雲雀の鳴く日・下
中途で宿を取る一泊二日の鉄道旅行は、乗り換えを挟みつつ上野駅で終わりを告げ、一同は三台の俥を連ねて某所に構える白川候の別邸に向かっていた。お邸では、白川さんのお父様が二人の到着を待ちわびているという。
何の恥じらいもなく、誘いに乗るままについてきてしまった春佳には相当な緊張があったが、その中にも、俥に乗る白川さんの表情が落ち込んで見えたのが不思議だった。
何しろ、列車の中で幾度も白川さんのお父様の話題が上ったので。
一際大きなお屋敷を通りすぎて少し。春佳が圧倒されるに十分なお屋敷は高い鉄格子の門を備え、俥止めを擁する西洋建築だった。そぞろ並んで俥を降りると、固い表情の白川さんは春佳をちらっと見たあと、すすと寄ってきて、行き道のように、そっと手を握った。
嶋田さんが扉を開ける。招きに従って敷居を跨ぐと、玄関ホールには三人の使用人、そして白川氏が並んで、白川さんを待ち構えていた。
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
「ただいま」
いつになく(春佳は平素を知らないけれど)固い声に、疑問を持ったのは春佳だけではなかったらしい。ただ一人、白川氏だけが初めからずっと柔らかく笑んでいる。
「おかえり、一花」
「ただいま戻りました」
「そちらのお嬢さんを紹介していただけるかな」
握られた手に、力が入る。その時、春佳は隣に立つ小さな友人の手がひどく冷たいことに気づいた。
「こちらは小暮春佳さんです。小暮さん、こちらは私の父、それから徳子に、清住に、清住の奥さんの光子」
そして、視線をさ迷わせる。やがて、春佳たちの一歩後ろに控えていた嶋田さんを見つけ、こちらは嶋田、と初めてのように紹介した。
「初めまして、一花お嬢さまの御付きの嶋田と申します」
おどけて、そのように言うものだから一同笑って、そこでようやく、白川さんは陶器のような白い頬をぽっと染めて、はにかんだ。
「さて、立ったままは疲れるだろう。徳さん、栗の間へお茶を運んで」
「栗の間でございますか」
白川氏が軽く顎を引くのを認めて、徳子さんは後ろへ下がっていった。それを機に、他の方々もそれぞれの持ち場に戻られるようで、ホールに残ったのは白川氏親子と、嶋田さんと、春佳となった。
「一花、ご案内してさしあげて」
黙然と頷く白川さんが、ちょっと春佳を見上げる。
「小暮さん、こちらよ」
手を引いて、緩やかに歩き出した。
邸の奥へ奥へと連れていかれるものだから、血の気を失せさせて何度か白川さんを見たけれども、彼女は思い詰めたように前を向くばかり。後ろをついてこられる白川氏が咎めることのない様子を鑑みれば、間違いではないのだろう。
お話ししたのも、このお誘いがなければ数えるほどだったはず。そもそも、白川氏からお手紙を戴くような間柄でさえないものを、どうして。
困惑し続ける春佳の前で、船室のような扉が開いた。
窓が一つ、そこから、やわらかい陽が溢れている。四方の壁に沿って本棚が並び、低い一竿が並ぶ一面には、春を思わせるような暖かな色の織布が飾られていた。
「春佳さん、お座りになって」
示されたのは、窓の対面にある立派な黒い机、その正面に低いテーブルと一揃えになったソファの一つだった。恐々と、浅く腰掛ける。不意に触ったビロードの滑らかさに背筋を泡立てながら、震えてはいけないと下唇を噛んだ。
三人が席に着くと、見計らったように、徳子と紹介された老女中がお茶を運んできて、音を立てず配る。終えると、そのまま部屋に控えようとしたのを白川氏が断って、嶋田さんと二人、出ていってしまった。
「長い旅路だったでしょう。随分、疲れたのではないかな」
「いいえ、それほどではございません。何もかもお世話いただいて、本当に感謝しております」
ティーカップを優雅に持ち上げ、白川氏は気さくに微笑む。春佳の隣に座る白川さんは奇妙にしおらしく、列車でのはしゃいだ様子など微塵もない。
