第7話 エイレンスキアナハ
……
それから。
それから夜が明けた。
朝の五時半。今朝は霧が立ち込めており、太陽は鼠色の分厚い雲に覆い隠されていた。千波湖の畔で通話を切ったアケビは、ショートメッセージを送り、スマートフォンを湖に向けて放り投げた。ちゃぽんと小さく音を立てて、視界の外で沈んでいく。
『あーあ、もったいない。良かったの?』
「生きてたらまた新しいの買えばいいでしょ」
少し待っていると、後方でクラクションが鳴った。霧の向こうで黒いリムジンが停められているのが見えた。
『あれみたいだね』
「うん。じゃあ、行ってくるね」
『バックアップは任せて』
一度深呼吸をして、アケビは車の後部座席へ入った。
「ブェノス ディアス。この日を心待ちにしていたよ、アケビくん」
広々とした後部座席の運転席側にサミュエル。運転席にはテネシィが座っている。車内は静かなジャズミュージックと不思議な匂いで充満していた。嗅いだことのない匂い。アケビは飼料小屋に長く置いた干し草の匂いに似ていると感じた。
「あー……よお、アケビィ」
テネシィの目はとろけていた。目の焦点が合っておらず、口元も心もとない。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
「彼の事は気にしないでくれたまえ。すぐに"しゃん"とする。それでアケビくん。こうして呼び出してくれたということは、とうとう全貌を掴んだのだね?」
「……はい。結論から言いますと、桐生側と警察側、双方が大きな勘違いをしています」
「ほう」
サミュエルはスーツの胸ポケットから煙草を取り出しつつ相槌を打った。興味なさそうな素振りだが、内心は興味津々である事が《レット・ミー・ヒア》から読み取れた。
「桐生も警察も、"あるもの"がお互いの手の内に渡っていると思い込んでいます。桐生はそれを利用される事を恐れ、警察はそれが第三者の手の渡ることを恐れています。だから事件を隠す必要があったし、桐生もこれまで身動きが取れなかった」
「それが膠着状態のタネというわけかね。それで、その"あるもの"とは?」
「──『ネクティバイト』です」
運転席でとろけているテネシィが突然上体を起こし、此方に振り向いた。目が丸く見開かれていた。
「『愚者の黄金』の破片からのみ精製できる『ネクティバイト』は、ネクタイトと併用する事で砕く事無くその石に秘められている能力を引き出す事ができる。そうですよね?」
「……素晴らしい。その通りだアケビくん。『愚者の黄金』さえ手に入れば、我々は『ネクティバイト』を量産し、世界へ売り出す事ができる。能力を持たないものも能力を振り回す社会が生まれ、『ネクティバイト』はフェダイーンにとってのカラシニコフのように"バカ売れ"するだろう」
サミュエルは興奮しているようだった。火を点けてからまだ一度も煙草を吸っておらず、じりじりと灰になっていく。
「私が、『タランドス』が"極点"へ達するためには必要不可欠な代物だ。それで、そのネクティバイトがどうしてお互いの手に渡って"いない"と言えるのかね?」
「それは、隠匿されている事件にあります。『第二の黄金事件』。数年前に茨城で起こった非公開事件で、多くの異能警察官が暴走した能力者の鎮圧にあたりました」
「桐生、だね?」
サミュエルの言葉に、アケビはうなずいた。
「何人も警察官が倒れる中、桐生も深手を負い、『愚者の黄金』の一部が砕けるまでに至りました。何とか鎮圧はできましたが、そこで問題が起こったんです」
「なんだよ、勿体つけてないで言えよアケビィ!」
テネシィは身を乗り出し、続きを待っていた。急かされてもアケビは焦る事なく、努めて冷静に続ける。
「桐生が逃走した後、誰も破片を回収していなかったんです。捜索されましたが見つかりませんでした。だから警察は桐生が破片を回収したと"思い込んだ"んです」
断定的にそう告げた。恐らく事件の全容までは彼らも知っているはずだった。アケビは確信していた。彼らが知りたかったのは、膠着している理由ではない。つまるところ、『ネクティバイト』の行方を知りたがっているはずなのだ。
