雲雀の鳴く日・上

なるべく、細く息を吐くようにした。震えそうになる唇を堪えて、少女は手紙を畳む。同室の、上級の方はまだ戻ってきていない。

顔を俯ける。涙はそのまま、封筒の宛名をにじませた。

新芽萌えるとき、少女のあえかな春は終わる。




音楽を受け持つ先生は、海を遥か越えて来日された、仏蘭西人のふくよかな女の方だった。歌声は落ち着いたアルトで典雅な響きを持ち、ピアノは繊細に、乙女たちの柔らかな胸をくすぐって涙を誘う。


素晴らしい音楽の才をうら若き少女たちのために振るう彼女は、仏人としての誇り高く、その口から語られる島国の言葉は欧州の高貴な抑揚をもって教室に響いた。女史の歌うような言葉に生徒たちは酔いしれ、それは、次に歌う教本のページすら分からぬほど。


きっとこれよ。

あら、こちらではない?


静かなざわめきは、奏でられる前奏によって決着がつく。譜読みを得意とする級友がさっと声をあげるからだった。


放課に立ち寄るものも少ない音楽室の前を、去る日、春佳は通ったのだった。ピアノは聞こえぬ、しかし、歌うように話される、淑やかな言葉が漏れ聞こえて、はたと足を止めた。先生の深みある声とは別に、柔らかで、軽やかに弾む声。悪いこととは知りながら、好奇心に背中をひょいと押されて、窓を覗きこんだ。


鍵盤の前に座る先生の傍ら、そのお相手をなさるのは上級の方などでなく、同じ級の白川さんだった。


えっ、と驚いたのは、白川さんが仏語をとても上手に話していたことだけではない。いつも西洋人形のように眉ひとつ動かさない彼女が、先生と気軽に笑いあっていたから。


透き通る真白の肌に桃色の唇が品良く収まり、細筆で書いたような形の良い眉の下には異国に見える二重まぶたの丸い目が、いつもどこか憂い気に僅か、細められている。

窓辺に席を与えられた彼女はまるでひとつの名画のようで、その静謐をうち壊すには並々ならない勇気が必要だったのだから、皆、休み時間も遠巻きに、窓辺にたたずむ彼女を見守ることしかできなかった。


その彼女が、異国の言葉での会話を心から楽しむ姿は、ともすれば本当に夢ではないかと思うほど、お似合いだった。


教室、ひいては学校の七不思議、少女たちの幻想。

聞けば、他にも幾人かがこの美しい交流を目にしたことがあるという。春佳一人の秘密でなく、少しがっかりした気持ちもあったが、窓辺の少女は変わらず、憂い気に目を伏せている。幻想は幻想として少女たちの胸を騒がせていた。


ささやかな注目の的、白川さんの本日のトピック(作文の課題で優秀と選ばれた白川さんが、発表の間中、顔を真っ赤にしていた事件)を微笑ましく思いながら、部屋へ帰ると、まだ同室の方は帰っていらっしゃらなかった。


背中合わせに二つならんだ机の、片方に、手紙が置いてある。


細く息を吐き出し、震える手で取り上げる。これはもはや、家族からの懐かしい手紙などではなかった。


父が事業を失敗して、学費が出せなくなった。然れば、学校は今年度いっぱいで辞めにして、家へ戻ってくること。次の手紙にはこれからのことを詳しく記すとあった。


厳めしい宛名書きが父の手であることはすぐにわかり、強いられるようにして封を開ける。巻紙にはつまり、家で母の手伝いをしながら、昼は働きに出てもらいたい、ということだった。そして、末尾には、弟が姉の帰りを首を長くして待っていると。


「春佳さん?」


はっとして顔をあげると、同室の方がお戻りになっていた。


「お、帰りなさいませ」

「ただいま。随分熱心に読んでいたのね」

「はい、父からなんです」


うなずきながら、ただ、上手く笑みを浮かべているかだけが心配だった。


「茶話会のご準備はいかがでしたか?」

「あら、聞いてくださる?」


椅子を引いて座りながら、春佳はそっと手紙を引き出しにしまった。終わりの日まではなるべく、何事もないような顔をしていたかったので。



ある、ささやかと思われた事件は、その日より二日の後に起こった。



やはり、上級の方は茶話会やお式の準備に万全を期すために出ておられ、春佳は一人、復習をすると見せて、途絶えた未来に胸を痛めていた。


きし、と床が小さく声をあげ、慌ててまなじりに浮かんだ涙を拭ったが、扉の開く気配はない。誰かが通りすぎただけかもしれぬと、じっと見つめていれば、微かな衣擦れ、そしてまた、床が軋んだ。