「そうだ、僕が書いたお手紙をお父上に送っていただけたかしら」
「はい。お心配り、ありがとうございます。父も恐れ多く思っております」
「そう。面倒をかけてごめんなさいね。お所が分からなかったものだから。それで、あなたも手紙を読んだの?」
あなたも。少し考えて、巻紙のことかと気づき、横に首を振る。いいえ、と正直に答えれば、白川氏は満足したようにうなずいた。
「噂に違わず、賢い子のようだ。それで一花」
ぴくりと、肩が揺れた。
「お願い事を言ってごらん」
ちょこんと、膝に整えられた手が、忍ぶように春佳へ伸びる。座面に降りて惑うように縮こまった指を、どうかしたのかと軽く握れば、決心したように、白川さんは前を見据えた。
「小暮さんの学費を出してほしいの」
えっ、と春佳は絶句する。この子は一体何を言いだすのか。
「へぇ?それはどうして?」
しかし、目の前に立つ御仁は面白そうに目を輝かせて、白川さんに話を促した。
「小暮さんのお父様にご事情があって、来年の学費を出せないのですって。だから、お父様に学費を出してほしいの」
「し、白川さん!」
慌てて声をあげる。何故、白川さんがそこまで知っているのかという疑問と、物乞いのような自分に顔に血が上るのを感じたが、怖いもの知らずの友人は一瞥しただけで取り合おうともしない。氏を振り向けば、鷹揚な態度を崩す気配さえない。
「白川様、私はただ、白川さんにお家にお招きいただいただけで、こんなつもりは……!」
「はは、そうだろうねぇ」
白川さんが白川さんなら白川氏も白川氏である。のんびりと、分かっているようなことを返事されて、どうにかこの彼女を諌めてはくれないかと期待しても無駄なようだった。
「小暮さんが学校を辞めてはいけないわ。必ず、師範学校まで行って、先生になるべきよ」
確かに、教員免許をいただいて、教師になることが夢だったが、学校ではほとんど話したことのない白川さんにここまで言われる筋合いもない。
しかも、彼女はさらに言い募る。
「学校一の才女が、自分の病気でもないのに辞めなくちゃならないなんて絶対にいけないことよ。お父様、お願い」
「ううん、だがねぇ」
「どうして!」
そして、白川さんは吠えた。
「一花よりずっと賢くて、お優しくて、皆さんに人気のある方が道半ばで辞めてしまうなんて、学校の損失だわ!」
学校の損失!なんて大げさな言い回しをするのかと驚いたが、それを発した友人は本心からそう言っているらしいかった。
「一花、学費を出し手と簡単に言うけれど、それは決して、小さい額ではないよ」
「小暮さんが教師になれば、学校のお月謝以上にお稼ぎになるわ!それに、こんなに賢くてお優しいの、小暮さんに教えられた生徒たちは必ず立派な方になってお国に貢献します。それを、お金がないだけでお免状がいただけないなんて、大きすぎる損失よ!才ある方には道が開かれるべきだわ!」
えらく壮大な話を、臆面もなく叫ぶ白川さんに、それまで悠然と構えていた白川氏も思わず呆気にとられていた。えっと、と氏が次の言葉を思案する間さえもどかしいのか、彼女はひしと春佳の腕を抱きしめた。
「晴己くんがうんって言うまで、小暮さんを帰さないもん!」
それは一体、誰に対しての人質になるのだろうか。言っていることがめちゃくちゃで、クラスで見た澄まし顔は一体何だったのか、気が遠くなる。
ぱちん、と氏は口を覆う。しかし、耐えきれず、体をくの字に曲げて大笑いした。
「わかった、わかったから一花、離してさしあげなさい」
「出してくれる?」
「小暮さんのご両親がいいと言えばね」
ごりょうしん。はっと呟く。そして、ぱたぱたっと目から雫を溢れさせた。
「小暮さんのお父様とお母様は、駄目とおっしゃるのかしら……」
それは、春佳にもわからない。ただ、学費のあてが見つかったから、じゃあ戻りましょう、という簡単な話でもなかった。
