第5話 幻の蜂蜜を求めて(前編)
「ミラン君、たいへんよ!」
ある晴れた夏の日のことである。
ミランが庭先で汗を流しながら薪を割っていると、フローラがすごい剣幕で家から飛び出してきた。
「そんなに慌ててどうした?」
「泥棒に入られたわ!」
「……泥棒?」
ミランは怪訝そうに眉をひそめた。
辺境において野盗は決して珍しい存在ではない。その大部分を占める深い森は潜伏拠点として適しており、治安維持を任されている騎士団の目も完全には行き届かないからだ。予防ができない以上、被害に遭う旅人や行商はどうしても出てきてしまう。
しかし、泥棒となると話は別だ。
野盗の所業はあくまで
「それで、何を盗られたんだ?」
「
「……は?」
間の抜けた問い返しに、フローラは柳眉を逆立てる。
「だから、蜂蜜!
トゥアール村で催された夏至祭りには、村人だけでなく、都市部の方からも見物客や商人がやってくる。というよりも、貨幣の巡りが悪い農村に居座る商人はなかなかいないので、そういう時にしかやって来ないというほうが正しいのだが。
「なんだ、そんなものか」
ミランが露骨に肩を落とすと、フローラが憤慨した。
「そんなものとはなによ。商店もない、物流だって満足に行き届いていない
「そうかぁ?」
疑いの眼差し。
確かに、トゥアールは絵に書いたような田舎村だが、イール地方の中枢である行政都市までは言うほど離れてはいない。ついこの間など、わざわざ都市部の少年が釣りに来ていたくらいだ。フローラの場合、この暑気の中、遠出したくないだけだろう。
「それにしても油断したわ。まさか泥棒に入られるなんて。トゥアールの人々は善良だから考えにくいし、外部の犯行という線が濃厚ね。他に盗まれたものがないか調べましょう」
「心配するな、泥棒なんて入っていないよ」
ミランは特に気にした様子もなく、ひらひらと手を振った。
「どうしてそんなこと言えるのよ。現に、蜂蜜がなくなっているじゃない」
「ああ、それな。俺が食った」
その言葉を聞いたフローラがぴたり、と硬直する。
しかし、それも束の間、悪鬼の形相になってミランに飛び掛かった。
そのままミランを押し倒し、
「お・ま・え・か――!!!」
フローラの見事な関節技が炸裂した。見事な
「あががが……!」
想像以上の激痛にミランが悲鳴を上げる。
関節技や投げ技といった実戦的な格闘技術は、徒手空拳での戦闘を想定した騎士や戦士の技だ。国家賢人たるフローラには不釣り合いな代物である。そんなものを誰から教わったのか。考えるまでもない。ミランの脳裏には、きっと今日も部屋を汚しまくっている中隊長の顔が思い浮かんだ。
「なんで、どうして、食べちゃったのよ!?」
「中身が全然減ってなかったから、いらないものとばかり……!」
「取っておいたのよ! というか、仮にそうだとしても持ち主に確認するのが道理でしょうが!」
「た、たかが蜂蜜じゃないか……! そんなに怒ることか……!?」
「たかがですって!? その認識が既に犯罪的! 女の子にとって甘いものは特別なのよ!」
ぎりぎりと肘が悲鳴を上げる。関節技というのは一度技にかかってしまえば、容易には抜け出せない。力の少ない女子供でも十分な威力が期待できるものなのだ。その激痛たるや――腕を挟み込む太腿の柔らかさだとか、押し付けられた胸のふくよかさだとかを一切感じる余裕がまったくない。
「なんですか、騒々しい」
騒ぎを聞きつけたのか、ファウナが窓からひょっこりと顔を出す。
「……これはまた、ずいぶん見事に極まってますね」
「ファウナ、感心してないで助けてくれ。フローラが乱心だ!」
ミランは辛抱たまらなくなって助けを呼んだ。この痛みの前では男の沽券などあったものではない。
「ファウナ、手出し無用よ。この男、私たちの蜂蜜を勝手に貪り食ったのよ!?」
「……なんですと?」
その言葉を聞いて、ファウナの視線が変わった。まるで汚らしいものを見るような冷ややかな眼差し。こめかみには青筋が浮いている。
ミランは絶望した。何ということだ。ずっと隔絶された環境で生きてきたから知らなかった。女という生き物は、甘いもの一つでこれほど豹変するものなのか……!
