イージー・モード

削鰹乗太郎

#1・EASY COME

その男と出会った日の事を、私は恐らく一生涯、忘れる事はない。

強烈だった。

何がって、匂いが。

そりゃあ、こんなご時世。風呂なんて余程の豪族でもなきゃ入れない。贅沢品である。

しかし彼の放つ臭気は、およそ人類のそれではない。

はっきり言って、汚物である。


彼の行く先、人の群れはまるで砂の城のように、脆く崩れ去った。

何か神話で、海を割った男の話があった気がするが、それに近いと思われる。


とにかく凄かった。

私もあの街に住んで長かったが、見知らぬ顔であった。

重そうな荷物を背負って、泥だらけで、ボロボロの靴を履き潰しながら、こちらへ歩いて来る。


旅人だ。


ボロ靴が踊っている。

足元がおぼつかない様子だ。

ボロボロがフラフラしている。

フラフラしているボロボロが、こっちに来る。

逃げたかったが、背後は壁。

それに客商売である。旅人と言えば、カモ。ぼったくるには丁度いい相手。


だから逃げず、怯えず、立ち向かい、勝利の栄光をもぎ取るのだ。頑張れ私。


彼が、私の『店』の前に立った。

フードを被っていて、顔がよく見えない。

私はただ、ひたすら、意識を繋ぎ止める事だけに集中した。絶対に、何があっても、鼻呼吸をしてはならないと、強く強く念じた。


「い、いらっしゃい、ませ」


彼が、口を開いた。


「腹が減っていて…何でも構いません。とにかく量が多くて、安い食べ物を」


その声の意外な優しさに、気を許してしまった。しまったのだ。

愚かな我が鼻は、我が精神の制止を振り切り、その臭気を、我が体内へと運んだ。


「んがッ」


しょうもない断末魔を上げて、私の意識は、そこで途切れた。

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