第20話 亡国のダチア:序

 マンホールの中には、同じ境遇の子供が犇めき合っていた。身を寄せ合ってシンナーを吸うことで暖を取るのは、必要な習慣だった。注射器の使いまわしは当然になっていた。

 兎にも角にもモノが足りない。配給すらも受けられない。人権を奪われてこの方、地続きな明日などは存在しない。今日という日を生き抜くだけで精いっぱいだった。

「ダチア!逃げるぜダチア!」

「ダメだ、追いつかれる!置いていこう!」

 シンナーと粗悪なツイカで酩酊していたせいか、あるいは最早何もかもがどうでもよくなったのか。いずれにせよ、ダチアはこの日逃げなかった。

 包囲はあっという間に完成する。抵抗する気も起きない。そのカラシニコフが脳を食い破るなら、それはそれでいいとさえ思った。


「──……」

 学のないダチアでも、目の前に現れた人物が何者であるかは理解できた。悪臭が立ち込めるマンホールの中など決して似合わない、あの黒いコートは。

 彼は微笑み、一切れのパンを差し出してくれた。それはダチアにとって微かに芽生えた希望だった。何の警戒もなく手を差し伸べる。奪ったのは彼だ。与えたのは彼だ。憎くて愛しい──


「現当主様」



ヘヴンズリリィ:オムニバス


『亡国のダチア』



 常盤イクコは狼狽した。束の間の平穏がいつまでも続くはずがないとは覚悟していた。だがそれは唐突に、あまりに突拍子もなく訪れたのだ。

 イクコは今、商店街の小路に居た。大通りに出る手前の角でピッタリと身を寄せて隠れている。そうせざるを得ない原因は、曲がってすぐにあった。


「ダ、ダチア……どうしてここに」

 ブカレストの破綻者。桐生の協力者。二度に渡って命の奪い合いをしたダチアが居たのだ。しかも魚屋で買い物をしている。あり得ない光景だった。

 ダチアはあの決戦の日、アケビの《レット・ミー・ヒア》を食らって気絶した。その後茨城県警により逮捕され、それ以降は一度も姿を見せていない。高良カイリ警部補に訊ねてみても「アナタたちの知るところじゃないわよう」と一蹴されていた。

 順当に考えるのであれば、何らかの方法で脱走している恐れがあった。少なくとも周囲百メートル圏内に警察官あるいは私服警官と思しき挙動を見せている人物は見えない。ダチアは完全にフリーな状態だった。


「ど、どうする……?高良さんに通報……?それともおねえちゃんに……」

 前者はともかく、後者はなかった。もしも彼女の存命を姉が知れば、何をしでかすか分かったものじゃなかった。あの時は状況が状況だったため看過するしかなかったが、イクコは基本的に鉄火場を好まない。争い事は百害あって一利なしという考えを持っていた。

「おちつけ、何の為のシーカーなの。ぼくの能力なら見失うことはまずない」

 イクコの能力はこういう状況にめっぽう強い能力だった。ダチアが持っている能力を起動されれば追えなくなってしまうが、少なくとも今彼女が能力を行使する理由はない。

 驚くほど普通に買い物をしている。日本円を支払い、秋刀魚を受け取っているのだ。事を荒立てなければダチアは決して能力を使わない。そう確信していた。


「《ジェミナイ・シーカー》!」『Fooo!!』

 その名を呼ぶと、どこからともなく青い修道服を着た女性型の異能具現体アイドルが顕現する。それは空高く飛び上がると、釣鐘状のスカートから伸びている巨大な目玉で商店街を俯瞰した。ここから半径一キロ全てを見通す。無論、ダチアは観測範囲に収まっている。

「これでよし、と。それにしてもあの秋刀魚、何に使うんだろう」

 普通に食べるということは考えにくかった。脱走しているのであれば彼女は追われている身であり、住処を借りようものならすぐに茨城県警の御用となるだろう。そもそも日本での住民票を取得しているとはとても思えない。

「まさか捨て猫にあげるなんて、そんなベッタベタな展開はないよね」

 破綻者ダチアはそんなタマではない。イクコは一瞬でも浮かんだチープな考えを一笑に付した。そうこうしている内に彼女は異動を始めたようだった。

 急ぐ必要も慌てる必要もない。とにかくイクコの存在が認識されないように、十分距離を取って追跡を開始した。


「……何喋っているんだろう」

 《ジェミナイ・シーカー》は、歩きながら口元に手を当てて何かを呟いているダチアの様子を映していた。誰かと会話をしているわけではない。よく見ると無線のような機器に何かを吹き込んでいるようだった。

