともしないが、多分、喜んでいる。妹は牙の発達が進んでから少し喋りにくそうにしているものの、今のところ意思の疎通は問題なく取れている。むしろ尻尾や上耳の動きのおかげで前より分かりやすくなった部分もある。表情の変化が乏しいのは発症する前からだし。

 聞けば俺のスマホの着信音で目が覚めたらしいので、歯磨きと洗面を薦めてから自室に戻る。

 届いていたメールを呼んでいるうちに、差出人から電話がかかってきた。

 「やっほーお兄ちゃん、元気かね?」

 誰がお兄ちゃんだ、といつものようにもしもしを省いて言葉を返す。受話口の向こうでけらけらと笑う女は職場の同僚だ。妹は一人で充分だ。充分以上だ。

 「メール見た? 今月もう七件目になっちゃうんだけど、受けてくれる?」

 受領するか確認出来てない依頼の内容を漏らすのは社内規則違反だろ、と注意しても、反省の言葉が返ってくる様子は無い。

 この女の持つ空気感は苦手だ。

 苦手だけど、苦手だと感じることにも、もう慣れた。

 仕事は受ける、とだけ返事をして通話を断る。ただでさえ貴重な休日を寝坊でスタートさせているのに、このまま無駄話に移行されたら洗濯物の時間も無くなるじゃないか。三人分の家事を働きながらこなすには、根気以上に時間のやりくりが必要なのだ。

 ……あぁ、でも、直近の仕事が入るなら、もういいか。

 リビングに戻ると、妹が床に足を広げてぺたんと座ってテレビを見ていた。手には牛乳でいっぱいのコップ。なみなみに注ぐなといつも言っているのだが。

 妹の病気は、去年から進行が止まっている。医者が言うには、成長期の間はまだ変化が現れる可能性もあるそうだ。けれど、現時点で症状が出ていない箇所が今から変形することは無いとも言っていた。つまり今のまま行けば、両腕の肩から先は元の形のまま成長していくだろう。足と同じように手や腕まで鱗と体毛で覆われてしまえば物を掴むことも難しくなるので、不幸中の幸いと呼んでいいのかも知れない。ドアノブのこともあるし、中身まで同じだとは思わない方がいいだろうけど。

 両手で持ったコップから牛乳をちびちびと啜っていた妹が、こちらに気付いて顔を上げる。

 だいじょうぶ? と、首を傾げた。

 大丈夫だよ、と答えた。

 顔に出ていたらしい。何がかは知らん。どんな感情がそこに浮かんでいたのかは、目にした妹にしか分からない。他の誰が見ていても判らないだろうし、俺自身には更に解らない。それがなんなのかをいちいち気にするような性格なら、今頃きっともっと、何かが致命的に変わっている。

 俺は正しくない。間違っているかどうかが、俺にはどうでもいいから。

 俺は間違っていない。何が正しいことなのか、俺自身が決めていないから。

 妹の頭に手の平を置いて、優しさを意識して撫でる。綿帽子に手を入れているみたいに柔らかい髪の毛も、昔と変わらずそこにある。多分、きっと、喜ぶべきことだ。

 黒髪を指で弄ぶのをやめて、もうすぐ新しいのが手に入るから今の分はぜんぶ食べちゃってもいいよ、とエサの居る洋間を指し示す。

 妹は、くすぐったそうに細めていた目を見開いて、ほんとに? と、その黄色い瞳を蘭と輝かせる。

 それから彼女は牛乳を勢いよく飲み干すと、おねがい、と俺に空のコップを渡して、鱗に覆われた尻尾を嬉しそうに左右へ揺らしながら洋間へと向かっていった。

 よしよし、これで夜の分の家事が一つ減る。

 キッチンの流しにコップを置いて、水道のレバーを上げる。昼の食器と一緒に後で洗ってもらおう。片手ではさすがにやりようがないので、洗い物は妹の仕事だ。こちらも一日数枚のペースで被害が出ているし、食器洗い機の導入も視野に入れるべきかも知れない。エサの世話のこともあるしいっそお手伝いさんでも雇いたいと考えた時期もあったが、考えるだけに留まった。客観的に見ても主観的に見てもうちが職場として良い環境だとは思えないし。ブラックどころか血の色稼業なのは俺の職場だけで充分。

 ともあれ、生きていくって大変だ。

 自分がやりたいわけでも、誰に言われたわけでもないのに、そうすることしか出来ないから。

 そう、生きることは、死ぬほどしんどい。

 「……」

 それでも。

 特にきっかけはなく、これといった目標や志もなく、ただ、いつの間にか理由だけを背負っていた。

 住む処と、仕事と、たった一人の愛すべき家族と、それから一応、自分自身。

 それらを、それらに、それらだけは、守る理由があるのだ。

 

 「お兄ちゃんだからなぁ、俺」

 

 だから、それ以外は。

 部屋の奥から響く断末魔すら、俺には、流れる水道の音よりどうでもよかった。

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陰気な兄と病気な妹の二人暮らしの話。 三好ハルユキ @iamyoshi913

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