第13話 留守番

「じゃ、行ってくるから」

「うん、行ってらっしゃい」

 土曜の朝早くから荷物をまとめたアケビが靴を履いていた。まだ寝間着姿のイクコは玄関で見送る体勢だった。

「ほんとに良いの?イクコも来ればいいのに」

「いやないでしょ。面識ない子ばっかだし、折角のお泊まり会なのに変に恐縮させちゃうのもさ」

 学校に通いだしてまだ一か月程度だが、社交性に優れたアケビは既に気の置けない友人を複数人作れているようだった。

 前日に突然丸一日留守にすることを告げられた時は驚いたが、姉の学校生活を応援するのも妹の務めだと納得し、今に至る。

「そっか。さみしくて死んじゃわないか心配だけど」

「たまにはおねえちゃんの居ない時間を満喫するのもいいしね」

「あっ、ふーんそういう態度なんだ」

「ほら早く行ったら?時間大丈夫なの?」

「ほんとだもうこんな時間。ヤバイヤバイ!」

「いってらっしゃーい」

 慌ただしく飛び出していくアケビを見送り、玄関の鍵をかけた。急に静かになった家の中と向き合う。

「さて、やることやらなきゃ」


 まず取り組んだのは掃除だった。普段はアケビが片付けた端から散らかしたり、絡んで邪魔をしてきたりするため満足にできない整理整頓やハウスダスト除去を徹底して行った。

 続けて洗濯や水回りの清掃。天気が良かったので布団も干し、午前十時を回る頃には一通り綺麗になった。

「ふぅ、終わった終わった。おねえちゃんが居るとなかなかここまでできないからなー」

 換気のために開けた窓から涼しい風が入ってくる。相変わらず暑い日が続くが、三日に一日くらいは今日みたいな過ごしやすい日があった。この調子ならアケビの方も滞りなく進んでいる"だろう"。

「……おねえちゃん、無事に合流できたのかな」

 曖昧な表現だったのは、イクコが《ジェミナイ・シーカー》を使っていないからだった。厳密にいうと"感染"は完了している。その気になればいつでもアケビの視界をジャックし、状況を把握することができる。だがしなかった。

「ちょっと早いけどお昼作っちゃお」


 料理は特別得意というわけではなかったが、アケビと交代で作っているため苦手というわけでもなかった。しかし今日は一人だったため、気合を入れて作る気にはなれなかった。

「そうめんでいっか」

 叔母の家から送られてきたそうめんがまだ大量に残っていた。鍋に水を入れ、火にかけた辺りでスマートフォンが振動する。アケビからの通話着信だった。

「どうしたの?何かトラブルでもあった?」

『いや、今無事に合流できたところ!今なにしてんの?』

「なにって、掃除終わったからお昼作ろうかなって思ったところだけど」

『あたしが居ないからってそうめんで済ませようとか思ってんでしょー』

「"使用つかってる"の?」

『ううん。おねえちゃん特有の勘ってやつかな』

 それもそうだった。もし《レット・ミー・ヒア》を使用しているなら、わざわざ通話料金が発生する電話を掛けてくるはずがなかった。

『ていうか掃除なんてしてたんだ?イクコはマメだなあ』

「おねえちゃんがズボラなんだよ。ため込んでたゴミも分別してまとめたから、次の収集日に出しといてよね」

『ありがとうイクコちゃん、ほんとアイシテル!っとヤバイヤバイ、バス来ちゃうから切るね!』

 一方的に言いたい事を言うだけ言って通話を切られた。

「……なんの電話だったの」

 水が沸騰している。謎の電話の事は忘れ、イクコは少し早い昼食を拵える事にした。


 イクコが退院してからは、姉妹の間では以前ほど能力のやり取りをしなくなりつつあった。直に対面して話す事が可能になったため、単純に不要になったということが主因だが、それが姉妹として、人間として適切な距離感であると双方に納得していたからだ。

 やむを得なかったとはいえ、思念と視界を四六時中共有していたあの頃が異常だったのだ。

「今から思えば、病んでたよなあ」

 昼食をすませたイクコは、自分でつけていた日記を見返していた。父親が亡くなった日から、退院した日まで丸一年間の空白がある。だが映像記憶が可能なイクコは、《ジェミナイ・シーカー》を通して見てきた濃密な出来事を全て記憶していた。

「さて、今日は……九月十日」

 だからイクコは、今からでもその日々を少しずつ遡って記すことを日課にしていた。今日の日付を書き、すっぽりと抜け落ちた日付を書く。そしてその日にあったことを丁寧に書く。自分が病院のベッドで眠っていた間の事柄を一日ずつ埋めていく。

「…………」

 筆を進めながら、いつの日かアケビと喧嘩した事を思い出していた。厳密には喧嘩の内容よりも、その後に口を利かなくなってから変わっていったアケビの様子を想起していた。

 ぼーっとしていたかと思うと突然独り言を喋りだす。それもおそらくはイクコとの記憶にかかわることだ。あの時の廃人と言っても過言じゃないアケビはとても見ていられなかった。


