第10話 熱帯夜:前編

 寝苦しい夜だった。湿度が高く、おなかにかけているタオルケットすら煩わしい。寝返りを打っても落ち着かず、不機嫌な暗闇をやり過ごしていると、不意に横から声がかかった。

「イクコ、まだ起きてる?」

 隣で寝ているはずの姉、アケビだった。

「あ、ごめん。うるさかった?」

 アケビは答える事無く、タオルケットの中に身を滑り込ませてきた。

「ちょっと、暑苦しいからやめてよ」

 どうせまたじゃれてくるのだろうと思っていた。顔へ伸びてきた手をはたいて返す。大抵はこれであきらめるが、この日は少し様子が違った。


「……へ?」

 はたいた方の手首をつかんできたのだ。やけにしつこい。その上、今日はアケビはやけに静かだった。

「……どうしたの?具合悪いの?」

 違う意図があるのではないかと少し心配になる。アケビは上体を起こし、手首を離さないまま馬乗りになってきた。

「ちょっ……なんなの?言ってくれないとぼくわかんないんだけど」

「イクコ」

 心臓が跳ねた。切なさと艶のある水気に帯びた声が、縋るようにその名を呼んだからだ。

「お、おねえちゃん?」


 アケビの顔が近づいてくる。その真紅の双眸に見惚れている内に、熱い息が漏れるイクコの口は彼女の唇によって塞がれてしまった。

「んっ……く」


 硬直していると、唇の間から生暖かい舌が潜り込んでくる。驚いたイクコは押し返そうとしたが、思ったよりもアケビの力は強く、びくとも動かなかった。

「んん~っ!」

 口蓋を舌先で舐められ、びくんと身が跳ねる。別の生き物のように蠢く舌に口腔は蹂躙され、荒い吐息が耳を焦がす。全身の力が抜けてしまいそうだったが、拘束が緩んだ一瞬の間隙を突いて押し返すことに成功した。

「はぁ、はぁ……ど、どうしてこんな……」

 だがアケビは答えず、今度はイクコの首筋に顔をうずめてきた。

「あっ、こら!だ、ダメだってば!」

 首筋を、耳を舐められ、くすぐったさとは別の感覚がせり上がってくる。

「ちょっとおねえちゃん!聞いてるの!」

 服の中に滑らかな手が侵入し、シャツをたくし上げてゆく。気が付けば下着のホックを外されてしまっていた。

「ぼ、ぼくたち姉妹なんだよ……?お願いだから、やめ──」

 熱い乳房を掌で抱かれ、その突起へアケビの口が近づいてきた時だった。


『ピピピピピピ ──』


 けたたましく鳴る目覚ましの音で覚醒する。気が付けば窓の外は明るくなっており、イクコの身体は寝汗でぐっしょり濡れていた。

「おはよ。あたしより遅く起きるなんてめずらしいじゃん」

 エプロン姿のアケビが部屋に入ってきて目覚ましを止める。味噌汁の良い香りが漂ってきた。

「……」

「どうしたのイクコ?あたしの顔に何かついてる?」

「い、いや……なんでも、ない」

 先ほどまでの全てが夢だったと気づいた時、イクコは消え入りたい気持ちでいっぱいになった。たかが夢とはいえ、あまりにも酷すぎる内容だった。

「すっごい汗。ゆうべ暑かったもんね。シャワーあびてくれば?」

「……うん、そうする」

 逃げるように脱衣所へ向かう。ついでに下着を替える必要があった。



 努めて考えないようにしていたが、それには無理があった。なぜならどういうわけか、その日から同じような夢を毎晩見るようになってしまったからだ。

 たしかにイクコはアケビが好きだった。一時は命を懸けてまで救ってくれた彼女は誰よりも大切な存在だった。だがそれはあくまでも家族としてであり、劣情を催すような相手ではないと思っていた。

「……欲求不満なのかな」

 だが、最早その気持ちにも自信を持てなくなりつつあった。多かれ少なかれ、夢とは深層心理を反映したものであると聞いたことがある。自分の本心に自分自身が気づけていないだけなのではないかという疑念が、四六時中付きまとった。

