第4話

「さて、ここまで来たのはいいんだけど……」

 どうしようか、と口には出さずに呟く。


 夏紀は、夏休みで普段の喧噪けんそうとは似ても似つかない静けさに包まれた、通い慣れた高校の校舎の中を歩いていた。

 右肩に下げた鞄の中には、公共の図書館と、学校の図書室で新たに借りた本が入っている。はっきり言って、重い。

 その重量を感じながら、体育館へと続く渡り廊下を歩いている。時刻は午後四時も三十分を回った所。いつも通りなら、もうバスケットボール部の練習は終わってしまっているはずだった。


「ちょっと遅くなりすぎた、かな」


 学校の図書室でついつい本を読んでしまったのがその原因だと思うと、あまりにも自分が情けなくなってくる。本当なら、もっと早くに来ているはずだったのだけど。

 ――もう終わっちゃったかな?

 響に少しでも会えればと思って来てみたのだが、今のところ、体育館の方から練習をしているような声が聞こえてくる様子は無い。きっともう、練習も引き上げて、完全に部室へ戻ったか、帰ったかしてしまったのだろう。

 鞄の前面に付いているポケットを、左手で押さえる。そこには、携帯電話が入っているのだが――。


「とりあえず、いってみようか」

 体躯館の重い扉を開ける――と。

 

 ダンッ!

 板張りの床を、足が力強く跳ねた。体が駆け上り、腕は力強く伸びて、魔法のようにボールがリングへと吸い込まれる。

 

 タンッ。

 跳ぶ為に足を踏みきる力強さとは正反対の軽やかな音を立てて、足音が着地する。


 ダムッダムッ。

 リングから落ちてきたボールをドリブルしてフリースローラインの先まで戻り、再びドリブルしながらリングを狙っていく。


 ダンッ!

 

 ――ひびきが一人コートの中で、シュート練習をしていた。

 もっとも基本となるレイアップの練習を、飽きることなく繰り返している。時々、汗が照明に光り、キラキラと輝いていた。

 相当に暑いだろうに、そんな表情の一つも見せずに、黙々と一人、練習を続けていた。

 体育館の入り口に突っ立ったまま、夏紀がそんな響の姿を見つめていると、


「やっ」

 不意に後から声を掛けられた。


「わっ」

 と驚いて振り返ると、夏紀の背後には、シャツにショートパンツというで立ちの、見慣れない女子生徒が立っている。


「バスケ部に何か用事?」

「あ、あの……」

 と、目の前の生徒と、こちらに気付く様子もなく、練習に集中している響とを見比べる。


「あ、ひょっとしてあの子の友達?」

 あの子、とは響のことだろうか。


「あ、はい。桐生夏紀です。同じクラスの」

「これはご丁寧に。私は大空響おおぞらひびき。混ざって分かりにくいから大空でいいよ。見ての通り二年。よろしくっ」


 と言いながら、握手を求めてくる。何だか、妙なパワフルさを持った先輩だ。

 その手を握り返しながら、恐縮とは思いつつも、夏紀の視線はやはり、ちらちらと響の方を見てしまう。

 その様子に気付いているのか、先輩も響の方を見ながら口を開く。


「あの子、いつも全体の練習が終わったあとも、ああやって自主練習で残ってるんだよ」

「そうなんですか……」


 電話で話していた時も、そんな事は言ってなかったけれども。響はずっとそんな事を、この夏の間中、続けていたのだ。

 そんな風に夏紀が感心していると、先輩がぽつりと呟くのが聞こえた。


「まあ、あんまりやりすぎるのも善し悪しなんだけどね」

「え?」

 と思わず聞き返してしまう間もなく、


「大澄ー」

 と先輩が響を呼んだ。


 一人練習を繰り返していた彼女は、それでようやく体育館の入り口に立っている二人に気付いたらしい。よほど集中していたのだろう。


「あ、先輩、お疲れ様です。……と、夏紀?」

「うん。お疲れ」

 そう言って、先輩が二人分持ってきていたタオルを一枚受け取り、響に渡す。二人分あったのは、始めから響に渡すつもりだったのだろう。


「ありがとう。……でも、珍しいね。夏紀が練習見に来るなんて」

「あ、うん。たまたま図書室に本を借りに来たから……」


 別に、特別な何かがあって来た訳じゃない、というジェスチャーを夏紀はしながら――。


「こら、大澄」

 そんな二人のやり取りに、大空先輩が割って入る。


「せっかく来てくれた友達にそれはないだろ?」

「あ、はい。――いえ、そういう意味じゃ」

「そう言うもどう言うもこう言うもないーっ」


 ……先輩が、楽しそうに響を羽交い締めにしていた。響は何とかそれに抵抗しようとしているが、一度羽交い締めにされてしまった体は、なかなか自由になりそうにない。


「あ、あの。私、まだ汗まみれですから」

「運動部がそれくらいでひるむかーっ」


 ……ああ。

 要するに。


「あの、大空先輩。別に気にしてませんし、響に他意は無いって判ってますから」

 万が一にでも、二人が気まずくなったりしないように、という事なのだろう。


「そ?」

 にこやかに、先輩が答えた。

 

「それにしても、この前電話で聞いた時よりも、随分遅くまで練習してるんだね」

 三人で体育館の隅に腰を下ろしながら、夏紀が響にそう尋ねる。

 以前に聞いた通りなら、正規の練習は四時前には終わるとの事だった。


「うん。私、まだ下手だから」

 真剣な表情で、響が答える。


「ま、まだ一年だからねー」

 こちらは、あくまでも気楽な表情の大空先輩だ。


「私が言っても聞かないかもしれないけど、練習もほどほどにしておきなよ?」

「はい。……先輩も、いつも付き合ってくれてありがとうございます」

 どうやら、そういう事らしい。


「まあ、私は殆ど何もしてないけどね」

 何でもない、という風に先輩は答える。


 ――いいな。

 二人の様子を見て、夏紀はそう思っていた。こんな風に過ごせるのなら、辛い運動部も悪くないのだろう。


「それにしても――」

 ふふふっ、と先輩が不意に笑った。


「何ですか?」

「先輩?」

 響と共に、不思議そうに尋ねる。


「いや、大澄にこうして会いに来てくれる友達が居るって分かったからさ。ま、彼氏じゃないのが残念だけど」

「……それって、どういう意味ですか?」

 いつも落ち着いている響の声が、心なしか膨らんでいるように聞こえる。


「まあ、彼氏は冗談として」

 冗談なんですか。と何故か響がため息をつく。


「あまりにも、いつも生真面目に部活してたからさ。ちょっと心配してたわけ」

 でも、これなら大丈夫かな――と先輩は付け加える。


「夏紀さんさ、良かったら、いつでも練習見に来ていいから」

「えっ、あ、はい、勿論」

 いきなり話を振られ、夏紀はしどろもどろになりながらも、そう答える。

 それに反応するのは響だ。


「えと、ちょっと恥ずかしいんですが」

「それくらい我慢しなさい」

「我慢とか、そういう話じゃないと思うんですが」


 そんな風にたわいもない言い合いを続ける二人を見ながら。

 ――来て良かった。と夏紀は感じていた。

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