第19話 目

 イクコは夢を見ていた。幼い頃の、遠い夏の日の思い出。姉とかくれんぼをしていた時の記憶。

「おねえちゃーん!どこいったのー?」

 その日もイクコは、隠れるのがうまいアケビを捜していた。そこそこ広い山だが、危険な場所は概ね封鎖されている為、隠れられる場所は限られている。

 それでもアケビはいつもイクコの思いつかない場所に隠れるため、大抵はイクコからギブアップするのが通例になっていた。

「おねえちゃんってばー!」


 だが、この日は少し違った。いつも姉に負けるのが悔しく思っていたイクコは、冒険をすることにした。アケビはイクコが暗闇を恐れていることを知っている。だからきっと、イクコが苦手な暗がりに身を潜めているのだろうと思い至ったのだ。

 昼間でも薄暗い場所。木陰の藪がそうだった。子供一人なら隠れる場所が豊富にある。この中のどこかにアケビは居るのだとあたりをつけた。

「う……」

 しかし立ち入ることを実行するのは至難の業だった。辺りに人影はない。昼間だというのに、一歩先から向こうが別世界のように思えた。

「おねえちゃんってば、いつもそうなんだから」

 イクコはアケビのことを、"ずるい姉"だと考えていた。いつだって自分の都合のいいように立ち回り、都合が悪くなればイクコの手が届かないところに逃げてしまう。

 置いてけぼりを食らって泣くのはいつだって自分だった。そんな姉に、一矢報いてやりたいという気持ちが、引ける腰を前に踏み出させる原動力となっていた。


「ぼくのこと、もう置いてけぼりになんてさせないんだから」


 だがその決心も、数歩進む頃にはすっかり萎えていた。ふと後ろ振り返る。明るいところから数メートルもない。だがその時点ですでにイクコの恐怖心は閾値を超えかけていた。

「……ぜったいに!」

 意を決して、イクコは走り出した。ゆっくり歩いているから恐怖心も倍増するのだと安直に結論付けたのだ。

 それ自体は悪くなかった。悪い点があったとすれば、目をぎゅっと閉じたまま駆け出してしまったことだろう。

「あっ」

 案の定すぐにバランスを崩し、転倒した。衝撃により前後不覚に陥り、次いで膝から熱を感じる。それが痛みであると気づいたのは、すりむいた傷をその目で確認した時だった。

「痛、た……ぅう」

 辺りを見渡すが、アケビの姿は見えない。右も左も、前も後ろも、薄闇が支配していた。風が木々をそよがせるだけで、全方位からこの世ならざるものが、化け物が、せせら笑っているような気さえした。

「ふ、ぐ……」

 堪えようとしても涙があふれ出てくる。最早限界だった。


「お、おねえちゃ……ひっ……ぐす……」

 立ち上がろうとしても脚に力が入らない。そうしている間にも闇は迫ってくる。あの目を向けてせせら笑っている。

「う、うわああああん!たすけておねえちゃーん!」

 恥も外聞もかなぐり捨てて、力の限り泣き叫んだ。そうしたところで何の解決にもならないが、そうせざるを得なかった。ただ自分が此処に居る事を伝えずにはいられなかった。


「イクコ!どうしたの?すぐ行くからね!」


 アケビの声がした。藪の中から、こちらに向けて足音が近づいてくる。姉が、アケビが助けに来てくれたのだ。これで助かる。アケビが助けてくれる。

 イクコはその瞬間に期待を寄せて、胸を高鳴らせていた。


『イク    だイ    う ブ?   ねえ     こ   ニ

    コ    ジョ       お    ちゃ   こ     』


 姿を現したのは、左腕が千切れ、胸から腹部にかけて深く割けたアケビだった。光のない目は、かつての敵に向けられた慈悲のない"あの目"。


 それが、イクコに向けられていた。



「うわああっ!」

 飛び起きたイクコは汗だくになっていた。暑くて仕方ないはずなのに、身震いするくらい身体が冷えている。いや、恐怖でこわばっているのだと理解した。

「どうしたの?大丈夫?」

 隣で寝てたアケビを起こしてしまったようだった。

「う、うん……こわい夢見ちゃって」

 アケビの目を見る。眠そうに蕩けている、茜色の双眸。当然だが夢で見たようなあの目はしていなかった。

「夢……?」

「ちょっと昔の……ううん、なんでもない。ごめんね起こしちゃって。ちょっとお水飲んでくるね」

「んん……ひとりでだいじょうぶ?」

「ぼくを何だと思ってるの。もう高校生だよ?」


 今にも眠ってしまいそうなアケビを置いて、イクコはベッドから出ることにした。暗闇は今でも怖い。だが、昔ほど敏感に恐れたり、一人で歩けない程ではなくなっていた。

 一階のキッチンに向かい、蛇口をひねる。コップに注いだ水をゆっくりと飲み干せば、ようやく少し落ち着いてきた。

「……」

 夢見は相変わらず悪い。此間のような淫夢はあまり見なくなったが、依然として姉が出てくる夢はどれも心臓に悪いものばかりだった。


「あれ」

 ふと、姿見が目に入る。シンクからは見えない位置に置いていたはずだったが、アケビが動かしたのだろうか。

 鏡に映る自分自身は、心なしか少し疲れているように見えた。あんな夢を見た後だから無理からぬことかもしれない。それよりもイクコは自分の目が気になっていた。

「……似てないなあ」

 アケビの目はどちらかといえば吊り目で、イクコは垂れ目だった。双子とはいえ完全に同じであるはずがない。これくらいの差異は当然かもしれないが、イクコの感覚は麻痺しつつあった。

