第2話 頭髪検査
学校という集合体では常に問題児が一人や二人…、どころか現実にはその倍以上、存在しているように、問題教師なる者も同じように存在していた。それは士郎(しろう)の通う大塚学院においてもその例外ではなかった。
浅野(あさの)又郎(またお)…体育科の教員にして剣道部の顧問、そして生活指導担当であった。ちなみに大塚学院では武道が必修であり剣道・空手・柔道から一種目を選択しなければならず、浅野は当然、剣道を担当していた。入学式翌日のスクールライフは頭髪検査から始まった。全校生徒全員が校庭で並ばされて、頭髪のチェックを受けるのだ。そしてその責任者こそ浅野であった。
大塚学院では国公立とは違って私立ということもあってか頭髪に関しては非常に煩(うるさ)かった。髪を染めるのは無論のこと、パーマも禁止されており、髪の長さは前髪は眉毛の上、耳にかからない程度まで、襟足は首筋が隠れてはいけないというものであり、生徒からは厳し過ぎると大層評判の悪いものであった。確かにお洒落をしたい年頃でもある彼らにとってそれは厳しいものなのだろうが、それなら辞めれば良い、というのが士郎の持論であった。なるほど、大塚学院が義務教育、つまり皆が皆、一定の年齢に達したならば必ず入校しなければならない学校ならばその手の不満もある程度の有効性を持ち得るであろうが、大塚学院は生憎と私立、つまり義務ではなく任意、受験を潜り抜けてこの学校に通っているわけで、自分の好きで選んだ学校、とも言え、その学校の方針に従えないならばいつでも辞める自由がある以上、校則が気に入らないと言うならばさっさと辞めれば良い話である。それが士郎の持論であった。
そして在校生はそんな校則に不満を抱きつつも学校を辞めるだけの勇気はないらしく各々、校則の範囲内で精一杯、髪にお洒落を施していた。そして士郎はと言うと丸坊主であった。それもスポーツ刈りといったそんな健康的なものではなくスキンヘッド、つまり頭皮が丸見えというヤツであった。別に格好良いからそうしているわけでは勿論なく、そもそも俺は自他共に認めるブ男であるためお洒落とは無縁の人間であり、スキンヘッドにしている理由は便利だから、その一言に尽きる。
まずシャンプー・リンスの必要がないこと、タオルに石鹸を充分に染み込ませて体全体を洗う際に頭も一緒に洗えること、それから髪がないので髪を乾かすという手間が省けること、頭皮をタオルで拭えばそれで完全に乾ききり、そのためスキンヘッドにしてからというもの風邪を引いたことがなかった。髪が長かった頃、小学生時代は良く風邪を引いていたのでそれならば、と言うわけではないが、それでも毎晩毎晩、髪の毛を乾かす手間が面倒なのでそれならばいっそのことスキンヘッドにしてしまえ、ということで親の反対を押し切ってスキンヘッドにしたのであった。それは大塚学院の入試も終わり、いよいよ登校日を迎える前夜のことであった。
そして大塚学院の初登校日に入試の際には頭にあった筈の髪の毛を丁寧に剃り上げてスキンヘッド姿となって登校した士郎を浅野を含めた教師たちは皆、驚愕した。一体、何事だと、担任教諭から詰め寄られたので、清潔感溢れる髪形にしてみました、別に校則違反ではないでしょう、と答えた。すると担任教諭は言葉に詰まった格好で何も言い返さなかった。確かに校則には頭髪に関する規定は置いてはいるがそれは頭髪の長い生徒に対して短くすることを強制するためにあるような規定であり、まさか士郎のようにスキンヘッドにしてくる生徒を想定していなかったに違いない。あるいはまさかスキンヘッドにしてくるような生徒はいないに違いないと、タカを括っていたのかもしれない。
だがいずれにしろ頭髪に関してスキンヘッドにしてはいけない、という一文が校則に存在していない以上、教師たちは士郎を追及することも出来ず、結局、士郎のスキンヘッドは黙認された格好となった。
