第3話 指導という名のいじめ

 士郎は苦痛に耐えつつも、何とか踏ん張りその場に留まり、頭髪検査が終わるのを待った。保健室に逃げ込んだところで、誰も咎め立てしないだろう。士郎をボコボコにしてくれた浅野は言うに及ばず、だ。それでも士郎がその場に留まったのは、ここでおめおめと保健室にでも逃げ込めば、浅野に白旗を掲げるのも同然、それだけは死んでも嫌だという、実に下らない意地からであった。


 そして浅野以外の教師連も、生徒たちも士郎にちらちらと目をやりつつ、粛々と頭髪検査は進んでいった。そして違反者は例のごとく、全校生徒の前に並ばされ、晒し者にされた後で、明日までに髪を切ってくるようにと命じられた。


 これで頭髪検査も終わりかと思いきや、浅野が、「吉良(きら)っ」と士郎の苗字を呼んだ。


「前へ出ろっ!」


 我が大塚学院の全校生徒のうち、吉良姓は果たして何人いるだろうか…、士郎はそんなことを思いつつ、ともかく前へ出た。先ほど、浅野からボコボコにされた経緯からすれば、吉良は俺以外にはあり得んよなと、士郎は苦笑した。


 士郎は前に出て、浅野と相対した。またしても俺をボコるつもりか…、士郎は内心そう思うと、腹筋に力を込めた。浅野のパンチ力に耐え得るほどの腹筋ではなかったものの、それでも力を込めていないのと込めているのとでは大違いだ。そして他の教師連も生徒たちも、また浅野が吉良をボコボコにするのかと、固唾を飲んで見守った。


 だが案に相違して、浅野が士郎をボコボコにすることはしなかった。その代わり、


「今日の放課後、特別指導してやるから剣道場に来い」


 そうご招待を受けることになった。浅野が何を考えているのか、浅野のその満面の笑みからして、士郎には手に取るように分かった。無論、せっかくのご招待を拒否することなど許されず、士郎も満面の笑みで、「わかりました」と答え、浅野のこめかみに血管を浮き上がらせた。士郎は浅野に一礼してから列へと戻った。その途中、全生徒からの注目を集めることになってしまった。こんな居心地の悪い思いをするくらいならさっさとギブアップして保健室に戻れば良かったなと、士郎は少しだけ後悔した。


 校庭から教室へと戻る途中、士郎は冠(かん)と照雄(てるお)から早速、声をかけられた。


「浅野の野郎、何て言ったんだ?」


 まず冠が口火を切った。浅野もさすがに大声を出したわけではないので、ご招待の件は冠ら生徒の耳にまでは届かなかった。


「放課後、剣道場に来いだとさ」


 士郎は正直に答えた。すると冠も照雄も表情を変えた。


「それって…、お前をまたボコボコにするためじゃ…」


 照雄はあっさりと正解を口にした。


「その通りだろうな」


 士郎はどこか他人事のように答えた。


「その通りだろうなって…、お前、行くつもりかよ」


「せっかくのご招待だからな。断っちゃ失礼だ」


「ふざけるなっ」


 冠は士郎の肩を掴むと、引き寄せた。


「痛い…」


 士郎は正直な感想を洩らした。肩も浅野から蹴られたばかりであった。


「ああ、悪ぃ…」


 冠もそうと気付いたらしく、肩から手を離した。


「でも、そんな体でまた、ボコボコにされたら…」


 冠は心底から心配している様子であった。


「浅野だって馬鹿じゃない…、と信じるしかねぇだろ」


 士郎は砕けた口調でそう言った。


「でも…、ここは行かない方が良いんじゃねぇか?」


 冠も砕けた口調でアドバイスした。


「逃げてどうなる?ここが公立ならいざ知らず、ここは私立だぜ?しかも今は事実上、浅野の野郎がこの学園を取り仕切ってる。せっかくのご招待を無断欠席しようもんなら、最悪、退学処分にされるかも知れねぇからな」


 現在、理事長の内藤は都議会議員選挙に立候補すべく、学園を不在がちにしていた。何でも今の都知事が立ち上げた新政党の公認を受けたらしく、都議選出馬の準備に忙しく、学園に姿を見せることはほとんどなかった。その内藤に代わって、親戚である浅野が学園を取り仕切っていた…、と言えば聞こえは良いが、実際にはひっかき回していた。


