第14話 フル・ムーン:序

「へーっくしゅ!」

 アケビの大きなくしゃみが響いた。すかさずイクコはティッシュを差し出す。

「あ、ありばぼ……うう」

 情けない声で鼻をかむアケビ。顔がいつもより赤く、目が潤んでいる。どう考えても風邪を引いていた。ピピピピと電子音が鳴ったので、彼女の腋から体温計を取り出す。

「はい、三十八度二分……もー、あんな雨の中走ってくるからそうなるんだよ」

「だって……えっくしゅ!」

「はいティッシュ」

 すかさずティッシュを差し出す。先ほどからこのルーチンの繰り返しで、既にゴミ箱はティッシュのクズで埋まりそうになっていた。


「辛いかもしれないけど、もう少ししたら病院行く支度しようね。ぼくが連れて行ってあげるからさ」

「え……でもイクコ、今日は学校のはずじゃ」

「こんなザマのおねえちゃん放っておいて学校なんて行けるわけないでしょ」

「で、でも授業に遅れちゃうんじゃ」

 イクコはアケビの額を指で何度か小突いた。

「あのね、ぼくはおねえちゃんと違って出来が良いから、一日くらいの遅れを取り戻すのなんてワケないの。それを心配するならおねえちゃんは自分のことを心配しないと。此間の小テスト酷い有様だったじゃん」

「うっ……」

 能力を利用したカンニングに頼らずテストを受けてみたいという、アケビの殊勝な心掛けを受けた結果は散々なものだった。甘やかしていたイクコにも非はある。アケビは可及的速やかに自力で教養を身に着ける必要があった。

「今度勉強教えてあげるから。そのためにも今は早く元気になること考えよう?ね?」

「…………うん、ごめん。ありがとうイクコ」

 病院で適切な診察を受け、薬をもらえばきっとすぐに良くなるだろう。イクコはアケビにマスクをつけさせ、最低限の身支度を整えてから早速出かけることにした。



「おねえちゃん、大丈夫?」

「うん…………なんか頭がふわふわする」

 バスを利用したためあまり時間がかからなかったが、病院の待合室に着く頃にはアケビの容体は悪化しているように思えた。とろんとした目は焦点が合っておらず、支えていなければ倒れてしまいそうなほどふらついている。

「耳も聞こえにくいし、鼻利かないし……さっきまで身体重かったけど今はへーき」

「いやそれ全然平気じゃないよね。むしろヤバいよね」

「……へへ」

 アケビがイクコの肩に頭を預けてくる。

「なに笑ってんの」

「いやね、なんかこれ、イクコが入院している時と立場逆みたいだなーって。イクコもこんな感じに、目と耳しか使えなかったんでしょ?」

「……何言ってんの」

 イクコは熱くなっているアケビの肩に腕を回して抱き寄せた。

「おねえちゃんにはまだ触覚があるじゃない。ほら、ぼくの体温分かる?」

「……うん、あったかいなあ、イクコは」

「と、常盤さーん」

 看護師に呼ばれて我に返る。ここが公共の場である事をすっかり忘れていた。

「ひゃい!よ、呼ばれたみたいだねおねえちゃん!じゃあぼくは此処で待ってるから!」

「えぶう」

 半ば突き飛ばすようにアケビを送り出す。周りの視線は努めて気にしないようにした。

 

 待っている間、イクコはスマートフォンでニュースを見ていた。『ネクティバイト』を巡る戦いが終わってから、まだ一度も桐生一派や『タランドス』とは遭遇していない。だが水面下で何らかの活動をしていると見て間違いはないだろう。

 だからこうして何か動きがないか調べる必要があった。ニュースで報道される情報程度で読み取れる事柄は少ないが、何もやらないよりかはマシだと信じて続けている日課だった。

「あら、アナタは……」

「あ」

 自動ドアが開き、聞き覚えのある声が聞こえてくる。マスクをした高良カイリがそこに立っていた。

「ど、どうも。此間はお世話になりました」

「……やんなるわね。こんな時にでもアナタ達の顔を見なきゃならないなんて」

 カイリはイクコの顔を見るなりげんなりしたような顔になった。無理もないだろう。『ネクティバイト』争奪戦にしかり、須黒ミチヒサの件にしかり、彼には厄介事の後始末しかさせていない。イクコ達がこうして普段通りの生活を送れているのも、その都度彼が便宜を図ってくれているからだった。

「え、えへ……風邪ですか?」

「薬をもらいに来ただけよ。このクソ忙しい中、アテクシが休んでいるワケにはいかないからね」

 受付で手続きを進める彼の背中には、疲労の色と責任感が見え隠れしていた。アケビならきっと彼の胸中を覗き見る事もできるのだろう。

「忙しいって、また事件があったんですか?」

 イクコがここで言うところの"事件"とは、当然ながら異能力関係のものを示している。イクコ達と彼の間柄だからこそ通じる表現だった。だからだろうか、振り返る彼の目つきはいつにもまして険しかった。

