嘘つきの仮面:壱
出発の準備を済ませ、預かった鍵で施錠をおこなう。
ちょうどそのとき、隣の玄関がひらいた。
出てきたのは三十代前半らしき髪の長い女性。年齢にしては少し無茶をしたフリフリの服装をしている。ところどころがよれていた。
特筆すべきは彼女が手にしているものだ。透明なゴミ袋の中で何十本もの空き缶が甲高い音をたてている。そのすべてがアルコール飲料だった。一日でこれだけ飲んだとは思えないが、それにしても圧巻だ。
「おはようございますっ」
余計なことに琴葉が挨拶を交わした。
挨拶するのはいい。いいけれど、だ!
「あら、ご丁寧に。おはようございます」
薄化粧の女性はにこやかな笑みを浮かべた。
どうやら面倒な人物ではないらしい……ん?
ふと思い出した。
隣の部屋には誰も住んでいないはずだ。だからこそ隣の部屋から聞こえる壁ドンが心霊現象だと騒ぎになったのだ。
「八坂くんのお友達かしら?」
「はい」
「本人がいないみたいだけれど。私はこのアパートの大家。決して怪しいものではないからね」
なるほど。大家だから誰も住んでいない部屋に入れるわけだ。そのように納得しかけたが、これまたおかしいだろうと新たな疑問が生じる。
大家がなぜ空き缶でいっぱいのゴミ袋を持って空室から出てくるのか。
調べてみる価値はありそうだ。
「あのすみません」
「何かしら?」
「大家さんってこの部屋に住んでらっしゃるんですか? 幸太からは誰も住んでいないと聞いたのですが」
「暮らしてはいないよ」
住んでもいないのに早朝からゴミ出しをやっていると。
少し矛盾した回答に俺は眉根をよせた。続けて大家の手にするゴミ袋に視線をやり、我ながらいじらしく質問してみる。
「失礼ですが、そのゴミ袋は……」
「……ええっと」
まばたき程度の一瞬、大家の表情が歪んだように見えた。触れられたくない事情でもあるかのように。
彼女はこう言った。
「これはね、うちから持ってきたものよ」
「うちからですか。また大変ですね」
「これから空き缶を使ったイベントがあってね。エコをテーマにしたものらしいんだけど。この部屋の様子を確かめてからそのまま行こうと思って」
「知ってますっ。巷で話題のやつですね」
琴葉が知っているのだから本当にイベントが催されるみたいだ。とはいえ家から空き缶を持ってきた証明にはならない。この部屋で飲んだ可能性も考えられる。
視点を変えてみよう。ハイヒールは履いているだろうか。そうであれば大家が今回の出来事に関わっているのは間違いない。
ちらりと足元を見てみるものの俺の予想は外れた。履いているのはスニーカーだ。俺の推測したように、もしも大家が『ハイヒールの音』の本人だとしたら今も履いていないとおかしい。
そうだ。
こういうときにこそ便利な力があるじゃないか。
「肩なんかつついてどうしたんです?」
「……いや……その……」
いざとなると羞恥で顔が爆散しそうだった。多少は慣れたといえど、お前の舐めたあめ玉をくれないかなんて口が裂けても言えやしない。
どう交渉するべきか戸惑っていると、
「もしかしてあめ玉です?」
「…………そういうことだ。頼めるか?」
「もちろんです!」
琴葉はスカートのポッケに手を入れてあめ玉を口にした。小さな舌に転がされるあめ玉を想像してしまい発火しそうになる。
琴葉は何の恥じらいもなく、
「はいどーぞ」
ねっとりしたあめ玉を差し出した。罪悪感というか、何というか……とにかく死にたくなる。
「助かる……」
自分から頼んだのは初めてのことだったのでよほど緊張したが、もう一安心だ。
あめ玉で世界が変わる。
大家の周りに数人の男性がたむろっていた。片手にお酒、片手にポッキーと摩訶不思議な組み合わせである。男性らが陽気なのに対し、大家自身は不機嫌なオーラを漂わせていた。これがまたミスマッチで頭を悩ませる。
いいや、似た光景を俺はなにかのドラマで見たようなことがあるぞ……。
「そうか、合コンだ!」
「ゆ、ゆうやくん?」
「彼女でも欲しい……?」
「……頭おかしい」
うっかり声になってしまった。
あわてて大家のほうを見やるが非常にまずいようだ。整った顔立ちが引きつっている。先ほどの世界も合コンの様子なのだろう。
たぶん大家は連日の合コンで大連敗しているのかもしれない。何かのヒントになればと思っての試みだったが収穫がこれでは失敗に終わってしまったようだ。
