第7話 臥薪嘗胆の女(前編)

 どこか物悲しげな声が遠くに聞こえる。

 鳴き声の主の生息地は涼しい森の中だ。

 アキマネキ。

 この地方で言うところの時告げ蟲の一種だ。気温が低い朝方や日暮れに姿を現す昆虫である。ウキマネキが雨季――即ち、夏の始まりを告げる蝉ならば、この種は夏の終わりを告げる蝉だ。

 さんざめく日差し。吹き抜ける青い風。若葉で覆われた万緑の大地。動物、植物の垣根を越えて生命が最も輝く季節。その終焉を惜しむかような寂寥感がその声には宿っている。単調な音階ながら人間が幾千の言葉、幾万の声を費やそうと決して到達し得ない自然がもたらした音の芸術だ。

 が――

「うるさーい!」

 フローラは激怒が家を揺るがした。

「なんでこうやかましいのよ!」

 季節の移り変わりを感じさせる風情ある声も、生態多様性地域調査――その中間報告書の作成に追われたフローラには耳障りな雑音でしかないらしい。この家唯一の机である食卓にはいくつもの書類が広げられている。

「そりゃ、この家が森の近くにあるからだよ」

 書類を濡らさぬよう、部屋の隅っこでぬるい茶をすすっていたミランが答える。

「ミラン君はよく耐えられるわね!?」

「毎年のことだからな」

 本当に何事もないかのような顔。実際、十六年の人生において、そんなこと気にしたことは一度もなかった。どちらかと言えば好ましいくらいだ。なにせ、アキマネキが鳴き始めるということは、実りの季節がすぐそこまで迫っているということに他ならないのだから。

「それに自分が産まれるずっと前からこうだったんだ。世界の在り様に文句なんて言えるわけないだろ」

「そりゃそうだけど、普通の蝉の泣き声よりも耳に残るのよね、この声……」

「国家賢人らしくない物言いですね。雑草なんて草はないように、普通の蝉もいませんよ。蝉にもそれぞれ種と個性があります」

 フローラが仕上げた書類に目を通しながら、ファウナが口を挟む。

「それに、この声は貴重ですよ。開拓しきった王都ではまず聞けませんからね。アキマネキは気温が低い森の中にしかいないのです。つまり、この大合唱は森林資源の豊富なイール地方ならではのものと言えるでしょう。この夏を惜しむかのような物悲しい声……虫にも我々に通じる感性があると思うと素敵だと思いませんか?」

「そんなの、人間の側が勝手にこじつけているだけでしょ。蟲たちがみんな夏を惜しんでいるなら、秋虫はみんなそういう鳴き声になるはずでしょうが」

 フローラの身も蓋もない物言いにファウナは唇を尖らせる。

「風情の問題です、風情の。だいたい、報告書を仕上げなかったフローラの自業自得じゃないですか。蝉のせいにするのはお門違いってものです」

「そうだぞ。蝉は悪くない。むしろ、善い。いざって時、食えるんだからな」

「相変わらず悪食ね……」

 フローラが露骨に嫌な顔をすると、ミランは不服そうに眉を顰めた。

「蝉は昆虫の中じゃ美味いほうだぞ。虫を食うのは野蛮だと考えるのは文明人の悪しき価値観だな。何であれ、食えるだけで有り難いもんだろう。そもそも虫糞の茶を美味いって言ったのはどこのどいつだよ」

「それはそれよ」

「というかですね、ミランさんの食生活に今更文句はありませんが、アクイラさんがいるんですから話題は選びましょうよ……」

 ファウナに諫められ、二人ともそうだったと言わんばかりに、食卓に座って興味深げに書類を見聞している女性に視線を向けた。

 この家にはもう一人、客人がいた。イール地方駐屯中隊の長、アクイラ。名家に生まれ、文武に秀で、その立ち振る舞いは完璧の一言。村の若い女たちから『王子様』と慕われている女騎士だ。

 が、ついこの間の事件で大の虫嫌いという何とも女らしい弱点が発覚した。幼い頃に森で迷い、逃げ込んだ樹洞の中でたくさんの虫に這い寄られたことが心的外傷になったらしい。

 なので、虫の話題は極力避けるようにしていたのだが――

「自分が、なにか?」

 意外なことにアクイラは動じていなかった。むしろ、口元にはささやかな微笑が浮かんでいる。三者とも、なんとも肩透かしを食らったような気分。

「いや、失礼。お話を聞いていると少々、懐かしい記憶を思い出しまして」

 その自然な笑みを見る限り、決して無理をしているわけではないらしい。

「……というかだな、当たり前のようにうちにいるけど、どうして休暇になると毎回来るんだよ?」

 書類を傍らに置いて、アクイラは自慢げに胸を反らした。

「自分は開眼したのです。休日に部屋にいるから散らかるのだと。でしたら、休日は外で過ごせばいい。たったそれだけのことで部屋は散らからないのです」

「そんな情けないことを堂々と言うな。それに、俺の質問の答えになってない。外に出るのが目的なら、別にうちじゃなくてもいいだろう」

「それはまあ……そうなのですが……」

 ごにょごにょと言葉が濁るアクイラ。

「やはり、ご迷惑でしょうか?」

「いや、別に迷惑ってほどじゃないさ。ただな……」

「ただ?」

「狭いんだよ」

 小さな嘆息。もともとミランの家はそこまで広くはない。そこへファウナに住み込み、フローラが押しかけ、さらにはアクイラも休暇のたびによく顔を出す。四人も入れば、いささか窮屈だ。鮨詰めとは言わないが、つい数ヶ月前まで一人暮らしだったミランからすれば途方もない圧迫感を覚える。

