第3話 せめて焼きたての魚を(前編)

 猪突猛進ちょとつもうしんという言葉をご存じだろうか。

 物の本に曰く、周囲の人のことや状況を考えずに、一つのことに向かって猛烈な勢いで突き進むさまのことだ。

 いのししが直線的に突進することから、そのように例えられたという。

 ……どこのどいつか知らないが、まったくいい加減な。

 この熟語を作り出した人物は、本当に猪を見たことがあるのだろうか。いいや、ないに決まっている。すぐ近くで彼らを観察したことがある人間だったら、そんな意味合いの言葉にこの生き物を当てはめるはずがない。

 そもそも、猪は決して直進しかできないわけではない。驚くほど器用に曲がる。一町約100mを九秒で駆ける脚力はもちろん、倒木や巨岩といった障害物を軽々飛び越える跳躍力も持っている。聴覚、嗅覚による探知能力は犬にも引けを取らないほど優れているし、おまけに頭も良い。割と隙のない生き物なのだ。

 その事実を多くの人々が知らないのは、間違いなく猪突猛進という言葉がもたらした偏見によるものだろう。

 え? ずいぶん詳しいじゃないかって?

 そりゃ詳しくもなるさ。なにせ――

「ぷぎぃー!!!」

「お、お、お、お助けぇぇぇ――!!!」

 ――現在進行形で、我が身をもって体感中な追いかけられているのだから。



 僕が野猪やちょに追いかけられているのには訳がある。

 つい先日のことだ。

 僕はいつものようにハイデンローザ道場に赴き、師匠の指導の下、剣術の稽古に精を出していた。

 基礎を終えた後はただひたすらに地稽古だ。戦乱の世で生まれたハイデンローザは実戦形式を重視する。今日覚えた技、これまでに覚えた技を総動員して、全身で打ち、全霊で打たれる。その身をもって術理を体に刻み込む古き善き道場だ。

 ハイデンローザには門下生が僕一人しかいないので、師範が直々に木刀を執って相手をしてくれる。強くなりたいと願う僕からすれば、実に理想的な環境だ。僕の知る限りにおいて最強の剣士に直接ご指導頂けるのだから。

 しかしながら、問題もある。

 それは、師範がまだ二十六歳の、綺麗なということだ。

 師範――もとい、普段は師匠と呼んでいる――との付き合いはそれなりに長い。初めて道場の門を叩いたのは僕が八歳の頃。それから六年間、毎日のように道場で顔を合わせている。

 なので、僕のことは『おしめをしている時から知っている親戚の子供』くらいにしか思っておらず、それは十四歳になった今でも変わっていない。

 そのため、時に恐ろしいくらいの無防備な姿を見せる。

 例えば――

「師匠、また下着つけてませんね!?」

 こういうことも、しばしばだ。

「よく気づいたわね」

 師匠は淡々とした表情だ。指摘されても顔色一つ変えやしない。

 そりゃあ気づきますよ。だって、道着がめっちゃ揺れてますもん――とは言葉にしなかった。師匠は男女の機微に疎いだけで皆無というわけではない。いつもそこばかり見ていると思われるのは心苦しい。まあ、見ているんだけど。

「何度も言っているでしょう。集中できませんから、ちゃんとしてください」

 嘘だ。本当はちゃんとしないでほしい。

 師匠は、僕の初恋のひとである。

 小さい頃、誘拐事件に巻き込まれた僕は、颯爽と現れた師匠に救われ、その強さと美しさに心を奪われた。

 そんな女性のだらしない私生活を拝めるのは、今のところ僕だけだ。桃色の役得も含め、その何とも言えない優越感を失いたくはない。

 が、そういった心の揺らぎを師匠は見逃さない。

 ハイデンローザは実践本意の剣術なので、どのような理由であっても隙を見せれば容赦なく木刀を打ち込んでくる。心構えの問題だ。剣を執る者は何よりも自戒の精神を持たねばならない。稽古中に鼻の下を伸ばすなどもってのほかだ。

 ついでに言えば、師匠の打ち込みは死ぬほど痛い。「木刀でしょ?」「刃なんてついてないんでしょ?」と侮っている諸兄。それは間違いだ。木刀は立派な武器。当たればはっきり言ってめちゃくちゃ痛い。直撃すれば骨が割れるし、打ちどころが悪ければ死ぬ。

 実力差がありすぎるので、こちらが何とか反応できるくらいの速度で相手をしてくれるけど、それでも何かに気を取られていると全然間に合わない。本当は何にも束縛されていない二つの膨らみの躍動を堪能したいところだけど、さすがに僕も死にたくないので、地稽古の前は泣く泣く忠告しているのである。

「そう言われるだろうと思ってはいたけど、今日はちゃんと事情があるの」

 師匠にしては珍しい困り顔。

「最近、下着が体に合わなくなっちゃって」

「え、それって……お、大きくなったってことですか?」

「違うわ」

 思春期の少年ぼくの淡い期待を、師匠はきっぱりと両断した。

「その逆で、どうも痩せちゃったみたい。ここのところ、お金が飛んでいくばかりだったからね」

 門下生が僕一人の時点で何となくわかるだろうが、道場の経営は火の車である。経済的に余裕がないのはいつものことだけど、最近は特に切羽詰まっていた。食費も極限まで削らざるを得ないほどに。明日のご飯ですら難儀しているのに、新しい下着を買う余裕なんてあろうはずもない。

 表面上は「なるほど、そういうことですか」と頷きながらも、僕は内心で激しく動揺していた。

 一大事である。そりゃあもう一大事である。

 師匠は小柄で線も細いが、その割に立派なものをお持ちでいらっしゃる。十代にしか見えないくらいあどけない顔をしているが、肉体は年齢相応の女性らしい成熟した丸みがあって、その落差が身悶えするほどたまらない。

 それが、小さくなったですと――!?