「あのな、梶川(かじかわ)に頼みがあんだけどな…」


 士郎は照雄の方を見た。


「何だ?」


 照雄は士郎から頼み事をされるのが嬉しかったのか、目を輝かせた。


「新聞部員としての梶川に頼みがあるんだ」


 士郎のその一言で照雄はピンとくるものがあったらしく、


「放課後、剣道場で行われる体罰について、その証拠…、映像を隠し撮りしろ…、そんなところか?」


 これまたあっさりと正解を導き出してしまった。周囲に聞かれぬよう小声で答えるあたり、センスの良さを感じさせた。


「梶川はいいジャーナリストになれるよ」


 士郎は心底からそう言うと、「それで頼めるか?」と繰り返した。


「小型カメラを剣道場に設置すればわけもない。武道の授業は4時限目だから、その前、いや、後の方が良いな…、5時限目に仕掛けるチャンスがある」


 武道の授業は合同授業となる。つまり、剣道、空手、柔道の授業が同時に行われるのである。と言っても中等部と高等部が一斉に、というわけではない。例えば今日、月曜日なら我が高等部1年の全クラスが一斉に、といった具合である。我が大塚学院は私立ということもあり、土曜日もきちんと授業が行われる。それゆえ、月曜から土曜の6日間、月曜の高等部1年を皮切りに、土曜日の中等部3年まで毎日、武道の授業が行われていた。そして今日、月曜日は照雄が口にした通り、4時限目に高等部1年の合同授業であり、それ以降は武道場は無人となる。その上、放課後、それも部活を終えた後でない限り、一々、鍵をかけたりしないので、出入りが自由ということであった。放課後、浅野の体罰映像を隠し撮りするなら、なるほど、5時限目以降に小型カメラを仕掛けた方が賢明と言えた。


「頼めるか?」


 士郎が改めて尋ねると、「勿論だ」と照雄は答えた。するとそのやり取りが聞かれてはいないかと、周囲をうかがっていた冠が、「何だか…、士郎の体罰を期待するようなもんだな…」と呟いた。


「ああ。その通りだ」


 士郎が照雄の代わりに答えた。


「俺としてはヤツが俺をボコボコにしてくれるのを期待している」


「つまりそれって…、告発ってことか?」


 冠も小声で尋ねた。


「それも視野に入れてる…、ってその小型カメラだが、俺に貸与してくれるか?無論、タダで貸せって言うつもりはない。何なら代価を…」


 士郎は本気でそう言いかけると、照雄は頭を振ってみせた。


「いらないよ、代価なんて…。それから仮にだが、うまく体罰映像を撮れたら、それをどう使うか、それはお前の自由だ」


「すまない。それともう一つ、聞いておきたいことがあるんだが…」


「何だ?」


「仮に5時限目以降に仕掛けるとして、もう、録画し始めてるわけだよな?」


「さしずめ残存時間のことを聞きたいんだろ?」


 照雄は勘を働かせた。


「その通りだ。途中で、録画が停止する、なんて事態にはならねぇか?」


 それが唯一の気がかりであった。


「それなら心配するな。軽く10時間以上は録画できる最新型だからな。おまけに小型だから目立たないし、音もない」


「だから気付かれる心配もないし、無論、途中で残存時間が不足する、なんてことにもならない、ってわけだな?」


「その通りだ。だから心配するな」


 照雄の厚意に士郎は心から感謝すると、周囲に怪しまれぬよう、会釈した。本当は土下座して感謝したいところであった。


 6時限目の授業が終わったところで、士郎は照雄から、「神棚に設置した」と耳打ちされた。必要最小限度の言葉であったが、士郎にはそれで充分であった。


 放課後、士郎は尚も心配する冠と照雄をよそに、剣道場へと向かった。剣道場には既にジャージ姿の浅野が待ち受けていた。いや、浅野のみならず、総勢9名の剣道部員も待ち構えていた。もしかして…、と士郎は予期しないでもなかったが、まさか本当に部員までが待ち受けているとは、どうやら浅野は本当に部員も士郎への手厚い「歓迎」に参加させるつもりらしい。


「良く来たなぁ…」


 浅野は腕組みしながら舌なめずりをした。まるで獲物を前にした獣のようであった。それは浅野だけでなく部員たちも同様で、用意の良いことに竹刀…、ではなくて木刀を掲げていた。それにしても木刀とは穏やかではないな…、士郎はそう思った。


「本日はお招きを頂戴いたしまして、まことにありがとうございました」


 士郎は丁寧に頭を下げた。だがそれが浅野の気分を害してしまったようで、


「軽口は相変わらずだな…」


 脅すような口調でそう言うと、士郎の腹に一発入れてうずくまらせると、部員たちに目配せした。部員たちは頷くと剣道場の扉を閉めた。なるほど、密室状態で士郎を指導してくれるらしい。


