真実の泡:弐


 動きがあったのは数分後のことだった。琴葉の携帯に電話がかかってきたのだ。

 着信画面に映し出された名前はもここ。


「あわこちゃんがどこかへ出かけたきりなんだけど知らない?」


 あいつがどこかへ出かけている。もはや偶然ではない。

 もここを呼んで俺たちは幸太のアパートに集まった。

 現在午後三時。空は分厚い雲に覆われていて今にも雨が降り出しそうだ。


「とにかく幸太の身の安全を確保するのが先だ」

「それからばぶるんを探すんですね」


 互いに頷いてアパートの敷居をまたぐ。

 例の階段をのぼろうとした直前のことだ。


「うわああああああああああああああッッッ!!!」


 男性にしては甲高い悲鳴がアパートに轟いた。

 血相を変えて顔を見合わせる。


「今のって幸太くんのですよねっ!」

「すごい悲鳴だったよっ!」

「急ぐぞ!」


 足音も気にせず力いっぱい階段をのぼりきる。

 ドアノブを握るとすんなり開いた。

 思いとどまることなく部屋の中に飛び込む。


「い、いなりん……っ!」


 まず目に飛び込んできたのは音信不通の泡子だった。

 大粒の涙を浮かべ真っ白なまでに顔から血の気が引いている。手にはなぜかお祓いで用いるようなお札まみれの棒が握られていた。


「ここにいたのか泡――――」

「――――助けてッ!」

「……っ!」


 俺の言葉を待たず、泡子が押し倒す勢いでしがみついてきた。

 一瞬、頭が空白になる。


「助けてだって……?」


 流れるように部屋の様子が瞳に映った。散らかったベッドに折り畳み式のテーブル。脱ぎ捨てられた衣類が生活感を感じさせる。

 ただ、空気が胸を圧迫した。

 肌を刺す異様なまでの冷気。カーテンで締めくくられた薄暗い部屋。漂うかび臭い匂い。ぞっとして鳥肌が立ってしまう。

 部屋の中心で一人の青年が倒れていた。

 まぎれもなく幸太その人だ。


「しっかりしろ幸太!」


 部屋に飛びこんで意識を確認する。

 どうやら気を失っているだけらしい。


「幸太くん!?」


 続く彼女たちが幸太の状態に表情を強張らせた。

 大丈夫、気を失ってるだけだ。

 そう伝えようとしたのだが、


「ちょっ! ええぇぇぇえッ!?」


 琴葉が腹の底から大声をあげた。

 視線の先は部屋の隅だ。


「な、なんだ?」

「あそこっ! あそこぉぉっ!」


 女の子なんだから言い回しには気をつけろ!

 指さす先に目をやるが、


「なにもないぞ……」

「違いますっ! あのえっと……はぐっ」


 何を言い出すのかと思えば急にあめ玉を舐め始めた…………まさか。

 口の中からそれを取って俺ともここに突きだす。


「ど、どうじょっ!」


 焦りと唾液のせいで上手く滑舌が回っていない。いったい何がそれほど琴葉を焦らせているのだ。

 あめ玉を口にした。

 

 見える世界が、変わる。


 そこは確かに幸太の部屋だった。

 だが、部屋の隅に。

 異物が紛れ込んでいる。


「嘘、だろ……?」

「ひっ……」


 化け物がいた。

 枝毛と白髪の入り混じった長髪に痩せこけた頬。墓地に咲く百合のように白くかすんだ肌。しわがれた唇。身に纏う死に装束。

 骨と皮のみで出来た細い手足を壁について、まるで巣を張った蜘蛛のように張り付いている。血走って眼で、こちらを見つめながら。

 目を合わせては終わりだと本能が警笛を鳴らした。

 ヤツから目をそらさないまま、一歩ずつ後退する。

 琴葉に近づき震える小声で尋ねる。


「あれはいったいなんだ……?」

「おそらくですが幸太くんの世界なんだと思います」

「幸太の世界……」


 アレは幸太の想像上の化け物だってことか……?

