白いレストラン

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白いレストラン

 私がこの世の料理のほとんどを口にすることができなくなったのはあの白いレストランを訪れて以来である.あの夜の出来事はこの世に潜む闇の片鱗を白日の下に曝したが,同時に,目を背けたくなるほど醜い私の本性をも暴いてしまった.もしこの世に慈悲深き神がいるなら私に死という救済をあたえてはくれないかとさえ思ってしまうのだ.



「店内は撮影禁止でございます.カメラは勿論スマートフォンの類も決して取り出さぬようよろしくお願いいたします」


 そのレストランには変わった点が3つあった.まず完全な個室制であること.次に店内では撮影禁止であること.最後にレストランのその白い建物からは人類の築いた文化や歴史めいたものを何一つ感じられないことである.

 オーナーは俗世間を嫌う芸術家の気質がある奇人という説が有力だった.白い大理石のようなつやのある石造りの建物は高級感こそあるが,ひいき目に評価すれば現代アート風のトリックハウス,悪く言えば何かの実験施設かあるいは監獄のようにさえ思えた.料理用でないアルコールの匂いがただよってきたとしても違和感を感じないだろう.個室というのも撮影禁止というルールも息苦しい雰囲気を助長し,非常においしいイタリアンめいた創作料理が出てくるという評判を知らなければ.気軽に立ち寄りたいと思える空間ではなかった.


 私と友人の二人はこのレストランでディナーを取ることになった.友人は私を誘うにあたって未知なる味への探求だとか何やら言い訳をしていたが,要するに一人で行くのが怖いから一緒に行こうとのことだった.私はそもそも郊外に周囲の風景から乖離した白い病棟が出現し,それがレストランを名乗り,さらに人によっては三ツ星レストランにすら及ぶというレビューを聞いたとき以来すっかり興味に屈しており,この肥大化した好奇心を晴らす機会をうかがっていたので二つ返事でこれを了承した.

 レストランに入り,愛想がよく彫りの深いシェフに案内され,噂に違わぬ真っ白で病室めいた通路を歩き04と書かれた扉へ案内された.それまで通り過ぎた扉からは微かだが確かに「うまい!」という声が聞こえたため,不気味な空間に反して私の期待は膨らんでいた.


 部屋の中も相変わらず白ずくめで壁には窓すらなく,部屋の中央にクロスのかかったテーブルと白い椅子が2つあるだけだった.私と友人はすっかり気圧されてしまい,この異様な空間の意図するところを聞くのを忘れてしまっていたが,シェフがすぐに食前酒を持ってくると言い残し部屋を出て行ったあと,不安そうな友人が早口で何やらまくし立てているのを見ているのは少し面白かった.


 最初にワインと前菜が出された.ワインは食前酒といった割にはしっかりとしたボトルであり銘柄こそ聞いたことのないものだったが,心地よい音でコルクの栓が抜かれこぽこぽとグラスに注がれる間にふんわりとしたぶどうの香りが個室中に充満し,私たちは匂いだけで酔ってしまいそうなほどだった.


 乾杯の後,グラスを少し傾けて口の中へ転がしたとき,その芳しい香りが爆発し甘い舌ざわりと溶け合い,爽やかだが衝撃的なアタックが一気に喉を駆け抜けた.私はうっとりと余韻に浸り,ようやく思い出したように「おいしい」と呟いた.

 友人と目を合わせ個室の謎が解けたとお互いに頷いた.要するにこの密室は香りを楽しませるための装置だったのだ.この後に運ばれてくるだろう料理も嗅覚を刺激する仕掛けがなされているのだろうと期待せずにはいられなかった.


 ところで,私の客としてのマナーはあまり褒められたものではなかった.シェフが次の料理のために部屋を去ったあと,こっそりとスマホで写真を撮ってしまったのだ.インスタに上げようと思ったわけではなく,この夢のような料理をまたいつでも思い出せるようにと,ふわふわと舞い上がった気分だった.友人はやや決まりの悪そうな顔で品格が問われるためやめるように言ったが,私は少しだけだと言って聞く耳を持たなかった.