在校生のうち中等部の頭髪検査が終わったところでいよいよ高等部、つまり士郎たち高校生の番となった。まずは1年1組、士郎たちのクラスからであった。頭髪検査と言っても浅野一人で検査するわけではなく、まずはそれぞれのクラスの担任教諭がこれは、と思う生徒をピックアップして学年主任と浅野の判断を仰ぎ、そこで最終的にセーフかアウトかを決め、ぎりぎりセーフとなった生徒には簡単な説諭で済まして解放されるが、最終的にアウトとなった生徒は前に並ばされて、全教員と全校生徒のいる前で、つまりは衆人環視の下で派手な説教を喰らい、そして翌日までに髪を切ることを命じられる、というのがこの学校のしきたりであった。
ここで大きな発言権を持っているのは生活指導主任であった。つまり浅野の胸先三寸でセーフかアウトかが決まる、とも言えた。そしてそこには恣意的な判断がなされることがままあった。どういうことかと言うと特進クラスの生徒には厳しい判断が下されて、普通科のクラス、つまり成績が徐々に落ちるクラスの生徒ほどその判断は緩やかであり、そして落ちこぼれのクラスの生徒には甘い、というのが浅野の判定法であった。普通、ドラマやアニメ、あるいは漫画の世界では落ちこぼれのクラスの生徒ほど厳しくあたる教師が描かれることが多いが、この大塚学院ではちょうどその正反対であった。そんな馬鹿な、と思われるかもしれないが、事実である。ではなぜ浅野はそんな判定法を取るのかと言うと、士郎には心当たりがあった。
それはひとえに浅野が特進クラスの生徒に対してえも言われぬコンプレックスを抱いているからに違いない、ということであった。浅野は事ある毎に、自分は元はヤンキーであり、昔はワルさをして周囲をビビらせていた、ということを売り物にしている教師であった。浅野がどの程度のヤンキーであり、またワルであり、もしくは周囲をビビらせていたのか、それは浅野本人の自己申告を信じることとして、浅野が優等生に対して強烈なコンプレックスを抱いていることだけは確かであった。
すなわち、優等生はいつキレるか分からないから、少しぐらいヤンチャをしている生徒の方が健全で人の痛みが理解出来る人間だ…、浅野が受け持つ保健の授業の時にそうのたもうたことがあった。それは士郎が大塚学院に入学するから繰り返ししてきた話であるらしく、実になめらかな口調であった。そしてそのたびに士郎は、
「この男は優等生を悪し様に言うことでその昔、成績の悪かった自分を正当化したいだけなのだな…」
そう思うことがままあった。
勿論、士郎にはそれを口にするだけの勇気もなかったので、黙って聞いていたが、保健の授業を真面目に聞いていた同じクラスメイト、すなわち特進クラスの生徒が可哀想に思えてきた。
「こんな馬鹿な男の啓蒙思想でも黙って聞いてやっているのだから、授業態度も良く、勉強の出来る俺と同じクラスの優等生たち…、無論、その中に俺を含めるつもりは毛頭ないから、少しは彼らを褒めてやっても良さそうなものを…」
士郎はそう思うことひとかたならず、であったが、浅野の口から特進クラスの生徒を褒める言葉はついぞ聞かれることはなかった。
これでは同じように学歴コンプレックスを持っている…、かもしれない士郎の母親の方が遥かに健全であった。士郎の母親は少なくとも学歴や偏差値のある人間に対しては正当な評価を与えるが、この浅野にかかっては学歴や偏差値のある人間というものは信用のならない人間、ということになってしまうらしい。それでもよくこんな元ヤンキーだか、元ワルだか、あるいは周囲をビビらせていたのかどうかは知らないが、こんな人間が大塚学院の教諭になれたものだとそちらの方に感心させられる。
人伝に聞いた話によるとこの浅野なる男、大塚学院のOBであり、剣道部の主将でもあったらしい。大塚学院剣道部は以前は様々な大会で優勝しており、浅野は主将として大塚学院剣道部を優勝へと導いた功労者、ということで多少のワルさには目を瞑ってもらっていたのかもしれない。あるいは学業においても多少の下駄を履かせてもらっていたのかもしれない。だが浅野がこの大塚学院の教諭になれた最大の理由は現理事長である内藤の遠縁に当たるから、というものであった。