 しかし俺の背中に隠れる泡子が訂正した。


「……ち、違う……これはボクの世界でもある」

「泡子の?」

「……うん」


 幸太の世界に存在しながら同時に泡子の世界にも顕現している。


 それはすでに現実ではないだろうか……?


 いや、今考えるべきことではない。ここから脱出することが最優先だ。


「三人とも。足に自信はあるか?」

「わたしの脚は長くも短くもないのでなんとも……」

「……肌の張りはたまもの」

「そういう意味じゃない! 走れるかって聞いてるんだ」

「…………佑哉くん、大声はまずいよ」

「……っ」


 失態だ。

 つい声を荒らげてヤツの注意を引いてしまった。視線がこちらに向いているのを肌身で感じる。

 顔をそむけて内緒話をするように確認した。


「……走れるな?」


 こくりと三人が首肯する。運動のできる文系クラブも悪くない。

 俺はやつを刺激しないようこっそり幸太の身体を寄せた。幸太の腕を肩にかけ、全身を持ち上げられるよう背中に乗せる。おんぶに似た体勢だ。

 これで準備はできた。


「よし。それじゃ外に……」


 つい気を抜いてしまった。

 ヤツは動かないものだと思い込んでいた。

 ベッドのほうに視線をやったとき。

 そこにヤツは移動していた。


 ――――目が合ってしまう。


 にやりと不気味に笑うのを、見た。


「逃げろォォォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」


 叫ぶと同時に三人が玄関を目指し走り出した。

 俺も幸太を背負いながら全力で駆け抜ける。

 後ろからヤツが追って来ていた。

 追跡手段は分からない。

 浮遊しているのか。

 走っているのか。

 はたまた四足方向なのか。

 確認する余裕などなかった。

 一目散に玄関を目指す。


「はぁ、はぁっ!」


 手を伸ばされている感覚があった。

 指先が俺の腕に触れる。

 氷のように冷たい指だった。


「はぁ、はぁ……ッ!」


 前の三人が玄関の扉をくぐった。

 あと一歩。

 腕をつかまれそうになった直前、


「おォォォォォォおおッ!!」

「――――っ」


 部屋を抜けきった。


「ぜぇ、はぁッ」


 肺に穴ができたのかと疑ってしまう。吸っても吸っても呼吸が収まらない。

後ろを振り返れば三人が必死になって扉を押さえこんでいた。

 ドンドンドンッ!!

 あのとき聞いた壁を叩くような音がする。


「……ふう……ふう」


 ようやく息が整ってきた。脳に酸素が回り始めたおかげで周囲の状況に目を配れるようになる。そこで気がついた。


「なんで暗くなってんだ……?」


 ついさっきまで昼だったはずだ。雲が厚かったとはいえ、これほど暗くなるとは考えにくい。

 空には星々が輝いている。

 月が赤く見えた。

 人の気配はない。

 ドンドンドンドンッ!


「きゃっ!」


 三人の体力も限界に近づいてきたようだ。

 俺は幸太のポケットをいじり鍵を見つけた。駆け寄って差し込み、回す。鍵を開けられないのか、やつはその後も扉を叩き続けた。


「どうなってるんだ。これも幸太と泡子の世界のせいなのか?」

「わたしもこんなことは初めてで……。もしかすると二人の世界が重なったから、わたしたちはその世界に吸い込まれてしまったのかもしれません」

「世界に吸い込まれるだと?」


 この世は本当に謎だらけで困る。

 だが今やるべきことは決まりきっていた。


 ヤツから逃げること

 この世界から脱出すること


 この二項目が俺たちの目標になるわけだ。

 ドンドンドンドンッ!

 壁を叩く音が強くなる。


「とりあえず場所を変えよう。話はそれからだ」

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