「……アナタ達まさか、まーた厄介事に首突っ込んでんじゃないでしょうね」

「い、いやいやいや!流石に懲りてますよ!っていうか此間のだってぼくたち完全に被害者でしたし!」

「フン、どうだか」

 そう言いながらも彼はイクコの隣に座った。他にも席は空いているが、あえて隣を選んだようだった。


「放っておくとアンタらどんな無茶やらかすか分からないから、ちょっとだけ教えておいてあげるわ。まずこの事件はアナタ達にとって何の旨味もないものよ。関わるだけ骨折り損のくたびれ儲けって事をまずは承知なさい」

「は、はい」

 イクコは関わるつもりなど微塵もないが、姉のアケビは何をしでかすか分からない。もしも『タランドス』や桐生一派の匂いが少しでもすれば、わざわざ窮地に飛び込んでまで潰しに行くかもしれない可能性を孕んでいた。

「昨夜の人身事故はご存知かしら?」

「え、ええ。ニュースで見ましたけど、確かホームで殴り合いの喧嘩が起きて……その弾みで線路に人が落ちたところを電車が通過しちゃったんでしたっけ」

 痛ましい事故だった。被害者を突き飛ばした人は例え過失であろうとも罪に問われることだろう。

「そうよ。でもね、実はその被害者、喧嘩する前から既に異能攻撃を受けていた恐れがあるの」

「……え?」

「この情報はあえて伏せさせているんだけれども、実は喧嘩の原因は……被害者が突然加害者に噛みついてきたからなの。当然加害者は振りほどこうとしたんだけれども、逆に投げ飛ばされてしまったのね」


 イクコは眉根を顰めた。確かに奇行である事には変わりないが、それだけで異能力が関わっているとは断定しにくかった。イクコの表情を読み取ったのか、カイリは声を潜めて続ける。

「最後まで聞きなさいな。良い?加害者はヘビー級のプロレスラーで、体重は百二十キログラムを超えている巨漢よ。一方で、加害者を投げ飛ばした被害者は、推定六十キロにも満たない二十台後半の女性だったわ」

「……柔道とかされていた、ってわけじゃないんですよね」

「片腕で頭をわしづかみにしたまま投げる技があるならそうかもしれないわね」

 確かに異能力が関わっていると推測されてもおかしくないような内容だった。だがここでイクコはひとつの"ひっかかり"を覚える。

「でも、なんで被害者が異能攻撃を受けている側と考えているんですか?ぼく、その話聞いて真っ先にその被害者さんが能力者なのかなって思ったんですけど」

「グモった遺体に検死かけたけど、出ないのよネクタイトが。経歴を洗っても能力者であるような痕跡は全く見えないわ。それに……」

 カイリは少し言い淀んでいた。言葉を選んでいるというよりは、どこまで話していいか自分で勘案しているように思えた。

「他にもあるのよね。二日前くらいだけれども、似たような感じで突然襲い掛かった怪力バカが」

「もしかして」

「ええ、そのバカはすぐに逮捕できたけど、やっぱり能力を持っていなかったわ。詳しくは言えないけど、そういう検査薬があるのよ。今回の被害者と同じケースであれば、彼らは能力者ではなく、何者かの異能攻撃を受けた一般人であると考えるのが妥当よ」

 イクコの頭の中でいくつもの疑念がよぎった。何の為に。それは警察も今調べているところだろう。どこから。どんな異能力にも射程範囲というものはある。イクコの《ジェミナイ・シーカー》ほど広範なものは稀であり、大体は長くても数十メートル程度が多い。つまり能力者と被害者が接触するか、顔を合わせるタイミングが必ず存在しているという事だ。


「あの、高良さん」

「ダメよ」

 釘を刺されるように遮られた。

「どーせアナタの力で犯人捜しを手伝えるかもーとか抜かすつもりだったんでしょう」

「う……で、でもぼくの力なら」

「無理よ」

 カイリははっきりと断言し、イクコから目を逸らした。

「無理の無理無理カタツムリよ。アナタほど優秀じゃないかもしれないけれど、うちにも千里眼持ちは居るの。でも今のところ"本当の被害者"に関連性や法則性はないわ。いくらアナタの力でも、"何を見張れば良いかわからない"現状じゃ役に立たない。違うかしら?」

「…………」

 ぐうの音も出なかった。そもそもどのような攻撃かすらも分からないまま、この水戸市に住む住民を見張るのはさしもの《ジェミナイ・シーカー》にもできない芸当だった。

「そういうことよ。現状じゃとにかく情報が足りない。もしかしたら千里眼があってもバレないような手口かもしれないわ。そういうわけだから、アナタ達は何か情報を掴んでも関わるのはお止しなさい」

「はい……」

「流石に家まで上がり込んでくるほど露骨な真似はしないでしょうから、事件が片付くまでは家で大人しくしてなさいな。アナタは元気そうだから……おおかたお姉さんの方が体調崩してんでしょう?」