しかも今年からは生活指導主任となったので生活指導において浅野は大いに幅を利かせることになった。つまるところ剣道しか脳のない馬鹿男、と言っては真面目に剣道に取り組んでいる人間に対して失礼なので、剣道しか脳のない、その上、学歴や偏差値のある、つまりは学業優秀な生徒に対する妬みからくる鬱憤を教師となって特進クラスの生徒に対してぶつけることで晴らそうとしている縁故で拾ってもらった馬鹿男…、というのが士郎が浅野に対して貼ったレッテルであり、この浅野こそが大塚学院における問題教師であった。
担任教諭が士郎のクラスの生徒でこれは校則違反にあたる髪型だ、と思う生徒の腕を次々と引っ張り、学年主任へと引き渡しては、今年からは生活指導主任となった浅野との協議…、実際には浅野の意見がそのまま採用される、というサイクルを経た上で全教師と全校生徒の居並ぶ前で並ばされるのだが、その中に士郎は当然、いなかった。教師連は端から士郎を相手にしていない、といった雰囲気を隠そうともしなかった。確かにスキンヘッド姿の士郎など一々、検査するにも及ばない、つまりは無駄、というものであろう。だから士郎を相手にしない、という教師連の判断は正しかった。
そして担任教諭の検査に引っかからなかった生徒の中には大石(おおいし)冠(かん)や梶川(かじかわ)照雄(てるお)もいた。二人もまたお洒落をしたい年頃であり、また美男子であるためにお洒落をするだけの権利もあり、頭の良い二人は校則の範囲内ギリギリの線で髪の毛にお洒落を施していた。
だがここでまさかの事態が出来した。特進クラスから何名かの生徒を学年主任と浅野の下へと引き渡した担任教諭に対して、
「喜連川(きつれがわ)先生っ!」
とドスの利いた浅野の声がした。ちなみに喜連川(きつれがわ)、というのは特進クラスの担任教諭の苗字であった。
「何でしょうか…」
担任教諭の喜連川(きつれがわ)は特進クラスを任されているだけあって東大卒の優秀な男であり、争いごとは大の苦手、というこれまた典型的な優等生であった。謂わば文官型であり武人型の浅野に言わせると長袖者と言ったところであろうか。それゆえに喜連川は浅野に対して常に押され気味であり、それは今、この場においても同じであった。
「これだけですか?」
「これだけとは?」
「まだいるでしょうがっ!」
「えっ…」
「だから校則に違反しているような頭髪をした生徒が、ですよ」
「そんなことは…」
「喜連川先生の目は節穴ですかっ!」
浅野は喜連川に唾を飛ばすと自ら士郎たち、特進クラスの生徒の並ぶ列へと近付いたかと思うと、何と照雄の右腕を掴んだのであった。
「お前」
いくら生徒とはいえ無言でいきなり生徒の腕を掴んでお前呼ばわりとは、これが元ヤンキー、元ワルの実態であった。
「何でしょうか?」
そんな常識とは無縁の浅野に対して照雄はあくまでも常識的に、クールに対応した。
「お前、名前は?」
「梶川(かじかわ)照雄(てるお)です」
「そうか。梶川か…、それでお前、武道の選択科目は何を取っているんだ?」
一見、訳の分からぬ質問のようにも思えるが実は重要な質問であった。なぜなら剣道を選択している生徒にはやはり検査が甘くなる、という恣意的な判断をするからだ。そしてわざわざ名前を尋ねるあたり、照雄が剣道を選択していないことぐらい浅野も百も承知の上であった。なぜなら剣道を選択している特進クラスの生徒の名前と顔だけは浅野も覚えているからだ。それぐらいの記憶力は備わっていた。
「空手です」
ちなみに空手部の冠(かん)もやはり空手を選択しており、そしてこの士郎もやはり空手を選択していた。空手部の冠が照雄を誘い、そして士郎はと言うと確かにやはり冠から空手を選択しないかと、お誘いを受けたものの、それで空手を選択したわけではなかった。まず防具の持ち運び、という観点から剣道を除外し、残った柔道と空手のうち、柔道の技というものが士郎にはどうにも理解出来ず、結局、空手を選択した、という極めて消極的なものであった。
「お前、その髪は何だ?」
「何だ、と申されますと?」
「決まってんだろうがっ!その髪の毛の色は何だっ!」
浅野が叫びたくなる気持ちも分からぬわけではなかった。浅野の髪の毛の色は黒とは言えず、ダークブラウンであった。
「地毛ですが?」