どなただろう。お化け、という思い付きはなく、何気なく、春佳は入り口を開け放ったのだった。


「あっ!」


驚いて、顔を真っ赤にした少女。いつもお下げに結わえている髪は簡単に一つに束ねられ、祈るように毛先を握る小さな手。


部屋の前には、あの白川さんが立っていた。


立ち並ぶことがあまりないので、彼女が春佳よりもほとんど頭一つ小さいことに今更ながら気がついた。

本当に、お人形のような方だと感心していると、可愛らしいお口が二度三度、閉じたり開いたりして、ようやく、ごきげんよう、とか細く絞り出した。


「ごきげんよう。白川さん」


そして、また、黙り込んでしまう。


しきりに毛先を引っ張ったり、春佳を見上げてみてはすぐ視線をそらしたりと忙しなく、その内に、弟を相手にしているような気になってしまって、つい、幼い子に利くように言い出してしまった。


「私に何か、ご用事があるのね?」


すると、不安に翳らせていた面を一気に晴らして、何度もうなずいた。そして、懐から折りたたまれた紙を取りだす。


それは又しても、手紙!


近頃のことを思えば、やはり凶事の前触れのようにしか見えず、躊躇う春佳をなど見もしない、白川さんは相手の手に押し付けて、息も絶え絶えにこう言った。


「私のお家に、ご招待したいの」


もうすぐお休みでしょう?上目遣いに小首を傾げる、その仕草は胸をつくほどに愛らしく、思わず息を飲んだ。

けれども。ああ、けれども、春佳はこの早春に学舎を去る身。彼女に長期休暇などというものは未来永劫訪れないのだ。


「あ、あの、大変嬉しいお申し出なのですけれども、私は終業式が終わってすぐ、家へ帰らなければなりませんの。だから」

「いいえ!」


春佳を遮り、思い詰めたように首を横に振る。


「いいえ、駄目です、小暮さん、はいって言って下さらなければ……」


そして、細い首をうなだれて、一歩退いた。


「お式の前の日に、お返事をお伺いします。どうか、よくお考えになって……」


雪輪の袂が翻る。早足で去っていく人を追いかけることもできず、押し付けられた手紙に目をおとした。


小暮春佳様。

雄々しいながらも、どこか優美な雰囲気を帯びている手筋。


部屋へ戻り、封を開けると、中から洋紙と巻き紙がそれぞれ出てきた。透けて見える万年筆の筆跡に誘われて、洋紙を広げると、宛名と同じ手で、自らを白川さんのお父様であると名乗られた。


要約すると、以下のようなことが柔らかな言葉で綴られていた。


白川さんが春佳を気に入っており、家に招待したいと思っていること。家へは遠いので、ついては、春佳の数日間の旅行を父兄に許しをいただきたく、巻き紙はそのために認めてあるので、是非、同封して送っていただきたいこと。身柄は白川さんのお父上が保証し、路銀についても氏が工面するので、学校が終わればそのまま、上京の途についてほしいこと。


先に挨拶にうかがうべき所を、申し訳ないと重ね重ねお詫びしてあり、畏れ多いことと震えながら読み終わった。


中途で辞めさせぬため、神戸の家では母が一人で切り盛りしてくれている。幼い弟はきっと寂しい思いをしているだろう。本当は父の言葉に甘えず、すぐにでも学校を辞めて帰るのが、長女の役目であることもよくわかっていた。この上さらに、甘えることなど。


お断りしよう。そう、心に決めるも、畳まれたままの巻紙が目について、仕方がない。


引き出しを開け、新しい封筒と、紙を取り出す。洋紙は春佳に宛てたものでも、もう一方は父に送るべきものだから。


終業式は四日後に迫っていた。




家からの返答は、お式の前日、朝に届いた。お断りする旨を書いた春佳はまさか、返るものがあるとは考えておらず、この上さらに、父か母が病に倒れたのかと恐々として電報を受け取った。


息が浅くなるのをどうにもできず、青ざめた手で中を確かめる。


スグイケ、アトフミ


一人になった部屋で息を呑み、そして、首をかしげた。


折しも、細かい足音がしたかと思うと、扉が叩かれた。開けると、やはり白川さんがちょこんと立っていて、陶器のように白い頬を、今は赤く上気させているところを見ると、春佳が電報を受けとるのを知って駆けてきたのは明らかだった。