「今日はお前の曲がった根性を叩き直してやるからありがたく思えよ」


「それはそれは光栄の極みですな。ですが人間なんてそうそう変わるものではありませんから…」


 士郎がそこまで言うと浅野は部員の一人にまたしても目配せした。部員は頷くと相変わらずうずくまる士郎の背後に立ち、そしてその背中目がけて木刀を振り下ろした。士郎は、うっ、と唸るとその場に倒れ込みそうになり、何とか片膝をつくことで凌いだ。


「一々、口答えする辺り、根性がひん曲がっている証拠だな…」


 士郎は痛みを堪えつつ、


「…口を開かなければ真っ直ぐな根性、という証拠ですか…」


 そう反論すると、浅野はまたしても部員の一人に目配せし、部員は今度は片膝をついている士郎の真横に近付くといきなり脇腹目掛けて蹴りをお見舞いした。今度は士郎も凌げずにその場に倒れ込んだ。ひんやりとした木の感触が士郎の頬に伝わった。


 おい、と浅野は部員に声をかけ、「立たせろ」と命令した。部員は浅野に言われた通り、士郎の胸倉や襟首に手をかけて無理やりその場に立たせた。


「もう、自力では立っていられねぇ、ってか?」


 浅野の顔が士郎の目の前に現れた。


「…息が臭いんですよ。浅野先生…」


 浅野は顔を強張らせた。


「おい。こいつを柱に縛り付けろ」


 縛り付けろ…、士郎は一瞬、ヤクザの口から発せられた言葉かと思ったが、それは士郎の誤解というもので、浅野は歴とした教師であった。もっともとても教師の言葉とは思えなかったが。そしてそんな浅野の命令に嬉々として従う部員もまたヤクザの子分そのものであり、とてもまともな生徒とは思えなかった。それが証拠に剣道部の部員の頭髪は金髪…、はまだ可愛いほうで銀や、中には赤や青に変色させている者までいた。つまるところこの剣道部は顧問も部員もまともでない連中の、もっと言えば悪の巣窟ということらしい。


 士郎は道場の真ん中に立っている一本の柱にロープで縛り付けられた。それにしてもロープまで事前に用意してあるとはその用意周到さに士郎は素直に感心させられた。


「…確か、特別指導というお話だったと記憶してますがね…、この態勢じゃとてもそうとは言えないような気がするんですがね…」


 柱に手首と足首を縛り付けられた士郎は無駄を承知の上で浅野に抗議した。


「お前みたいなトウシロウに竹刀を持たせてもらえるとでも思ったのか?」


 思ってはいなかったが、まさかこんな仕打ちを受けるとも予想してはいなかった。


「お前みてぇなクズにはそれなりの指導法、っつうもんがあるんだよ」


「…どんな指導法か…、大いに興味がありますな…」


 士郎の挑発に浅野はさすがにもう乗せられることもなく、余裕の表情であった。


「こいつはお前らのことを馬鹿だと思っているらしい。何せ特進クラスにいるヤツだからな。お前らのことを馬鹿にせずにはいられないんだろう」


 まずは部員をそう煽り、その上で、


「そんなこいつの曲がった根性をお前達の手で叩き直してやれ」


 そう誘導してみせた。勿論、皆、喜びの雄叫びを上げ、各々、両手に嵌めた籠手をバンバンと士郎を威圧するように叩き合せた。籠手の正しい使用法を知らないのか、あるいは端から無視しているのか、そのどちらかだろう。


「こいつは武道の授業では空手を選択しているそうだ。それにしちゃ、あまり打たれ強くはねぇみてぇだかんな。特に腹なんざぷよぷよだかんな。いっちょ、お前らが鍛えてやれや」


 おおっ、という野太い声が聞こえた。優等生を合法的にサンドバックにできる…、不良にとってこれほどの至福はないだろう。皆、お行儀良く、士郎の前に一列に整列したかと思うと、士郎の腹を集中的に攻撃し始めた。


 殴る蹴るの暴行を受けるうち、士郎の意識は遠のいていった。だがその度に、これまた用意の良いことに、バケツの水をぶっかけることで士郎の意識を取り戻させた。


 やがてロープが緩み、士郎はその場にへたり込んだ。すると部員の爪先が士郎の胃袋めがけて飛んで来た。士郎は遂に昼飯をぶちまけた。


「きったねぇなっ!」


 その部員はそう怒鳴ったかと思うと、尚も士郎を蹴ろうとしたものの、「もう良いだろう」という浅野の声で動きを止めた。士郎が嘔吐したことで、これ以上は危険と判断したらしい。