だが、本音を言えば、春佳は師範学校まで進んで、白川さんの主張するように教師になりたかった。そして、ここまで友人が必死になるほどの価値が自分にあるとは思えないが、両親の言うことに素直にうなずくことも、本心でははばかられた。
「小暮さん」
テノールの、耳に心地よい声に呼ばれる。白川氏は、穏やかに微笑んでいた。
「君は、どうしたい?」
きゅっと、絡みつく腕が銘仙を締め上げた。千切れてしまわないかしら、と頭の片隅で思いながら、少女は思いもしなかった未来に目を輝かせはじめていた。
「私は、未来の子供達に、世の中に負けない知恵を授けたくて先生になりたかったのです。もし、それが叶うのなら」
まだ道があるというなら。
「私はまだ、学校へ通いたいのです」
氏は大きく頷いた。
「うん。君なら、そう言うと思ってね。僕から改めて、小暮さんのご両親にご説明差し上げよう。それでいいかい、一花」
まさか、この子は学費さえ何とかなれば学校へまた通えると思っていたに違いなく、はっきりとしない結果にもやもやとしながらも、これ以上は自分の力ではどうしようもないことはわかっているのだろう。
うなずいて、たくさんお話ししてね、と念を押した。
それから少し、今はお行儀よく、両手を膝に置く白川さんと、白川氏と一緒に談笑していたが、思い出したように、白川氏がカップを置いた。
「そうだ、新しい着物を仕立ててあるから、着替えて、私に見せておくれ」
「そうなの?」
「春は桜でしょう」
すると、白川さんはにっこりと笑って、ごめんあそばせ、と一言、席を立って行った。はたはたと軽い足音が遠ざかるのを、白川氏が目を細めて見届ける。
「さて、これでしばらく、時間が稼げるね」
そして、いたずらっ子のように片目をつむって見せた。
「小暮さんのお父様に宛てた手紙で、君の学費を支援するとの申し出はもう伝えてあるんだ」
なんですって。目を丸くする春佳にしたり顔でうなずく。
「君の話は、一花からとてもよく聞いていたよ。お優しくて、とても優秀な方がクラスにいるけれど、お友だちになりたいけれど、上手くお話しできないと」
お話しどころか、話しかけられたことすらない。しかし、白川氏はそれすらも察しているという風に少し笑った。
「それが、つい先月のことか、小暮さんが学校へ通えなくなるかもしれないと手紙を寄越した。学年一優秀という話は聞いていたから、支援することはやぶさかでもないけれど、小暮さんを連れて、きちんと自分で申し上げに来なさいと返したんだが、予想されたこととはいえ、なかなか、あの娘は大きい口を叩いたね」
なんという種明かしだろう。あのとき、白川さんが頑なに譲らなかった理由も、こういうわけなら理解できる。彼女はあの時、父の確たる返事のないままに、学費を出してもらえると確信していたのだ。
「あの、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「白川さんは、どこでその、私が辞めると伺ったのでしょう」
「ああ。音楽の先生にお教えいただいたと言っていたかな。ご婦人はおしゃべりでいけないね」
あの、仏人の。どうやら本当に、彼の先生と白川さんは仲が良いようだった。
「君の家のことは、調べさせていただいたよ。お父上の会社については残念なことだったが、過去は過去、これからのことを考えよう。小暮家がこちらへ出てこられるならば、仕事ー私の秘書を頼みたいと知らせてある」
秘書。つまり、春佳の学費だけでなく、一家まるごと、支援するということだろうか。
「父は、なんと」
「すぐに東京へ出ると、電報が来たよ。二日か三日もすれば、君にもお手紙が来るでしょう」
春佳は深々と頭を下げた。
「大変、ありがたいお申し出です。御礼の言葉だけではとても足りません。私だけでなく、父や、家族までお支えいただくなんて……」
