俺の家の隣の洋館に住んでいる同級生は、雨降る夜空の下で相合い傘がしたいらしい。

 自宅に戻り、自分の部屋の机の上にベーカリーの紙袋を置く。

 それから、ベッドの上に腰かけた俺は、制服のポケットからスマホを取り出し、右手で握った。

 そのまま画面に視線を向け、「はぁ」と溜息を吐き出す。


「今、大丈夫なのだろうか?」と呟いた俺の頭に浮かび上がるのは、心美の笑顔。

 隣の洋館に住んでいる彼女のことを思い出すと、頬は自然を赤くなる。


「そうだな。分かった。電話だと迷惑かもしれないから、メッセージでも送ろう」

 独り言のようにボソっと呟き、頬を赤くしたままでスマホの画面を凝視した。


 メッセージアプリで相変わらずなラベンダーの花のアイコンをタッチして、彼女にメッセージを送る。


「心美、門限の午後8時までのところで会えないか? 無理だったら、明日でもいいんだが……」


 こんなメッセージを打ち込み、送信ボタンを押してから、5分後、学習机の前に座り、歴史の教科書を広げると、教科書の右隣に置いたスマホが振動を始める。

 慌ててスマホを手に取り、画面を見ると、心美からの着信に気が付く。

 そのまま、通話ボタンを押し、スマホを右耳に押し当てると、いつも通り明るい心美の声が届いた。


「もしもし。奈央。メッセージ読んだよ」

「ああ、心美、今、電話しても大丈夫なのか?」

「心配してくれてありがとう。今、トイレの中だから、30秒くらいなら平気。流紀ちゃんのことも気になるけど、それはまた今度にして、今晩午後7時50分からなら時間取れそう。もちろん、ただ会うだけならね。ウチの門扉の前で待ってるから」

「ああ、分かった。じゃあ、その時間に隣の洋館の前で待ってるからな……って、そんなこと、わざわざ電話でする話か?」

 疑問に思ったことを口にすると、遠くからドアをノックする音が聞こえてくる。

「30秒だけでもいいから、奈央の声が聞きたくてね。じゃあ、またね」

 声を潜めた心美の言葉を耳にしてすぐに通話は途切れてしまう。

 それからスマホを再び、机の上に置き、視線をスマホの近くに置かれた紙袋に向けた。

「ふぅ。なんとか渡せそうだな」

 呟いた俺の顔には喜びが宿り、時間が過ぎていくのが楽しみになっていた。




「あっ、母さん。今晩の7時45分から出かけるからな。午後8時までには帰る予定だ」

 家族全員が揃った夕食が終わり、食器を洗う母さんに声をかける。

 すると、母さんは興味津々な表情で俺の顔を覗き込んできた。

「その嬉しそうな顔、心美ちゃんに会うんでしょ? 珍しいね。そんな時間に呼び出しなんて……」

「いや、俺が呼び出したんだ。ちょっと、渡したいものがあってな」

「お父さん、聞いて! 奈央、遂に心美ちゃんに婚約指輪渡すってさ」

 大声でリビングで寛ぐ俺の父さんに声をかける母さんの前で、俺は首を横に振る。

「違うからな。第一、まだ心美との婚約は認められてないんだ。近所で評判のマリトォツォをプレゼントしたいんだ」

「ああ、お昼のワイドショーでやってたわ。若者の間で、マリトォツォの生クリームの間に、婚約指輪を隠してプロポーズするのが流行ってるって!」

「母さん、一度、婚約指輪から離れような」と俺は苦笑いした。



 それから、時間が過ぎていき、午後7時45分。玄関で靴を履き、家族に「いってきます」と声をかけてから、俺は自宅を飛び出した。

 夜空を見上げると、月が厚い雲に隠されているのが分かる。

 数十秒ほどで、隣の洋館の大きな門扉の前に辿り着いた俺は、「ふぅ」と息を吐きながら、右手で握った紙袋に視線を向けた。

 丁度その時、俺の頭の上に液体がポツンと振ってくる。

 まさかと思い、空を見上げると、夜空から雨が降り始めていた。

「おいおい。マジかよ」と左手で頭を掻き、眉をひそめる。


 隣にある我が家に傘を取りに戻るべきだろうか?


