第15話 フル・ムーン:破

 心臓が爆発したかのように高鳴っている。その中に、アケビの小さな心音も胸を通して聞こえてくる。イクコはしばらくその音に耳を傾けて呆けていたが、間もなく我に返った。

「だ、大丈夫?めまいするの?」

「……ごめん、イクコ。あたし、もうがまんできない」

 熱い吐息が首筋にかかる。そして次の瞬間、そのくすぐったいような感触は刺すような痛みへと変わった。

「痛っ……!な……?」

 アケビがイクコの首に噛みついていた。混乱し声が出なくなるも、身体はアケビを退かせようと動いていた。

「う……ち、ちょっと!おねえちゃん?」

 しかしアケビはびくとも動かなかった。押し返しても凄まじい力で押し戻される。その内犬歯は薄い肌を貫いたのか、更に強い痛みと出血をもたらした。

「い、いだ……痛ぁ……!ちょ、やめ、て……おねえちゃん!やめてってば!」

「…………」

 いくら呼び掛けてもアケビの反応はない。代わりに聞こえてくるのは、ずず、と何かを啜るような音だった。

「え……?う、うそ」

 傷口を吸われるような感触。アケビの細い喉から、コクコクと嚥下するような音が聞こえる。紛れもなく彼女はイクコの血を吸っていた。

「う、あ……や、やめて!なんでこんな事……!」

 下肢をばたつかせてもがく。だがその抵抗さえも、脚を脚で絡めとるように封じられた。

「こ、この!やめてよアケビ!」

 やむなく握り拳をアケビの頭にたたきつける。しかしそれは彼女の噛む力を強めるだけで終わり、終いには手首を捕まれ床に押し付けられてしまった。


「ま、まさか……」

 恐ろしいほどの怪力に一切の抵抗を封じられて、一方的に血を啜られる。イクコはこの状況と先ほどカイリから聞いた情報を符号させる。信じがたい事に、アケビは既に異能攻撃を受けている恐れがあった。

「ジ、《ジェミナイ・シーカー》!」

 イクコの声に応じて、異能具現体アイドルが部屋の中央に浮上する。

「半径一キロを見渡して、シーカー!」『Fooo!!』

 屋根を通過し、上空へ異能具現体アイドルを送る。釣鐘状になっている下半身から吊り下がる、巨大な蒼い眼球で周囲を透視した。どんな遮蔽物があろうと、全ては筒抜けとなる。その気になれば遠く離れたビルの中に居る、一個人の内臓の中身まで見通せるだけの精密性が《ジェミナイ・シーカー》にはあった。

 どこかでアケビに攻撃をしている者が居るはずだった。こちらに明確な意志と行動を向けている者が居るはずだった。そして、室内のアケビへ攻撃できているという事は、その距離は決して離れていない。少なくともこの部屋の中を観測できる位置に居るはずだった。

「どこ……?どこなの?ぼくのおねえちゃんに、手出ししているのは!」

 血を吸われる速度は思ったよりも早いのか、すぐにめまいが襲ってくる。だがイクコはむしろ集中力を研ぎ澄ませ、能力の精度をさらに高めた。


「絶対に見つけて、《ジェミナイ・シーカー》!」

 眼球が強く光る。異能具現体アイドルは固く閉じていた口を開き、そこからさらにもうひとつの眼球を出した。二つの目を用い、辺り一帯の家屋全てを片っ端から丸裸にする。道行く市民ひとりひとりの心臓の動きまではっきりと見通し、そのすべてを同時に観察した。


「ば、ばかな……い、居ない……?半径一キロには……」

 だが、一向に能力者と思しき人物は見当たらなかった。そうなると残された可能性は二つ。透視しただけでは分からないくらい自然体で攻撃できる能力であるか、あるいは本当に半径一キロ圏内には存在していないかのどちらかだ。

 後者の場合は絶望的だった。射程が取り柄の《ジェミナイ・シーカー》が射程で敗けるのであれば、最早勝ち目はなかった。

「イ、クコ……」

 切なげな姉の声を聴いて、イクコは途端に抵抗する気が失せてきた。抗えない。勝てない。ならばこれ以上は意味がない。このまま失血死するまでアケビに吸われるのなら、それも良いだろう。他の能力者でなく、アケビの手で終わる事ができるならそれでもいいと思えた。

「ごめん、ね……イクコ」

 だが、潤んだ声に気付いたイクコは、それが如何に愚かな選択であるか直ちに理解した。目線を落とすと、彼女は吸血しながらも泣いていたのだ。それを見たイクコは愕然とした。何がアケビをここまでさせるのか。誰がアケビをここまで追いつめたのか。


「……そんなはずは、ない」

 そう考えた瞬間、イクコの中で何かが切れた。何の根拠もない。理屈など立っていない。だがイクコは確信した。


「ぼくの《ジェミナイ・シーカー》が射程で敗ける"はずがない"。おねえちゃんを泣かせた奴は、必ず近くに居る」


 自分の異能具現体アイドルが敗ける事などあり得ない。茨城県警もまだ見つけられていないような相手だ。しかし、それはどこを視ればいいのか分からないから発見できないというだけのことに過ぎない。

 今は、どこを視るべきなのかよく分かる。大切な姉が攻撃を受け、妹を傷つけてしまう現状に涙している。視るべきは"此処"だった。此処こそが"盲点"だった。そしてその事実が導いたのは活路だけではない。


「潰す。ぼくの《ジェミナイ・シーカー》が……直々に!」

 イクコの奥深くに埋まった闘志。その"導火線"に火を点けたのだ。


「シーカー!範囲を絞って!」

 これまで視えていた景色がどんどん視えなくなっていく。射程距離を伸ばすのではない。逆に極限まで縮める事で、精度を本来持つ限界以上まで引き出す。

 イクコの眼球は映像を記憶していた。この部屋に入った時、カーテンは"閉まっていた"。勝呂ミチヒサの《ドア・イン・ザ・セント》の一件から用がない時は可能な限り締め切っている。つまり外から攻撃する事は、千里眼持ちが同伴してない限りは不可能だということになる。

 加えて、外にそういった人物が居ない事も確認していた。千里眼持ちであれば必ずこの家を見つめている者が居るはず。だが居なかった。それらから導き出される答えはひとつ。

「敵は!この部屋の中に居る!シーカー!」『Foooooo!!』

 異能力と、自らが持つ映像記憶の特性をフル稼働する。直近でアケビの部屋に入ったのは、掃除をするために立ち入った昨日。その時の映像記憶と、《ジェミナイ・シーカー》が分析する映像をひとつずつ照合する。

 僅かにでも違いがあればそこを注視し、何かが潜んでいないか確認するのだ。時計も、本棚も、ベッドの上の毛布の形状でさえも。些細な変化も見逃さなかった。


「おねえちゃん、もう少しだけ耐えて。ぼくがすぐに、助けてあげるから──」


 イクコの双眸が青白い光に帯びる。次々と巡る記憶と映像のモンタージュを経て、情報の処理速度は"極点"に達する。そして、視点はたったひとつの映像に収束し、ついには決定的な差異を捉えた。

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