 浅野はへたり込む士郎の元へと近付くと、「ちったぁ反省したか?」と小馬鹿にするように尋ねた。だが士郎は体に…、特に腹に受けたダメージが大きすぎて軽口を叩こうにも言葉が出てこなかった。息を吸うだけで精一杯の状態であった。


 すると浅野はそんな無様な士郎の姿に満足したらしく、


「どうやらちったぁ反省したようだな」


 そう勝手に自己解釈した。


「なら今日はこれぐらいで勘弁してやらぁ」


 大変、ありがたい御言葉であった。


「ああ、それからてめぇでぶちまけたゲロはてめぇで処理しろや」


 そのゲロをぶちまける原因を作ったのは誰なのか、士郎はそう追及しようとしたものの、やはり言葉にはならなかった。


「返事がねぇようだな…。おいっ。誰か、バケツに水を汲んで来いやっ!」


 浅野が部員にそう命じると部員の一人、恐らくは9人いる部員の中で一番の下っ端が剣道場から急いで出て行った。そして間もなくその部員が何かを、恐らくは並々と水が汲まれたバケツ、それを浅野に手渡す気配がした。となればこれから何が行われるか、士郎のような馬鹿でもすぐに分かるというものであった。


 浅野は生足の爪先で士郎の顎を捕らえて上げさせると、その顔目がけてバケツの水をぶっかけた。


「どうだ?少しは目が覚めたか?」


 浅野は嘲るような口調でそう言った。勿論、士郎は最初から目覚めていたが、それですぐに喋れるようになるわけでもない。相変わらず呼吸するだけで精一杯であり、口をパクパクと動かすだけであった。


「よーし、今日の練習はこれまでだっ!」


 士郎を袋叩きにすることが剣道部の練習というものらしかった。どおりで大会で優勝どころか出場さえ叶わない筈だった。


 部員たちが引き上げる間際、またしても部員一人一人から脇腹に蹴りを入れられ最後に浅野からも腹に一発、蹴りを入れてもらい、


「ゲロ掃除、忘れんなよ?ああ、それから手で掬えや。ちゃんと見回りに来るかんな」


 そう嬉しい命令を頂戴した。どうやらもう一度、掃除が終わり次第、戻って来るつもりらしい。ともかく士郎は寝返りを打って息を整えてから、浅野に命じられた通り、自分の吐いたゲロを手で掬い、それをバケツに入れるという繰り返しにより、ゲロを片付けると、トイレへと向かった。トイレにゲロを流し、そしてバケツと自分の手を綺麗に洗うと、バケツに新しい水を注いで再び剣道場へと戻り、自分がゲロを吐いた箇所を道場備え付けの雑巾でもって綺麗に拭うと、神棚に仕掛けられたという小型カメラを回収した。果たして本当に仕掛けられているのか、その時まで士郎は自信はなかったものの、それでも近く似合った踏み台を使って、神棚に手を伸ばし、まさぐると、小型カメラらしきものが手に触れたので、引き寄せてみると、確かにそれは小型カメラであり、士郎は停止ボタンを押した。基本的な使い方については既に、照雄よりレクチャーを受けていたので知っていた。そしてその小型カメラを鞄に大切にしまうと、浅野の帰りを待ち受けた。するとそれから暫くしてから浅野が何と部員を引き連れて戻って来たのである。


「ゲロ掃除終わったか?」


 浅野はまずはそう尋ねた。はい、と士郎が答えると、次の瞬間、浅野は信じられない行動に出た。何と、ジャージのポケットからタバコの箱とライターを取り出したと思ったら、箱からタバコを一本、抜き出すと口に咥えてライターで火をつけたのであった。こともあろうに道場でタバコを吸うなど、それだけでも言語道断の振る舞いなのに、さらに信じられないことに吸い終わったタバコを道場の床に投げ棄てたのであった。そしてそれをしおに、9人の部員たちも一斉に道場の床に唾を吐く始末であった。それにしても俺の親父と同じピースのタバコを吸ってやがるとは…、士郎は何だか愛煙家である父親がけがされているようで、そちらの方が不愉快であった。


「もういっぺん、掃除やり直しな。ああ、それとロッカーに洗剤があっから、それで綺麗に掃除しろや」


 どうやら精神的にも士郎を追い詰める腹積もりらしい。士郎は「はい」と答えるしかなかった。


「また…、今度は1時間後に見に来るから、きちんと掃除しとけや」


 浅野はそう言うと部員、ならぬ子分を引き連れて道場を後にした。それにしてもタバコのポイ捨てと良い、部員の唾吐きと言い、武道教育など所詮は幻想に過ぎないということが良く分かった。


