第2話


 引っ越しをするかもしれないと両親が夏紀に告げたのは、中学三年も残り半分になろうかという九月のなかばの頃だった。

 急な事で驚いた事を覚えているが――仕事の都合と言うことで、その時は「別に、大丈夫だよ」と結局は答えたと記憶している。たまたま父親の転勤先が近くという事もあり、転居先が、昔から何度か遊びに行っていた母親の実家だったという事も、その答えを少なからず後押ししていたのだろう。

 ともあれ、中学卒業と同時に、夏紀は住み慣れた街から、母方の実家がある地方の町へと引っ越す事になったのだった。

 そして――。

 

「それじゃ、誰か学級委員をやりたい奴はいないか?」

 と言うと、眼鏡が微妙に怪しい(どこが怪しいのか、と言われると困るが)中年の教師が、まだ新しい教室に慣れていない生徒達をぐるりと見回した。

 高校一年。春。新学期早々のホームルームだ。

 偶然近くの席に座ったのだろう、同じ中学出身同士だと思われる生徒が「おい、お前どうするよ?」と言った感じでささやきあっている。他にも、幾つかの囁き声は聞こえるが、今のところ、積極的に立候補しようとする生徒は皆無かいむのようだ。

 教師は尚も立候補する生徒が居ないか待っているようだったが、やがて諦めたのか、


「それじゃあ、誰も居ないなら推薦でもいいぞー?誰かやらないか?」


 ――まずい。

 夏紀の本能が感じた。これはまずい。この流れは、非常に拙いのだ。中学の三年間、ずっと委員長をやってきた体にそなわる第六感とも言うべき感覚が、明確に危機を察知している。

 まさか、高校になってこちらに引っ越して来た自分をわざわざ推薦したりする生徒もいないとは思うけれど――。


「誰かいないかー?」


 教師が、もう一度教室の中を見渡す。やはり、誰も何も言わない。

 ゾクゾクッ、という、背中を何かがはい上がるような感覚。


「それじゃあ、そこの――」

 と言って、教師が手元の名簿を確認し。


「桐生。桐生、夏紀さんか。どうだ、やってみないか?」


 一応、問うような形では言っているものの、明らかにその目は獲物を前にした猛禽類もうきんるいのように光っており。


「……私で良ければ」

「おお、そうか!!」

 逃れる術は無かった。


                 ※

 

 手っ取り早くホームルームが終わって上機嫌の教師が教室を出ていくと、登校初日にして、早くも夏紀は机の上へと突っ伏した。


「よろしく、委員長」

 そんな夏紀へとすずやかな声が掛けられる。


「もう、いきなり委員長なんて言うの、やめてよー」


 言いながら、声の主の方へと、重い体を引き起こす。……断っておくと、体重が重いという意味ではない。

 夏紀の席の側に立っていたのは、左隣の席に座っていた女子生徒だった。

 髪を清潔そうなショートカットにまとめ、体つきもすらりとして引き締まっている。それほど背丈は無いけれど、決して低くもない。名前は自己紹介の時に聞いたのだが――一朝一夕いっちょういっせきで覚えられてはいなかった。ちなみに、自慢ではないが夏紀は人の名前を覚えるのがあまり得意ではない。

 それはともかく、


「……ええと」

 口を開こうとするが、


「あ、私は、大澄響おおすみひびき。隣の席なんだけど――」

 先に彼女の方が自己紹介をしてくれた。


「私は桐生夏紀きりゅうなつき。よろしく。――ええと、大澄さん、でいいのかな?」

「出来れば、名前の方が嬉しいかな」


 ちょっと図々しいかな。と付け加えて、響は照れ笑いをしたようだった。あまり大きな声で喋る人ではないようだけれど、落ち着いた声は耳に心地良い。


「うん、それじゃあ、私も夏紀、って呼んで」

 こたえて、夏紀もそう告げる。


「うん――委員長」

「だからー」

 委員長と呼ばないで――と言おうとした夏紀の様子に、響はクスクスと笑いながら、

「うん。ごめん、夏紀さん。――ところで」


 夏紀さん、って転校生?と聞かれる。

 うん、そうだけど――と答え、


「やっぱり、分かる?」

「うん、私の学校で見たことも無かったし。なんとなく、だけどね」


 方言がきついという訳でもないし、高校からなら大丈夫かとも思っていたが、雰囲気が転校生、といった感じなのだそうだ。


「あ、でも転校生、というとちょっと違うかな。別の高校から転校して来た、という事じゃ無い訳だし」


 転校生なら、もっともっと、夏紀は緊張していただろうし、今こうして、こんな風に、響と話している事も無かったのかもしれない。

 でも――


「ううん、似たようなものだよ、多分」


 ふと、中学の友人達の事を思い出す。卒業式だけは顔を出したが、高校受験が終わってからの十数日間は学校へと行っていなかった。突然の転居という訳でもなかったし、友人やクラスメイト達と別れを惜しむ事も出来たが。

 懐かしいと、ほんの一月ほど前の事を感じる。


「それにしても――」

「うん?」

 一瞬、意識が内側へと行っていた夏紀は、響の声にはっとする。


「それでいきなり委員長、というのも大変だね」

「……うう」


 そうだった。

 忘れかけていた事実を、響が再び夏紀に告げる。


「まあ、それは誰がなっても一緒だよ……」

 再び机の上へと身を伏せながら、ぐったりと響に答える。


「うん。頑張ろう」


 と言って、響が励ましてもくれるのだけど。

 まあ、委員長と言っても、生徒会等ではなく、たかだがクラスの委員だ。別にそこまで大変な事があるという訳でもない。面倒という事には変わりがないが。

 こんな風に響と話せる一つの話題になったという事を考えれば、悪くはないのかもしれなかった。

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