「破片が出回れば、能力を持たない人による異能犯罪が起こりかねない。能力の存在を知られるわけにはいかない茨城県警は、桐生の捜索どころではなくなってしまった。それよりも先に『ネクティバイト』の材料となる破片を捜す必要があったんです。桐生の方も同様です。破片が警察に渡れば、警察側の戦力は増大します。あくまでも単独犯でしかなかった桐生は、警察が隠し持っているであろう破片を捜すために、息を潜めて県警へ潜入工作を図っていたというわけです」
「なるほど、筋は通っているね。しかしやけに断定的だなアケビくん。そうまで言うならば、その理屈を裏付ける証拠は勿論あるのだろうね」
アケビは意を決して、左腕を差し出した。手首に付けているバングルと、はめられているサンストーンが煌めいている。
「証拠はこれです。『ネクティバイト』はあたしの手にあった。だから、県警も桐生も持っているはずがないんです」
顎が外れるのではないかと思うほどテネシィの口が開かれた。何かを言いたがっているようだが、衝撃が大きすぎるせいか声になっていない。サミュエルもまた冷静を取り繕っていたが、思念は大洪水を起こしていた。次々と推論と邪推が氾濫し、混乱を表層に出さないよう押しとどめる事でなんとか沈黙を保っているに過ぎない。
「……性質の悪いジョークのようだ。アケビくん、それは確かなのかね」
「『第二の黄金事件』で桐生に致命傷を与えたのは、あたしの父親だったんです。破片は、お父さんが持っていたんです。あたしはずっと分からずに身に着けていました。去年、どうしてお父さんが殺されたのか。どうして遺書にこのバングルが同封されていて、誰にも言わないように口留めされていたのか」
イクコにせがまれてショッピングモールへ出かけていた父親の訃報が届いたのは、突然のことだった。アケビには何の実感もなく、ただ現実だけを突きつけられた。暴走した車両の激突で、イクコを庇った父親は即死。イクコも強いショックを受けたのか、それ以降眠ったままだ。
「あれは桐生の報復で、遺書はお父さんがそれを見越して用意した保険だった。県警と桐生、双方が勘違いしている間はお互いに身動きが取れなくなる。桐生による犯行を抑制するには、それがお父さんの考えうる最良の方策だったんです」
外でバイクのエンジン音がけたたましく鳴っている。気が付けば涙が頬をつたっていた。今更悲しむ感情などないと思っていたため、それを見て一番驚いたのはアケビ自身だった。あるいは、イクコの思念がアケビにも影響を及ぼしたのかもしれないが、それを確認する手立ては今のところなかった。
「それは、不器用ながらに殊勝な心掛けだ。アケビくん、キミの父親は我々には想像もつかない紳士だったのだろう。彼の求めた"極点"と生き様に敬意を払おう」
サミュエルが黙祷を捧げると、助手席の方で影が動いた。一瞬身構えたが、それが敵ではない事はすぐに分かった。
「──もういいかしら?」
「ああ、ノエル。情報は確かに頂いた。今度は我々が提供する番だ」
助手席から此方へ振り返ったのは、小柄な女性だった。淡い碧眼を細めて、優しく微笑んでいる。
「はじめまして。貴女がアケビちゃんね?わたしはノエル。会えてうれしいわ」
「えっ、は、はい。ア、アケビです」
差し出された手を二度見してから、恐る恐る握手した。イクコ以外の人の肌に触れるのはしばらくぶりで、その温かさに驚いてしまった。ノエルはそれを緊張していると受け取ったようで、困ったように笑っていた。
「ふふふ、緊張しなくてもいいのよ。話はサムから聞いてるわ。私じゃないと治せない人が居るのでしょう?」
「あ、は、はい!あ、あたしの妹なんです!その、事故に巻き込まれてから寝たきりで……外傷はないので心因性ではないかと言われてるんですけど……そ、それでも治せるんですかね!あたしのイクコを!治してもらえるんですかね!」
その温かさにつられてか、これまでひた隠しにしていた激情が一気に溢れてしまっていた。必死に彼女の手を握り、文字通りに縋りつく。
「おちついて?だいじょうぶよ、だいじょうぶ。必ず治してみせるわ」
手を握ったまま、優しく諭してくれる。可能であればもう少しの間そうしていたかった。
『おねえちゃん』
しかし、合図は来た。先ほどからやかましいバイクの音が、急接近している。
「大切な人を想う気持ちはわかるわ。つらかったでしょう。こわかったでしょう。でももう大丈夫よ」
