第12話 キスシーン
『こんな事になるなら出会わない方が良かった』
『愛している』
燃え盛る船室を背景に、主人公がヒロインを熱く抱擁する。肩口にうずめていた顔を離し、お互いに数秒見つめ合った。これから待ち受ける絶望的な困難。これまでに過ごしてきた甘く苛烈な時間。それを認め合うように、主人公の方からキスをするシーンがたっぷり十数秒流れた。
「おねえちゃん、煎餅の音うるさい」
「あ、ごめん」
ロマンスをぶち破るかのように煎餅をかじるアケビを窘める。その間も今度はヒロインの方からディープなキスをするシーンが続いていた。
「いやー、でもあれだよね」
「……」
「こういうシーンってお茶の間で流れると気まずい空気になるよねー」
「おねえちゃんってさあー」
映画に割いていた集中力が切れてしまった。
「情緒ってもんがないよね!」
「へ?」
これは前々から思っていた事だった。絵画や音楽に感動を覚えないのは百歩譲ってもいい。こればかりは個人の趣味嗜好によるところが大きく、同じモノを見聞きしても得られる感想は全く異なるからだ。
だが、姉のアケビはもっと根本的で、人間的な何かが欠落しているのではないかと心配になる時があった。
「このシーン観て何か思うこととかないわけ?」
「え。うーん、キスしてるなーって」
「それだけ?」
「あ、あとこれべろちゅーだよね。こういうのって女優さんたちホントにやってるのかな?フリだとしたら演技うまいよね」
眩暈を覚えた。斜に構えた中学生ならいざ知らず、彼女の場合本気でそう言っているのだから性質が悪い。
「おねえちゃん、ちょっと正座して」
「映画見なくていいの?そろそろアクションシーンっぽいけど」
「いいから」
ソファの上で正座させ、向かい合う。
「いい?仮にあの主人公がおねえちゃんだとする」
「あたしあの男優みたいにアゴ割れてないんだけど」
「いいから。立場の話だから。で、あのヒロインがおねえちゃんにとっての恋人だとする」
「そんなの居たら花金の夜に妹とロードショーなんて観てないって」
正しい。正しいがそれはイクコの神経を逆撫でする発言でしかなかった。
「じゃあ恋人じゃなくてもいいから!気になる人とか好きな人でいいから!」
「なんでキレてんの?」
「キレてない。おねえちゃんはマフィアに脅されて仕方なく汚い仕事をするの。そのせいで敵対組織にも睨まれて板挟み状態よ。怪我はするわアゴは割れるわ、散々な目に遭いながらあの手この手でマフィアを出し抜いて、なんとかヒロインを助け出す。ハイ今どんな気持ち?」
「んー……そりゃ、嬉しいかな。やっと念願が叶ったって感じだし。でもあたしはケツアゴじゃない」
「ケツアゴはいいから」
だが感触は悪くなかった。少なくとも今のところケツアゴ以外は人並みの感想を持っているようだった。
「でも愛し合う時間はそんなに長くない。おねえちゃんはこれからマフィアと敵対組織を同時に相手取らないといけない。勝算は決して高くないし、下手をすれば死ぬかもしれないの」
「ケツアゴなら勝てるでしょ」
「映画の展開的にはそうかもしれないけどおねえちゃんの立場で考えて。あとさてはケツアゴ大好きでしょ」
茶々入れのせいでなかなか進まない話を無理やり続ける。
「つまりヒロインと会えるのはこれが最後かもしれないの。抱きしめてキスのひとつやふたつしておきたいと思わない?」
「う、うーん。キスはちょっと……」
「おねえちゃんに人の心はないのっ?」
思わず声を張り上げてしまった。本当にアケビとは双子の姉妹なのかいよいよ分からなくなる。ひょっとすると顔だけ瓜二つな赤の他人なのではなかろうか。
「あっ、アクションシーン始まったよほら!」
主人公が悪党と仁義なき戦いを繰り広げるシーンが始まり、アケビは正座を解いてそちらの釘付けになってしまった。
「そこ!いけいけ!あっ、後ろアブナイ!」『Beat it!!』
《レット・ミー・ヒア》まで現れてシャドー・ボクシングをしている。アケビにとっては情緒あるロマンスシーンよりも血沸き肉躍る鉄火場の方が魅力的らしい。イクコは諭すのが馬鹿らしくなり、ため息をついた。