 もちろん、胸が小さくなったからといって師匠への想いが冷めたとか、好みじゃなくなったとか、そんなことはありえないと断言できる。

 できるのだが……何というか、ものすごくもったいない。せっかく咲いた美しい花が枯れていくのを、黙って見ていることしかできない歯痒さに似ている。

 それを止めることが叶うなら、僕にできることは何でもしてあげたい。

 花であれば水を撒いたり、害虫を駆除すればいいだろう。だが、胸の縮小はどうやったら止められる?

 ――決まっている。栄養だ。しっかりした食生活だ。

 どうにかして、師匠に栄養があるものを食べさせなければ!

 そして、取り戻さねば!

 ほどよく豊かに育った果実を!



 そう意気込んで、僕はヴェラスの郊外に釣りに来ていた。

 快晴で風もないため、絶好の釣り日和だ。

 今日は師匠の用事があって稽古は休み。だが、夕方には帰ってくるそうなので、それまでに魚を持って行こう。

 え? どうして釣りなのかって? 単に栄養を摂らせたいだけなら、店で肉でも魚でも買えばいいじゃないかって?

 単純な話で、師匠はそういう施しを嫌うからだ。

 道場が流行らないのは、剣術なんて物騒なものが必要なくなった証拠。だから、剣で生計を立てる自分が貧しいのは世の中が泰平である証だと本気で考えている。

 いやまあ、実際は、乱世からの伝統である「命がけの修行」が厳しすぎて流行らないだけなんだけど。現代人は惰弱なのである。

 とにかく、清貧を志す師匠は生活が苦しいからといって、僕から月謝以上の金品を受け取ることはない。

 そこで釣りである。

「せっかくの休みなんで釣りに行ってきました」「たくさん釣れたので、お裾分けです」という展開が一番師匠が断りにくいのだ。

 本当は野兎でも狩れればいいんだけど、街育ちの僕に狩猟技術はない。しかし、釣りならば少しばかり経験がある。

 今は剣術一本だが、まだ体ができあがっていない幼少期は今よりずっと稽古時間が短かったので、年相応に空いた時間を使って色んな趣味に手を出していた。釣りもその一つだ。

 ヴェラスの郊外には流れの穏やかな川が通っており、淡水魚以外にも貝類や甲殻類、水棲昆虫など多種多様な生き物が棲んでいる。釣りをするにももってこいで、暇を持て余した街人がよく釣り糸を垂らしているのを見かける。

 しかし、魚というやつは普段から釣り人が来るところでは警戒して、なかなか餌に食いつかないものである。

 なんとしても釣果が欲しい僕は川を遡って、普段、人が足を踏み入れない上流域へ向かった。

 なぜ足を踏み入れないのかと言えば、上流域はイール地方の大部分を占める森に抵触するからだ。

 古より森は異界。神域だ。迂闊に踏み入れれば森の神の怒りを買うと、分別のつかない子供を諫めるために、年寄りたちは口々に言う。そういった信仰や迷信の類を抜きにしても、森には肉食獣が生息しているので危険なのは理解できる。

 でも、僕だって伊達にハイデンローザ道場で鍛えているわけじゃない。そんじょそこらの大人よりは強い自信がある。それに、獣の生息域まで深入りするつもりはない。あくまで少しでも釣れる可能性を高めたいだけだ。

 実際、大当たりである。

 上流域の魚はまったくスレておらず、入れ食い状態だった。一時間足らずで充分な数を確保した僕は、ほくほく顔で帰路に着いた。

 その時である。

 野猪と鉢合わせしてしまったのは。



◆◇◇◇



 僕は懸命に森の中を駆けた。

 そのすぐ後ろを、野猪が土煙をあげて追走している。

 まったく引き離せない。それどころか、徐々に徐々に距離は縮まっている。

 一つ発見したのは、猪は下り坂が苦手だということだ。前足が短いためだろう、下りに差し掛かると転倒しないようにわずかに減速する。

 その間に距離を稼ごうとするが、何も森の中は下りばかりではない。下りがあれば登りがある。上り坂になると今度はこっちの足が鈍る。距離は縮まっていく一方だった。

 ――もうすぐそこまで野猪が迫っている。

 こっちはもう限界だというのに、向こうは一向に疲れる気配を見せない。

 今になって反省する。年寄りの話はちゃんと聞いておくものだ。

 都市で生まれ、都市で育った人間は忘れてしまう。獣というものは、人間の手に余る強大な存在なのだということを。

 後悔先に立たず、ああ、これは至言だ。身をもって体験しているから。

 ……罰が当たったのだろうか。

 師匠に栄養のあるものを食べさせたいという気持ちは天地神明にかけて決して嘘ではないが、そもそもの動機が邪なものだったのがいけなかったのか。

 ふと、幼い頃の記憶が蘇る。

 その昔、人差し指が欠けた男がうちの店に買い物に来た。男は畜産を営んでいるそうで、飼っている豚に餌をやっている時、うっかり指を噛み切られたという。

 え? 豚ってそんなに噛む力強いの?