 士郎はとりあえずポイ捨てされたタバコを処理してから本格的に掃除にとりかかった。まずはやはり部員たちが吐いた唾の処理からとりかかった。士郎は不快さに耐えつつ、雑巾でそれを拭うと、まだ水が残っているバケツとそれに洗剤…、オレンジの洗剤をロッカーから引っ張り出してきて、それらを手にしてトイレへと向かうと、汚れた雑巾をオレンジの洗剤で良く洗い、そしてバケツの水を取り替えてから再び、剣道場へと戻ると、本格的に床掃除をした。


 それから1時間後、浅野は律儀なことに時間通りに戻って来た。今度もまた、9人の子分を引き連れてきた。そして同じことを繰り返した。そして士郎ももう一度、掃除をする羽目となった。


 そしてそれからさらに1時間後、今度は浅野一人であった。今度はもう子分を引き連れていないところを見ると、今日はもう、嫌がらせをするつもりはないらしい。事実、浅野はもう一度、綺麗に磨かれた床を目にすると、さすがにタバコを取り出すことはなく、それどころか興が醒めた様子で、


「それじゃあもう帰って良いぜ」


 と士郎に命じたのであった。綺麗に磨かれた床をまともに見ようともしなかった。これで剣道部の顧問なのだから恐れ入る。


「それじゃあこれで…」


 士郎は顔以外の、特に腹に受けたダメージをひきずりながら剣道場をあとにしようとした。すると、「待てや」という浅野の引き止めの言葉がかかった。士郎は歩みを止めると、浅野の方へと振り返った。


「何でしょうか?」


「明日も特別指導してやっから、感謝しろや」


 士郎は帰宅後、風呂に入るべく全裸となった。顔以外のありとあらゆる部分が痣だらけであった。だが幸いにも、と言うべきか、顔は綺麗なままだったので、親に異変を悟られることはなかった。特に母親に悟られなかったのは幸いであった。もし倅の身に起こった異変を悟ろうものなら、学校に乗り込むに違いなかったからだ。士郎としては母親をモンスターにするのは忍びなかった。


 そして翌日の火曜日、士郎は登校するなり、照雄から声をかけられた。小型カメラを借りている以上、昨日のことを話す義務はあるだろう…、士郎はそう考えて、かいつまんで説明した。


「今日も指導だと…」


 照雄は信じられないといった表情で、口元を手で押さえた。するとそこに冠もやって来て、話に加わった。


「マジかよ…」


 冠も今日も士郎が特別指導が受けられると知ると、信じられない様子であった。


「ああ、マジだ」


「大丈夫かよ…」


 冠は士郎の身を案じた。それは照雄も同じであった。


「ああ、大丈夫だ。心配すんな。特別指導は今日限りにしてくれって頼むからさ…」


 士郎は二人を安心させようと努めた。


「それで小型カメラだが…」


 照雄が切り出した。小型カメラの貸主としては当然の質問であった。


「ああ。済まない。もう少し、借りてても良いか?」


「それは構わないが、今日も仕掛けるつもりか?」


 今日、火曜日は高等部2年が6時限目に武道の合同授業であり、仕掛けるとしたらその前、ということになるが、最悪、6時限目の剣道の合同授業中に神棚に仕掛けた小型カメラが見つかってしまう事態も考えられた。士郎はその懸念を照雄に伝えて、今日は仕掛けないことを伝えた。


「小型カメラは家の机の引き出しに大事にしまってあるからさ…」


「そうか…」


 照雄はそう応じると、それが良いな、と答えた。


「もし、明日以降も指導を続けるようなら、その時こそ、告発に踏み切るんだろう?」


 さも当然といった口調で照雄は尋ねた。


「ああ。そのつもりだ」


 士郎はうなずいた。


 そして放課後、士郎は剣道場へと赴いた。そこで士郎はやはり、昨日と同じくリンチを受けたのち、床掃除を命じられたのであった。


 士郎は床掃除を前回に引き続いて二度もさせられた後、浅野に対して指導は今日限りで勘弁して欲しいと伝えた。それに対して浅野はせせら笑い、


「だったらそこで土下座してみろや」


 士郎にそう命じた。土下座したところで本当に指導が中止になるものか、浅野の性格から考えて答えは分かりきっていた。それゆえ士郎は土下座することなく、


「今日はこれから部活がありますんで…」


 そう言って、浅野の元から立ち去った。






 

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