 そう言った直後、看護師がカイリの名前を呼んだ。処方箋の準備が出来たようだった。

「アタシはそろそろ行くわ。もしこの件で何か分かったら連絡ちょうだい。いいこと?此間みたいに独力で解決するような真似したら、今度こそ庇ってあげないからね!」

 咳込みながら立ち去っていくカイリを見送りながら、イクコは何か妙な胸騒ぎを覚えていた。この事件に関わる気はない。幸いアケビも風邪を引いている為、ここ数日は家に籠って様子を見る事になるだろう。

 カイリほど優秀な警察官なら、その間に事件も片付けてくれるに違いない。そこまで考えられるのに、何故か拭えない不安があった。まるで、何もかもが既に手遅れとなっているかのような。



 診察室から出てきたアケビを回収してからは、粛々と支払いを済ませ、薬局で薬を受け取り帰宅した。その間イクコは《ジェミナイ・シーカー》で自分達の半径一キロ圏内を注意深く見張っていたが、特に何も変わった事は起こらなかった。

「ただの風邪で良かったね。薬飲んで安静にしていればすぐ治るよ」

「うん……ほんとありがとね、イクコ」

「良いって。食欲ある?帰ったら卵粥作ってあげる」

 カイリと会ったことや事件については、アケビに黙っていた。話せばろくなことにならないと分かっていたからだった。

「イクコが食べさせてくれるなら食べられるかも」

「もー、しょうがないなーおねえちゃんは」

 家の鍵を開けて、アケビを先に入れる。ドアを閉める前にもう一度外を確認したが、やはり特に変わったところはなかった。


 テレビを点けてニュースのチャンネルに合わせる。食事の支度を始めつつ、何か関連する事件がないか注意深く見るが、今のところ死傷者が出ているような報道はなかった。

「どうしたの?イクコ」

 うがいを終えたアケビがリビングに来た。

「別に何でもないよ」

 イクコは焦った。普段は使ってこないとはいえ、アケビには人の心を読み取れる《レット・ミー・ヒア》がある。事件のことで頭がいっぱいな今これを使われると、いともたやすく全てを看破されてしまうだろう。何が何でも怪しまれるわけにはいかなかった。

「そう?こんな時間からテレビなんて珍し……ふぇっくしょい!」

「あーはいはい、良いからはやく自分の部屋に戻って寝なよ。完成したら薬と一緒に持って行ってあげるからさ」

「うぶ……は、はあい」

 階段の方へ消えていくアケビを見て、ほっと胸をなでおろした。ある意味この風邪には助けられているのだと思った。

「さて、早いところ作らないと」

 しかし姉を苦しませる要素は例え風邪であろうと容赦しなかった。薬を飲んでもらうためには、まず何かを胃に入れなければならない。そのためには一刻も早く卵粥を完成させる必要があった。


 程なくして滞りなく完成し、薬や水と一緒にお盆に乗せる。

「待っててねおねえちゃん」

 階段へ向かう途中、ふと足を止める。

「《ジェミナイ・シーカー》!」

 異能具現体アイドルを呼び出し、廊下の玄関側とバスルーム側を左右確認させる。誰も居ない事を確認してから今度は階段の上もチェックさせ、ようやく前に進み始めた。

「……気にしすぎだよね、流石に」

 あまり考えすぎても気疲れしてしまう恐れがあった。こないだの勝呂ミチヒサのような単独の異能力犯罪者である可能性の方が高い。何故ならば『タランドス』や桐生一派に、一般市民を狙う動機など何もないからだ。大人しく家に籠っていれば被害者になる事などあるはずがない。

「おねえちゃん、入っていい?」

 ドアをノックするが、返事はなかった。眠っているのかと思い、音をたてないようにドアを開ける。

「おねえちゃん、お粥できたよ。少しだけでもいいから食べて、お薬飲もう?」

 カーテンのしまった薄暗い室内。アケビは布団に頭までかぶってくるまっていた。寝ているところを起こすのは忍びないが、飲むタイミングは早ければ早いほど結果的に彼女のためにもなる。

「イ、イクコ……からだが、あつい」

 もそ、と毛布から顔を覗かせる。先ほどよりも赤い。熱はさらに上がっているようだった。

「しんどそうだね。大丈夫?起きられる?」

 まずは水を飲ませた方が良いだろうかと思いつつ、一度背を向けてお盆を机に置く。その間にアケビは起き上がったのか、緩慢な衣擦れ音が聞こえた。

「とりあえずまず水でも飲もっか。汗かいたから喉渇いてるで──」

「……」


 立ち上がったアケビを見て、息を呑んだ。辛そうに火照った顔。口の端にかかるオレンジ色の髪。少しはだけた服。虚ろな瞳。病人だというのに妙な艶めかしさがそこにあり、イクコは直視できなくなった。

「あ、あとで体も拭いてあげるからね。ほら、まずは食べよ?ね?」

 水の入ったコップを差し出す。アケビは応えるように手を伸ばすが、行きつく先はコップではなかった。


「──え?」


 肩に手をかけられ、そのまま押し倒された。

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