「ごきげんよう、小暮さん、お返事をうかがいに、参りましたの」

「白川さん」


何と答えて良いかわからず、手に持っていた電報をそのまま渡す。はっと目を見開いた少女は、すぐ、花も恥じらう美しい大輪の笑みを咲かせた。


「嬉しい!家へ来てくださるの!」


曖昧にうなずく。どうやらそういうことらしい。


全く、家へ帰るつもりで、許しを得ようともしなかった春佳は、まだ頭が追い付いていなかったが、白川さんは飛び上がって喜び、はっしと手を取った。


「楽しいことを、たくさんしましょうね」


楽しいこと。級友との他愛のないおしゃべりや、鬼ごっこや、綺麗な千代紙のこと。灰墨であった将来のことが、急に華やいで、春佳は心から笑んでうなずいた。


「ええ、たくさん、お話ししましょう」


少女時代を終える春佳への、手向けのような出来事に、人知れず天に感謝した。私は何と、恵まれた子でしょう。





ぱふん、と開いた日傘の真っ白なこと。縁に縫いとられた桜が早々と咲き、薄い影の中、淡い緑のリボンを結ぶ少女は可憐という言葉そのものにさえ思えて。


運命の悪戯、なんと言うべきか、春佳は幸運を得て、未だ家に戻ることなく、白川さんのお小さな手を引いている。

何故、同級生の手を引いているかというと、一回りか、ややもすると二た回りも小さい白川さんが荷を背負うと、重さに負けてあちらへふらふら、こちらへふらふらと何ともおぼつかない足取りで進むのである。

あんまりに不安で、荷を変わりましょうかと申し出れば、必ず駅まで、自分で持っていくという。頑なな面持ちにそれ以上何も言えず、それでは、と手を取ることにしたのだった。


春佳一人で歩くよりも、少し時間を多く使って着いた駅に、ごった返す人々と、その合間から、品の良い女の方が足早に歩み寄ってきた。白川さんは急に元気を得て、春佳の手を握る。


「嶋田!」

「お嬢さま!お久しゅうございます」


三十を過ぎたくらいだろうか。細い縞の銘仙をすっきりと着た方で、薄い風呂敷包み一つ手に持って淑やかに頭を下げた。


「私、白川晴己様にお仕えしております、嶋田と申します。この度は、一花お嬢さまの我が儘にお付き合いさせて申し訳ありません。ご同伴いただき、心より、お礼申し上げます」


畏まって、そのように述べられるものだから、春佳は恐縮して、深々と腰を折った。


「白川さんの同級の、小暮春佳と申します。この度はお招きいただいてありがとうございます。何もかもお世話になりますようで、大変恐れ入ります」


一頻りの挨拶を終えて、二人の間で手持ちぶさたにしていた白川さんがにっこり笑った。


「嶋田、私、自分で荷を持ってこれたわ」

「本当でございますねぇ。ご立派になられまして、嬉しゅうございます」


さあ、と嶋田さんが手を出して、白川さんの背負う風呂敷を引き取った。ふぅ、と一息ついて、おもむろに春佳を見上げて首をかしげた。


「小暮さんは持ってもらわないの?」


目を丸くした二人、片方はすぐ僅かに青ざめて、首を横に振った。おかしげに笑う嶋田さんが、ひらりと手を差し出す。


「お嬢さまにばかり、失礼いたしました。春佳さんのお荷物もお持ちいたします。嶋田は力持ちですから、ご遠慮なさらず」

「いえ、いいえ、私は自分で持てますので……!」


よもや、奪われまいと包みを抱き締めて、小さく叫ぶ。

すると、何をどう理解したのか、白川さんが御付きの袂をそっと引っ張った。


「じゃあ、一花も自分で持つわ」


しかし、脳裏によぎるここまでの道のり。汽車の揺れにおよそ耐えられそうもない心もとなさは、彼女の要求を断じて通してはならない。


「では、嶋田の荷と交代いたしましょう。そうでなければ、ここまでお迎えに上がったお役目が果たせませんからね」

「そうなの?」


ええ、とうなずく嶋田さんが、さりげなく、風呂敷から紙入れを取り出したのを見た。

そういうひと悶着があり、少し早足で駅に向かうと、もう汽車はホームに到着していた。

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