水溜まりに沈む
雨は夜の内に止み、今朝は澄んだ空気が城内を満たす心地良い天気だ。
ルイン様とはあの日、わたしが酷い言葉をかけた日からお会いしていない。
ローズ様に魔法を教える件の許可を取られているということは、こんなどうしようもないわたしにまだ魔法を学ぶ機会を与えてくださっているという事なのだろう。
慈悲深く貴いお方だ。わたしはそう考える事にした。決して同情ではないと、思いたかった。
次にルイン様にお会いしたらまず謝罪をしたいと思っているのに、中々そのお姿を見かけずに一週間が過ぎようとしていた。
昔、父に聞いたことがある。東の異国の地には不思議な魔法が存在すると。人の心を操り意のままにすることができるのだと。
お伽話のように語る父は冗談を言う性格ではなかったため、恐らく本当の話なのだろう。もしもそんな魔法が使えたなら、わたしは何に使うだろうか。
いや、きっとわたしの貧しい知恵では持て余すに違いない。きっと世界はひとが過ぎた力を持たないようにできているのだ。
雨の後のエスター城ではあちこちに水たまりができる。
城自体が古い造りであることがそもそもの原因だが、水捌けの良いとは言えない立地条件も重なっていつも特定の場所に池のように大きな水たまりが出現するのだ。
そしてその水をひたすら掻き出すのは、新人であり下っ端であるわたしの仕事だった。
午前中は普段の務めを大急ぎで終わらせて、お昼休みもそこそこに。水掻き棒を片手に腕まくりをした姿で勇み足で水たまりのできた通路に向かう。
いつまでかかるか分からないが、早めに手をつけたほうが良いに決まっていた。
その水浸しの通路を使わなければいけない兵士の人達は、水掻きを手にしたわたしを見て頼むぞ、とか頑張れ、と声を掛けて水たまりを飛び越えて行く。
応援は有り難いが、兵士が身軽に飛ぶ度に着地の水飛沫を受けるのが憂鬱だった。幸いな事に、ローズ様やルイン様はこちらの通路は使われないので、美しいお召し物を汚す心配は無かった。
靴やスカートの裾をびしょびしょに濡らすのはわたしだけで十分だ。
わたしは気合いを入れて作業に取り組んでいた。通路の水を掻き、外へと逃す。その繰り返しをひたすら行う。
昼過ぎから続け、日が傾いてきた今なお終わらない。
「………ふう」
頬を汗が伝う。体の全てが痛い。特に腰と腕。床ばかり見るため首も固まっていた。
教会の手伝いをしていた頃は、町の農作業も助っ人で入ったりしていた。幼い弟と一緒に苗を付け、芋掘りもした。
どうやらその頃とは体が変わってしまったらしい。だからといって仕事を放りだせるような人間ではなかった。
わたしは一度背筋を伸ばして、再び作業に戻ろうとした。
「西の動きはしばらく見ておかねばなるまい」
「しかしながらルイン殿、そう簡単に尻尾を出すでしょうか」
水たまりのある通路を通るわけがないと高をくくっていたわたしは、突然のルイン様の登場に思わず柱の影に隠れた。
ルイン様は見たことのないような不穏な表情をされており、やや後ろを歩く大柄な兵士と何やら話し合いながら足を進めている。
わたしはひたすらに息を殺しながら、ルイン様がこのまま通り過ぎることを祈った。あれだけお会いしたいと思っていたのに、こんなに水浸しでヘトヘトになった姿を見られるのが恥ずかしかったのだ。
「エスター城は立地的に護りやすい形になっている。問題は城下だ」
「事情を酌むべき間柄でもない。戦になればエスター城は狙われる」
「先手を打つべきか……」
ルイン様のお言葉だけがわたしの耳に入ってくる。その穏やかでない内容の話は、わたしの一番聞きたくないことだった。
――戦争。
ルイン様の口調は兵士を相手にしているからか、男らしく重みのあるものになっていた。
ルイン様はお仕事になると今のように話されるのだろうか。もしもわたしが今のルイン様を目の前にしたら、仕事にならないほどに委縮してしまうだろう。
普段わたしに向けられている言葉がどれほど柔らかく丁寧か、今初めて理解した。
ルイン様には部下がいて、ご友人もいる。ルイン様がその方々に向ける顔が、恐らく本物のルイン様なのではないかとわたしは感じた。
しかしわたしは、そのルイン様が少し怖い。男らしいからという理由ではなく、単純に自分の知っているルイン様でないということが、わたしの中の絶妙に受け入れ難い部分に引っかかってしまったのだ。
何という身勝手さなのだろう。わたしは自分の浅ましさが嫌になる。
「しかし……酷い水溜まりだな」