「ていうか、ぼくのおねえちゃんのどこが似てるんだろう」

 髪の色も瞳の色も、性格も違う。服と髪型を変えてしまえば最早別人になってしまうのではないだろうか。果たしてアケビは本当に自分の姉なのだろうか。


「あの目」


 口にするだけで、背筋に冷たいものが奔る。二の腕に触れると鳥肌が立っていた。近頃はめっきり見なくなったあの目。見る機会などない方が良いとさえ思っていた、おぞましい化け物の目。

 幾度となく、姉の中からドス黒い闇が漏れ出すのを、思念を通じて感じ取っていた。その都度アケビがどこか遠くへ行ってしまうのではないかと不安になった。

 今となっては過去の話だ。そんなことはもうない。だがどういうわけか、それだけでは納得できない自分が居た。

「こう、もうちょっと……吊り目にすれば……」

 両手の人差し指で目じりを上にあげてみる。間抜けな顔ができあがるだけで、アケビの面影は全くなかった。何もしていない時の方がまだ似ているくらいだ。


「あの目……」

「目がどうかしたの?」

 心臓が止まってしまうのではないかと思うくらい驚き、イクコは思わずその場で飛び跳ねてしまった。

「なっ……お、おねえちゃん」

「なかなか戻ってこないと思ったら、どうしたの?鏡なんか見ちゃってさ」

「い、いや別に……」

 取り立てて疚しいことをしていたわけではないはずだが、イクコは一種の気まずさでアケビと目を合わせられずにいた。

 茶化すような声で言っていたアケビも、イクコが黙り込んだのを見ると、諭すような優しい声色でこう切り出してくる。

「……イクコ。あたしはイクコが何を怖がってるのかわかるよ」

「え……?」

 思わず辺りを見渡した。《レット・ミー・ヒア》の姿は見えない。心を読まれているわけではなさそうだった。

「あたしに気を遣ってるの、気付いてないとでも思った?」

 返す言葉がない。もしも全てを見透かされているのだとすれば、合わせる顔もない。

「分かっててもなかなか言い出せないよね。あたしも経験あるから分かるよ」

「……ん?」

 何か少し雲行きが怪しくなった。

「でも大丈夫!あたし、イクコが勝手にあたしのプリン食べたこと怒ってないから!そりゃもうぜんぜん!」

「は、はぁーっ?」

 所詮アケビはアケビだった。人の心が分かるのではないかなどと、土台無理な期待してはいけなかったのだ。


「違うし!いや違わないけど、あれはおねえちゃんが先にぼくのアフォガード食べたからでしょ!痛み分けだよそんなの!」

「あっ、ふーんそういう態度。折角許してあげようと思ってたのに」

「こ、こいつ……!《ジェミナイ・シーカー》!」『Fooo!!』

「なに、やんの?《レット・ミー・ヒア》!」『Check it Out!!』

 互いの背後に異能具現体アイドルが現れる。至近距離でのにらみ合い。ほんの僅かな引き金で爆発は必至だった。


「……やめよっか」

「うん。ねむい」

 だがすぐに怒りは萎えた。というよりは、心の底からどうでもよくなった。手持ち無沙汰になった異能具現体アイドルたちもばつが悪そうに消えてゆく。

「明日も早いし、あたしはもう寝るわ。イクコもあんまり夜更かししないようにね」

 あくびをしながら踵を返すアケビ。イクコもコップを片付けてから上がろうと思った。


「おねえちゃん」


 だが、からだは頭で考えていたことと全く別の行動をとった。自分でも理解できていない内に、アケビの裾を掴んでいたのだ。

「ど……"どこいくの"?」

 自分でも驚くほどか細く、今にも泣きだしそうな声だった。

「……イクコ?」

 当惑したような顔でアケビが振り返る。その顔を見てイクコはようやく我に返った。


「え、あ……」

「どこって、自分の部屋だけど。大丈夫?」

「いや、その」

 訊ねられても困る。この状況を一番理解していないのは、行動を起こしたイクコ本人だったのだから。なぜそんな真似をしたのか全く理解できない。自然とからだが動き、勝手に声が出たのではないかとさえ思えた。悪い夢の続きを見ているかのようだった。

 答えられずにいると、不意にアケビがイクコの身体を抱き寄せてきた。柔らかな感触と甘い香りに包まれる。

「……どこにも行かないよ。あたしはイクコの傍にいる」

「…………うん」

「イクコのこと、置いていかないよ」

 時折、分からなくなる時がある。アケビの考えていること。自分の考えていること。わけもわからないまま、泣きたくなる時がある。今がそれだった。

「うん、うん」

 涙声になってしまわないように声を上擦らせるので精いっぱいだった。頭を撫でてくれるアケビ。この歳にもなってと気恥ずかしかったが、不思議とざわめいた心が鎮まるような気がしてきた。


「ごめん、おねえちゃん。もう大丈夫だから」

「ん。じゃあ寝よっか」

 日に日に違和感は膨らんでいく。今夜の不可解な出来事を説明づけるとすれば、きっとそれが溢れてこぼれおちたのだろう。その違和感の正体はなんなのか。こぼれおちたのはなんなのか。イクコは答えを出せずにいた。


 だが、恐らく。


 今夜はもう悪夢を見ない。そう直感していた。アケビに手を引いてもらっている限りは大丈夫だと、根拠のない安心感が今は心地よかった。

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