俺のクラスの学級委員長は、ラーメンが食べたいらしい。
心美が海外旅行に出かけた日の翌日の朝、夏休みの宿題の数学の問題集を自室で進めていると、机の横に置かれた充電中のスマホが震えた。
それが気になり、視線をスマホに向けると、いいんちょから着信中の文字。
同時に先日の夏フェスのチケット問題のことが思い出され、やっと覚悟ができたのかと思いながら、俺はスマホを耳に当て、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「倉雲くん、やっぱり寂しいよね? 心美ちゃんが海外旅行中で」
「そうだな。少し静かだと思っていたところだが、もしかして夏フェスに行く覚悟ができたから電話したんじゃないのか?」
「ううーん。倉雲くんが付き合ってくれたら、考えてあげようかな?」
「付き合ったら……」と呟きながら、これまでのことを思い出す。
これまでウチのクラスの学級委員長は、俺に対して「付き合って」という言葉を使ってきた。いいんちょは、俺と交際したいという意味ではなく、お願い事がある時にあの言葉を使う。
つまり、これは不倫や二股ではなく、ただ友達と遊ぶだけ。そんなことを考えていると、スマホからいいんちょのクスっとした笑い声が聞こえてくる。
「困らせちゃったかな?」
「悪い。一瞬、躊躇いかけた。それで、今日はどこに行くんだ?」
「……今日じゃなくて、明日の午前10時、駅前で待ち合わせ。詳しいことは明日話すわ」
そう伝えた後、電話が一方的に切れた。
釈然としないまま、時間が流れていく。
約束の時間の10分前、シンプルなデザインの水色の半袖Tシャツにジーンズを組み合わせた衣服に身を包んだ俺は、駅の前でキョロキョロと周囲を見渡した。
ここで人を待つのは、心美との初めてのデート以来。数か月前の出来事だったのに、なぜか懐かしく思う。
それからすぐに「倉雲くん」と聞き覚えのある声が真横から聞こえてきた。その方向へ視線を向けると、いいんちょがいる。
薄手の黒いパーカーにピンクのミニスカートというコーディネートで姿を現したウチのクラスの学級委員長は、俺に対して微笑んできた。
「10分前行動できるなんて、委員長、うれしいです」
「それ、前にも聞いた。それで、今日は何をするんだ?」
「今日は、ラーメン屋さんでお食事したいなぁ。やっぱり、1人じゃ行きにくくてね」
「そういえば、女子はラーメン屋さんに1人じゃ行きにくいってニュースでやってたな。そういうことなら、付き合ってやる」
「じゃあ、一緒に行こうかな♪」
楽しそうに笑いながら、いいんちょが一歩を踏み出す。その後ろを俺は追いかけた。
そして、歩くこと15分。目の前に行列が飛び込んできた。その最後尾に並んだ俺は、あまりの長さに溜息を吐く。
「いいんちょが行きたいラーメン屋さんって、超人気店なんだな」
「そうだね。6年前に来た時と同じくらいだと思う。待ち時間は、1時間くらいかな?」
「6年前って……」と引っ掛かった言葉を復唱すると、いいんちょが隣で頷いてみせた。
「これから行く店、6年前まで、よく家族で食べに来てたんだよね。前の方にいる家族連れのお客さん見てると思い出しちゃうなぁ」
いいんちょの瞳には、一つ前に並んでいた名も知らぬ家族の姿が映っていた。
「思い出のラーメン屋に6年ぶりに来店か」
「うん。あの時は醤油ラーメン1人前を吹雪とシェアして食べたよ。お子様ラーメンセットもあったけど、少し背伸びしたくて、お父さんに注文してもらったのを今でも覚えてる」
いいんちょが俺の隣で楽しそうに語り掛けてくる。そんな言動に思わず笑みが零れた。
「いいんちょ、楽しそうだな」
「あのお店には、思い出がいっぱい詰まってるからね。あそこに行ったら、勇気が出るような気がして……」
「勇気って……」
「そろそろ吹雪と向き合わないといけないって思うけど、まだ怖いな。このまま受け入れちゃうと、大嫌いなお母さんまで好きにならないといけなくなりそうで……」
少し瞳が潤んだウチのクラスの学級委員長を前にして、俺は腕を組む。
「そんなに嫌いなのかよ」
「お母さんって言葉を呟くだけで反吐が出そうなくらい、大嫌いだよ。あの人はお父さんを捨てたからね」
「反吐が出そうって言葉、マジメなファザコン委員長さんから聞くとは思わなかったな」
「誰がファザコン委員長よ!」といいんちょが軽く俺の右腕を引っ張った。その顔はしんみりとしたものではなく、明るくなっている。
それから、あっという間に時間が過ぎていき、いいんちょの思い出のラーメン屋へ入店。
ドアを開け店内を見渡すと、40ほどの座席は、ほぼ満席になっていた。その中で開いていたのは、一番奥にあるテーブル席のみ。そこへ店員さんに案内された俺は着席した。
そんな時、いいんちょは壁の方を向き、「あっ」と声を漏らす。その行動が気になり、同じ方向を見ると、そこにサイン色紙が飾られているのが分かる。