これで地毛というのだから恐れ入る。だが照雄は嘘をついているわけではない。現に照雄は地毛証明書を提出しており、これまで、中学時代の3年間は一度も頭髪検査で引っかかることはなかった。だがそれも去年までの話のようだった。
「去年まではそれで見逃していたが、今年からは俺が生活指導主任だっ!」
「それがどうかされましたか?」
恐れを知らぬ照雄の言葉に喜連川はハラハラしていた。それはもう見苦しいの一語に尽きた。もう少し堂々としていられないものか、とも士郎は思った。
「それがどうかされましたか、だとっ!?」
案の定、浅野は激高した。
「良いか?俺が生活指導主任となったからには黒以外の髪の毛は認めんぞっ!」
「ですが、地毛証明書を…」
「そんなものが通用したのは去年までだっ!俺が生活指導主任となったからには地毛証明書なんぞ何の役にも立たないと良く覚えておけっ!」
俺こそがルール…、浅野の言い分はまるでそれであった。
「それではどうすれば…」
「決まってんだろがっ!黒く染めてこいやっ!」
「そんな…」
「そんなもこんなもないっ!良いかっ!これは命令だっ!生活指導主任のこの俺に従えないのならいつでも学校を辞めても良いんだぞっ!」
生活指導主任、生活指導主任、と馬鹿の一つ覚えみたいに生活指導主任を連呼するあたり、今年に入ってからようやく生活指導主任になれたのが余程に嬉しかったものとみえる。
それまでは停年間近の椎名なる柔道部の顧問が生活指導主任を務めており、この椎名先生は生徒を威圧することなく生徒を従わせられるだけの威厳があり、さしもの士郎も椎名先生には自然と頭の下がる思いであった。そして照雄の頭髪に関しても椎名先生は快く認めていた。もっともそれまでも生活指導の一教師に過ぎなかった浅野はその頃から照雄の頭髪に関しては文句をつけていたらしいのだが、それを押さえ込んでいたのが他ならぬ椎名先生であった。だがそれも今年限り、ということらしかった。
今年に入ってからその生活指導主任であった椎名先生が停年を迎えると手腕に不安の残る浅野に生活指導主任のお鉢が回ってきたのだ。その背後には勿論、遠縁に当たる理事長の内藤の力添えがあった。だが椎名先生は学校を去る際に果たして浅野先生に生活指導主任が務まるものかどうか、そう呟いたとの噂が校内を駆け巡り、そしてまことしやかに囁かれた。噂の真偽はこの際、問題ではない。問題なのはこの手の噂が学校内を駆け巡り、まことしやかに囁かれる、ということにあった。つまりは浅野は生活指導主任の器にあらず、ということであった。浅野も勿論、そのことは承知していた。
だからこそ浅野は生活指導主任となってからの初仕事とも言える頭髪検査において大いに腕力を振るいたいところなのだろう。そんな浅野の気持ちは分からぬではないが、それでも何の罪もない照雄が生贄になって良い、という法はないと士郎は思った。別に照雄を庇いたくてそう思ったわけではない。ただ浅野の思考回路がどうにも気に入らなかった…、ただそれだけの話であった。
「良いか?お前の髪型が許されたのは椎名が主任だった頃の話だ。俺が主任になった以上はそんな頭髪は認めんぞっ!」
遂に椎名先生を呼び捨てにしたよ、この馬鹿は…、士郎は心の中でそう呟くと、心底から呆れ果てた。
「大体、そんな茶色っぽい髪が地毛だなんて…、地毛証明書なんぞそれこそ偽造されたものじゃないのか?茶色く染めているんじゃないのか?」
「そんなことは…」
「まあ良い。お前の髪が地毛であろうと茶色く染めていようと、そんなことはどうでも良い。明日までに黒く染めてこい」
「そんな…」
「どうしても嫌だと言うなら辞めるしかないだろうな」
「辞める?」
「そうだ。この学校の校則では頭髪に関しては加工してはいけない、という決まりがあるんだからな。それに従えないのならば学校を辞めるしかないな」
浅野は勝ち誇ったように言った。
「ですからこの髪は…」
「うるさいっ!俺が加工していると判断すればそれは加工なんだよっ!」
最早、論理の体を為してはいなかった。
「…全く、特進クラスのヤツ等ときたら、口ばっかり達者でどいつもこいつも…」