「たった一日であんなグズグズになってたおねえちゃんが、今じゃお泊まり会かあ」

 妹としては、姉の精神的な寛解を喜ぶべきだと思った。しかし実際は少し複雑な心境だった。イクコの声が聴けなくてあんなに辛そうにしていた姉は見ていられないし、彼女自身のためにもならない。しかし身を焦がすほどに依存されるのは正直悪い気分ではなかった。それどころか──

「やめやめ!」

 書きかけの日記を閉じる。目が滑って内容に集中できなかった。気晴らしに音楽を聴こうと考えた。

「今日は何を聴こうかな。ベガス……は昨日聴いたし、ソナタ……もいいけどやっぱここは」

 アプリの再生リストをフリックして、こんな気分にぴったりなアーティストを探す。

「──ソルトアウト」

 アケビと能力で繋がり合っていた時によく聴かせてもらっていた曲だった。聴覚ではなく思念で聴くという行為は、実際にスマートフォンを通して曲を聴く行為とはまた違った良さがあった。

 所詮はアケビの思念というフィルターを通しているため、どうしても本物の音楽よりはやや粗雑になるのだ。その代わり、アケビが意識して聴いているところは強調装飾される。とりわけアケビはベースのパートが気に入っているのか、その辺りだけはやたら忠実に再現されていたことを覚えている。

「……これ、こんな曲だったっけ」

 端末で聴くそれは紛れもなくイクコが好きなヒップホップだった。百パーセント、どこにも瑕疵がないソルトアウトの曲だ。しかし今のイクコにとっては形容しがたい物足りなさがあった。


『もしもーし』

 再びアケビから電話がかかってきたのは、午後三時を回った頃だった。街で遊んでいるのか、声の背景は雑然としており、やや聞き取りづらい。

「今度はどうしたの」

『今移動中なんだけどねー、さっきヤバいもの見たんだ』

「……ヤバいもの?」

 咄嗟にイクコは、サミュエル・ロウや桐生トウヤを思い浮かべ、声のトーンを下げた。彼らとの遺恨はまだ終わっていない。この日常をいつ破壊されてもおかしくはなく、決して油断できない状況だったからだ。

『本物のパ・フーだよ!ゲリラライブ!人集りできてるからなんだろって思ったらまさかの!』

「それは……ヤバいね。ぼくもシーカー使って観ればよかった……」

『でしょー!どうしてもこれだけはイクコに言わなきゃって思って!』

 パ・フーはどちらかといえばアケビの方が好きなアーティストだが、もし一緒に観る事ができていれば確実に二人で大盛り上がりしていただろう。

『そうだ。なんかこっち天気がグズついてきてるから、そっちも雨降るかもよ』

「そうなんだ。じゃあ布団取り込んでおかないと」

 言われて窓を見てみると、確かに昼の三時にしてはやたら薄暗かった。

『うわ言ってる傍から降り始めた!じゃあまたね!』

 またしても一方的に通話を切られた。どうやら要件があって掛けてきているわけではないようだった。

「遊んでる時くらい友達の方に集中すればいいのに」

 そう言いつつも、イクコの口角は自然と上がっていた。しかし悦に入っている暇はなかった。アケビの方で降り始めてきているなら、もう幾許の猶予もない。イクコは急いで二階のベランダにあがり、布団を回収する事にした。


 夕方になると本格的に降り始めてきた。テレビで流れていた天気予報によると、今夜いっぱいは降り続け、朝方には止む見込みらしい。気圧が急転直下したせいか、妙に気だるい時間が続いた。

「あ」

 夕飯として秋刀魚を焼いたが、テーブルに並べた時ミスに気づいた。いつもの癖で二尾焼いてしまったのだ。当然ながら今夜アケビの椅子に座る者はいない。

「……冷蔵庫入れておけば一日くらい持つよね」

 ため息をついて皿にラップを張る。会話のない食事は速やかに終わり、風呂を済ませて髪を乾かし終えてもまだ時刻は夜八時を回った辺りだった。


「んー」

 いよいよやる事がない。日記はもうつけたし、小説も読み終わった。音楽は聴き飽きたし、テレビも面白い番組はやっていない。スマートフォンを開くが、あれから着信は来ていない。

 今頃友達の家で盛り上がっているのだろうか。だとすると、電話をかけるのも気が引けた。

「いや、でもおねえちゃんもかけてきたし……」

 寂しいわけではない。ただ退屈で、暇を潰す何かが必要で、姉を二、三からかうのがそれにはうってつけだというだけの話だ。と、自分に言い聞かせる。

「ちょっとだけ」

 そう決めて、リダイヤルから掛けなおす。しかし呼び出し音は鳴らずにいきなり留守番電話サービスに繋がってしまった。

「あれ、電波入ってないのかな」

 もう一度掛けても結果は同じだった。ベッドにスマートフォンを放り投げ、自分もうつ伏せに転がる。


「…………」

 日常は順調に取り戻されつつあるのだろう。能力を使う頻度は減った。同じ学校にも通えている。いずれは進路で袂を分かち、それぞれの生活を築いていくのだろう。その兆しとして、今回のアケビのお泊まり会は一定の成果を示す、喜ばしいイベントなのだ。