「あれって、東野吹雪のサイン色紙だな。東野さんも同じように、この店に来ていたってことか」
「……そうみたいだね」
そう呟き、俺と向き合うように座ったウチのクラスの学級委員長は、なぜかニヤニヤと笑う。
「そういえば、倉雲くんって、心美ちゃんと2人きりでランチを食べたことあるの?」
「いや、ないな」
そう視線を逸らしながらボソっと呟くと、俺の目の前で驚いたような顔になった。
「えっ、ウソ。まだなんだ。意外かも」
「ああ、実は同い年くらいの女の子と2人きりで食事するのも初めてで……」
「緊張してる? あっ、心美ちゃんに悪いことしちゃったなぁ。じゃあ、倉雲くんと一緒に写真を撮っちゃおうか? それを心美ちゃんに送って、嫉妬ファイヤー祭り開催♪」
いいんちょはノリノリでスマホを取り出しながら、席から立ち上がり、俺の背後に回り込む。そんな行動を見て、俺の顔が赤くなった。
「やめろ」と拒否しても、止まらない。
いいんちょの右腕が俺の右肩から伸び、向けられたスマホ画面に俺といいんちょの姿が映り込む。
左肩に触れられた状態での2ショット自撮り。
2人の距離はものすごく近く、恋バナ好きな学級委員長の体温まで感じ取ることができた。
「倉雲くん、表情硬いなぁ。笑ってよ」
「待て。東野吹雪似のいいんちょが、こんな人前で俺に絡んでたら、熱愛報道になるんじゃないか?」
「大丈夫。今頃、ホンモノの吹雪には鉄壁のアリバイがあるからね。事務所が否定してくれるでしょう。あっ、倉雲くん、ちゃんとカメラ見て。早くしないと……」
完全に視線をスマホから逸らした状態で、シャッター音が鳴った。そうやって撮影された写真を確認しながら、問題の委員長が席に戻る。
「これ、お父さんに見せたら、まあまあだって評価されそう。さて、この照れてる倉雲くんの写真、心美ちゃんにも見てもらおうかな?」
「だから、イヤだって言ってるだろ。こんなの見せられたら、浮気してるって思って、不安になるはずだ」
「ふーん。そんなに大切なんだ。じゃあ、スマホのホーム画面の壁紙で勘弁してあげる」
その時、「あの……」という俺たちをお呼びかける声が聞こえてきた。
その先にいたのは、水が注がれたガラスコップを2個乗せを持ったエプロン姿の若い男性店員。
「もしかして、東野吹雪さんっすか?」
「……違います」と答えたウチのクラスの学級委員長を前にして、男性店員は赤面した。
「失礼しました」
「東野吹雪のそっくりさんが看板娘のブックカフェがあるって噂、聞いたことありますか? それが私なんですよ。だから、恥ずかしがらなくて大丈夫ですよ」
いいんちょが軽くフォローすると、男性店員は納得したような顔つきになった。
「ああ、そういえば聞いたことがあるっす。いやぁ。ロケで訪れた吹雪ちゃんが、またこの店に通い始めたのかって思ったっすよ」
「その時の話を聞かせてもらえますか?」
いいんちょが興味津々に尋ねると、男性店員は首を縦に振った。
「そのロケに立ち会ったわけじゃないんで、店長から聞いた話なんすけど、6年前まで家族でよく通っていた思い出のラーメン屋さんって紹介したらしいっす。えっと、お水をどうぞ」
男性店員が机の上にガラスコップを置く。そのあとでいいんちょは店員の顔を見た。
「醤油ラーメン2つ、お願いします」
その注文を聞いた男性店員は、伝票を取り出し、メモした。
「はい、醤油ラーメン2つ、了解しました!」と復唱した店員が、厨房に戻っていくのを見ていた俺は、視線を目の前に座るいいんちょに向ける。
「醤油ラーメン2つって、いいんちょ、まさか俺の分まで注文したのか?」
「そうだよ。あっ、割り勘でお願いね」
「はいはい。ところで、いいんちょは夏フェス、行くのか?」
「そうね。さっきの2ショット写真を心美ちゃんに見せてもいいんだったら、考えてあげる♪」
イタズラに笑う委員長に対し、俺は溜息を吐く。
「おいおい。俺と付き合ったら考えるって条件、どこに行ったんだ?」
「冗談だよ。そういえば、さっきの話聞いて思ったんだけど、私も同じだったんだね」
「なんのことだ?」
「吹雪も私と同じように、ここを思い出のラーメン屋さんだって思ってたってこと。
まぁ、そういうことなら、行ってもいいかな……」
そうサラリと呟かれ、俺は思わず机から身を乗り出した。
「マジかよ!」
「勘違いしないで。別に私は倉永さんがちゃんと吹雪をリードできているのかを確かめたいだけなんだから。吹雪を妹のようにかわいがっているんだったら、それくらいのことできるはずだよ」
視線を逸らし、頬を赤くしたいいんちょと顔を合わせた俺は嬉しそうに頷いた。
「良かった。じゃあ、ラーメン食べたら、家に戻って、チケット渡す」
そう宣言してから10分後、俺たちの席に醤油ラーメンが配膳された。
その思い出のラーメンを、ウチのクラスの学級委員長は、美味しそうに食べていた。
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