最終話 聴かせて

 想いは同じなのだと信じていた。暗闇は全て暴いたと思っていた。


 しかしそれは決定的に食い違っていた。まだどこかで噛み合っていなかった。


 足りていないのは何だったのか。答えに足りないピースはどこにあるのか。


 真実へたどり着くためには、直接訊ねるしかない。その心と、その声で。




ヘヴンズリリィ:オムニバス


『聴かせて』




「どうして……どうしておねえちゃんが泣いてんのッ!」


 怒声を張り上げるイクコ。アケビは肩をすくませて、ぎゅっと両目を閉じた。ぼろぼろと大粒の涙がこぼれる。

「ち、ちがうのイクコ……これは……あたしは……」

「……何がちがうっていうの。これじゃまるで、ぼくがおねえちゃんを無理やり……」

 それ以上は喉がつっかえて発音できなかった。疑問と哀しみ。自分自身に対する強い憤りが、正気を失わせる一歩手前までイクコを追い詰めていた。


「あ、あたしがイクコのこと……好きだってきもち、ほんとうだよ?」

「…………」

 最早何も信じられなかった。彼女の口から出る言葉の全てが白々しく感じられた。

「ごめん、おねえちゃん。ぼく……ちょっと頭冷やしてくる」

「──ッ い "いかないで"!」

 ベッドから降りようとしたイクコに、アケビがしがみついてきた。震えが強くなっている。


「ごめん、ごめん、ごめんなさいイクコ。こんなおねえちゃんで。ごめんなさい」

「……おねえちゃん?」

 様子がおかしかった。明確に錯乱したアケビは過呼吸に陥っていた。


「い、い、いかないで。あたしを……ひ、ひとりにしないで。ごめんなさい。なんでもします……好きにしていいから……だからおねがい……あ あたしを」


「おねえちゃん!」

 両手で肩を持って、そう呼び掛けた。我に返ったアケビは少しばかり落ち着いたが、依然として顔色は悪く、目線を下げて怯えていた。


「落ち着いておねえちゃん。ぼくはどこにも行かないよ。だから、ね?」

 イクコ自身もショックを受けていたが、最早それどころではなかった。アケビのそれは常軌を逸していた。イクコそのものより、別の物事を強く恐れていた。

「ほら、おねえちゃん。お水飲む?」

 アケビにバスローブを羽織らせて、ミネラルウォーターを与えた。それを飲む間、イクコはアケビの背中を撫で続けた。

 過呼吸状態になっていたアケビの様子はそれでようやく落ち着き、震えも止まった。


「……ごめんね、イクコ。イクコのことはほんとうに好きなの。あたしのことをおねえちゃんとして見てくれているのも、一人の女として見てくれているのも、そのどっちも嬉しいの」