 料理はその後,パスタ,スープ,カルパッチョと続いたが,そのどれもが並外れて美味しくかつ予想通り個性的で華やかな香りが私たちを楽しませた.少し酸味のある独特な味付けであり癖があるため好みのわかれそうなところだったが,少なくとも私と友人は手放しで賞賛した.


 白身魚を香草と一緒に焼いた妙に懐かしさを感じる料理を食いらげた後,お手洗いへ向かった.調子に乗って少々をワイン飲みすぎた.トイレの中で私は何気なくこれまで出された料理の写真を見返した.そこに写っていたのは見た目も美しく味も素晴らしい料理,ではない.グロテスクなゲテモノだった.


 私は目を疑った.

 見るべき写真を間違えたかと思ったが,一緒に写っている皿や机からこれは間違いなくさっき私たちの前に出されたあの料理たちだと判断できる.では,つまりこの写真が真実ならこういうことか.私はこの,血肉のような赤が付着した漆黒の麺類らしきものを,ごぼごぼと泡立つ腐った植物のような名状しがたき深緑のスープを,かろうじて魚の形状は保っている群青色の得体のしれない塊を,この手で,自分の胃袋に入れたというのか.


 私は嗚咽して胃袋の中身を全てぶちまけた.それらを便器の中に収めることができたのはわずかに人としての理性が恐怖に勝ったからだ.吐き出した中身を恐る恐る眺めれば,胃袋の中で溶けた後で判然としなかったが,どろどろになった物体の中に先ほど夢のように美味しいと形容した物質は欠片もなかった.


 青ざめた私が席に戻るとちょうどあのシェフがメインを届けるところだった.

「鶏の酒蒸し.ソースには黄金のはちみつ酒と洋梨を和えました」

 ドームカバーが取られると同時に腐った果実のような香りが部屋に充満し鼻を刺す.シェフが鶏だと宣った玉虫色にきらめくゲル状の物質にはぎょろつく目玉と牙の生えた口が浮かんでおり,この世の生物とは思えぬ鳴き声を発していた.


 てけり・り

 てけり・り

 

 こんなものが料理であるものか.私と友人はこのシェフに幻覚を見せられ,このような得体のしれない何かを食べさせられていたのだ.今すぐこんな店を出ようと提案するために友人の方を見上げれば,しかし友人はそれを頬張っているではないか.

「なんて素晴らしい香りだ!黄金というだけのことはある!おお!チーズのようにナイフが通る!そして,お味は…んん!?この解けるような滑らかな舌ざわり.おいしいおいしいおいしいおいしいおいしい」


 そんな友人の子供のように皿を貪る様子とそれを見守るシェフの満足げな顔を見ていると狂ったのは彼らではなく私の方かと思えてしまう.確かに常識で考えるならば,このような恐ろしいものを料理だといって出されて,それを口にした今までの客たちがただの一人もこのレストランを訴えないことなどあるだろうか.つまり私が見ているものは幻覚で彼らの見ているものこそが真実ではないか.


 それを確かめるために,私は勇気をもって,手の震えを抑えながらなんとかナイフでそれを切り分けた.じゅぶ.気持ち悪い感触が手のひらに伝い,それは小さく悲鳴のような叫びをあげる.私は何も聞いていないと暗示をかけ,一気にフォークを口へ運んだ.それが舌に触れた瞬間,ぶよぶよした,ざらざらした,絡みつくおぞましき触感が口の中を伝い,苦く辛い味とも言えぬ刺激が舌を襲った.私はたまらず吐き出した.いつの間にか私の背後にいたウェイターが私の肩をつかむ.

「お口に合いませんでしたか」


 私が正気を取り戻していることに気づいたのだろう,先ほどまでの陽気な表情はどこへ消えたのか,その目は冷たい光を放っていた.もし私が帰るといった場合,彼は素直に私を返してくれるだろうか.そう都合よくはいかないだろう.何故なら今までこの邪悪な料理が話題にならないということは,全ての人が気づかなかったというよりは,気づいた人が口封じされたと考える方が自然だ.この料理を完食させられ美味しかったと信じ込まされて.


「ああ,口に合わないね」

 私は精一杯の不満げな表情を作る.

「下ごしらえさぼっただろう.お陰でせっかくのひきしまった肉がやわらかくなりすぎて台無しになってしまった.ソースも新鮮ではないね,風味が落ちている.もうこの料理はいいからさげてくれ」

 口から出まかせである.『鶏の肉料理』にありえそうないちゃもんを吹聴しただけである.しかしシェフは突然の反撃に驚いた顔をする.