肩を落とす俺の一方で、彼女のほうから話題が投げかけられた。
「八坂くんは最近どうしてる? 何か悩んでいるようだけど」
なにやら幸太のことを心配しているらしい。それなりの親睦はありそうだ。
俺たちは顔を見合わせた。幸太が心霊現象に頭を抱えているなんて色々とまずいし、そもそも言いにくい。
結果、お得意の嘘で誤魔化すことが最善手となった。
「あいつ実は恋に悩んでいまして。大家さんはそういった相談を本人からされたことがありますか?」
あの能天気が恋しているはずないけど。
対して大家は、
「そういえばいつの日にか受けたような……」
嘘から出た実であった。
「幸太くんにもついに春が訪れたんですねっ!」
「どんな人なのかなっ?」
「……興味あり」
その手の話に女子は弱いようで瞳をキラキラと輝かせ、そわそわしていた。正直、俺も気になる。
アラサー女子代表の大家はフリルをひらひら揺らつかせて口元に指をあてた。
「ええっとね、八坂くんの意中の相手は髪が長いらしくて」
「「髪が、長い……」」
現象学研究会の中では琴葉と泡子が候補に残ることになる。
「……ボクの罪は重い」
「早いから」
自意識過剰な泡子は置いておいて最後まで話を聞こう。
ついのめりこんでしまう俺たちに大家は演説家のようにふるまった。
「彼よりも年上の女性で」
「「年上女子……」」
幸太のやつ年上が好みだったのか。幼い顔つきは大人の女性と相性ばつぐんなことだろう。おめでとう。
「そしてなにより薄化粧している人かなぁ」
「「薄化粧…………え?」」
待てくれ。彼女によれば幸太の恋する相手の特徴として、ロングヘアーの薄化粧年上が挙げられるそうだ。
心当たりがありすぎて恐い。
幸太が恋している相手とは……、
「そう、私なの」
「「「えええええッ!」」」
一同全員、目を丸くして腹の底から叫び上げた。早朝から迷惑極まりない。とはいいながら俺もその一人だ。
大家は悪戯っぽく笑う。
「嘘なんだけどね」
唖然。
お茶目なアラサージョークは俺たち高校生に通用しないんだぞ……。
「ごめんね。この子が嘘をついたものだから、ちょいっとお返しに」
指さされたのは間違いなく俺だった。
「俺が嘘ですか……?」
「幸太くんが恋で悩んでる、それって嘘でしょ?」
「いや、それは…………」
幸太を心配する大家に対して放った言葉。そこに悪意を込めたつもりはない。大家に余計な心配をかけさせないための、都合のいい嘘だ。
しかし俺の嘘が見破られたのはいつ以来のことだろう。あまりにあっけにとられて放心状態に陥ってしまった。
「いたた……っ」
「どうされたんですか?」
大家が急に腰のあたりを押さえる。一転して情けない感じもするけれど少し心配だ。
琴葉がそばで支えた。
「ありがとう。最近、腰が痛くてね」
三十代にもなると腰痛持ちになってしまう。なんというか現実的の一言に尽きた。
痛みはすぐにおさまったようだ。
「それじゃあ私は行くね」
歩き方が何だかぎこちない。……この人やっぱり酔ってるんじゃないか?
俺の隣を過ぎたとき、ぽつりとした彼女の独り言が聞こえる。
「八坂くんが私に恋していたら、どうなっていたのかしら?」
三十代女性と十五歳の男子高生。考えただけでも危ない関係だ。恋は盲目というけれど、まさか……。
金属製の階段を降りる直前、大家はくるりと振り返り俺を見つめた。
「あなたも結構、イケメンよね」
「酔ってますよね? 絶対そうですよね?」
「ふふっ、冗談よ。私、お酒にはめっぽう強いもの」
「冗談に聞こえないんですよ……」
狐につままれた気分だ。
それになんだか落ち着かない。
気が付けば階段を下りる彼女の背中に声をかけていた。
「あの!」
「なに?」
こんな気持ちは初めてで、どうすればいいか見当がつかない。
だから自分の気持ちに素直に従うことにする。
「さっきはその……嘘をついてすみませんでした」
「あら、そんなこと?」
「いや、でもっ」
「気にしないで」
嘘をつかれたはずの大家の機嫌はすこぶるよさそうだった。嘘を嘘で返したことに満足したのか。それとも別の何かがあるのか。
「男の嘘には見飽きてるからね」
なんとも魅惑的で女性らしい微笑みだったと俺は記憶している。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます