第6話 幻の蜂蜜を求めて(後編)

◆◆◇◇



 蜂蜜を求めて、ミランとファウナは森の中に足を踏み入れた。

 地面を容赦なく炙る強い日差しも、青々とした広葉樹の天蓋が阻んでくれているため、開けた場所よりはいくらか涼しく感じられる。

 蜂は種類によって営巣場所と繁殖方法が違う。樹の洞や岩の隙間に巣を作る種、地面に穴を掘ってそこを巣とする種、植物や他の動物に卵を直接植え付ける種など多種多様だ。

 一般的な印象である、女王蜂と働き蜂による厳格な身分制度を持ち、巣を作り、集団生活を営むといった社会性を持つものは一部の種だけであり、単独生活を営むものも多い。それどころか、蜂の代名詞である「毒針で刺す」という機能さえ種の全体からすれば半数程度。一口に語り切れるほど、蜂という生き物の全容は浅くはないのだ。

 そういった蜂の生態を熟知していれば、探す場所をある程度絞ることができるだろう。だが、それでも、蜂の小ささに比べて森はあまりにも広く、闇雲に探しても見つからない。

 確実なのは働き蜂を追跡することだが、それが最も難しい。ところが、ミランの超人的な視力はそれが可能なのだという。

 なので、まずは蜂が寄り付きそうな花を探すのが先決だ。

 しかし、肝心の花はなかなか見つからなかった。さもありなん。最も活発に蜜を集めるのは花盛りの春。夏は蜜源植物が激減する。その分、巣には春先に集めた蜜がたんまりと蓄えられてあるのだが。

「夏の森は独特の匂いがしますねぇ」

 蜜源になりそうな花を探すミランそっちのけで、ファウナは周辺の木々を観察していた。

 イールの森は種々雑多な樹木が混生する雑木林だ。その細々こまごまとした種類は植物学を専門とするフローラの管轄だが、樹木は動物学とも切って切り離せない。地上の動物種のうち七割は昆虫であり、その多くは樹木より生じる樹液を餌場とする。

「樹液が発酵している香り。それに釣られて、ほら、たくさん虫たちが集まっています。蝶に、甲虫に、飛蝗……うーん、盛況ですねぇ」

 樹液場に集まる様々な蟲たちに、ファウナは目を輝かせる。

「……蜂はいないのか?」

「樹液を好むのはどちらかと言えば狩り蜂のほうですから、花蜂の類は寄ってこないでしょうね」

「だったら、別の場所に目を向けてくれ……」

 しかし、探せど探せど、夏の森は緑一面。こりゃあ、お手上げか。もともと狩猟というものは偶発的な要素もある。いくら知識や経験を蓄積しようと、最終的には天の思し召し。熟練の猟師であるミランでも獲物にありつけない時もままある。

 とはいえ、手ぶらで帰ればフローラから容赦ない報復が待っているだろう。

 どうしたものかと思案していると――

「ひゃう!?」

 ファウナがびくり、と肩を震わせた。

 ミランが視線を向けると、ファウナの白い首筋のあたりに何か止まっているのを発見する。黒と黄色の縞模様にふさふさの体毛――蜜蜂だ。天はまだ彼を見放していなかったらしい。

「な、なにか付いてます!?」

「蜜蜂だ。蜜蜂が止まっている」

「えっ」

 ぴたり、とファウナの動きを止める。蜜蜂は臆病だ。こちらから刺激を与えない限り、刺すことはない。体に止まったからといって、不用意に払いのけるべきではないのだ。その理解の速さはさすがと言ったところか。

 しかし、蜜蜂はファウナから離れることはなく、その柔肌を這いまわった挙句、最終的にするすると襟元から服の内側へ潜り込んでしまった。

「ちょ――待っ――」

 想定外だったのか、ファウナが目を白黒させる。

 賢人の法衣がいかに高性能とは言え、服の下に潜り込まれれば意味を成さない。蟲の恐ろしいところはここだ。どれだけ防御を重ねようと、わずかな隙間から侵入してくる。その体躯の矮小さそのものが生き残るための武器なのだ。

「あ、背中っ、背中に回り込んで……! ど、ど、どうしましょう、下手に動くと刺激を与えちゃうし、かといって潰しちゃうのもかわいそうですし……!」

 いくら動物好きとはいえ、さすがに蜂が相手では余裕がないのか。理性と本能がせめぎ合い、硬直してしまう。

 これから蜂の巣を見つけて蜂蜜を強奪しようという、いかにも人間本位な所業を繰り広げようと言うのに、それでも無益な殺生をしたくないと考えているのはファウナの良いところだよなぁ……とミランはぼんやり思う。

「ミランさん、逃がしてあげてください、お願いします!」

「……いいのか?」

 賢者の法衣は上下一繋ぎだ。その内側から蜂を探して逃がすためには、がばっと裾を捲りあげることになる。となれば当然、なんというか、見ちゃいけないものが見えちゃうわけで……。