「…大変もうしわけありません,いますぐ作り直します」

 どうやら私はまだ彼にとって『お客様』である.

「もういいから下げろと言っているだろう!」

「承知いたしました….今デザートをお持ちします…ああワインがなくなっていますね.今新しいボトルをお持ちします」

 シェフは非常に残念そうに料理を片付け,一旦個室を出て行った.

 ワイン.そうだワインだ.あのワインだけは間違いなく私が正気の内に飲んだ.つまりあのワイン含まれる成分が私に幻覚を見せ料理の真の姿を隠したのだ.私はさっき胃の中のものをすべて戻したから正気を取り戻しただけで,あのワインがまた運ばれてきて栓が抜かれ香りが個室に充満すれば私はまた夢を見せられてしまう.時間がない!正気を保ったままこのレストランから抜け出す機会は今しかない.


「お前正気か?お前は味のわかる人間だと思っていた.こんな美味いものを出したシェフにあんな言い方をするなんて」

 友人は怒っていた.友人からすればこの世のものとは思えぬほどおいしい皿を出した料理人に対して目の前で難癖をつけて怒鳴りつけたのだ.前提が間違ってさえいなければ軽蔑のまなざしを私に向けるのは人として当然である.私は今まで撮った料理の写真を友人に見せた.

「これを見てくれ.私たちが今まで食べたものだ!私たちはまやかしを見せられこんなゴミよりもひどいものを料理だと思わされていたのだ」

「何だと!あの料理がゴミよりひどいというのか.お前がそこまでひねくれた本性だとはおれも人を見る目がなかった.今すぐおれとシェフに謝れ!さもなければ絶交だ!」

 まるっきり取り合ってもらえない.もはやこのレストランの信者と化した友人をいかに素早く説得するか思案したが,結局その考えは諦めた.一刻の猶予も惜しかったし私は私が可愛かった.

「ああいいとも!君とは絶交だ!」

 店を飛び出した.ちょうどいい口実だった.

 呼び止めるものはいなかった.


 私は必死に走り家へ飛び込み,もう一度胃の中に残っているすべてを吐き出した.酸っぱい胃液の味さえも汚物を稀釈する溶媒になった.知らぬ間に目からは涙が流れていた.冷静になって振り返れば醜い私は自身が逃れる口実とするために,邪悪なレストランに友人を置き去りにしてしまった.


 疲れ切っていた私はベッドに倒れ込み,眠りに落ちるまでのしばしの間様々なことを思案した.起きたら朝一で警察へ駆け込もう.この話を全て信じてくれずともあのレストランのキッチンを見れば,醜悪な料理が提供さしてくれるれているのがわかるはずだ.友人はどうなっただろう.友人はあの後もおいしいと出された料理を完食するに違いないからきっと無事ではあるだろうが,置き去りにした私を許してくれるだろうか.




 満足に眠れる夜はこれ以降訪れたことはない.次の日にはそのレストランは跡形もなく消失していたからだ.レストランがあったはずの土地には床も壁も柱の一本すら残っておらず,そして友人とは一切連絡がつかなくなった.世間は騒ぎ立てたが誰も真実を持ち合わせておらず都市伝説めいた推測を語るのみだが,私だけは本当のことを知っている.あのレストランは私に逃げられたために姿を消したのだ.そしてあの彫の深いシェフは今度こそ私の口を封じるために今も私を探しているに違いない.


 友人は私が殺したのも同じだ.あの時無理やりにでも手を引いて逃げてくるべきだったと,もはやどうにもならない後悔が心を蝕む.それは年月を追うごとに癒えるどころかじゅくじゅくと化膿し崩れ落ち二度とふさがらぬ穴を空けた.私は白い皿に盛られた料理が食べられなくなった.薬・暗示・怪しげ占い師の呪いなどを思いつく手段を試したが,白い皿に盛られた料理を見るたびにあの玉虫色の生物の狂気の叫びが聞こえてきて,幻聴だとわかっていても身がすくみ震えが止まらなくなるのだ.


 てけり・り

 てけり・り

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