「さて、アケビくん。ここからは提案なのだが、もしキミが良ければ正式に『タランドス』の──」
「ありがとうございます、ノエルさん。できれば違う形で出会いたかった」
手を放し、アケビは車から飛び出す。轟音と衝撃。迫りくる地面で受け身を取るのと、すぐ後方から白バイがリムジンに追突するのはほぼ同時だった。
引火したエンジンが爆炎を上げ、焦げ臭い匂いと煙が一瞬で辺りに広がる。アケビは何とか起き上がると、白バイもリムジンも大きくへしゃげ、使用不可能になっていた。
「クソッ!クソクソクソ!どうなってやがんだクソがあ!」
ひん曲がった運転席のドアが蹴り破られる。中から血まみれのテネシィが這い出てくるのと、リムジンの上に黒い鎧をまとった桐生が着地するのはほぼ同時だった。一瞬、桐生が片腕でノエルを担いでいるように見えたが、それは違った。
正しくはノエルの腹部から桐生の腕が突き出ていたのだ。彼女を貫き赤黒く染まった腕の先には、彼女の体内から出てきたと思われるダイヤモンドが掴まれていた。
「──はい、こんにちは。お休み中のところ恐縮ですが私です」
「ノ、ノエルゥ!クソッ、テメエよくもノエルを!」
テネシィの背中から植物の蔓が伸びる。それはたちどころに槍のような鋭い刃物に変形し、四方八方から桐生に襲い掛かった。
「あなた、異能者ですね?」
だが桐生は目にも留まらぬ速さでそのすべてを打ち払い、ひとまとめにしてから掴み取る。
「排除します」
そして腕力だけでテネシィを蔓ごしに持ち上げれば、大きく振り回して地面に叩きつけてみせた。
「……と、言いたいところですが、まずは社長様にご挨拶を──」
次の瞬間、桐生の足元が爆発した。引火によるものではなく、何か能力によって炸裂したようで、爆心地はたちまち出所不明の濃霧に包まれた。
「《サントアンヘル》」
穴の開いた車の天井から姿を現したサミュエルが、空中へ投げ出された桐生へ手を翳す。すると霧が示した方角へ集まり、再び粒子による爆発を引き起こした。
「アケビくんもやってくれる。まさか大本命が釣れるとは思いもしなかったよ」
サミュエルは笑いながら二、三、四発と追撃の爆破を立て続けに起こしていく。だが着地した桐生はほぼ無傷だった。
「おや、筒抜けだったのですか?」
慇懃無礼に笑う桐生は、たった一度の踏み込みで十数メートルあったサミュエルとの距離を詰める。振りぬかれた拳は寸でのところで躱されたが、その後ろにあった低木を粉砕し、なぎ倒すに至った。
「うそつきはうそに敏感だということだ。テネシィ!」
「あいよボスゥ!」
叩きつけられて伸びていたテネシィが起き上がる。
「私は『愚者の黄金』を取る。『オペレーション:ネクティバイト』だ。人材として手に入らないなら、せめてモノだけでも回収しろ」
「イエスボス!」
再び爆発が起こり、サミュエルと桐生の姿は濃霧に隠れ見えなくなった。額から垂れる血をぬぐう事もせず、テネシィは爛々とした双眸をアケビに向けてきた。
「……おい、そこの"女"」
初めて会った時と同じ調子で彼は言う。そこには、二つの相反する感情が同時に存在していた。いよいよ始まろうとしている戦闘の予感に、強い喉の渇きを覚える。
「知ってたんですか。あたしが桐生と繋がっていたこと」
「いやあ?まさかそんな大それた手を使うとは思いもしなかったぜ。よくあのクソ野郎を口説けたもんだなあ」
「だったら、どうして」
情報が漏れていたわけではないなら、サミュエルがアケビを始末するように仕向けるのは早計であるように思えた。
「ボスはテメエなら何か仕掛けてくるって見込んでたんだよ。大人しくファミリーに入ってりゃ万々歳だったんだが……テメエはそんなタマじゃねえからなあ」
五メートル先すら見通せなくなりつつある。視界を塞がれれば、相手の思念は読めなくなる。アケビは危険を承知でテネシィに歩み寄ろうとした。
「おっとぉ!近づくんじゃあねえぜ!」
だがどこからともなく伸びてきた蔦が鞭のように二歩先の地面を打ち、アケビは止まらざるを得なくなった。
「へへっ、化け物め。俺は初めから知ってたんだぜ。テメエはその柔っこそうな肌の下に、とんでもねえ化け物を飼ってやがる。俺達を人間とすら思ってねえ。利用できればなんでも自分のために使い潰す……いや」