「ふふ、一花もだが、君も素直で大変よろしい。でも、君にはもっと、賢くなってもらわねばね」
たとえそれが何者であっても、平身低頭するしかないのではないか。
「僕は仕事上の秘書を探していた。そして、もう一つ、探していたものがある」
そこで、扉が叩かれた。どうぞ、と白川氏が許せば、着替えた一花が顔を出した。
「うん、よく似合ってるよ」
「お父様、こんなきれいなお着物、ありがとうございます」
頭を下げる仕草があまりに優美で見とれていると、ちょこちょこと小走りに、可愛らしく隣に腰かけた。少し下から見上げつつも首をかしげる様子などは、本当にお人形のようで、言葉に詰まってしまう。
「あの、小暮さんのお父様も、お母様も、必ず良いっておっしゃってくださるわよね……」
今しがた種明かしされたばかりで、春佳はとっさに歪な笑みを浮かべた。横目で見た白川氏は我が娘には伝えない様子で、深い黒の瞳が、秘密、とわずかに細められるばかり。
「き、きっと、お許しをいただけるわ」
「ええ、そうね、きっとそうよ」
いくらか安心して、白川さんは肩の力を抜いた。
「一花」
「はい」
「もう一つ、せねばならないことがあるね」
一瞬、きょとんとして、それからはっと顔をこわばらせた。
この上何があるのだろう。つられて緊張する春佳の手を、小さな両手が掬い上げた。
「あの、」
言葉を失い、口を開閉させるのはいつか見た光景だが、予想のつかない春佳に、同じように助け船を出してやることは不可能だった。
すっと小さく息を呑む。
「お友達に、なってくれませんか」
かすれ、消え入りそうな声音。
思いもよらない「お願い」に言葉を失う。お友達でなければ、わずかでも親愛の情がなければ、たとえ、それが生涯最後の春になるであろうとも、お家にお呼ばれしたとしても、お断りするだろう。ともに汽車には、乗り込まないだろう。
しかし、白川さんはあくまで真剣に、春佳をいじらしく見上げていた。
「ええ、もちろん」
そして、春佳は続ける。
「私たちはもうすっかり、仲良しのお友達だわ」
白磁の頬に、朱が上る。見開いた丸い目を潤ませさえして、少女は「お友達」の手を胸に抱いた。
「うれしい。小暮さん、一花の初めてのお友達」
「初めて?」
思わずこぼした問いには、向かいから答えがあった。
「一花は体が弱くてね。外に出られず過ごしていたものだから」
いつも、憂い気に窓辺でたたずむ少女。それは、同じ年ごろの娘とお話したこともない、戸惑いと、寂しさの面影であったことに、気が付いた。
「たくさん、お話を、楽しいことをしましょうね」
白川さんは笑う。花の咲くように、可愛らしく。
やがて、たくさんのお菓子を嶋田さんが運んできた。西洋の甘いお菓子とともに、練り切りや落雁も取り合わされて並べられた机は不思議な光景だったが、白川氏や白川さんが手を出すのはもっぱらそれら和菓子で、お茶もいつの間にか、なじみのある緑茶を注がれていた。
「白川さん、あの、一花さんって、お呼びしてもいいかしら」
梅の形をした落雁を口に入れようとしていた白川さんは、それをそっと、春佳の小皿に置いた。
「私も、春佳さんと呼んでもいいかしら」
「もちろんよ、一花さん」
「春佳さん」
はっと細い腕が春佳にとりついた。気づいた時には真横に、一花さんの小さな頭があって、幼い子のように彼女はしがみついていた。
「春佳さん、大好き」
あれほど遠くに見えた彼女が、本当は、ただ世間知らずなだけの幼い一花さんだった。ひとまず、口に入れかけたものを誰かに差し上げるだとか、見境なく体を寄せるだとか、そういうことをお友達にしてはならないと教えなければ、と思いながら、しかし、心の底から慕ってくれる行いには抗いがたく、小さな背に手をまわした。
白川氏が、とても満足そうに、二人を眺めていた。
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