生意気だ、あるいは不健全なヤツらだ、そう言いたかったのかもしれない。いずれにしろ浅野の悪し様な物言いに士郎は我慢出来ず、気付いた時には、
「それは少し違うんじゃないですか?」
そう口を挟んで浅野の言葉を遮っていた。言葉を遮られた浅野は驚愕の表情を浮かべた。恐らくこれまで人から言葉を遮られたことなど一度もなかったのかもしれない。そしてその次には憤怒の表情へと変化を遂げた。
「貴様…」
浅野は士郎を睨み付けた。そして担任教諭の喜連川はと言うと、前にも増してハラハラした様子を見せ、そして、士郎はクラスメイトのみならずその場に居合わせた全生徒からの視線を一身に浴びる格好となった。
「そうか…、貴様が吉良(きら)か…」
どうやら士郎の苗字を知っていたようだった。もしかすると中学生活初日からいきなりスキンヘッド姿で登校してきた頭のおかしな男として士郎の名前をその小さな脳味噌に刻み付けたのかもしれない。
「ええ。いかにも自分は吉良…、吉良士郎です」
名前を覚えていてくれたことと、自分を貴様呼ばわりしてくれたことの礼を兼ねて士郎はフルネームで自己紹介した。
「自分の苗字をご存知だとは、大変光栄です」
とも付け加えた。
「それで、俺の一体、何が少し違うと言うんだ?」
本当は少しどころの話ではないのだが、それは言わないことにした。
「頭髪に関しては加工してはいけない、というのが我が大塚学院の校則だそうですねぇ?」
「ああ、いかにもその通りだが、それが何だ?」
「それならば梶川のそのダークブラウンの髪の毛を黒に染めるのも立派な加工の一つではありませんか?」
浅野はグッ、と言葉に詰まった。
「それに加工してはいけない、と仰るならば髪の毛を切ることも立派な加工の一つですから、加工するな、ということはイコール伸び放題にしろ、ということではありませんか?それこそ、先頃、東京拘置所で死刑が執行された某カルト教団の教祖様の様に髪の毛を伸ばし…」
士郎は最後まで言い終わらぬうちに腹に衝撃を受けたかと思うと地面に倒れ込んでいた。どうやら浅野の右拳をモロに肝臓にくらったらしい。大塚学院では私立ということもあってか体罰に関しては大目に見られており、つまりは体罰が日常茶飯事ということであり、浅野が生徒を殴る現場を士郎も度々、目撃したことがある。そして入学式を終えたその翌日である今日、今学期の最初に浅野からの体罰の餌食となった栄えある第一号になったのはいつもは傍観者の立場に身を置いていた士郎であった。
それにしても浅野も馬鹿ではない。顔を殴ると目立つので、腹を狙うのであった。まるでいじめっ子であった。
「…全く、特進クラスの野郎は口ばかり達者だなぁ…」
浅野は地面にうずくまる士郎を見下ろしながらそう言った。士郎は腹をおさえながら、何とか立ち上がり、浅野と相対すると、
「お褒めの言葉に与りまして大変恐縮です」
まずは殴ってくれたことの礼を言うと、
「恐縮ついでにもう一言、申し上げるなら、浅野先生が御自身の学歴、或いは偏差値、つまりは脳味噌の容量が特進クラスの生徒に較べて足りないことをコンプレックスとして持たれることは浅野先生の自由ですが、それを何の罪もない特進クラスの生徒に当り散らすのはどうぞお止めに…」
士郎が最後まで言い終わらぬうち…、それこそ浅野にしてみれば最後まで言わせぬつもりで、またしても鉄拳でもって士郎の口を強制的に封じた。今度は士郎の鳩尾に右拳をめり込ませたのであった。士郎はまたしても地面にうずくまった。
「…お前のその曲がった根性は一度、叩き直す必要がありそうだな…」
今度は士郎は中々、立ち上がることができず、顔だけ上に向けて浅野をみつめた。
「ご親切、ありがとうございます。ですがその前にもう一つだけ…」
もう一つだけ、という言葉に浅野は頬をヒクつかせた。またロクでもないことを口にするに違いない、そう思ったのかもしれなかった。だとしたらそれは正しいと言わざるを得なかった。
「自分の根性が曲がっていることは事実ですが、それならば浅野先生、浅野先生の方こそ曲がった校則の運用はお止めになった方が宜しいかと存じますよ」
「何だと…」