テネシィは詰められた歩数分後ろに下がりながら続けた。
「テメエは"自分の事すら"考えてねえ。それでもダチになりゃ……俺みたいに"マシ"になるかと思ったが、どうやらテメエは俺以下の畜生だったみたいだなあ?」
イクコに全く同じ台詞を言われたことを思い出し、ふっと笑った。
「それじゃあ、けほっ……絶交ですかね」
喉が乾燥してうまく声を出せない。
「勘違いすんなよクソアマ。イエガーだけじゃなくノエルまで殺した事。ボスを裏切った事。どれも許せねえが、そこはまだ"マシ"なんだ。もしテメエが泣いて喚いて一生奴隷になること誓って土下座かますってんなら、まだ許せる。そういう稼業だからな俺達はよお」
テネシィの背中から緑灰色の蔓が次々伸びていき、腕に絡まっていく。互いに癒着と分離を繰り返し、程なくしてそれは両腕を覆う巨大な鉤爪に変形した。
彼の中に共存していた二つの思念。「仲間を失った悲しみ」と「ボスの命令を遂行する」という二つの思念が融合し、ひとつの強い意志へ変わった。
「テメエ!テメエは俺を差し置いてえ!自分の事を"カワイソウ"だと思ってやがるなあ!」
「……は?」
めらめらと燃えるような殺意がテネシィの中で渦巻いている。冗談の類ではないようだった。
「そんだけ悪びれねえのは、"自分はこれだけやっても許される"と思ってる証拠だあ。つまりテメエは……ものすごく自分を"カワイソウ"がっている……イイ気になってやがるってことだあ」
「えっと、テネシィさん?」
「こいつだけは許せねえ~泣いて喚いても許せねえよなあ~?俺以上にカワイソウな人間が居るはずがねえんだぜ、あ?分かってんのかコラ」
自ら離した距離を、今度は自分から詰めてくる。冷静な判断力を失っている事が、流れてくる煮えたぎるような思念から読み取れた。
「……へへっ、だが良いぜ。そんなにカワイソウになりてえならよぉ、俺よりかは少しは"マシ"にしてやる」
テネシィが跳びかかってくる。あらかじめ軌道を読んでいたアケビは、側面へ回り込むように避けながら
「《レット・ミー・ヒア》!」
『Check it Out!!』
振り抜いたところを狙ったカウンターの一撃は、しかしもう片方の鉤爪によって相殺されてしまう。
「は、速っ!」
「遅すぎんだよお!」
そのままテネシィは体を捻り、回し蹴りをアケビの胴に叩き込んできた。たたらを踏んだところを追撃するように、鉤爪を腹部目掛けて突き出される。
『おねえちゃん!』
「くう……っ!」
回避はできなかったが、その一撃は自ら外側へ外れてくれた。《ジェミナイ・シーカー》がテネシィの眼球に"感染"していたのだ。
「うっぜええ!またコイツかよ!嘗めんなコラ!」
すると事もあろうに、テネシィは躊躇いなく自らの眼球を抉りぬいた。
『うわっ!し、正気なの?』
「悪いけどこれで……!」
その隙を逃さず、アケビは《レット・ミー・ヒア》の拳でテネシィを打擲した──はずだった。
『どこ狙ってんのおねえちゃん!』
「え?」
テネシィの身体が霧散したかと思えば、その先には誰も居なかった。ふと横を見ると、自らの目を潰したテネシィが顔を覆って悶えている。彼が移動したのではない。自分自身がよろめいたのだとアケビは気づいた。
「あえ?れ」
「……へへっ、その様子じゃようやくラリってきたかあ」
目が霞み、身体に力が入らない。戦闘中だというのに、まるでリラックスしているかのように脱力している自分を自覚していた。ふと目に留まるのは、霧の向こうで炎上する車両。独特の匂いを放つ煙。
「な、なにこ れ」
「マリファナははじめてかあ?ベイビー。喉が渇いて仕方ねえだろ、あ?」
目が潰れたテネシィは、声を頼りにしているのか難なくアケビの方へ振り返ってきた。
「テメエが気持ちよくファミリーの一員になれるようにって事で仕掛けてた小細工だがよお、こういう形で役に立っちまうとは、皮肉が利いてると思わねえか?あ?」
だが状況は視界を失っているテネシィの方が不利であるはずだった。アケビは下唇を噛みながら再び
「《レット・ミー……ヒア》!」
「無駄だあ!」
テネシィ目掛けて繰り出した無数の拳が、全て背中から伸びる触手で叩き落されてしまった。
「なっ……!」