 そんなことを考えながら、俺は首を捻った。

「うーん。早くしないと、紙袋が濡れちゃうしなぁ。でも、心美を待たせたくないし。どうすれば……」

 相反する気持ちを胸に抱え、悩み続け数秒が経過した頃、俺の視界の端に雨粒を弾く傘が見えてきた。

「はい。傘がなくて困ってるんでしょ?」

 背後から傘を差しだしてきた彼女の声に反応し、俺の頬が赤くなる。そうして、彼女と体を向き合わせると、その先には学校の制服を着た心美がいた。

「ありがとうな」と頭を下げながら、左手で折り畳み傘を手に取る。

「念のため、折り畳み傘持ってきて良かったよ。それにしても、めずらしいね。奈央が、こんな時間に私を呼び出すなんて……」

 同じ傘に入り微笑む心美と対面した俺は、右手に持っていた紙袋を彼女の前に差し出す。

「忙しかったら、明日でも良かったんだが、これを直接渡したくてな。近所で評判のマリトッツォ、買ってきた」


 その一言に、心美の頬が赤く染まる。

「私のために、買ってきてくれたんだ。私、嬉しいです」

 喜んだ顔になった心美が紙袋を受け取ると、すぐに傘を左手から右手に持ち替えて、ホッとした表情をする。

「やっぱり、買ってきて良かった」

「それにしても、ホントに奈央がマリトッツォを買ってきてくれるなんてね」

 そんな心美の楽しそうな発言が気になり、俺は思わず首を傾げた。

「えっと、それはどういう意味なんだ?」

「マリトッツォの語源は、夫を意味するマリート。ローマ地方では方言でマリトッツォって呼ばれてて、婚約者の男性が女性にマリトッツォを贈る風習があったんだって聞いたことがある。正式な婚約者じゃないけど、奈央は私にマリトッツォを贈ってくれた。だから、嬉しいの!」

「ああ、そういうことかぁ。母さんが言ってたんだ。最近、マリトッツォの中に婚約指輪を隠して、プロポーズするのが流行ってるって」

 俺が納得の表情を浮かべると、目の前にいる心美がクスっと笑う。

「正式な婚約者でもないのに、婚約指輪を隠すなんて、気が早すぎるよ」

「誤解だ。婚約指輪は入ってないからな!」

 慌てて左手を左右に振った俺の前で、心美は優しく微笑んだ。

「冗談だよ。じゃあ、奈央の家まで送らないとね」


 心美の左手が傘を握る俺の右手に重なる。

 その指が触れた瞬間、俺の頬が赤く染まった。


「いや、俺はいいよ。走ればそんなに濡れないから」

「そういうわけにはいかないよ。私は少しでも奈央と相合い傘したいの!」


「あら、雨降る夜空の下で夫婦ケンカ?」

背後から母さんの声が聞こえ、振り向くと、

その先には傘を刺した母さんの姿があった。

左手にはもう一本、閉じられた傘が握られている。

「雨降ってきたみたいだから、傘届けにきたんだけど、邪魔だったかな?」

 ニヤニヤと笑う母さんと顔を合わせた俺は溜息を吐き出した。

「まあいいや。門限までまだ時間あるし、少しだけ散歩するか? 相合い傘で」

「はい」と明るい表情で隣の心美が首を縦に動かす。

「あっ、母さん。ありがとうな。傘、届けてくれて」

 素直に感謝して、母さんの手に握られていた傘を手に取る。


 それから俺たちは、雨が降る夜空の下で相合い傘をして、同じ歩幅で歩き始めた。

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