 おまけに人数分の椅子がないものだから、ミランに至っては家主でありながら使っていない木箱を椅子代わりにする始末だ。

「あら、ごめんなさいね、空間占有率が高くて」

 にやにやと意地悪な笑みを浮かべるフローラ。何をもって空間を占有しているのかは語るまでもない。

「大丈夫ですよ。フローラが無駄遣いしている分は、わたしで相殺されますから」

 ファウナの自虐が入る。ミランは返答に困った。アクイラも苦笑を浮かべる。

「それにしても、ミラン殿を見ていると学生時代を思い出します」

「学生時代?」

「自分は騎士養成所の出身なのですよ」

 レスニア王国には学院と呼ばれる機関が二種類存在する。

 一つはファウナやフローラが所属している王立賢人養成所。もう一つが王立騎士養成所。国防を担う戦闘専門職である騎士を育成する機関である。この二つの専門教育機関による人材の高品質化によって、レスニア王国は小国ながらも大国に匹敵する国力を維持しているのだ。

「そこで生存術を担当された教官殿が、ミラン殿のような御仁でして」

「生存術?」

 聞きなれない言葉に、ミランは首を傾げた。

「文字通り、生き残るための術です。我ら騎士は戦況によっては食料の現地調達もやむを得ない場合もありますので、ちょっとした狩猟技術や、食べられる植物の見分け方を叩き込まれるのですよ。その教官の口癖が『有事において好き嫌いは万軍に勝る敵だ』と」

「そりゃ、もっともな話だな。でも、別に俺だけが言っているわけじゃないだろ。そもそも選り好みできるような食生活を送っている人間のほうが少ないんだから」

「ええ、それはまあ。ですが、それを差し引いても、あの教官は特殊と言わざるを得ないでしょう。偏りがあるといいますか、兵糧はあくまで食べられるか、日持ちするかが基準であって、美味しいかどうかは二の次。有事においては生で食べられるもの、火を通すだけでいいものばかりを伝授されるのです」

 職業軍人らしい合理性。有事において調理に手間暇をかける余裕はない。栄養補給のみに焦点を絞っている。複雑な手順を踏む家庭料理などは想定していないということか。

 それはそれとして、ミランは教官の言も理解できた。食べられるものは何でも有り難い。その通りだ。腕利きの狩人とはいえ、確実に獲物を仕留められる保証はない。その日、その時に獲れるものを食べて生きる。もっとも、どうせ食べるなら美味しくいただきたいというのが人情だが。

「変わった人ね。理念としてはすごく共感できるんだけど、ご飯が美味しくなくちゃ士気に影響が出そうなもんじゃない?」

「非常時を想定しているのなら正しいです。食べなければ死ぬという時に味の選り好みをしている場合ではありませんから。ただ……」

 アクイラは表情を曇らせる。

「ただ?」

「その教官は常食でもそうなのです。養成所にはちゃんとした食堂が用意されているというのに、自分で採集してきた野草や得体のしれない干し肉やらばかりを口にしておりまして……」

「……それは下手物げてもの食いというんじゃないか?」

「ミラン君がそれを言うの?」

 フローラの呆れたような半眼。

「失礼だな。俺はその時に手に入る物を、何でも食うだけだ」

 下手物も食うが、下手物だけ食べるわけじゃないから下手物食いではないという主張である。この中でそれをまともに受け取る者は皆無だが。

「正直申しまして、自分も下手物食いだと思います。鷹は飢えども穂を摘まずと申しますし、血税で身を贖う騎士が清貧を志すのは理解できますが、いささか度が過ぎております」

「――心外ですね、アクイラ訓練生。私は、食べられることの有難みを伝えてきたつもりですが」

 ファウナでも、フローラでも、アクイラでもない、第四の声がした。

 ミランが目を見開く。気づかなかった。我が家で気を緩めていたとはいえ、彼が不審な気配に反応できなかったのは珍しい。見事としか言いようがない隠形。

 玄関に立っていたのは妙齢の婦人であった。

 年齢は二十代後半から三十代前半か。短く整えられた栗色の髪。猛禽を思わせる鋭い眼光。体つきは華奢だが、無駄のない筋肉のつきかたや、芯の通った背筋はどことなくアクイラに雰囲気が似ている。

 声の主を目視したアクイラが、まるでお化けでも見たかのように目を見開いた。

「ト、トルキダ教官!?」

 上擦った声を上げ、反射的に立ち上がって敬礼の姿勢を取る。

 ――教官。

 アクイラは女性をそう呼んだ。つまり、先刻話題に出ていた――

「腹に入れば皆同じ。好き嫌いは敵軍以上の敵ですよ。舌を肥やして、非常時の過酷な食糧事情に耐えられるのですか?」

 ぎろり、と音がしそうな眼光。

「はっ、仰るとおりであります! ……あの、ところで、どうしてこちらに?」

「〈大戦〉終戦後、軍縮の煽りを受けて正騎士の育成は以前のように急務ではなくなりました。久しぶりに暇を頂いたものですから、教え子の顔を見るのも悪くないと思いましてね。各駐屯地を回らせていただいているのです。ところで、そちらがミラン殿ですね?」

 女の視線がミランの方を向く。

「確かに、俺がミランだが。あんたは?」

 女も敬礼で応じる。ピシッと音がしそうな、きびきびした所作。

「お初にお目にかかる。わたくしは王立騎士養成所で教官を務めておりますトルキダと申す者。日頃より我が教え子がお世話になっております。どうぞ、お見知りおきを」


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