「うーん、シーカーじゃ声までは聴きとれないしな」

 とにかく追うしかなかった。程なくして彼女は再び小路に入る。人ごみに紛れつつイクコも曲がり角の直前まで接近すれば、恐る恐る中の様子を覗き込んだ。


 ダチアは小路のどん詰まりで佇んでいる。何をしているのかと怪訝に思っていると、間もなくマンホールの中から三匹の子猫が姿を現した。

 すると事もあろうに、ダチアは先ほど購入した秋刀魚を開き、彼らのもとへ放り投げたのだ。一斉に群がって秋刀魚を平らげる子猫たちを、ダチアはただただ見守っている。

「うっそでしょ」

 ベタな妄想が現実になった瞬間だった。もう少し捻りがあってもいいのではないかと、目の当たりにされている現実へ文句をつけたくなった。だがこれは紛う事無き事実だ。ダチアは、子猫に餌付けをしていた。

 呆然と見つめていると、不覚にも子猫の一匹と目が合ってしまった。イクコに対し威嚇する子猫を見たダチアが、こちらに振り返る。

「あっ……」

「…………」

 ダチアは一瞬驚いたように目を見張ったが、それだけだった。攻撃を仕掛けてくるでもなく、能力を使うわけでもなく、すぐに元の仏頂面になり、猫の方に視線を戻す。奇妙な沈黙が続いた。


「……よく、餌あげてるの?」

 自分でもよく分からない質問を投げかけてしまった。ただこの重苦しい沈黙を破りたいだけだったのかもしれなかった。

「──……きょうが はじめてだ」

 ざらざらにしゃがれている女性の声で彼女は答えた。

「ねこ、好きなの?」

「……」

 今度は答えなかった。意を決して横顔が見える距離まで歩み寄ってみるが、彼女の表情には何もなかった。子猫に対する慈愛や憐憫といったものは微塵もない。何の感慨も感動もなく、ただそうしている。イクコにはそう見えた。


 不意にダチアが此方を見た。鋭い眼で射抜かれ、イクコは動けなくなった。

「おまえは、あいつに似ている」

「……え?」

「わたしの過去をもてあそんだ、あの女だ」

 十中八九のアケビのことだった。ダチアは抑揚のない声で続ける。

「不思議と 初めて会った気がしない」

「そ、そうかな……」

 考えてみればダチア相手に顔を見せるのはこれが初めてだった。こそこそと隠れている必要はなかったのかもしれない。

「まあ どっちだっていい。どの道わたしは、最早戦う意味などなくなった」

 そう言うと彼女は踵を返し、子猫を置いて小路から離れようとした。


「ど、どこ行くの?」

「さあ どこへだろう」

 ダチアは止まらず緩慢に歩く。《ジェミナイ・シーカー》がある以上無理に追う必要はなかったが、イクコは何となく彼女の後ろをついて歩くことにした。

 賑わう町並みを、ダチアは不思議とぶつかることなくすいすい進んでいく。彼女に気を取られているイクコは度々通行人とぶつかってしまい、謝りながらダチアについていった。


「この国はゆ、豊かだ。温暖で、温厚で、そして、トルツメ、そして無関心だ。誰もが誰もを見ていない。見ているようで、興味がない。人の目が人を追うあの日々から、トルツメ、日々を想うと、それは自由で、そして此処がかの故郷ではないと決定的な、トルツメ、決定づけている」


 この距離まで詰めてようやく分かった。彼女は自分の声を録音しているのだった。校正の指示語を用いているということは、彼女は定期的にこうして声を吹き込み、編集し、記録していることが伺える。

「それは……?」

 イクコが声をかけてもダチアは歩く速度を緩めなかったが、収録作業は中断したようだった。

「わたしが ここにいたという 証だ」

「証?」

 破綻者ダチアの言うことは時折よく分からなかった。先ほど吹き込んでいた声も、意味があるようで、ないような、曖昧模糊な内容に思えた。

「わたしは 程なくして終わる。帰る場所がない今、この記録だけが、わたしをわたしと定義する唯一の楔だ」

「終わるって、あなた」

 二人はいつしか人通りの少ない公園まで歩いていた。

「大袈裟だよ。そりゃお咎めなしってわけにはいかないだろうけどさ」


「──おまえ やっぱりあの女の関係者だな」


 ダチアの目が真っ直ぐイクコを捉えた。大事な場面で口を滑らせたことに気づき、唐突に緊張の糸が張り詰められた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る