「頭髪検査で免れた生徒を見渡す限りでは…、明らかに校則に違反しているような髪型の生徒も結構いるように見受けられるのですが?例えば…、特進クラス以外の、言葉は悪いですが成績の悪い生徒の集まるクラス、それから武道の選択科目において剣道を選択している生徒、そして何より剣道部の部員は皆、頭髪検査をパス、あるいは簡単な説諭で済まされているような気がするの自分の思い違いでしょうか?」
剣道を選択している、剣道部の部員のくだりは士郎の当てずっぽうであったがそれでも手応えは充分であった。それが証拠に浅野は士郎の言葉に目を泳がせた。
「浅野先生、生活指導主任の立場を利用して頭髪検査といった場においてご自分の馬鹿さ加減の鬱憤晴らしをなさるのは見苦しい限り…」
最後まで言わせてはくれないだろうな…、士郎は半ば予想しつつそんな言葉を吐くと、案の定と言うべきか、やはり浅野は最後まで士郎に言わせず、今度は士郎の左脇腹にサンダルの爪先をめり込ませてくれた。おかげで士郎は地面をのた打ち回ることになった。すると浅野は親切にも両手でもって士郎の胸倉を掴んで地面から起こしてくれた。士郎はどこまでも親切な男であった。
「てめぇ…、教師を舐めやがって…」
士郎は息をあえがせつつ、
「舐められるのがそれほどまでにお嫌でしたら少しは主任らしく振舞われたらどうです…」
「何だと…」
「このままではとてもとても前任者の椎名先生には及びますまい」
「てめぇ…」
「椎名先生が心配されるのも無理はないと今ならはっきりと分かりますよ」
「何だと…」
「理事長の遠縁という誼だけで生活指導主任のお鉢が回って来た浅野先生に果たして生活指導主任が務まるのかどうか…、そんな噂が流れたようですが、あれはやはり噂などではなく椎名先生が発した言葉なのだと…」
今度は最後まで言わしてくれるかと、士郎は若干、期待したのだが、やはり現実はそんなに甘くはなかった。最後まで言い終わらぬうちに士郎の息は一瞬、止まった。と言っても今度は殴られたわけではない。現に士郎は浅野に両手で胸倉を掴まれたままだ。浅野は今度は右足の膝小僧でもって士郎の口を封じたのであった。腹全体に浅野の太い膝小僧が深々と突き刺さったのである。これが世に言うところの膝蹴りなのかと、士郎は思いつつもう何度目になるか、再び地面に倒れ込んだ。やはり地面でのた打ち回る士郎を浅野は巧妙に顔だけ避けて、顔以外のありとあらゆる部分を蹴り始めた。浅野はとてもワイルドな教師であった。そして士郎はサッカーボールになった気分であった。
士郎が浅野からボコボコにされている間、他の教師は何をしていたのかというと、指をくわえて見ていたようだ。さすが、自主独立を建学の精神としている大塚学院の教師らしい対応ではあった。浅野がヤクザ顔負けのリンチを士郎に大して丁寧に施している間、ただ指をくわえて黙って成り行きを見守っているのだから何とも素晴らしい建学の精神なのだろうと、士郎はは涙が出るほど嬉しかった。
だが士郎をまるでサッカーボールのように蹴り上げて革靴の音を唸らせている浅野にさすがにヤバイものを感じたのか、教師の幾人かはこの段になってようやく浅野を止めに入った。それで士郎も浅野からの手厚い歓迎から解放されたのであった。できればもう少し早くに解放されたかった。
「浅野先生、マズイですよ…」
という喜連川の囁き声が聞こえた。少しは常識的な判断が働くらしい。欲を言えばもう少し早めに常識的な判断を働かせて欲しかったが、士郎は控え目な人間であると自負しているので、高望みはしないことにしていた。
ボロ雑巾のように地面に蹲っている士郎の元に、「大丈夫かっ!」と冠と照雄の二人が駆け寄ってきた。
「…ああ。大丈夫だ」
士郎は二人に心配かけまいと、無理に笑顔を作ってみせた。あまりみられるものではないが、二人を安心させるためには仕方ない。
「保健室に行った方が…」
そう言う冠に対して、士郎は「本当に大丈夫だから」とそれを謝絶すると、何とか自分の力で立ち上がった。
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