『そんな……今度はちゃんと狙えてたはずなのに!』
「目が視えなきゃ防げねえとでも思ったか?俺をそこいらの雑魚と一緒にしてくれちゃあ困るぜアケビィ」
振り払われる鉤爪の一撃を、アケビは飛びのく事で回避した。
「……う」
踵が水に触れる。湖の畔まで追い詰められていた。
『そういえばこいつ、どういうわけかぼくの《ジェミナイ・シーカー》が感染している事も見抜いてた……五感とは別に何か察知する手段があるのかもしれない』
イクコの言う通り、あの攻防は視えているとしか思えないものだった。どこかでガラス質な固いものを砕く音が聞こえる。
『来るっ!』
迫りくるテネシィを前に、アケビは回避行動を取らなかった。フィルムケースから藍色のネクタイトを取り出し、その場で砕いた。
「ネクタイト!《燐光結界》!」
頭の中に浮かんだ言葉をそのまま宣言する。アケビの身体がドーム状の光に包まれるのと、突如発生した炎の渦がアケビとテネシィを飲み込むのはほぼ同時だった。テネシィは火だるまになりながら湖へ吹き飛ばされていったが、アケビはドームに守られ、無傷でやり過ごす事ができた。
「ぶっはぁ!なんだあ!」
ずぶ濡れになったテネシィが湖面から顔を出す。アケビだけがその攻撃を放った存在について知っていた。
「……ダチア」
砕けた破片を掌からこぼしながら、次のネクタイトを取り出すダチアが居た。彼女はアケビを一瞥すると、濃霧の中に身を紛らわせる。能力によって消えたのか、単に隠れているだけなのか見分けがつかなかった。
『気を付けておねえちゃん。サミュエルの能力のせいでぼくの目も完璧じゃないから』
「大丈夫。それはダチアも同じはずだから……仕掛けてくるとしたら」
アケビは振り返りながら、《レット・ミー・ヒア》の拳を叩き下ろした。
「近接戦闘!」
いつの間にか背後まで迫ってきていたダチアの、緑色に発光するナイフと拳が激突する。
「《レット・ミー・ヒア》!」『Check it, Check it out!!』
驚いたように目を丸くするダチア目掛けて左右の拳を素早く打ち込むが、そのいずれもがすり抜け、やがてダチアは空間へ溶け込むように視えなくなった。
「ごめんイクコ、ダメだった」
『大丈夫。出てきたらまた思念送り返すから』
簡単な合図だけなら声に出さなくても《レット・ミー・ヒア》でのやり取りは可能だった。今の攻防も、ダチアが姿を現した瞬間にイクコから思念が帰ってきたため、即座に対応できた。しかしここで仕留められなかったのはアケビにとって痛手だった。理屈は分かっていないだろうが、恐らくダチアは警戒してこれまでとは違った攻め方をしてくるはずだった。
考えている内の遠くで爆音が聞こえる。桐生とサミュエルの戦いは激しくなる一方だった。そのせいで霧はますます濃くなってしまう。
『うっ、霧が……どうする、ネクタイトを入れ替える?』
「ダメ。そうしたらイクコと会話できなくなる」
残されているネクタイトは生存性能に秀でたもの。『ネクティバイト』に装着されている《レット・ミー・ヒア》と入れ替えれば砕く事無く何度でも使えるが、元々所持しているサンストーンに込められた能力は当然使えなくなる。
『でもこれじゃぼくは役に立てないよ。ダチア相手じゃ"感染"させたとしてもすぐに解除されるし』
「役に立つ立たないじゃないの」
どこかで石の砕ける音がする。
「イクコが傍に居てくれることに、意味があるの」
『避けて!』
吸引した薬物のせいか、一瞬判断が遅れた。現れたのはダチアではなく、ピンの抜けた手榴弾だったのだ。脳は即座に跳ぶよう指示を出しているが、身体が動かない。回避するタイミングを失っていた。
「──よくわかんねえがよお」
ウツボカズラのような植物が手榴弾が包み込む。蓋がしまると内部で爆発し、爆圧や破片からアケビを守ってくれた。
「どうもクソめんどくさいのがまぎれこんでるみてえだな」
テネシィだった。視力がないためか若干覚束ない足取りだったが、湖から上がった彼はアケビのすぐ後ろまで迫っていた。
「テネシィ!」
「おっと待てよアケビィ。へへっ、わかんだろ?誰だか知らねえが、テメエが戦っている奴はテメエや俺より強いってよお」
テネシィに敵意はなかった。厳密にはアケビに対する殺意は健在だったが、それと同時にアケビと協力したいという強い意志が共存している状態だった。