アクションシーンは度重なる窮地を乗り越え、電撃的な勝利を収めていた。遥か後方で燃え盛る客船を背景に、救命ボートの上に立つ主人公とヒロインが映っている。
「はー燃えたわー」
「そりゃーよーござんしたね」
「そんな拗ねないでよ。イクコの言ってること、分かってないわけじゃないんだから」
「へーそーなのー」
信用できるわけがなかった。あてつけ気味に煎餅をかじる。
「えいっ」
「は?え、ちょっと!」
不貞腐れていると、突然アケビの方から抱きついてきた。驚いて煎餅を落としてしまう。
「ああ、ぼくの煎餅……」
「ちょっと気恥ずかしくて茶化してたっていうか、心の準備ができてなかっただけだから」
「……なんの話して──」
目線を合わせたイクコは、ハッと息を呑んだ。赤焼け色の前髪の隙間から、真摯な双眸がこちらを見つめていた。口元に微笑を湛えたままだが、真剣そのものな顔。
「色々あったけど、イクコが帰ってきてくれて本当にうれしいの」『終わったな』
「い、いきなりどうしたの……ぼくだってうれしいけど」
『ええ。これからどうするの?』
見つめ合う主人公とヒロイン。言葉と台詞のタイミングがかぶり、奇妙な雰囲気が生まれる。
「これからもイクコとずっと一緒に居たいと思ってる」『キミを帰したくない』
「そんなの……ぼくだってそうだよ」『……どこまでもついていくわ』
目が離せない。頬に手を添えられ、距離が近づいてくる。
「イクコ」『愛している』
「お、おねえちゃん……?」『私もよ、クリス』
アケビが何をしようとしているのか、何となく理解していた。それでいてイクコは制止する事ができなかった。むしろ、自ら受け入れるかのように──
『Oh Nooooooooooo!!』『Kriiiiiiiiiiiis!!』
主人公が突如海面から出てきたサメに噛みつかれ、冷たい海に引きずり込まれてしまった。迫力の水飛沫。巨大サメの威容。海面に浮かぶ夥しい血糊。ヒロインの悲痛な悲鳴。大迫力のホラーアクション、『ロマンブレイクシャーク2』。好評につき今年冬、全国シアターにて上映予定。
「なにこれクソ映画じゃんっ!時間返せ!」
「すごい展開ね……あたしこれの続編観たいわ」
部屋に満ちていた謎の雰囲気は一瞬で瓦解した。アケビと目が合うとやたら恥ずかしくなってしまったため、やむなくイクコはそっぽを向いた。
「ていうか何なの今のノリ?危うく流されそうになったけどさ」
「え?いや……イクコこないだの事言ってたんじゃないの?」
「はあ?」
話が見えない。アケビは小首をかしげながら後ろ頭を掻いていた。
「いや、だってこの映画の展開、途中まであたし達が『タランドス』や桐生を相手してた時と同じじゃん?てっきりその話してたんだけど思ってたけど」
確かに、映画特有のドラマチックな装飾と、サメの闖入以外は概ね一致しているといえばしていた。
「え、じゃあなに?最初にぼくが言った"気になる人か好きな人"って、ぼくを当てはめてたわけ?」
「う、うん。流石に妹とキスはなーって思ってたけど、イクコ拗ねちゃったから」
「ぼくがおねだりしてたと思ってたわけ?おねえちゃんに?無い無い無い無いばっかじゃないの!」
最早イクコの顔はトマトより赤くなっていた。湯気を出しながら全力で首を横に振る。
「いやでもさ」
「なに!」
アケビははにかむように笑いながら続けた。
「あたし、イクコとなら良いよ?イクコのこと、だいすきだし」
予告なしの直下型ボムがイクコの思考回路にとどめを刺した。
「そ、そーゆーとこ!そーゆーとこだよこの変態!サイコパス!シスコン!ケツアゴ!サメに食べられちゃえばいいのに!」
「だからシスコンはイクコもでしょ。あとあたしはケツアゴじゃない」
今ならばフライングシャークを招いても良いとさえ思えた。しかし実際は、イクコがサメのように大口を開けて喚き散らしているばかりだった。何にせよこの映画の続編を観る日は来ないだろう。
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