 人間が飼いやすい穏やかな生き物を品種改良した家畜でさえ、それだ。じゃあ、それが野生で暮らしている原種だったら……想像するだけで背筋が凍る。

「はあ、はあ!」

 息が続かない。体が悲鳴を上げる。もう駄目だ。追いつかれる。大きな牙が僕を貫こうと唸っている。善戦したつもりだが、そもそもの体力が違いすぎた。

 すいません、師匠。魚、持って帰れませんでした……!

 数秒後の死を覚悟した、その瞬間――

「頭を下げていろ!」

 その声は頭上から。

 同時に、ひゅ、と風を切る音がした。

 どこからともなく飛来した矢が、すぐ後ろまで迫っていた野猪の腹を射貫いた。野猪は痛ましい悲鳴を上げて、よろめき、息絶える。

 た、た、助かった……。

 安堵からか、僕は足腰から力が抜けてへなへなとその場に座り込んだ。

 すると、一人の男が樹の上から降ってきた。音もなく着地。なんて身軽さだ。

 年齢は僕よりも五、六歳ほど年上だろうか。おじさんと呼ぶには早すぎる。お兄さんといったほうが的確か。

 森林迷彩の外套に着古して色の褪せた軟革鎧。手には狩猟弓。腰の革帯には矢筒と無骨な短刀が差してある。

 出で立ちから察するに、どうやら猟師のようだった。

「無事か?」

「は、はい。お陰様で助かりました……」

 息も絶え絶えに、なんとか答える。一生分の全力疾走をした気分だ。

「……ほら」

 お兄さんは竹筒を差し出してくる。どうやら、水が入っているようだった。自作の水筒なのだろう。ありがたい。荷物は全部河原に放りだしてきたから、今の僕は何も持っていないからな。

 僕は水筒を受け取って栓を抜くと、中身を一気に飲み干した。飲み干した後で、竹筒からふわりと桜のいい匂いが漂ってくるのに気づく。どうやら中身は花草茶のようだった。いったいどんな配合をしているんだろう。もうちょっとゆっくり飲めばよかった。

「見ない顔だな。どこから来たんだ?」

 僕が落ち着いたころ合いを見計らって、お兄さんが口を開いた。

「ヴェラスのほうからです」

「ああ、行政都市の人間か。だろうな。この近辺の村人だったら、そんな軽装で森に入ったりはしないからな」

 お兄さんは納得したように頷いた。

「お前、あいつに背中を向けただろう?」

 お兄さんは横たわる野猪を親指で指した。

 正解だ。野猪と遭遇した瞬間、僕は頭が真っ白になってすぐに走り出したのだ。

「ど、どうしてわかったんです……?」

「出産の時期や子連れの時はそうでもないが、野猪は基本的に臆病な動物なんだ。遭遇しても、刺激しないようにゆっくり後退すれば襲ってくることはない。絶対とは言わないがな」

「そ、そうなんだ……知らなかった……」

 思わず出た言葉に、お兄さんは呆れ顔だ。

「俺が間に合ったからいいものの、遊び半分で森に入るのは辞めておけ。都市育ちの人間にどうこうできるほど、は甘くないぞ」

「……はい。痛感しました」

 悔しいけど、この人の言う通りだ。

 ハイデンローザ流道場で六年間鍛えてきたつもりだけど、獣相手ではその教えはまったく活かせなかった。

 あくまで武術は人が人を制するものだ。身体構造も精神構造も異なる獣や蟲では有効に働かない。獣を制するのは、小手先の技術ではなく、お兄さんが言ったような知識と経験なのだろう。

「反省しているようだからいいけどな。ここはお前には荷が重い。森の入り口まで送って行ってやるから、早めに帰るんだ」

 お兄さんは仕留めた野猪を肩に担ぐと、ついて来いと顎で示した。

 師匠の胸を守ることも大事だが、命も惜しい。今は一秒でも早く安全な街へ帰りたかった。お兄さんの提案は渡りに船だ。

「ありがとうございます」

「いいさ。これも俺の役目だからな」

「……あの、お名前を伺ってもいいですか?」

 師匠に次いで、人生で二人目の命の恩人だ。今の僕に何が返せるというわけでもないけれど、せめて名前だけでも聞いておきたかった。

「俺か?」

 先頭を歩きながら、お兄さんは顔だけをこちらに向けた。

「俺はミランだ。すぐそこまでの案内だが、よろしくな」


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