第5話


 それから先輩の言葉に甘えた――という訳ではないけれども。夏紀はたびたび、学校の図書室へと通いながら、その帰りにはバスケ部の練習に寄ることにしていた。

 さすがに邪魔になるので、通常の練習時には立ち寄らないようにと遠慮していたが、その後の、自主練習中のひびきや大空先輩と一緒に居るのは楽しかった。

 響も最初の一二回は「ちょっと、恥ずかしい」と言っていたものの、三回目にもなるとだいぶ慣れたようだ。

 そんな日の事――。

 

「そう言えば、夏紀さんは今年は海に行った?」

 休憩中の先輩が、隣に座っていた夏紀へと尋ねてきた。


「いえ、今年はまだ」

 海どころか、学校と図書館以外へは何処にも行ってません。とは流石に言う気にならなかった。


「先輩は行ったんですか?」

 同じように床に座って休憩していた響が、スポーツドリンクを飲みながらそう尋ねる。


「いや、私もまだ。それじゃ、みんな一緒だねー」

 わびしい青春だ、と冗談とも本気とも付かない口調で喋りながら、海に行きたいね、と先輩が語りつつ、ふと立ち上がる。


「あ、そうか」


「はい?」

「なんですか?」


 いきなり立ち上がった先輩に、夏紀と響が、それぞれ訝しげに疑問を投げかけると、先輩はとても良い笑顔でおっしゃった。


「それじゃ、私達で今度海に行こうか?」

 そして、名案だとばかりに、そのまままくし立てる。


「今からだと流石に遅いから――明日がいいかな。丁度部活の練習も休みだしね。よし決めたっ!」


 いや、決めた、って……。


「先輩、もうお盆ですよ?」

 夏紀が固まっている間にも、こういった先輩の行動には慣れているのか、響が冷静に問題点を指摘する。


「大丈夫。部活に青春にはげむ学生なら、仏様も多めに見てくれるって。それに、どっちにしても絶好の休みなんて盆くらいしかないんだから」

 確かに、練習が忙しい響や先輩ならそうだろう。夏休みといっても、いつでも自由に休めるという訳ではないし、最近では盆も彼岸ひがんも気にせずに海で遊ぶ人も居る。

 しかし、それにしても急ではないだろうか。


「まあ、こういう事はやろうと思った瞬間に決めた方がいいんだよ。それじゃあ、明日。集合場所は分かりやすい駅の前で、各自、自転車を持って――」


                 ※

 

 ――ボーン。

 不意に、居間の壁に掛けられていた時計が、十一回ほど鳴った。


「あ、もうこんな時間か」

 気が付けば、もうそろそろ昼間になろうという時間だ。

 けっぱなしだったラジオから、高校野球中継のアナウンサーの声が聞こえている。


 ――場面は九回の裏。得点は一対一。ツーアウトでフルベースと、この試合の天王山を迎えています。さぁあ、ピッチャー、モーションに入って……。


 この一瞬に全てをかけるような、卒業を半年後に控えた高校球児達の夏。

 そして、部活に打ち込んだり、仕事をしたりと、忙しく動いている人達の夏。

 ……ああ。


「ンナァー」

 自堕落じだらくに畳の上に寝そべったまま、声のする方に目を向ける。と、この頃、すっかり軒下を寝床に居ついてしまった三毛猫が、眠そうな目で夏紀を見つめていた。


「なに。お腹でも空いた?」


 なんて、体を起こして、やせ気味のその猫に問い掛けてみる。

 だが、当然、返事が返ってくるような事もなく、ただ猫はきょとん、と首を傾げているばかりだ。その仕草が、妙に人間らしくて微笑ましい。


「君は何をしてるのかな?」


 伝わることの無い問いかけに、やはり、猫はそこに座ったまま。

 外には目もくらむような、夏の空が広がっている。

 夏樹は定位置の畳から立ち上がった。縁側に腰を掛け、足を外に投げ出す。

 そして、


「……この暑いのにすり寄って来ないでも」

 ンァー、と少々情けないような声を出しながら、それでも足下にまとわりついて来る猫。


「……ただでさえ暑いのに、余計に暑いんだけどなぁ」

 なんて、文句を言ってもしょうがないのだが。嫌なら、この場所から離れればいいだけの事だった。それでも猫が付いてくる場合は……まあ、大人しく諦めよう。


 まとわりつく猫の相手を片足でしながら、ひたいから流れ出る汗を、夏紀は軽く手でぬぐう。


 母親が庭に植えてい向日葵ひまわりが、大輪の花を咲かせていた。

 郵便局のバイクが手紙を運んできて、「暑いですねー」「そうですね。はい、ではこれで」と郵便物を渡し、「ありがとうございます」と挨拶を交わして、去っていく。


 どこか遠くから、風鈴の音が聞こえた。

 点けっぱなしのラジオ。高校野球の中継。

 ――さあ、九回で決着もつかず、十回の表も無得点。この十回の裏、一点でも入ればサヨナラです。ピッチャー、第一球を振りかぶって……。

 高校球児達の夏も過ぎていく。

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