第17話 手

「痛っ」

 キッチンで夕飯の支度をしているアケビが声をあげた。リビングのソファで本を読んでいたイクコは、その声の方へ振り返る。

「どうしたのおねえちゃん」

「ううん、ちょっと指切っちゃった」

「えっだいじょうぶ?」

 イクコは本を置いて立ち上がった。「だいじょうぶだって」というアケビの制止も聞かずにキッチンへ向かう。


「見せて」

 そういうとアケビはおずおずと左手を差し出してきた。親指の先から血が出ている。切り口は短いが、傷は深いのか血がとめどなく出ていた。

「深いじゃん。もー、そそっかしいんだから」

「へへ、ごめん。なんか切れ味悪くてさ」

「ぼく昨日研いだばっかなんだけどな。やっぱ安いのじゃだめなのかな」

 そう言いながら薬箱を下の棚から引っ張り出して漁る。しかしいくら探しても包帯が見つからなかった。

「あれ、包帯なかったっけ」

「別の箱にあるのかも」

「なんで薬箱二つに分けてんの……」

 とにかく血を止める必要があった。絆創膏を取り出して、アケビに向き直る。

「ほら、手を出して」

「ん」


 差し出されたアケビの手は、イクコのそれより少しずつ違っていた。上腕から前腕にかけて全体的に肉付きがよく、血色も良い。色白なイクコと違い健康的な肌だった。

 それでいて指先は繊細で、そこから滴る赤色がより痛ましく見えた。絆創膏で塞ごうとするが、血糊のせいか、水気のせいか、うまく固定できない。

「んん、やっぱ荷が重いか」

「いいよイクコ。舐めてれば治るから」

「あのねー、男の子じゃないんだからさー」


 その時なぜかイクコは、あの日のことをフラッシュバックしていた。湖の中に沈む姉の姿。水が赤黒く濁っていき、千切れた左腕が湖底に着く。

 あの時イクコは、肉体の五感を感知できないにもかかわらず、全身の血が引いていく感覚を覚えていた。半開きになった光のない双眸。あの時たしかに姉は──


「──イクコ?」

「あ、ごめん。どう留めようかなって」

 だが今こうして触れている手は暖かく、確かに血が通っていた。《ジェミナイ・シーカー》は見誤らない。しかしあの時ばかりはきっとその限りではなかったのだ。イクコはそう自分に言い聞かせた。

 そう思うと、自然と指先に力がこめられつつあった。自分でもどうしてそんなことをしたのかは分からない。

「えっ、ちょ、ちょっとイクコ」


 分からないまま、アケビの親指を口に含んでいた。舌の上に広がる鉄の味。傷口をいたずらに刺激しないよう、やさしく丁寧に舐める。

 最初は戸惑っていたアケビも目立った抵抗はせず、ただぼんやり眺めているようだった。

「ん……」

「……!」

 今、どんな顔をしているのか。上目遣いで見上げると、一瞬目があった。しかしすぐにアケビは気まずそうに目をそらしてしまった。その仕草がとてもいじらしく感じられて、イクコは少し強めに傷を吸ってみた。

「い、痛いよ……」

「ふふ、ごめんごめん」

 指から口を離すと、アケビは自分の左手を胸の前に引き、右手で庇うように覆った。


「ど、どうしてこんな……?」

「んー、此間のおかえし?」

 そんなわけがなかったが、もっともらしい理由をつけて、いたずらっぽく笑ってみせた。

「ぼくの血と同じ味なんだね」

「あたりまえでしょ。あたしのことなんだと思ってるの」

「もう少しだけ舐めていい?」

「えっ」

 沈黙が流れた。目と目が合ったまま、互いに動かない。なんでもないことだったが、なぜかイクコは鼓動が高鳴るのを自覚していた。そしておそらくは姉もそうだろう。

 肯定はない。だが、否定もされない。庇っていた右手がゆっくりと下ろされる。イクコは無防備になった左手首を取る。そして、再び口を開き──


『ステイステーイ!抜け駆けのつまみ食いってのはちょっと水臭いんじゃないかねい!』

 突然現れたセペットに二人は硬直した。動けずにいるとセペットはそのままアケビの傷口にぴっとりと張り付き、血を吸い始める。

『あ~生き返るぜ。飯があって屋根があって、おまけにかわいい姉妹に囲まれてるときた。オイラは果報者なナイスガイだなあ?』

「セ、セペット。あんたいつから……」

 アケビの顔は真っ赤に染まっていた。鏡はないが、おそらくはイクコも同じ状態だろう。


『ん?でもなんでイクコはオイラの《フル・ムーン》を食らってるわけでもないのに、アケビの血なんて吸ってたんだ?人間は別に血なんて飲まなくたって平気なんだろ?』

「《ジェミナイ・シーカー》!このクソカスをすり潰して!」『Fooo!!』

『ステイステーイ!ご乱心ってやつだぜそいつはよォー!』

 傷口から離れて逃げ惑うセペットに、《ジェミナイ・シーカー》の手刀を何度も繰り出す。素面に戻った今、セペットに対する苛立ちは勿論だが、アケビとどんな顔を向ければいいのか分からなかった。

 自分がどうしてあんな真似をしたのかは今も分かっていない。いや、正確には、分からない方が良いのだろう。そう直感していた。

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