「ずっと一緒には居られない、か」

 アケビが叔母の家から此処へ越してきた最初の晩、彼女は「これからはイクコの事だけを考える」と言った。くしゃみに遮られて言い返せなかったが、イクコは「おねえちゃん自身の事も考えてほしい」というつもりだった。

 それが今、叶いつつある。実に僥倖だ。だというのに、あの執着とも依存ともつかないべたついた感情が、いずれは自分ではなく知らない男性に向くのかと思うと──やりきれなかった。


「だめだ。ぼく、すっごいわがままだ」

 なまじ優秀な自分の記憶力を呪った。姉との日々が鮮明に次々と浮かんでくる。あの時見たままの姉を、脳は映像として記憶している。

 現状をどうこうしたいわけではない。ただ今は、ただたださみしかった。


「──……」

 玄関で音が鳴り、身構える。先日逮捕された侵入者、勝呂ミチヒサの事を想起した。

「今度は誰……?『タランドス』?それとも……」

 足音を殺して階段を降りる。廊下から玄関を睨むと、誰かが外に立っているのがすりガラス越しに見えた。今度こそアケビの助けを得る事はできない。自分一人で解決する必要があった。

「大丈夫、ぼくならやれる……ぼくなら……ぼくだって」

 イクコはアケビほど冷徹にはなれない。だがアケビが死ぬ気で取り戻してくれたこの日々を壊そうとする相手ならば、"眼球"のひとつやふたつは覚悟してもらうつもりでいた。

 鍵の回る音。どうやら合鍵まで作られているらしい。間もなく侵入者は入ってくる。その一瞬で、全てを終わらせる。


「ぼくだって──《ジェミナイ・シーカー》!」

「おわああちょっと待って!」

 《ジェミナイ・シーカー》が放った手刀を受け止めたのは、アケビの《レット・ミー・ヒア》だった。入ってきたのはずぶ濡れのアケビだったのだ。

「えっ、お、おねえちゃんどうしてここに?」

「えへへ……我慢できなくて帰ってきちゃった」

「我慢って……ちょ、ちょっと待ってて、すぐタオル持ってくるから!」

 脱衣所からバスタオルを持ってきて、彼女の頭に被せる。

「ありがと。もー大変だったよー、風で傘は飛ばされるし、人身事故で電車も止まってたし」

「いや、今日泊まる予定だったんだよね?良かったの?帰ってきちゃって」

 アケビはタオルで体を拭きながら答える。

「うん、友達には謝ってきたからさ。またどっかで埋め合わせするよ」

「そうじゃなくて」

 イクコは濡れた靴を脱ぐために屈むアケビを見下ろしながら続けた。

「おねえちゃん、すっごく楽しみにしてたじゃん。学校生活に戻れて……それでようやく友達と遊べるようにもなったのに」

「うーん、まあそうなんだけどさ」

 上着を脱いだアケビは、何かを考えているようだった。そして間もなくはにかむように破顔する。

「途中でスマホの充電切れちゃってさ……充電器持っていくのも忘れちゃったし、イクコの声、明日まで聞けないんだなーって思うと気が気じゃなくなって」

「あ、明日になれば話せるのに……」

「無理!三時間に一回はイクコの声聴かないとあたし死んじゃう!」

 イクコは思わず笑ってしまった。いつまでも一緒には居られないかもしれない。だがそれは、まだ遠く未来の話になりそうだった。


「ふふふ、しょうがないなあおねえちゃんは。ごはん食べてきたの?」

「いや、もうおなかぺこぺこー。今日のごはん何?」

「秋刀魚の塩焼きだよ」

「やったー!食べる食べる!」

 アケビが諸手をあげた時、イクコの頬に何かが跳んだ。水飛沫かと思って指で拭ってみると、それが血液であると分かった。

「あれ、おねえちゃんもしかしてどこか怪我してる?」

「え?あ、ほんとだ。なんか血が出てるや」

 見てみると、左の前腕からほんの僅かだが血が出ているようだった。位置的に、イミテーションのサンストーンが嵌った『ネクティバイト』のバングルから滴っているようにも見えなくはない。

「虫に噛まれたのかな。全然痛くないから気付かなかったけど」

「先に治療しちゃおっか」

「いいよいいよ、舐めとけば治るって」

 いつも通りの会話が繰り広げられる。イクコが変わっていない以上に、アケビもすぐには変われないようだ。だが、イクコはそれでいいのだとも考えた。少なくとも変わらない内は、この幸せな生活が続いていくのだろうから。

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