わたしはルイン様のお言葉にはっとした。まだ水掻きが終わっていないにも関わらず、柱の影で息を潜めているとは何事か。
これではルイン様の靴が汚れてしまう。自分の無能さを呪った。
「え? ……ああ、そうなのか。そもそも水捌けが悪いんだろう。この通路は微妙な傾斜がある」
兵士と話しながら水溜まりのできる理由をぴたりと言い当ててしまうルイン様。わたしもこの通路の傾斜には気がついていた。いくら水を掻いてもするすると元の位置に戻ろうとする力が存在するのだ。
「いや、止めておく。以前それをして叱られてしまったんだ。あれはかなり堪えたからな……」
わたしは柱の影から出るに出られず、耳に心地良く響くルイン様の声にただ聞き入るように集中した。
ルイン様を叱ることが出来る人物など、ローズ様くらいだろう。あの温厚なローズ様が叱る程のことをルイン様はされたのだろうか。
「ああ、その話か。いや……私はどうもその方面には不器用のようだ。やる事なす事うまく行かん」
どうやら話題が変わったようだ。ルイン様が珍しく気を落としたような声色をされるので、わたしも何の話なのか気になったが、主語が曖昧で想像もつかなかった。
ただ、ルイン様にはお悩みがあるようだ。傍の兵士はそれに気付いて話を振ったのだろう。ルイン様の事を良く理解しているようだ。
このままではルイン様のお悩みを盗み聞きしてしまう。しかしこの状況で出て行ったら明らかにおかしい。話の内容を聞き流す事を誓い、ルイン様に心の中で謝りながらその場に留まる。
申し訳ございません、お話は全て聞き流します。ごめんなさい。
しかし、その心とは裏腹に耳はルイン様の声を勝手に拾おうとする。
神父さまが言っていた。神様はこの世の全ての罪を許すと。神様が許してもわたしは自分が許せないかもしれない。
出来ることなら、わたしに理解できないような難しいお悩みでありますように。
「もちろん私にも不得手はあるさ。特に女心というものに関してはさっぱりだ」
「そう気を使わないでくれ。横槍を入れられると、更に遠のいてしまう気がするんだ」
「一度引くって……そんな事をしている間に他の男が寄ってきたらどうする。例え意識されずともこちらから話し掛けるべきだ」
「いや……それでうまくいっていないことは重々承知だが。お前、からかっているだろう。この話になると楽しそうにして、全く」
「いいんだ、急くつもりはない。ゆっくりと私の事を知ってもらいたいし、相手の事も知りたいんだ」
一連の会話にわたしの胸は熱くなり、様々な感情が込み上げてくる。ルイン様には想い人がいらっしゃるのだ。その方のことにたくさん悩んでおられて、まるでただの恋をしている人のようにご友人とお話をされている。
わたしはルイン様のことを何だと思っていたのだろう。高貴なお方で、まるで常人には理解できないことばかりをお考えになっていて、恋愛にも興味がないと思っていたのだろうか。実際に聞いたやり取りでは、普通の人が悩むような事でああでもないこうでもないと迷走されているのだ。
何も分かっていなかった。ルイン様はわたしとは比べられない程貴いお方でありながら、わたしと同じ人間だったのだ。
わたしはルイン様のことが好き。それは、自分の中で誤魔化せないほどに大きく膨れ上がる気持ちだ。しかし不思議な事に、ルイン様に想い人が居られる事が判明しても、わたしは打ちひしがれることはなかった。
何故かは分からなかった。元々叶うと思っていなかったからなのか。それとも、恋愛話に興じるルイン様が、あまりにも人間らしくて、それが少しだけ嬉しかったからなのか。
一番分からないのは自分の心だ。普段の穏やかな彼のことが好き。戦争のことを話す彼は怖い。けれど、人間らしくて親しみやすい姿を見ると嬉しい。
辛くはない。ルイン様の幸せを願う事が、わたしにはできる。ほんの少しだけ、胸を刺す痛みのことは考えない。いつかきっとルイン様は、ルイン様がお慕いになる立派なお方と一緒になるのだ。なんて素敵なんだろう!
「この水溜まりには手を出さないが、せめて床の傾斜は直しておこう。……それくらいは許されるだろう?」
ルイン様がぱちんと指を鳴らすと、地面がうねりしばらくすると元に戻った。恐らく掃除をしやすくして下さったのだ。またお手を煩わせてしまった。
「魔法が使えたって、肝心のところはうまくいかない。実に私らしいな」
ルイン様の幸せは、魔法の外にあるのかもしれない。わたしは息をゆっくり吸って、澄んだ空気で肺を満たした。
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