「フローラ、わたしも辺境探索に身を置く者。護身術の心得が必要だと常々思っていました。いい機会です。その技、わたしにも伝授してください。ちょうどいい練習台もありますので」
まるで解体前の家畜を見るかの如き無表情。ミランの顔色がみるみる青くなる。
「わかった、わかったから! 新しい蜂蜜を採ってきてやるから、それで勘弁してくれ……!」
「あ、それもそうか」
フローラは、ぱっと手を離す。
「森の中だったら蜂の巣くらいあるわよね」
「そう言えば、わたしが梟にひっかかれた時、
「……まあ、俺だって甘いものが食べたくなる時もあるし、蜂蜜酒だって造るしな」
ミランは肘をさすりながら答える。
蜂蜜酒は麦酒同様、レスニア王国の酒税法に抵触しない庶民の自家酒だ。造り方も蜂蜜を水で割って放置するだけの簡単なもの。人類史上、最も古い酒の一つである。
「でも、頻繁に採るわけじゃないぞ。なんといっても、危険だし」
当然ではあるが、蜂蜜を採るということは、すなわち蜂の巣に近づくということに他ならない。蜂は辺境における生物被害の中でも最上位に君臨する生き物であり、単純な被害総数は熊や犬をも凌駕する。
その脅威は何と言ってもその毒針だ。
最強の熊、最優の犬と並ぶ最速の蜂。蜂蜜を採りに行くということは、虎穴に入るに等しいのである。
「よし、じゃあさっさと行ってきなさい」
だからどうした、とばかりにフローラはミランを蹴り飛ばす。
「蜂蜜を手に入れるまで帰ってくるんじゃないわよ」
さながら働き蜂を支配する女王蜂のごとき冷徹さであった。
◆◇◇◇
森へ向かうミランの背中には哀愁が漂っていた。
勝手に食べたのは悪いと思っているが、まさか、これほどの仕打ちを受けることになろうとは。あのファウナでさえ庇ってくれない。甘いものの恨みは恐ろしい。
とぼとぼと森へ向かう道中、ぱたぱたと軽快な足音が背後から近づいてくる。億劫そうに振り向くと、ファウナな走り寄ってくるのが見えた。
「待ってください。やっぱり、わたしもついていきます」
「……怒ってたんじゃなかったのか?」
「怒ってますよ?」
にっこりと笑みの形を浮かべながらも、目は笑っていない。
「でも、それはそれ、これはこれです。蜂蜜を自然のまま収穫するのは、よく考えたら見たことありませんから。後学のためにお供しようかと」
レスニア王国では養蜂技術が普及しているため、巣を探して蜜を採るといった前時代的な採集方法はとうに廃れている。物流の行き届いていない辺境では自給自足的に行うことがあるが、王都育ちのファウナには未体験のことであった。
「蜂蜜というのは蜂が花々から蜜を集めて貯蔵したもの。なので、蜜源植物の種類によって味や香りが違います。本来、その地方の植物相によって特色が出るものなのですよ。トゥアールの蜂蜜がどんなものか興味があります」
ミランが盗み食いした蜂蜜は、思い返してみれば、いつも食べているものと違ったような気がする。
「それに、蜂は動物学的にも興味深い研究対象です。彼女らは動物相と植物相を繋ぐ架け橋ですから。彼女たちは花から蜜を集めますが、その代わりに花粉を運搬して受粉のお手伝いをします。彼女たちがいなくなったら、植物のほとんどは繁殖することができずに、森は死滅してしまうと言われているくらいです」
ミランはファウナがかつて語った言葉を思い出した。
世界に無駄なものなど一つもなく、小さな虫一匹、草の一本ですら重要な構成要素として組み込まれている。生態系と呼ばれる命の循環。小指の先ほどもない小さな蜂たちが広大な森を支えているという事実に、ミランは感慨深い思いを抱いた。
「それだけではありません。わたしたち人間も、蜂からたくさんの贈り物を頂いています。それが何かわかりますか?」
「それが蜂蜜なんじゃないのか?」
「いいえ、それ以外にもありますよ」
「……そうだな、蜜蝋とか?」
巣の建材にも使われる蝋は、蝋燭や軟膏の原料として利用されている。
「それもありますね。他には?」
ミランは返答に困った。彼自身、蜂の巣から得られるものは、それくらいしか活用していないのだ。
「……わからないな。なんなんだ?」
「紙です」
「紙ぃ?」
思い当たらなくて当然だ。読み書きができないミランにとって、紙ほど縁のないものもあるまい。
「わたしたちが使っている植物性の繊維を用いた紙は、狩り蜂の巣が起源なんです。蜂という生き物は人間よりも早くに紙を実用化しているんですよ。しかも、最小の資源で最大の空間容積を確保できる正六角柱の空間充填構造の発見もそうです。すごいと思いませんか?」
ファウナの鼻息が荒い。普段は穏やかで理性的な彼女だが、生物が備える不思議な合理性を語らせると途端に饒舌になる。話を聞く分には構わないが、言っていることを理解するのは難しい。
「すごいのは分かったが、やっぱり危ないぞ。何と言っても蜂だ。それに、この時期は蜂以外にも刺してくる昆虫がわんさかいる」
「ご心配なく」
ファウナは得意げに慎ましい胸を反らした。
「これまで説明する機会はありませんでしたが、この国家賢人の法衣は特殊な繊維が編み込まれていて、防刃、耐熱、絶縁、その他もろもろの高機能な防御特性を備えています。頑丈なだけではありません。軽くて動きやすく、さらには虫刺されにも強いという、野外活動に適した装備なのです。わたしが躓いても傷一つ負わないのはこれのおかげと言っても過言ではないでしょう。なので問題ありません!」
……どうしてだろう。
ファウナが法衣の有用性を語れば語るほど、何か良くないことが起こるような――そんな漠然とした不安が押し寄せてくるのをミランは感じた。
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