「一時休戦といこうぜ。まずは奴を"マシ"にしてやる」
「……敵の名前はダチア。姿が消えてる間は無敵だけど、向こうからも攻撃できないはず。能力はそれだけなんだけど」
「ネクタイトをしこたま持ってるってわけかあ。へへっ、ボスの《サントアンヘル》を逆利用されるのは厄介だなあ」
テネシィの首筋に、蔦が絡まった蒼いコアが視える。彼の思念から、それが彼の視覚を補っている事が読み取れた。
「しゃあねえ、俺の本気をちょっとだけ見せてやるかあ。おいアケビィ」
返事はしなかった。しなくても彼ならその先を言うと知っていたからだ。
「俺の本気は大雑把な事しかできねえ。そこでだ、詰めはテメエに任せる。俺が能力を使ったらまずは全力で防御しろ」
「防御?攻撃じゃなくて?」
「死にてえなら攻撃でも良いぜ。その方が俺の仕事もラクになる」
本心からそう言っていた。どうやら言う事を利いておかないと取り返しのつかない事になりそうだった。
「次出てきたら合図を送れ。一瞬だけ、視界をクリーンにしてやるぜ。防御が終わったら……あとはテメエの仕事だ」
「……わかった」
とはいえ、サミュエルの能力のせいで視界は秒増しに悪くなりつつある。アケビとイクコの能力は目視できる状態でなければ活用できない。イクコの発見が遅れれば、今度こそ一網打尽にされる恐れがあった。
『心配ないよ、おねえちゃん』
アケビの不安を感じ取ったのか、イクコが言う。
『ぼくを信じて』
《ジェミナイ・シーカー》の
『出てきた!』「テネシィ!」
「見せてやるぜ。《エイレンスキアナハ》をよお!」
背中から勢いよく噴き出た大量の蔓が、テネシィを取り込んでいく。それはコンマ数秒で二倍、三倍の体積へ膨れ上がり、さらなる膨張を続けている。衝撃の予感を察知したアケビは緋色のネクタイトを砕き、そこへ秘められていた能力を宣言した。
「ネクタイト!《ヴァイトリシュニャム》!」
破片から夥しい量の血液があふれ出し、アケビの身体を覆っていく。全身を包み込むように血液の鎧が形成された。
この間わずか二秒。テネシィは全長十数メートルを超える巨大な植物性の蝶へ羽化を果たした。そしていくつも点在する蒼いコアが強く光ったと思った矢先、離陸──したように見えた。
少なくともアケビの肉眼で捉えられたのはそこまでで、同時に発生した爆圧にも似た衝撃波でほんの僅かな間だが目を閉じてしまったのだ。
『す、すごい速度……!もう《ジェミナイ・シーカー》の射程圏外まで』
イクコの言葉から、この衝撃波は彼が発進した時の風圧でしかなく、既に彼は一キロ以上先まで移動している事が分かった。離陸と移動。彼が行ったのはたったそれだけの事だったが、その威力はあまりにも強大で、周囲の霧は千々に消し飛び、何の対策もしていなかったであろうダチアは空中へ巻き上げられていた。
「今しかない!」
血液の鎧がボロボロと崩れ落ちる。アケビは構わず落下しつつあるダチアの下へ走った。姿を消す気配はない。どうやら失神しているようだった。
「《レット・ミー・ヒア》!」『Check it Oooooooouttttt!!』
ダチアの側頭部に拳を叩き込む。そこからアケビは、ダチアの脳内に増幅した思念波動を流し込んだ。
「──!」
ダチアは目の当たりにした。重苦しい白亜のビルに囲まれた殺風景な広場。国章が刳り貫かれた国旗を振りかざす忌々しいレジスタンス達。そこかしこに転がる子供の亡骸。裏切った軍事部が回す戦車の音。館へ押し寄せる群衆。
「ア、ああ。現党首様。どうか、あなた様だけでも」
ダチアの声は誰にも届かなかった。愛すべき党首とその妻が引きずり出される。銃を構える裏切り者にナイフを振り翳しても、彼らに当たる事はない。
「ああ、ああ、わたしは いやだ。こんなもの、みたく──」
最初の銃声を皮切りに、次々と発砲される。ダチアは目を閉じたが、そんなことはお構いなしにその後の映像までしっかりと脳裏に焼き付いた。絶叫にも似た悲鳴さえも銃声と叫喚にかき消され、同じ映像はハウリングするかのように何度も何度もダチアを痛めつけた。
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