「…………うん」

 納得はできないが、頷くほかなかった。

「でもあたし……もうこんなに汚れちゃって……人を、何人も……殺しちゃっ、て」

「おちついて、おねえちゃん」

 再びカタカタと震えるアケビを撫でる。深呼吸を促し、再び小康状態になった。


「《レット・ミー・ヒア》があるから……"分かっちゃう"の。みんな、あたしのことを怖がってる。"化け物"だって……」

「そんなことないよ。おねえちゃんは化け物じゃない」

「……イクコは優しいね。でも、ダメなの。視えちゃうの。イクコも……あたしのことを怖がってるって」

 それは否定できない事実だった。"あの目"をしている時のアケビは、何よりも恐ろしいものだった。


「あたし、"ダメ"なの……あ、あんなに酷いことしてるのに、全然……悪いことしたとか、そういうのなくて……ただイクコと一緒に居たくて……そういう気持ちばっかりで」

「おちついて、"アケビ"」


「──あたしは化け物だから、その内イクコも離れちゃう。だからもう、こうするしかないの!」


 それはほとんど悲鳴に近かった。あまりにも切実な想い。アケビは泣き笑いの表情で、イクコを見た。


「ごめんね、こんなおねえちゃんで。狡いよね。イクコの気持ち、知っててこんな風に利用しようとして……こ、"こんなこと"してまで、イクコを繋ぎとめようとして」

 イクコはずっと思い違いをしていた。自分を置いて彼女が"極点"へ行ってから、ずっと迷宮を彷徨い歩いているのは自分一人だと思っていた。

 だがその実、迷宮には初めから"二人"居たのだ。イクコはアケビの背中を追う一方で、アケビもまたイクコの背中を追っていた。


 初めからすれ違い続けていたのだ。


「ぼくは、ずっとアケビを"捜して"いた」

「……イクコ?」

「大事なことは全部アケビに任せてきたから……アケビにばかり、辛い思いをさせてきた」

 入院している時は、何度もアケビに孤独な戦いをさせてきた。


「だから置いていかれてもしょうがないと思ってたの。アケビがひとりで極点に行くのも……そうしないと、今の日常は得られなかっただろうから」

「……極点」

「自分の気持ちすら分からないようじゃ一生追いつけない……そう思ったから、ダチアの件は、ぼくに似ているダチアの一件だけは自分の力でどうにかしなきゃって思ってた」

 アケビの身体を抱き寄せる。暖かくて柔らかくて、かすかな心音が胸に届く。


「それにね、《レット・ミー・ヒア》は万能じゃないってこと、忘れたの?」

「え……?」

 これを打ち明けるのは恥ずかしいが、最早全てが手遅れだ。

 恥の上塗りでもいい。イクコは抱えている思いをすべてぶちまけることにした。


「アケビは"化け物"かもしれないけど、ぼくはそんなアケビのことも好きなんだよ?あの目をしたアケビに殺されるところ想像しながら、何回もオナニーしたもん」

「オ、オナ……」

 青白かったアケビの顔が朱に染まった。

「へ、へんたい……」

「そうだよ。アケビが化け物なら、ぼくは変態だよ。ほんと姉妹そろってどうしようもないよね」

 苦笑しながら言うと、アケビもほんの少しだが、つられて笑ってくれた。


「ぼくもアケビを追ってたの。だから、"聴かせて"。アケビの正直な気持ちを」

「あたしの……」

「ぼくはアケビが好き。おねえちゃんとしてのアケビも、"化け物"のアケビも、一人の女として。アケビは?おねえちゃんは……?」


 身を離し、真っ直ぐ彼女の瞳を見る。仮にアケビがどんな答えを出そうとも、イクコはそれを受け止めるつもりでいた。甘苦い姉妹の関係を、照らす必要があった。


「……イクコのことは、好きだよ。からだを求めてくれるのも、うれしい」

「……アケビ」

「でも、"こわい"の。か、からだを許してしまったら、もう……"姉妹"じゃいられなくなるんじゃないかって」

 アケビの目に再び涙が浮かんできた。


「イクコが……あたしの大事なイクコが……"妹"以外のものになるのが、こ、こわくて」


 脳裏に過ったのは、木陰での思い出だった。暗闇に怯えて泣くイクコに、擦り傷を舐めるアケビ。全てはあの時から始まったのだ。そして今、その立場は完全に逆転していた。


「…………ごめんね。"痛かったでしょ。もう大丈夫だからね"」


 あの時と同じセリフを、今度はイクコからアケビにかけた。


 その瞬間、停止していた全ての時間が、再び秒針を刻み始めたような気がした。


「う、ぐ……イ、イクコォ」

「ぼくはどこにも行かないよ、"おねえちゃん"」

 とうとうアケビは、こどものように泣きじゃくり始めた。

「イクコの……ばかぁ!あたしの妹はイクコだけなんだから!分かってるの?」

「うん、うん」

「だ、誰にも……誰にも渡さないんだから!うわああああん!」


 アケビは姉妹という関係を何よりも大事に考えていた。アケビとイクコは同じ気持ちだったが、その方向性が僅かに違っていた。

「おねえちゃんの妹は、ぼくだけだよ」

 血を分けた唯一の存在。たった一人の分身。気が付けばイクコの目頭も熱くなっていた。しかしそれは決して悪い涙ではなかった。


 イクコはようやくアケビと巡り会えたのだ。最早前にも後ろにも彼女は居ない。これからは隣あって歩くことができる。再会を喜ぶ涙だった。



「あ……でも姉妹って、どこまでOKなんだろう」

「……うん?」

 ふと気になる点があった。これから姉妹として暮らすことに異論はない。

「いや、姉妹ならさっきみたいな……その、えっちとかはしないよねって思って」

「な、何考えてんのイクコ」

「いやいやでも大事なことだし」

 だがそうなると線引きする必要があった。今後がどうであろうと、イクコがアケビに抱いている気持ちに変わりはないのだから。

「どう思う?おねえちゃん」

「どうもこうも……姉妹であんなことはしないでしょ」

「じゃあ、キスは?」

「しないしない!ば、ばかじゃないの!このすけべ!」


「いや、でもハグはOKだよね?」

「まあ、それくらいなら……今までもしてたし」

「その流れでするもんじゃない?キスって。一般的に」

「……しないしないしない!一瞬流されそうになったじゃん!一般的にもしない!」

「そっかあ、しないのか……」

 露骨にしょげてみせた。

「おねえちゃん、こんな誘うような真似までして……」

「うっ」

「おあずけ喰らわされたあげくに……もうキスすらできないのか……」

「うう……!」

「いいよ。それがおねえちゃんの気持ちだもんね……ぼくが我慢すれば済む話だから」


 不意にアケビの顔が近づいてくる。そちらを見るまでもなく、アケビの唇がイクコの頬に触れた。

「……こ、これで勘弁してよね」

「ふふ、ありがとうおねえちゃん」

 顔を赤くしてそっぽを向くアケビに対して微笑む。今はこれくらいでいいだろう。時間はまだたくさんある。

 少しずつ時間をかけて、お互いにとって心地よい場所を探していくつもりでいた。二人の生活は、今日から始まるのだから。

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