 いずれにせよ、このままでは居られなかった。毎夜見る夢のせいでここ最近はろくに睡眠を摂れていない。抜本的な対策が必要だった。


「えっ。寝る時は別々が良い?」

 告白を受けたアケビは近年稀にみる悲痛な面持ちになった。

「ど、どうして……も、もしかしてあたしの事きらいになった?無鉄砲な真似は最近控えてると思うんだけど……」

「そ、そういうのじゃないの。最近なかなか眠れなくて、ちょっと環境変えてみたら眠れるかなって思っただけだから」

「確かにイクコ、最近目の下の隈が酷いもんね……何か悩み事でもあるの?」

 イクコは逡巡した。うそをつくのはしのびなかったが、真実をそのまま告げるわけにはいかなかった。

「悩み事って程じゃないけど……最近夢見が悪くて。同じような夢ばかり繰り返し見ちゃうんだよね」

「夢かあ……夢って深層心理から来るものってテレビで見た事あるなあ」

 するとアケビは何か思いついたように続けた。

「あ、そうだ。あたしの《レット・ミー・ヒア》でイクコの深層心理を見てみれば良いんじゃない?何が原因か視えてくるかも」「だめ!」

 言い終わる前に遮った。

「……え?」

「絶対だめ」

「な、なんで?あたしにしては良い線行ったなーって思ったんだけど」

「視たら潰す」

「な……何を?」

 アケビが生唾を呑む。イクコは低く静かな声で、持てる限りの殺意を込めて答えた。

「《レット・ミー・ヒア》の目を《ジェミナイ・シーカー》の尖った指で潰す」

「ひえっ」

 これだけ言えば十分だろう。アケビの《レット・ミー・ヒア》は強力だったが、今回ばかりは頼るわけにはいかなかった。

「そういうことだから。今夜からぼくはしばらくお父さん達の寝室で寝るから」

「うう~」

 口惜しそうだったが、これ以上の深入りは自分の身が危ないと悟ったのか、それ以上食い下がることはなかった。



 その日の晩は特に寝付けなかった。日中は授業中でも船を漕いでしまうほど眠かったのに、いざ就寝時間が近づいてくると身構えてしまう。夢の内容は日に日に悪化する一方で、それでいてイクコ自身の抵抗は反比例するかのごとく弱まっていた。

 次寝てしまえば、完全に身も心も許してしまうかもしれない。姉を受け入れてしまうかもしれない。そうなるのが怖かった。たかが夢とはいえ、一度そうなってしまえば、もうこれまでと同じようにアケビと接する事はできなくなるような気がした。


「……ぼくは、おねえちゃんをどうしたいんだろう」

 考えても答えは出ない。アケビはお調子者で、天然が入っていて、明るくて、無鉄砲で、双子の姉とは思えないくらいイクコとは何もかもが正反対だった。

 それでいて窮した時には、別人とも思えるような冷徹さを垣間見せる。『ネクティバイト』を巡った戦いにおいて彼女は本気で全員を殺害するつもりでいたし、強力な能力者達を前にした時の目は、今思い出しただけでも背筋が凍る。

 サミュエル・ロウはかつてアケビを、目的の為なら手段を択ばないところが脅威と評した。テネシィに至っては彼女の事を"化け物"呼ばわりした。化け物かどうかはさておき、手段を択ばないという点は事実だ。彼女は、心の底から願っている事なら、必ず遂行する。


「…………いつかぼくにも、"あの目"を向けるのかな」

 冷たい殺意を孕んだ目。"極点"だけを見据える目。あの目で見つめられ、身体を貪り喰われるところを想像すると、イクコは奇妙な感覚に襲われた。恐怖で肌が粟立つ一方で、下腹部がどうしようもなく熱くなっていたのだ。

 そうなるともう、睡眠どころではなくなっていた。

「なんでこんな……おかしいよ、絶対」

 最早我慢の限界だった。目の前に手を翳す。双子の姉妹だけあって、指の形までよく似ていた。姉と同じ手。アケビと同じ指。どうしようもなく高鳴る胸を鎮めるべく、疼きのもとへ指先を伸ばした矢先だった。


「──……」

 一階の玄関で物音がした。風に吹かれて何かが当たったような音ではない。確かにドアノブを回される音だった。

 イクコは手を止め、身体を起こす。緊張が疼きを麻痺させてくれたのは僥倖だったが、もしも泥棒が入ったのなら洒落にならなかった。

「……《ジェミナイ・シーカー》!」

 修道服を着た女性型の異能具現体アイドルが現れる。それが大口を開けると、口腔から飛び出た大きな眼球がぎょろぎょろと忙しなく動き、半径一キロメートル圏内の景色を筒抜けにする。

 どうせ気のせいだろうという楽観はすぐに打ち破られた。現実に、土足の男性が現在進行形で上がり込んでいたのだ。足音を殺しているせいか歩幅は小さく緩慢だが、二階まで足を伸ばされれば鉢合わせるのは時間の問題だった。

「『タランドス』?それとも……」

 以前相対したメキシコ系マフィア『タランドス』や、桐生の刺客である可能性は大いに考えられた。その場合彼は明確な殺意を向けてくるだろう。一刻を争う事態だった。

 幸い、侵入者はまだこちらに気づいていない。今なら一方的に攻撃を加えられる状態だった。

「……」

 だがイクコはアケビほど好戦的でも無謀でもなかった。ベッドから降り、足音に気を付けながらアケビの部屋へ向かう。彼がただの泥棒だろうが、恨みを買っている相手の刺客であろうが、戦闘は避けられないだろう。ならばアケビと二人がかりで安全に終わらせようと考えた。


「おねえちゃん起きて。下に誰か── !」


 ドアを開けた時、花のような甘ったるい香りが漂ってきた。僅かに吸い込んだだけで目蓋が重くなり、強い睡魔に襲われる。イクコは咄嗟に息を止めた。

「こ、これは」

 アケビのベッドを取り囲むように、桃色の花が咲き乱れていた。寝る前までは存在していなかったはずのものだ。

「既に攻撃されている……!やっぱりあいつは!」

 ただの泥棒ではない。どちらかの刺客であり、そして先手を取っていたのはイクコではなく彼の方だった。気が付いた時は既に後手だったのだ。

 恐らくは睡魔を操る能力者。気持ちよさそうに眠っているアケビは起きる様子が全くない。事実上イクコ一人で対処しなければならない状況だった。


「……ということは、ここ最近の変な夢は、全部あいつのせい……?」 

 普段のイクコなら怖気づくところだったが、この時ばかりは違った。この数日間の煩悶が能力によるものだと思うと、闘志が沸々と湧き上がってきたのだ。


「潰す。ぼくの《ジェミナイ・シーカー》が直々に」

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