些細な痛みに目を閉じる
眠気が一向に襲って来ない。緊張と不安と、少しの期待が入り混じった可笑しな状態でシーツに潜り込む。普段使っている使用人のベッドよりもふかふかとした寝具は、埋もれているだけで体の疲れが溶けてゆくようだ。
呪物に触れて倒れたわたしは、一晩だけルイン様の滞在する来客棟の一室で過ごすことになった。本来ならばただの小間使いの身で立ち入ることも許されない、煌びやかな来客用の部屋だ。
何故かというと、呪物の悪い影響が出たときにルイン様がいつでも駆けつけられるように、という事らしい。
腕に巻きついた呪いの鎖はルイン様によって取り除かれたが、時折ちくりちくりと刺すような痛みが残っていた。
これが、傷つける魔法……。
利き手が思うように動かせないということも、不安を助長させた。ルイン様は時間がたてば動くようになると仰っていたが、どれくらい待てば治るのだろう。
それよりも、明日の事。とうとうルイン様に魔法を教わる日が来た。その大きすぎる幸せに胸が高鳴る。しかしその後すぐに、父の顔と弟の姿が頭をよぎった。わたしだけが幸せに浸っているような罪悪感がふつふつと湧きあがってきて、慌てて目を閉じた。腕を刺す痛みを堪えながら、眠る努力をする。
寝よう、明日は朝からルイン様にお会いできるのだから――。
*
浅い眠りから覚め、日の昇らないうちに朝の支度をする。利き手は少しだけ動くようになっていて、窓を開けたり髪を結うことに支障は無かった。
ひんやりとした風が頬を撫でる。風の質感、という表現が正しいか分からないが、そういうもので、今日が晴れることがなんとなく分かる。冬を待つエスター城は空気が澄んでいて、城下が良く見える。城に来たばかりの頃は、弟の住む町が見えないか目を凝らしてみたりした。
一晩だけお借りした部屋を綺麗に片づけ、使用人用の小道を歩き食堂へ向かう。裏口を抜けると、顔見知りの食事係が朝食の準備をしていたので、ビスケットと紅茶を貰った。
存外に早起きをしてしまった。ルイン様に腕を見て頂く前に、少し散歩でもしよう。
あまり朝早くに訪ねても、迷惑になってしまうだろう。わたしはお気に入りの東屋までふらふらと歩き、ビスケットをかじりながら城下を見下ろした。朝靄のかかる豊かな街並みが目に入り、エスター城に仕えることの喜びを噛みしめる。澄んだ空気で肺が満たされ、わたしの体の中で温まり、また外に出ていく。そんな当たり前のことで
朝日が昇るころには、私の心も大分落ち着きを取り戻していた。
「何故部屋に居ないのですか」
「も、申し訳ございません……」
部屋に戻るのが、少しだけ遅かった。あろうことかルイン様をお待たせしてしまうなんて。がばりと頭を下げたまま硬直していると、顔を上げるよう促される。ルイン様は怒っていらっしゃるのか、じっとわたしを見た後その瞳を悲しげに伏せてしまう。
「言ったはずです。呪物の影響がどう出るか分からないと。だからこの部屋に居てもらったのに。城内をうろついている間に何かあったらどうするんです。貴女は今、普段と違う状態だということをもっと自覚して下さい」
「私が浅はかでした。どうかお許しください」
「許す許さないの問題ではなく……ただ、貴女が心配なのです。分かって下さい」
「はい」
ただ怒られるよりも響く打ち方だ。ルイン様はきっと倒れたのがわたしでなくてもその人をこんな風に心配するのだろう。けれど今だけは、ルイン様に一番優先されているのはわたしなのだと、申し訳なく思いつつもその事に心を浮つかせているわたしはどうしようもない。こんなにルイン様に気にかけて頂けるなら、患ったままでも良いかもしれない、なんて馬鹿な考えはすぐに頭から追い出した。わたしは早く仕事に復帰しなければならないのだ。
部屋で向かい合って座り、ルイン様に腕を差し出す。包帯が解かれると、そこには鎖で締め上げられた跡が赤黒くはっきりと残っていて、まさかこんな風になっているとは思っていなかったわたしは驚きを隠せずルイン様を見上げる。
「自分の身に起こっていることが理解できましたか?」
ルイン様は苦い顔で私の腕を診ていて、その様子から予想より悪い事態に胸が嫌に騒ぐのを感じた。わたしは何故か勝手に自分の腕は青あざやかすり傷で済んでいると思っていたのだ。ただでさえ女性らしくない小枝のような腕に、まるで血のような色の蛇が這うかのような痣。視覚的な不安に襲われながら、ルイン様に恐る恐る尋ねる。
「私の腕は……元に戻るでしょうか」
「必ず戻します。戻しますが……少し時間がかかってしまうかもしれません。腕は動きますか」
「はい、昨日よりは」
「そうですか……」
その後はルイン様に言われるがまま腕を動かしたり薬を頂いたりして診察は終わった。わたしはルイン様の眉間にずっと皺が寄っているのが気になり、自身の腕を案じるしかなかった。難しい顔のまま、ルイン様は重たげな口を開く。
「シェラさん、腕を治す方法は必ずあります。少し調べさせてください。その間痛みがあると思いますが……」
「大丈夫です」
間髪入れずに返事をする。わたしにできることは、ルイン様を信じることしかない。はっと見開かれるその藍色の瞳に応えるように視線を合わせるが、その煌めきにわたしはいつものように俯いた。その瞳が曇ってしまうのが嫌だ。けれどその光はわたしにとってあまりにも強烈なのだ。
「……さあ、それではシェラさん。東の丘に行って魔法の勉強をしましょう! 今日はいい天気ですよ」
そうやって努めて明るく振る舞うのは何故ですか。私の問いは優しく手をひかれた瞬間に胸の奥底へと沈んでいった。
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