僕らの同棲生活は、あの夜を期に、なし崩し的に始まった。


 同棲が始まったことで別れるカップルというのをよく聞くが、それは僕らには無縁の話だった。いや、寧ろどうしてそんなことが有り得ようか。

 四六時中一緒に居たかった相手。さっきまで会っていたというのに別れた途端あの時間の熱が恋しくて仕方なくて、たった一週間待つ間にも幾度と涙すら零れそうになる相手。

 ──同棲は、解放以外の何物でもなかった。


 勿論生活スタイルの違い等、ありがちな問題は当たり前に発生する。例えば、如月さん──もとい、瑠美は、僕と違ってあの後就職活動に励み、そこそこ名の通った企業に就職した。彼女は新社会人である以上それなりに早く家を出るが、僕は相も変わらずバイト暮らしのままである。フルタイムで入っているとは言っても所詮はファミレス、遅くなることはあってもそう早くに仕事が始まることはない。必然的に顔を合わせる時間は短くなるし、あまり遅くに帰ると翌日も朝が早い彼女は当然怒る。かなり長いこと続けているバイトだし真面目に働いているし、正社員という話も持ち上がっていなくはないが、それは当分先の話になりそうだ。僕は一層バイトに精を出した。


 頑張る理由を誰かに依存することに、以前の癖なのか、けたたましい警鐘の残響のようなものが聞こえる気がした──が、今となってはもう何も心配することはない。僕は嬉々としてその警鐘を無視し、黙殺した。



 だが、問題は生活スタイルだけではない。互いの性別が違うが故に起こる、生々しいものもあった。女性故の多い持ち物を全て収納するだけのスペースが僕の部屋にはないことに始まり、朝の洗面台に張り付いている彼女の長い髪の生々しいことや、 下着を含む洗濯物に彼女が少し神経質であること、などなど。一度などはトイレに無断で三角コーナーのようなものを設置され、これ何? と問い質したところ、無言で回し蹴りを喰った。綺麗な女性の護身術は、体育の授業で少し柔道をやっただけの男より余程強く、怖い。蹲りながら「暴力的な女性は好かれないよ」と抗議の声を上げたところ、澄ました顔で「私には晃くんがいるでしょう?」と返されてしまった。全くもってその通りだ。ぐうの音も出ない。


 普通ならどうにか妥協するなり慣れるなりで、上手く折り合いをつけてやっていくところなのだろう。だが僕は違う。そろそろこの異様性にも自分で笑ってしまいそうになる頃だが、僕といったら、そんな異性間の問題を全くのノンストレスで飲み込むことが出来た。


 誤解しないで欲しい。僕は彼女のものであれば何でも喜ぶ変態とは違うのだ。例えば女性の抜けた髪の毛が洗面台に張り付いている様子なんかは特にだが、そういうものには普通に不快感を覚える。ただ僕の場合は、その不快感を飲み込むのに一切のストレスを要しないという、それだけの話なのだ。




「晃くん、晃くん」


 彼女の呼ぶ声が聞こえる。


「どうしたの、瑠美」


 優しい響きの彼女の名前を、下の上で転がしてみる。


「夜ご飯、何がいい?」


「うーん、生姜焼きかなぁ」


「気を遣わなくていいのに」


 彼女は優しく微笑む。手間のかからない料理ばかりリクエストしていることに、僕と同じくファミレスの厨房で働いていた彼女が気付かない筈はなかった。


「僕は瑠美の手料理なら何でもいいんだ。何だって美味しいもの」


 昔なら言えなかったであろう、歯が浮いて口が腐りそうな台詞ですら、今となっては幸せの証でしかない。何だかたまらなくなって、僕は彼女を後ろから抱きしめた。


「もう、晃くんてば」


 そう言う瑠美も、満更ではなさそうだ。


 以前ならこんなことは絶対に出来なかった。彼女が僕を嫌うリスクのあることは何一つとして出来はしなかった。彼女に嫌われるのが怖かっただけではない。彼女に不快感を抱かせる行動の一切を、僕自身が誰よりも良しとしなかったのだ。


 だが今は違う。だって僕は、手に入れたのだ──僕の行動の一切に彼女が不快感を抱くことなどないという確証を! 彼女との時間がもはや永遠であるという確信を! この幸せに終わりはないという確固たる自信を!



 もはや僕には、世間一般には「重い」と言われ嫌悪される、この恋情を、隠し押し殺す必要などどこにもないのだ!



 きっと彼女だってその筈だ。夜の時間さえ合えば高頻度で求めてくるのはその証拠に決まっている。縋るように僕の肌に触れる彼女は何度夜を明かそうとも愛らしかった。自分の前から互いが二度と消えることがない幸せを何度でも味わいたくて、僕らは頻繁に肌を重ねた。行為をしている時は、僕が彼女に愛の重さを預けるように、彼女もそれを預けてくれていると実感出来た。彼女もそうなのだろう。




 ある時彼女は、事の済んだベッドの上でぽつりと言ったものだ。


「……依存、だよね」


 どちらが、とは言わなかった。

 どちらもそうだった。言う必要はなかった。


「それでいいじゃないか。僕らこれからずっと一緒にいるんだから」


「そう……だよね」


 檸檬色のカーテン越しに差す月明かりに、彼女の病的なまでに白い肌が浮かび上がる。


「──まだ怖いの?」


 ──愛情と恋情の、全体重をかけることが。

 言外に、そう問う。


「そう……なの、かも」


 答える彼女の微かな笑みに、更に微かな、自嘲の色が見える。


 まぁ、そういうものかもしれない。僕は自分の恋愛観の重いのも、それが一方的に愛することすらままならなくすることも、とうに慣れっこだった。だから、彼女が、愛の重さをかけてかけられて、それが出来る相手というのは、付き合ってすぐに分かった。だが彼女が重い想いに気付いたのは最近で、だから、きっとまた終わりのない自責の念と自己否定に溺れるのが怖いのだろう。とうに飼い慣らした僕と違って、あの絶望感が記憶に新しいから。


「──大丈夫だよ。僕らは永遠に一緒だ」


 気付けば僕は、華奢な彼女の肩をそっと抱いていた。


「…………晃、くん」


「僕は、瑠美に愛の質量全部を委ねてるんだ。瑠美もそうしてくれなきゃ、どっちかが倒れちゃうよ」


「…………、うん」


「怖がらなくていいんだ」



 重度の依存体質であることに自覚のあった僕が、僕らが永遠の愛と呼んだそれに、 別の名前があることに気付かない筈はなかった。



 ──だが、気付く必要はもはや無いのだ。



 このまま、溺れていればいい。誰も不幸にならないのだから、僕らは幸せなのだから、例え世間一般に間違っていると言われても、正す必要なんてどこにも在りはしない。


「ずっと──ずっと一緒に居よう、瑠美」


「……そうだね。晃くん」



 誰がなんと言おうと、ずっと溺れていよう。



 この幸せな夢に──幸せな、共依存に。

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