「この際、恥も外聞もかき捨てます!」

「……わかった。できるだけ見ないようにする」

 ミランはファウナの背後に立つと、法衣の裾をゆっくり巻くった。この場面だけ切り取ってみると、白昼堂々と女の服の中をのぞく変態である。

(見ないようにするとは言ったものの……)

 目の前にどんとあるのだから避けようがなかったが、それでもミランは蜂のみに意識を向けるよう努める。蜜蜂の模様と似ているなとも思わないし、それが何を指しているかも考えない。決して。

 急に視界が開けてびっくりしたのか、蜜蜂は覗き込むミランから逃げるように飛び立っていった。

「……行ったぞ。どこも刺されてないか?」

「はい……」

 ファウナの声は暗い。

「仕方ないとはいえ、これじゃ完全に痴女じゃないですか……」

 ファウナは耳まで真っ赤になって肩を震わせる。

「悲観することはない。そのおかげで、いい案内役が見つかった」

 ミランの超人的な動体視力は飛翔の軌跡をしっかりと捉えていた。



◆◆◆◇



 追いかけること暫し、働き蜂は古い樹の洞の中に入っていった。

「どうやら、あそこに巣があるようですね」

 蜜蜂は岩の隙間や樹洞などの狭い空間に巣を作る。巣と言っても、一般的に思い浮かべる楕円体をしていない。そういった巣を作るのは実は狩り蜂である。蜜蜂の巣は巣板と呼ばれる平面部だけで構成されているだめ外被は存在しないのだ。

「しかしまあ、虫っていうのはどうして狭いところが好きかね」

「そりゃもちろん、天敵から身を守るためですよ。蜂は昆虫の中では上位の捕食者ですが、それでも敵は意外と多いんです。蓄えた蜜を狙うのは人間だけではありませんし、鳥類や一部の昆虫は純粋に餌として彼らを捕食しますから」

「なるほどな」

 相槌を打ちつつ、ミランは腰に下げた革袋から蟲除けの香草を取り出して、火をつけた。徐々に除虫成分特有の匂いが辺りに満ちる。

 蜂は他の虫と比べて除虫成分への耐性が極端に低い。除虫効果を持つ香草を燻すだけで、簡単に無力化できる。

 ミランは洞の中に香草を放り込むと、すぐに撤退する。

 もくもくと洞の中から煙が上がり、働き蜂たちが逃げ惑うように樹洞から飛び出してきた。しばらく周囲をうろうろと飛び回った挙句、ぽてりぽてりと地面に落ちていった。効果覿面てきめんだ。

「すまんな」

 蜂たちの沈黙を確認すると、ミランは洞の中に手を伸ばした。巣板を壊して取り出す。そして、滴る蜂蜜を携帯している竹の容器に注いだ。

「……おや?」

 その様子を眺めていたファウナが眉を顰める。

 蜂蜜といえば透き通った黄金色をしているはずなのだが、ゆっくりと流れ落ちる液体はどことなく茶褐色をしていた。

「これ、もしかして……甘露かんろ蜂蜜じゃないですか!?」

 驚嘆した声に、今度はミランが眉を顰める。

「なんだ、それは?」

「樹液でできた幻の蜂蜜のことです」

「花の蜜じゃなくてか」

「樹液でできているといっても、樹液そのものではありません。甘露というのは、動物学において、樹液を吸収する昆虫たちの排泄物に含まれた余剰の糖分のことを指します。で、花の蜜の代わりに甘露を収集してできたのが甘露蜜なんです。これは珍しい……わたしも文献でしか見たことがありません」

 はあ、と気のない返事。

「幻の蜂蜜だなんて大袈裟だな。樹液なんて珍しいもんでもないだろう?」

「樹液だけあっても意味はありません。樹液を餌とする昆虫がいて、さらに甘露という形で排出されなければ作れないのです。もっと言えば、どの樹液でもいいわけではありませんし。甘露を作るのに適した樹液、甘露を生成する虫、そしてそれを集める蜂。そういった複合的な環境要素で生産されるのです」

「……つまり、この森でしか獲れないってことだな」

「はい。その通りです」

 ミランの要約に、ファウナは激しく頷いた。

「じゃあ、甘露を作るのに適した樹木が伐採されたり、甘露を作る虫が滅んでしまったら……」

「二度とその恩恵を受けることが、できないかもしれませんね」

 構成する要素が一つでも欠ければ実現しないが故に、幻と謳われる蜂蜜。もしかすれば、これが本来の蜂蜜の姿だったのかもしれない。

 だが、世界は今や人間の文化が基準になりつつある。森を拓き、川を堰き止め、人間にとって都合のいい植物のみを手厚く保護し、仇成すものは駆逐されていく。ましてやイール地方は、有史最大の戦争〈大戦〉を支えた資源地だ。

 知らず知らずのうちに失われていった『原初のもの』がどれだけあるだろう。失ったことに、どれだけの人間が気づいているだろう。

 世界の変容は止められない。時代の流れも変えられない。けれど、それに気づくこともできないのは――寂しいことだと、ミランは思う。

「大丈夫ですよ」

 ミランの胸中を慮るように、ファウナが言った。

「忘れないために、気づいてもらうために、わたしはここにいるのです。そのための生態多様性地域調査です」

「……ああ、そうだったな。そのために、俺も協力しているんだった」

 人間の文明を加速させたのは紛れもなく国家賢人の存在だ。彼らの働きによって人間の暮らしはより便利に、より快適に造り替わっていく。だが、その反面で人間の数は増大し、それに比例して資源は消費されていった。それを補うために、より広い土地、より良い資源を求めて版図を拡大していく。

 今はまだ、その途上に過ぎない。だが、百年後。千年後。このまま文明が加速し続けたらどうなるか――

 だから、ファウナはここにいる。〈大戦〉の戦禍を色褪せさせないために。人間の傲慢を戒めるために。自分たちがしていることを書きとめるために。

 ――『世界』と、もう一度手を取り合えるように。

「……おや?」

 何かに気づいたように、ファウナの眉が跳ねた。

「蜜蜂の中に狩り蜂が混じってますね……」

 地面に転がっている無数の蜜蜂に混じって、鮮やかな赤い色彩の蜂がいた。

 コウギョクジバチ。

 地中に巣を作る社会性の蜂で、辺境最大の狩り蜂だ。その名は体を彩る金属的な赤色をしているから……というだけでなく、地面を掘り返した者が紅玉を発見したと思って喜んだら蜂だったという逸話が元になっている。

 ファウナははっと息を呑んだ。

「ミランさん、すぐにここを離れましょう!」

「どうしてだ?」

「蜜蜂の最大の天敵は熊でも人間でもありません、狩り蜂なんです!」

 狩り蜂の中には他種の蜂の巣を襲って幼虫を攫って、自分の子供の餌にするものもいる。コウギョクジバチがまさにそれだ。戦力差は圧倒的。数百匹の蜜蜂の群れをたった一匹のコウギョクジバチが全滅させることもあるという。

「この狩り蜂はおそらく先遣隊です。どういった方法か現在の動物学でも解明できていないのですが、コウギョクジバチは自分が行動不能に落ちると援軍を引き寄せるのです!」

「つまり――」

「後続がここに向かっている可能性があります!」

 言うが早いか、背後から嫌な羽音が聞こえてきた。

 ぞわり、と二人の産毛が逆立つ。

 振り向く暇もない。二人はその場から脱兎のごとく逃げ出した。



「つ、疲れました……」

「俺もだ……」

 森の中を全力疾走。ファウナが転ばなかったのが奇跡だ。

「汗でびしょびしょです……」

「ああ。帰ったら水を浴びよう。それにしても、疲れている時は甘いものが欲しくなるな……」

 そこでふと、手元の竹筒に気づく。

「おお、ちょうどあるじゃないか」

「ちょっと、ミランさん……それに手を付けるのは……」

 咎めるような視線のファウナ。そもそも、この蜂蜜を巡る冒険の発端はミランの盗み食いが原因だ。

「ちょっとくらいバレやしないさ」

「……わたしが密告したらどうするんですか」

「いや、しないね」

 ミランは指で蜂蜜を救い上げると、ファウナの口にねじ込んだ。

「むぐっ……!」

「これで、同罪だ」

「女性の口の中にいきなり指を入れるなんてどういった了見――ふああああ、なにこれ、すっごく美味しい!」

 とろけそうな笑顔を見せる。不満も疲れも吹っ飛ぶ甘さだ。

「ああ、これだ、これ」

 ミランも一口舐める。普段は仏頂面のミランも思わず頬が緩むほどの甘さ。甘露蜂蜜の詳細を知ったからか、いつもよりも特別感がある。

 しかし、至福の時はあっという間に過ぎた。物足りなさそうに二人は竹筒の中を見る。

 まだまだ蜂蜜はたくさんあった。

「……もう一口だけ食べましょうか」

「ああ、もう一口だけな」



◆◆◆◆



 森から無事に生還したミランとファウナは、竹筒をフローラに渡した。

 フローラは竹筒の中をじっと眺めている。

「イールの森で採れる蜂蜜は、ただの蜂蜜じゃありません。甘露蜂蜜でした」

「ほうほう」

「口にしたのは初めてだったのですが、色や香りに癖があるものの、コクがあってまろやかで、甘すぎない。実に個性的な味で、流通している蜂蜜とは一線を画すものです」

「なるほどなるほど」

「お菓子にかけて食べるのもいいですが、あの温かい飲み物を混ぜるのが一番かもしれません。花草茶でもいいでしょうし、牛乳と合わせても美味しいでしょうね」

「うんうん……それで、現物は?」

 半眼のフローラが竹筒を逆さにした。

 そこから流れ落ちるものはない。ファウナの目が泳いだ。

 ファウナはつんつんと人差し指を合わせる。上目遣いに、申し訳なさそうに。

「……ごめんなさい。あまりに美味しくて……途中で……全部……」

「――喰らえ」

「あがああああ――!!!」

 今度はファウナが関節技の餌食になった。



/了

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